十九話:戻らない時間
己の娘が王太子妃に選出された。
それは一族の誉れとして、わぁっと一族総出で沸き上がり、祝賀パーティーが開催され、ふわふわと幸せなひと時に包まれていた。今後、もしかしたら伯爵家よりも上を目指せるのかもしれない、と気分は高まっていく。それは現当主ばかりではなく親戚もそう思っていたのだ。その手紙が来るまでは。
ある日、もう既に住まいを王宮に移したファルティからの手紙が届いた。もしかして、何か必要な彼女の荷物があったのかもしれない。
そう思い、手紙を読み進めてアーディア伯爵は目玉が飛び出そうになるのを必死に堪えた。ついでに襲い来る吐き気も必死に堪える。
「なんだ……これは……」
目を疑うような金額が、そこには当たり前のように記載されているではないか。
見間違いかと思って何度も何度も読み返すが、間違いなどでは無い。娘が近くにいたら、『どうしてこんな事を書いてきたのだ!』と怒鳴りつけていたに違いない。
「あなた、どうされましたか?」
伯爵夫人もやってきて、夫が読んでいた手紙を隣から覗き込んだ。普段は冷静な夫がここまで驚くのにはとてつもない、何か理由があるのだろう、と思うまでは良かった。その金額を見るまでは。
「………は?」
夫人も目を丸くした。そして、同じように言葉を失ってしまった。
「なんですか…この、馬鹿げた金額は…」
愛娘から届いた手紙に書かれていた、『王太子妃予算として家からの援助、という形で予算補充をお願いしたら、これくらいはできそう?』というあっけらかんとした内容と、金額。
目が回るような感覚に襲われているアーディア伯爵は、娘が化け物のような何か、異形のものに変化してしまったような恐ろしさを感じていた。
「出せるわけないだろう…!何を考えているんだあのバカ娘は!」
「けれど、王太子殿下の前婚約者はカルモンド公爵令嬢です。もしや、公爵閣下が…ファルティを馬鹿にした、などということがあるのでは?」
「だとしても、格が違いすぎるんだよ、我が家とは! 大体、公爵令嬢の婚約者を奪っているのはうちだぞ!」
一言一言区切られて言われると、夫人も『そうだった』とはっと我に返る。
正直なところを言うと、伯爵自身、ファルティが王太子妃の地位を奪い、これに成り代わったことが嬉しかった。王宮へと出向いた際、カルモンド公爵に対して『まさかこのような事があるとは…何があるのか分かりませんなぁ!』と、嫌味というか煽りというか、とてつもない暴言を放ってしまっている。吐いた言葉は取り消せない。その報いか?と思えるような内容が書かれた手紙に、アーディア伯爵はがたがたと震え始める。
自分で言った『公爵令嬢の婚約者を奪った』という台詞に段々と気持ちが悪くなってくる。自分で言って何を今更、という思いが膨れ上がるが、ふと、魚の小骨が引っかかったような違和感が襲い来る。
「王太子妃予算というものは、恐らく本来きちんと宛てがわれているはずだ。…公爵家は…家族仲が悪いと聞いていたが…どうして王太子妃予算に上乗せなど…」
貴族の間ではいつも囁かれている、『公爵家の不仲説』。それを信じている伯爵は意味が分からん!と憤る。だが、夫人は冷や汗を垂らしながらもぽつり、と可能性を口にした。
「それ自体が誤った情報だとしたら?」
「…は?」
「あなた。外から見る家族像が、本当に全て信じるに値するものだとお思いでして?」
とてつもなく冷静な妻の言葉に、伯爵はハッとする。
公爵が私財を投じてルピアが困らないように、何か言われた時の費用として補充していたものだとしたら?
