In a Silent Way
ジュナに付き添ってもらいながら帰宅したミチルは、難聴の生活というものがいかに苦痛かを知る事になった。コミュニケーションが取りづらいのは、誰でも想像できると思う。耳栓をして生活しているようなものだ。
それにも増してミチルにとって辛いのは、音楽を聴くことも、楽器を演奏することも出来ないことだ。サックスを吹けば、こもった低音が頭の中で反響する。ヴァイオリンを弾けば、金属のような中高音が耳孔にまとわりつく。音程もまともに判断できない。これでは、ステージに立つ事などできない。
テレビを見ても不快な音がするだけで、すぐに消した。ヘッドホンなら音楽も聴けるかと思ったが、やはり変な音だ。もう、どうにもならない。せめて反響だけでも抑えるため、ミチルは耳栓をする事にした。家族との連絡はスマホのメッセージで取る。もしこれで目も見えなかったら、と思うとミチルはぞっとした。
そこで嫌でも考えたのは、健常であることの有り難さだ。見えて、聴こえる。これが、どれほど貴重な事なのか、難聴になってミチルは初めて知った。
だからこそ、聴力障害医療研究へのチャリティーは、意義があるのだとミチルは身をもって確信した。
大人たちはよく、人間をもっとも傲慢にするのは正義だと、尤もらしく言う。では、正義を希求するのは間違った事なのか。正義の行いが全て偽善だというなら、ネットで誰かを誹謗する事が真の正義とでも言うのか。
ミチルはこのとき、自分の音楽の意義がわかったような気がした。音楽で人を救えるなどとは思わない。だが、人を救う力を持った人達に、力を貸す事くらいはできるかも知れない。
難聴ではあったが、それでもフュージョン部の部長、そしてザ・ライトイヤーズのリーダーとして、やるべき事はあった。まず自分がリモートライブに出演できない可能性が高い事をメンバーに伝え、出られない場合は代役をアンジェリーカにお願いする。チャリティー主催者側にもその旨を連絡しておき、告知動画のコメントにもリーダー急病のため、と記載しておくよう指示する。
さすがにこうなると佐々木ユメ先輩が、当初の意見を撤回してサポートを申し出てきた。そこで好意に甘える事にする。ただし、もしミチルに23日朝の時点で聴力回復が見込めなければ、という条件で代役をお願いした。
『大丈夫か。あたし、なんか手伝える事ないか』
ジュナが、いつになく落ち着かない様子でメッセージを送ってきた。ありがたいのだが、親友ながらさすがに心配しすぎだろうと思ってしまう。
『大丈夫だよ。私を心配してくれるなら、なおのことリモートライブの準備を整えてちょうだい。衣装は結局、制服でやるのね?』
『ああ。どうせ学校でやるなら、その方がアメリカ人にもウケるだろう、って』
制服のフュージョンバンド。今は秋冬のブレザーなので、少々絵面が暑苦しくならないか。
『夏服にしたらどう?そのほうが全体的に明るくなると思うけど。ブラウスは長袖でいいとして』
『そうか。んじゃ、そういう方向でみんなに連絡しとく』
『音響の方は大丈夫なの?』
『ああ。薫が任せとけ、って言ってたから任せておくことにした』
目に浮かぶ。薫は外見こそ女顔で可愛らしく見えるのだが、中身は職人肌の仕事人である。下手に手伝おうとすると「そこは僕がやるからいい」などと言ってくるタイプだ。
『映像チームは?』
『心配ごとは、配信中に回線が落ちる事だけだとよ』
どうやら、ミチル抜きでもバンドは動いているらしい。安心すると、少しだけ頭が軽くなった気がした。
『ミチルはおとなしく、治すこと考えてろ。みんなからも、そう言われてるからな。いいな』
『うん、わかった。ありがと』
心配する時もぶっきらぼうなジュナに、ミチルは感謝した。きっと、大勢から何度もメッセージを送られて面倒にならないように、ジュナを連絡窓口にしているのだろう。クレハあたりが気を回しそうな事だ。
しかし、音のない生活というのも味気ないものだった。音楽の道を志望しているミチルにとっては、なおさらだ。やることがないので、しばらく読んでいない漫画を引っ張り出してみる。そういえばここ最近、本もあまり読んでいなかった。音に関する事ばかりで、視覚的な愉しみから離れていた気がする。
テロップつきの動画なら観るだけでも楽しめるだろうと思い、アプリを開いたミチルは後悔した。"めこばらみん"とかいう配信者の動画が、再生履歴欄に出ている。このバンドを批判しているわけではありません、などと逃げの布石を打ってから、遠回しにいちゃもんをつけてきたオッサンだ。
冗談じゃない、とスワイプしてそのサムネイルをどかそうと試みた時に、うっかりミチルはタップして再生してしまった。しまった、と思ったが、難聴と耳栓のおかげで、このオッサンの声を聞かないで済む事に気付いた。
そのとき、ミチルの目に入ったのは、動画のコメント欄だった。
