Soul Mates
リモートライブに向けて、準備は滞りなく進んでいた。涼しく、空気も適度に乾き、演奏練習でも汗をかかずに済むのは嬉しかった。
演奏するナンバーはサブスクで人気がある3曲に加え、主題曲コンペで見事に落ちた1曲を、この機会に初公開する事も決めた。反応次第では、サブスクにシングル曲として追加してもいいだろう。
チャリティーコンサートの告知動画は、フュージョン部の"公式"チャンネルで1年生が配信してくれた。もう日数はないが、それなりに話題になっているらしかった。
「よし、いい感じだ」
予定のセットリストをひととおり通して演奏してみたあと、全体の演奏をまとめるマヤが満足げに頷いた。もういい加減オリジナル曲も慣れてきた頃である。そうなると、ミチルには欲が出て来る。
「アレンジ、今のままでいいのかな」
サックスを手にしたミチルが、メンバーに意見を求めるように見渡した。ジュナは少しだけ考えたあと、
「今のままでいいんじゃないのか」
と言った。
「何の曲とは言わないけどさ。メジャーのヒットナンバーでも、繰り返しリアレンジされるけど、結局最初のバージョンが一番いいっていうパターン多いぜ」
「なるほど」
「あと、ライブで自然に変わっていく事もあるだろ。遅い曲は丁度いい速さになったり、速い曲は適度にスローになったり。その時に、改めてレコーディングし直せばいいんじゃないか」
ジュナの意見に、メンバーは感心したように頷く。ジュナはメンバー中では最も多くの音楽に触れている事もあり、その分析力は、時にマヤ以上の説得力を持つのだった。
「遠慮しておくわ、残念だけど」
佐々木ユメは、ミチルに軽い調子でそう答えた。
「本来は、あなた達に来た仕事なんでしょ。それに、いたずらに人数増やしたって、音は良くならないよ」
「…そうですか」
ミチルは残念そうにうつむいた。彼女は、ユメ先輩もリモートライブに出演しないかと持ちかけたのだ。
「ミチル。チャリティーコンサートって、要するにアーティストの知名度、話題性がカギなのよ。知名度がない演奏者が増えても、意味はないの」
「うっ」
「そう。ノーギャラでもこれはプロの仕事なの。あなたは、プロの自覚を持たなきゃいけない」
声色こそ穏やかだが、それは厳しい言葉だった。どっちがプロかわからない。チャリティーだからといって、遊びでもお祭りでもないのだ、と。
だが、ミチルにとってユメ先輩を誘ったのは、もう少し個人的な意図もあった。
「…先輩と一緒のステージに立ちたいです」
「可愛いこと言ってくれるじゃない」
ユメ先輩は笑うが、ミチルにとっては切実な問題だ。もう10月も後半である。先輩と、少なくとも同じ高校生として過ごせる時間は終わりが近付いている。それでなくても、先輩は受験勉強で会える機会が少ない。
それを察してくれたのか、ユメ先輩はミチルの肩をぽんと叩いた。
「わかった。秋の小さな街角ライブ、一緒に出よう」
「ほんとですか!」
「うん。曲はあなた達に任せる」
「やった!」
自分でも露骨だと思うくらい、ミチルは喜んだ。インディーデビューしようと、自分はこの人の弟子なのだ。その特権は、一生自分だけのものである。
ミチルは放課後、少し浮かれた気持ちで部室に向かった。今回は考査の結果も、特筆するほど良くもないが、前回よりは両親に顔向けができる内容で、ストレスなくリモートライブに向かう事ができる。
はずだった。
「おいっすー」
バカな調子で部室のドアを開けると、1年生の動画チームと、2年生の4人がノートPCを囲んで何やら話し込んでいた。
「何見てんの、みんなして」
「何じゃない」
ジュナが、真剣な顔でミチルを見た。それだけで、ミチルは只事ではない事を悟り、みんなが空けてくれたPC正面に座った。画面には、どこかの記事まとめサイトが表示されている。
