十話:悪手
「お義姉様のおうちにお泊まり…う、うふふ…」
「涎垂れてるぞ、ヴェルネラ。お前どうして姉さんに関してはそうなるんだよ」
「憧れのお人であり、わたくしの最も尊敬するお方ですもの」
お前本当に令嬢か、というくらいに表情を崩していたヴェルネラにツッコミを入れるルパート。
この二人のやりとりは公爵家のみならず伯爵家でもよく知られているので、特に使用人たちは気にしていなかった。更にはルピアもヴェルネラの先程のニヤケ顔は見慣れているので、咎めもしなかった。
最初は咎めたものの、キリリとした凛とした表情はもって五分。とはいえ公の場に出ると見事な淑女の仮面を被るものだから、ルピアもいつしか諦めた。そして、その表情になってしまう理由を聞いてからは、諦めはどこかに吹き飛んで、『可愛い』へと変化したのだから、人の感情とはかくも摩訶不思議なものである。
「…ところで、ヴェルネラ」
「何ですの?」
「さっき言ってたことだ」
「国王陛下と王太子殿下が、お義姉様に接触しようとしている、ということかしら」
「どうやって止める」
「止めるも何も」
うふふ、と艶やかにヴェルネラは微笑んだ。
「こちらに来る前に、お義姉様とルパート、そしてわたくしがさっさと我が領地に引っ込んでしまえば良いんです」
それが早々にできれば苦労してないんだよなー…と、思わずルパートは頭を抱える。
ルピアが長時間椅子に座れるようになってきたのは、二日ほど前から。ルピアであれば辛くても耐えきってしまいそうな気はするが、それではいけない。
ただでさえ王太子妃教育の記憶を消すための術式による負担がかなり大きかったのだ。
あの披露宴から様々なことが詰め込んでありすぎたこともあり、せめてもう少し休ませたい…と悩んでいると、ヴェルネラがルパートをじぃっと覗き込んでいた。
「…何」
「ルパート、お義姉様を少しでも休ませて差し上げたい気持ちはわかります。ですが、早々に物理的な距離を取らないと彼らはやって来ますわよ?」
「そう、だけど」
「お義姉様はいかがですか? 荷造りという問題はまぁ…ございますけれど」
二人が話している様子を、優雅にお茶を飲みながら眺めていたルピアだったが、ヴェルネラからの問いかけには微笑んでから頷く。
「荷造りは今からお願いしましょう。ヴェルネラが管理しているなら、ヴェルネラ自身は荷造りの必要がない、わたくしとルパートだけの荷物が最低限整えば良いということですものね」
「その通りですが…でも、お義姉様…どこか上の空、でしてよ?」
「思ったより、記憶消去の負担が…まだ少しあるみたい」
微笑みから一転、苦笑を浮かべてルピアから『ごめんなさいね』と謝罪され、慌ててヴェルネラはルピアの元に駆け寄った。
「謝る必要などございません! 急いだほうが良いけれど…お義姉様の体調優先でいきたいですし…わたくしが浅慮でしたわ…」
うんうんとヴェルネラも唸り始めていると、執事長のジフが駆け込んでくる。
彼にしては珍しくダッシュでここまでやってきたらしく、少し息が上がっていた。おまけに普段ならば決してしないであろう、ノックなしでドアを開くという無礼極まりない行動もオマケつき。室内にいた三人は顔を見合わせて困惑したように次々とジフに言葉をかける。
「まぁ…どうしたの、ジフ。ノックも無しで…」
「お嬢様、お坊ちゃま、大変にございます!」
「何だよ」
「王太子殿下と王太子妃殿下から、お嬢様を見舞いたいという申し出が先ほど届きました…!」
「…見舞われる理由などないのに?」
ルピア、ルパートに緊張が走る。
ヴェルネラも表情を引きつらせ、知らせを持ってきてくれたジフをじっと見る。
「…ジフ、お父様に連絡を。…ルパート、お母様にはわたくしが伝書魔法を届けます」
「分かった。ヴェルネラ、お前は領地行きの手配を最速で」
「承知いたしましたわ」
ルピアが意識を集中させ、手のひらの上に魔力で編み上げた小鳥を出現させる。
左手の上に小鳥の使い魔、右手は指先で空中に文字をするすると記載していった。『殿下と妃殿下がお父様の許可なしに接触の可能性あり』と、簡潔に記す。母ならばこれだけで察知してくれるにちがいない。
本日、母であるミリエールは友人である侯爵夫人に呼ばれ、お茶会に参加している。これを届ければ間違いなく爆速で帰ってきてくれるに違いないという予測と希望を込めた。
文字をまとめるように手を動かし、小鳥に吸収させれば、小鳥の姿から鷲のような姿に変化する。空中に記載した文字も魔力で編んだもの。その分の魔力で変化した鳥は、ばさり、と大きく翼を広げた。
「よろしくね。お母様の魔力反応はこれよ」
万が一を考えて教えてもらっていた母の魔力反応。
それを使い魔に教え込むと一度、大きく翼をはためかせてから浮き上がり、そのまま勢いよく窓を突き破って飛んで行った。
「姉さん、窓」
「…あ」
「ルピアお嬢様、まだ静養が必要ですな」
「……そうね」
普段なら窓を開いた状態で飛ばす使い魔。ルピアを崇拝レベルで尊敬しているヴェルネラですら、思わずガン見している。