『このバンドを批判するわけじゃないとか言ってるけど、だったらいちいちそのバンド引き合いに出す必要ねーじゃん』
まったくその通り。どこの誰かは共通アイコンなのでわからないが、男性ユーザーのようだ。
『文脈的には、このライトイヤーズという女の子達と、チャリティーを批判している事は明白です。結果的にはそのチャリティーに疑いの目を向けさせた時点で、業務妨害の可能性が発生しますね』
なんだか、どこかの誰かを思わせる論調だ。これも男性らしい。
『気持ち悪い。話題に乗っかって、女の子いじめて得意になってるだけでしょ?このチャンネルで批判してるのって、捕まった人とか、新社会人とか、"叩いても怖くない"相手だけじゃない。たまにはゼネコンと政治の癒着構造でも批判してみれば?』
これは若い女性のようだ。なんだなんだ。気付いたら、ミチル達の味方をしてくれるコメントがたくさんついている。
別に、だからといってすっかり気が晴れるわけでもない。最初からこんな動画を目にしなければ良かったのだ。だが、こうした反論が、それなりに励みになるのも確かだった。世の中、敵もいれば味方もいる。
ミチルは動画を閉じ、ひと呼吸した。薬は飲んだし、ひょっとしたら、目覚めた時には耳も元に戻っているかも知れない。今日は早目に眠る事にしよう。
翌日土曜日は、雨だった。ミチルは、低く唸るような音で、スマホのアラームより早く目が覚めた。上半身を起こしてすぐに、耳の中でまだ不快な反響が起こるのがわかる。症状は改善してはいなかった。
「ふう」
残念な気持ちで、ため息をつく。もちろん、昨晩一度の薬だけで治れば苦労はない。
起きて下に降りると、母親が心配そうに訊ねてきた。まだ駄目だと伝えると、残念そうに肩を落とす。
母親が朝食を作ってくれている間、食前に飲まなくてはならない漢方薬を飲む。面倒くさいのでオブラートなしで喉に放り込んだが、独特の苦味が喉にじわりと広がって後悔した。
「ベートーヴェンが難聴になったのって、何歳ごろの話?」
ミチルは、ハムとチーズとピザソースのホットサンドをかじりながら母親に訊ねた。最終的に全聾になった作曲家を持ち出すのは縁起でもないが。
(たしか、20代後半だったと思うわ)
相変わらず、話し声は遠い。こころもち昨日より聞き取れる気はするが、気のせいというレベルだ。
「きちんと聴こえなくなっても、作曲してたんだよね」
(それまでの、音感の蓄積があったでしょうからね。脳内でイメージした音を楽譜にできれば、極端な話、紙とペンだけでも作曲出来る事になるわ。私みたいな凡人には無理でしょうけど)
紙とペンだけで作曲。確かに不可能ではないというか、そもそも音大の入試でそういう試験があるらしいし、そうやって作曲しているプロもいるだろう。ミチルはいちおう五線譜は読める。他人が書いたものなら。しかし、自分で書いた事はない。だが、挑戦してみる価値はあるのではないか。
薬を飲み終え、コーヒー片手にミチルはパソコンを立ち上げた。検索してみると、どうやらフリーのフルスコア作成ソフトがあるらしい。どうせ初心者だし、最初はそれでいいだろう。
ダウンロードし、インストールして立ち上げると、まっさらな五線譜が現れた。何もない。ジョン・ケージはこれに"4分33秒"という題名をつけて、作品ですと言い張った。作品かどうかはともかく、そんな事をやった奴がケージだけなのは間違いない。4分33秒黙っていたら、著作権団体は料金の請求に来るだろうか。コンサートで演奏すると、ちゃんと徴収されるらしいが。
とりあえず「A」のリハーサルマークだけを頭につける。さて、ここから作曲だ、と意気込んでみたが、さっぱりイメージが浮かばない。サックスやヴァイオリンなら、適当に鳴らして音で感覚を掴める。だが、頭の中でイメージした音を楽譜にする、というのは大変な作業だ。天才ならできるのだろうが、ミチルのような素養もない人間は、理論を学習しない限り無理だろう。そこでミチルは例によって、この手の事はマヤに訊こうとLINEメッセージを送った。
『あなたも、転ばされてもタダじゃ起きないわね』
マヤは、ミチルからのメッセージに呆れ、かつ敬服して返した。
『まあ、基本は4小節を単位として書く事だけど…音感と五線譜の読み書きをきっちり勉強してからでないと、無理だよ。パースと人体デッサン知らないで、まともな人物画を描こうってのと同じ。ベートーヴェンが難聴で作曲できたのは、その両方があったから』
『やっぱりか』
ミチルもさすがに、その程度の事はわかっているだろう。だが、マヤは心の底から、ミチルに敬服していた。
結局、ミチルから音楽を取り上げる事はできないのだ。難聴になったらなったで、視覚で作曲する方法を模索する。この少女を諦めさせる事など、神様が束になってかかっても不可能なのではないか。