「なに」
「わかるだろ。あたし達の事が話題になってる」
「え?」
ミチルは、表示されたページのトップに戻ってみた。すると、そこにはこんな見出しがあった。
【悲報】話題の女子高校生フュージョンバンドさん、アメリカの偽善チャリティーに参加してしまうwwww
「何よ、これ!」
ミチルは、画面の文字列を睨んだまま叫んだ。1レス目は次のようになっている。
『1・いま話題のアメリカでインディーズデビューした日本の女子高校生フュージョンバンド、ザ・ライトイヤーズが、アメリカのマイアミで10月23日に行われる聴覚障害医療研究のチャリティーコンサートに参加する事が、同バンドの公式動画チャンネルにて告知された。』
これに対する反応は、次のようなものだった。
・あー、なんも知らない子供だから騙されちゃったんだな
・どうせギャラ貰ってんだろ
・募金がどこ行くかなんて知らないんだろうな
・売名でしょ。ちょっと興味あったけどガッカリだわ
ミチルは肩を震わせた。
「ふざけないでよ。何なの、こいつら」
それは、その場の全員が同じ気持ちだった。何が偽善だというのか。
「チャリティーとは名ばかりの、偽善的なイベントがあるのは知ってるわよ。日本でも、結局はタレントの懐にお金が入るようなのがある」
「ええ。けど、このチャリティーは違うわ。研究者や医師たちが立ち上げた、"聴覚医療研究会"という、世界的な機関に直接寄付が行われるの。内実が不明な、偽善的な活動ではないわ」
クレハが、珍しく低いトーンで声を震わせた。これは本当に怒っている時の声である。
「まあ、反応してる奴の日本語がおかしい所からして、理解の程度は知れたものだけどね。"募金がどこに行くか"って何よ。"寄付金がどこに行くか"でしょ」
マヤは呆れたように、"募金"という言葉の誤用を指摘した。募金とは"お金を募る"行為であり、寄付する行為を"募金する"と表現するのは、厳密には間違いである。
「まあそれはともかく、こんなのにいちいち反応してられないわよ。ほっときましょう、気分は悪いけど」
「そうだよ、ばかばかしい。こんな奴らが何言ったところで、あたし達の活動を止められっこないよ」
マーコは軽く流すように言ったが、さすがに憤慨している様子ではあった。1年生たちは、ミチルの顔色をうかがっている。
「…そうだね。気に入らないけど、こんなのに反応してて音楽活動なんてできない」
「けど、告知動画のコメント欄にも似たようなのがありますよ」
キリカは、アップした告知動画のページを開いてみせた。まとめサイトほどではないが、騙されてるんじゃないか、といった意見が見られる。
「それも無視する。私達は私達の仕事をきちっと果たす、それだけよ。いいわね」
ミチルは立ち上がり、毅然と言い放った。その態度は、メンバーに勇気を与えるものだった。
ところが後日、事態は微妙に面倒な事になる。ミチル達の告知動画に反応して、聴覚医療研究会のチャリティー活動に、根も葉もない疑惑を追求する動画制作者が現れたのだ。「めこばらみん」と名乗る一応プロらしいギタリストで、100万再生当たり前の配信者だった。ヒゲ面で人を小馬鹿にしたような目の、太った40歳くらいの男性が、甲高く腰の据わらない声で喚いている。
『えー、断っておきますが、私はこの聴覚医療研究会という組織がそうだと言っているわけでもありませんし、このフュージョンバンドに悪意があると言っているわけでもありません。ただ、世の中には偽善的なチャリティーが数多く存在するというのも事実だと…』
「うわっ、こいつあたし大嫌いなんだ!」
ジュナは、肩をすくめながら身震いした。鳥肌が立つ一歩手前だ。
「プロのくせに、動画でよそのミュージシャンにイチャモンつけるのに血道上げてるバカ野郎だ。なまじウデはあるし、大御所ミュージシャンと繋がりもあるから、天狗になっちまってる」