そしてそれは、ルピアが婚約者でなくなったことで、無くなるものだ。当たり前のことなのだが、何故だかリアムも当初は『その援助はあって当たり前』だと思っていたらしい。
どうして公爵が私財を投じて王家に寄付のようなものをしなければならないのか。普通に考えたらそんなバカげた話があるか、と一蹴されてしまうのだが、何故だかそれを忠誠心だと叫ぶ者も居たらしい。
恐らくはルピアが王太子妃候補でいる間から、その予算補充が当たり前のように行われてきたからだろう。
「まさ、か」
「わたくし、最近社交の場でよく聞きます。わたくし達の、カルモンド公爵家の認識がそもそも間違っていたのでは、と…」
そうであれば、何もかも理解出来ることばかりだ。
公爵は、ルピアをとても可愛がっているし、大切にしている。公爵家の家族仲や親戚との仲も悪いわけがなく、至って親戚との仲も良好。
表向き、例えばパーティーなどに出かけても、特段仲が悪そうな雰囲気もないのにどうしてそんな噂が広まっているのだろうか。これについてルピアへの教育体制が原因であるとは知らない貴族の方が多く、第三者から見れば『自分の子供とはいえ、あのような苛烈な教育方針など…』と囁かれるようなことなのだが、ルピア自身が言い出したことだというのは公爵家、公爵家の身内しか知らない真実。
だとすると、自身らの認識は一体どうして、こうなった。わざわざ自分の家の教育方針をあちこちに吹聴しまくる親が少ないことも相まって、公爵家に対するマイナスイメージが膨れ上がったのだろう。
ここまで思って、伯爵夫妻は揃って血の気が引いていく音を感じていた。
「で、あれば…」
「えぇ…。今回の婚約解消についても、公爵家一族から王家に対して相当な抗議が行われている、とか」
「な、何故だ!」
「あなた、冷静になってくださいな。王家が望んだ婚約を、ファルティが現れたことで、そして王太子殿下と深い愛…と、わたくし達が言うのもあれですが、その、所謂真実の愛というもので結ばれ、婚約を新たにしただけではなく色々な段階を飛ばして、あの子が王太子妃となっているのですよ」
「………」
あ、と伯爵から力無い声が出た。
「そして、王家が望んだにも関わらず一方的に婚約を解消された公爵令嬢。完全に王家が公爵家を笑いものにしたい、もしくはこの国から出ていけ、と言わんばかりの行動ではありませんか…!」
そこまで飛躍するものか?とも思えてしまうが、妻の言うことにも一理ある。
王家が望んだにも関わらず王家が解消した婚約。しかも通常ならば王太子妃教育を行って、きちんと素質があるのだと認識された上で、全てを修めた令嬢こそが王太子妃として相応しい。
全てをすっ飛ばして、ファルティは王太子妃として成り上がっていった。
まるでそれは、御伽噺のお姫様のようで。
全ての令嬢の憧れたる存在へと一気に駆け上がったファルティは、とてつもない支持を得ている。これについてはとても喜ばしいことだ。だが、こんなものはあっという間に崩れ去ることも理解している、つもりではいるが、果たしてそれがいつ訪れるか、等は分からない。
「我らが…公爵家そのものを不要だと、声なき声で叫んでいる、というのか…?」
「そうとしか思えないような事態になりつつあるでしょう…?!」
今回の件、下位貴族はこぞって公爵家を指さし、嘲笑った。
ほれみたことか。お高く止まった女はこれだからダメなのだ、と馬鹿にし続けた。王都に住んでいる人々は揃ってファルティを持ち上げ、ルピアを叩き落とすようなことばかり。表立っては決して言わない。だが、広がる話はルピアを小馬鹿にするものばかり。
これが公爵家に伝わってしまえば、平民や下位貴族がどんな罰を受けるのか。
そして、公爵家がとてつもなく静かなのが、何とも恐ろしい。嵐の前の静けさとも言うべき状態。
「…そもそも、色々なことが間違っている、という前提条件を立てれば…話が噛み合うんです…この件は…」
ガタガタと震えながら、伯爵夫人は言葉を続ける。
「まず、公爵家の皆様方は仲が悪いなどとは以ての外。とてつもなく家族仲が良い、ということ」
言い終わると指を一本、立てた。
「次に…もしも、今のこの静寂が本当に『嵐の前の静けさ』であったなら…ですよ?」
早く続けろ、という伯爵の声に夫人は深呼吸をして、続ける。
「公爵家が『この国に不要とされている』ととっくに判断している場合…爵位を返上をして…ここからいなくなってしまう可能性は…ありませんか…?」
「あ…」
公爵家が、国そのものに不要とされたと思われても仕方のない、今回の出来事。
そう、自分たちの娘は確かによくやった。よくやったのだが、これは…。
「やりすぎ…だろう…」
過去に戻らない限り、ひっくり返して零したジュースはグラスに戻ることなどありえない。吐いた言葉も戻らない。伯爵ごときが公爵を馬鹿にしたような物言いも、発言の内容そのものも取り消すことなどできない。
奪ってしまったルピアの王太子妃としての地位も、戻ることなど、ありえないのだ。
結局、今更ながら残ったのはとてつもない後悔と、今後の王太子妃予算をどうすればいいのかという困惑のみだった。
理解の早さは経験の差