『ミチル。あなたがその気なら、一緒に楽譜の書き方、勉強しよう。ただし、耳が良くなってからね』
『なんで?』
『音感が不完全な状態じゃ、正しい勉強にはならない。だから、今のあなたの仕事は、耳を治すこと。わかった?』
ジュナにも言われた事を繰り返されると、ミチルも黙るしかなかった。
『わかった』
『でもね、ミチル。私、あなたの事ほんとに凄いって思うよ。普通なら、我が身の不幸を呪ってるところじゃない』
『今から呪ってもいいけど』
『アメリカンジョークか!』
とりあえずツッコミは入れておくマヤだった。
その土曜日、ミチルは言われた通りおとなしく過ごした。雨の日は嫌いではない。雨のイメージの曲も作ってみようか、などと考えながら、本当に久しぶりに、穏やかな1日だった。その夕方スマホに、突然メッセージが送られてきた。市橋菜緒先輩からだ。
『ミチル、お見舞いが遅れて申し訳ありません。大変だったわね。お加減はどう?』
相変わらずきっちりしている人だ。学校でもこの人がいる所だけ、お嬢様学校に見える。
『耳は昨日から変わりませんけど、体調はいいです。ご心配おかけしてます』
『早く治るといいわね。ところで、耳がそんな状態で送るのは失礼かと思ったんだけど。もし、かすかにでも聴く事ができるなら、さわりだけでも聴いて欲しい演奏があってね。動画を送っていいかしら』
なんだろう。中身は竹を割ったような性格の先輩にしては、勿体つけている。
『かまいません。全く聴こえないというわけでもないので』
『そう。それじゃ、送るわね。どうか早く良くなってね、おやすみなさい』
それだけ言って、しばらくすると無言で動画だけが送られてきた。先輩は話を切るのが早い。
「なんだ?」
動画ファイルの頭は、どうも音楽室の様子らしかった。隅にホルンか何かの金管楽器が見える。どうやら、吹奏楽部の演奏風景らしい。そういえば、秋には2年と1年だけが出場する演奏会があったから、その練習だろうか。スマホのスピーカーでは聴き取れないので、ミチルはオーバーイヤーヘッドホンを繫いでボリュームを上げ、再生ボタンを押した。
動画内の音楽室では、いつものように吹奏楽部が演奏の準備をしていた。もし菜緒先輩の勧誘に折れていれば、ミチルも今頃その輪の中にいたはずである。部員たちは楽譜とにらめっこしつつ、音出しのチェックをする。
その前面に、よく知った顔の二人がいた。酒井三奈と桂真悠子。アルトサックス担当で、ミチル達とは浅からぬ因縁があり、夏の終わりにようやく和解できた。二人はカメラに近付いてくると、姿勢を整えて言った。
『ミチル、もし聴き取りにくかったらごめんなさい。あなたの耳のこと聞きました。突然のことで、吹奏楽部一同心配しています』
あの時はごめんなさい、とか切り出されたらどうしようかと思ったミチルは、三奈のこもった声をどうにか聴き取ってホッとした。
『そんな状況でこんな動画を送っていいのかわからないけれど。実は前からこっそり、耳コピで練習していた曲があります。ようやく楽譜が手に入ったので、即興で吹奏楽用にアレンジしてみました、耳が良くなってからでもいいので、聴いてください』
二人は自分のポジションに戻ると、アルトサックスを構えた。一呼吸おいて、クラリネットのイントロが流れて来る。難聴のせいで聴き取りづらいが、なんだか聴いた事のあるメロディーだ。
「知ってる曲だな」
知っている曲だ。しかし、吹奏楽の演奏で聴いた覚えはない。そう思っていると、吹奏楽特有の、迫力あるオーケストレーションが響いてきた。やがて、メインのメロディーが流れてきた瞬間、ミチルの背筋に電流が走った。
「これ…」
そう、そのメロディーは、ザ・ライトイヤーズのミチル作曲によるオリジナル曲”Dream Code”だったのだ。その時、ミチルは菜緒先輩が、楽譜を求めてきた事を今さら思い出していた。耳の状態が状態なので、全ての演奏を聴き取れるわけではない。だが、間違いなくザ・ライトイヤーズの曲である。きちんと吹奏楽用にアレンジされ、まとまった演奏になっていた。
ミチルはその時理解した。三奈たちは、ミチル達のサブスク音源を聴いてくれていたのだ。そして、耳コピで練習してくれていた。だが、正確な採譜ができていたか不安だったので、菜緒先輩を通じて楽譜と、演奏許可をミチルに求めてきたのだろう。
こもった耳で演奏を聴きながら、ミチルの目からボロボロと涙がこぼれた。あれほどいがみ合っていた二人が、わざわざミチル達の曲を練習してくれていたのだ。それは、二人からの完全な和解のメッセージでもあった。
「ありがとう。ありがと、二人とも。きっと治してみせるから」
スマホの小さな画面に映る二人に、ミチルは泣きながら約束した。きっと治してみせる。そして、ミチルにはもうひとつ、やりたい事ができた。いつか、あの二人と一緒にステージに立とう。きっと、素敵な演奏になる。音楽は、人の心をつないでくれる筈だから。