外から心地よい風が吹き込んで、緩やかにカーテンが揺れる。ふー、と大きなため息を吐いてルピアが頭を抱えているとヴェルネラが寄り添ってくれる。
「…お義姉様、早々に…あの、手配いたしますので、もう少しご辛抱くださいませね」
「ヴェルネラ、ありがとう…」
ものすごく気遣ってくれているヴェルネラの心底心配そうな声音にいたたまれなさそうな様子でお礼を言うルピアを見て、魔術の副作用が思ったより現状として深刻だな、と思ってしまう。ルパートは色々なことを同時並行で考えながら、果たしてどうしたものかと思案する。
この姉が本調子を完全に取り戻した状態ならば、リアムやファルティに会ったとしても何も心配などしなくていいのだが、今の状態では会わせることに不安しかない。
ルピアもそれは思っているようで、気まずそうに視線を逸らしており、ジフともルパートとも、ヴェルネラとも視線を合わせていない。動けるようにはなったが、今まで当たり前に出来たことが思いがけず失敗しているあたりは、まだ副作用が出ているのだろう。
自分一人で対応も可能ではあるが、うっかり手が出そうになるのを止められないだろうし、ヴェルネラは止めるどころか加勢してきそうな性格なのだから。
早く、父と母にこの状況が伝われ、と念じるルパート。
そしてルピアは窓に近寄り、おのれが吹き飛ばしてしまった窓の修復を魔法で開始したのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「まぁ…」
ルピアからの伝言を受け取ったミリエールは、静かに怒りを膨れ上がらせる。
お茶を楽しんでいた侯爵家夫人にして、かつてルピアの王太子妃教育を行っていたカサンドラ=ニーホルムは驚いた様子も見せず、ミリエールに問いかけた。
「どうしたの? 公爵家に異変?」
「王太子殿下と妃殿下が、わたくしの可愛いルピアを見舞いたいんですって」
「まぁ、何ということでしょう」
うふふ、と優雅にカサンドラは笑うが、言葉には毒が多量に含まれている。
眼差しも冷たいものへと変化し、香りのいいお茶を一口飲んでからソーサーに茶器を置いた。
「今更何の用件があるというんでしょうね、かの方々は」
「どうせ、後ろ盾が欲しいんでしょう。自分達の選択の結果、こうなっている自覚がないのかしら」
「無いからこそ、わたくしにあんな台詞を放ったんだわ」
「あぁ、さっきの」
「そう」
カサンドラの瞳から一切の容赦が消える。
思い出すのは、ファルティが挨拶にやってきた時に笑顔で告げたあの言葉。
『私、ルピアに負けないくらいの王太子妃になれる自信があります!』
聞いた瞬間に様々なものが冷え、壊れていった。
カサンドラは、王太子妃候補であったルピアを教えるのがたまらなく楽しかったのだ。様々な、ルピアとの思い出がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
王家が新たに王太子妃候補として決めた、このファルティ=アーディアという少女。学院の成績が優秀だったのは勿論知っている。化け物じみた点数の数々に、実習担当の教師陣の褒め具合からして本人の努力の賜物だとは理解もしている。
だが、駄目だった。王太子妃教育を担っている立場や、何年も血のにじむような努力をして色々なことをやり遂げてきたルピアの姿を、努力を、苦労を見ているカサンドラからすれば容認できるものではなかった。しなければならないのは分かっている。
教育係としては不適切である、と言われようともこればかりは受け入れられなかった。
ルピアの努力も何も知らないこの小娘にだけは、教えたくない。その思考が巡り、王家からファルティの教育係として依頼をされたが考えるまでもなく断りを入れたのだ。
「大人気ないとは理解はしておりますけれど、ルピアさんの何年にも渡る努力を全てぶち壊した張本人の教育だけはしたくなかった。…別に、教育係はわたくしだけではないのだから、さして問題ないでしょう」
王太子妃候補としてのルピアを育てたカサンドラ以外にも、勿論王太子妃の教育係は存在している。
「あの方々の気持ちが分からなくもないけれど……無理ですもの」
「カサンドラ、わたくしの娘を高く評価してくれてありがとう…」
「本当のことよ。でもこれで、ルピアさんは思う存分ご自分のやりたいことが出来るじゃない」
「ええ。『私が女公爵になる!』って、小さい頃に宣言していたし、王太子妃教育を受けながらも諦めたくないからと…日々努力し続けたあの子が報われないなんて、あってはならないことだわ」
だから、とミリエールは眼差しを鋭くした。
「ご自身達の行動のツケは、ご自身達で支払うべきだものね」
言い終わると同時に立ち上がり、帰宅の準備をするべく侍女に告げた。
「カサンドラ、今度我が家にもいらしてね」
「勿論。ルピアさんによろしくお願いしても良いかしら?」
「ええ! 『厳しいけれどカサンドラ先生は大好き!』と何度も聞いているから喜ぶわ」
「まぁ…嬉しい」
ようやくカサンドラもミリエールも、雰囲気を柔らかくする。
王太子夫妻の取った行動は、何にも代え難い悪手であることに本人達だけが気付かないまま物事は進んでいくのである。