「ただの権威主義者よ。演奏能力と人格は別。演奏が上手くたって、人が悪ければ私は関わりたくないわね」
マヤはコーヒーを飲みながらバッサリ切り捨てる。
「私達を標的にしたのも、私達が物を知らない女子高校生だと思ってるからでしょ。弱い相手はこき下ろして、強い相手には媚びる。ま、最低の人間ね」
「けど、こんなのが若い奴らに人気なんだぜ。信じらんねーな」
「ほっときなさい。人間なんて、あっという間に人を見限るものよ」
マヤは冷淡に吐き捨てたが、クレハは不安そうだった。万が一、これが発火点になって、何か具体的な問題に発展しないか。
すると、マーコが突然声を上げた。
「そんなゴミみたいな奴、どうでもいいよ。さあ、練習しよう、練習!」
急かすようにハイハットを鳴らす。メンバーは、頷いてそれぞれのポジションについた。ミチルも、サックスを手にしてメンバーの方向を向く。
「"Detective"からやるよ」
「オッケー」
マーコがいつものようにスティックを鳴らす。マヤのキーボードがイントロを奏で、"探偵"をイメージしたハードボイルドなナンバーが始まった。今日は1年生が第二部室で自分たちの練習をしているため、久しぶりに5人だけの空間だ。
音楽を奏でている時、自分は自分でいられる。そこには何の疑問も存在しない。これが自分だ。本当の自分を、とっくの昔にミチルは見付けた。あとは、ずっと自分自身でいられるかどうかだ。誰に何を言われようと、自分自身でいられるかどうかだ。
自分自身を見付けた人間を、まだ見付けていない人間は攻撃する。見付けられない憤りをぶつけるためだ。そこで折れてはいけないのだ。ミチルは、金色のサックスの輝きを信じて、息を吹き込んだ。
ミチル達が演奏練習しているころ吹奏楽部では、引退した3年生の市橋菜緒が、珍しく指導に訪れていた。
「良くなったわ。頑張ったわね、2人とも」
菜緒は、アルトサックスの酒井三奈と桂真悠子に小さく拍手を送った。2人は頭を下げる。
「先輩の指導のおかげです」
「でも、まだあの子には及びません」
あの子。それが誰なのかは、菜緒にはよくわかったが、名前は出さない。
「吹奏楽には吹奏楽の、ふさわしい演奏があるわ。どっちが上とか、気にしないことね」
菜緒は、思っている事をそのまま言った。フュージョンはいわばロックの系統であり、同じサックスでもクラシックの流れを汲む吹奏楽とは性格が異なる。だから、これでいいのだ。
「ねえ、真悠子」
ふいに、三奈が真悠子を肘で小突いた。真悠子も頷く。なんだ。
「菜緒先輩。実は、吹奏楽部でやってみたい曲があるんですけど」
「譜面と、演奏の許可が欲しいんです。厚かましいのは承知のうえです。先輩に、お願いできますか」
譜面と演奏許可?どういう事だろう。菜緒は首を傾げた。
ミチル達はひととおり演奏練習を終えて、片付けに入っていた。ミチルがアルトサックスを分解し、タンポの水分を拭いている時、傍らのスマホのランプが点滅しているのに気付く。LINE着信だが、妙に着信音が小さい。いつボリュームを下げただろうか。
メッセージの主は、市橋菜緒だった。そういえば、文化祭以降は廊下ですれ違う程度で、あまり話をしていない。ミチルはタップしてメッセージを表示した。
『ミチル、ごきげんよう。唐突で申し訳ないのだけれど。あなた達のオリジナル曲"Dream Code"の、演奏許可をいただけるかしら。厚かましいようだけど、譜面も提供してくれると助かる』
演奏許可とはまた大袈裟な、と思った直後に、そういえばれっきとした著作権があるオリジナル曲なんだな、と今更思ったミチルだった。
菜緒先輩ならべつに問題もない。
「ねえマヤ、"Dream Code"の譜面が欲しいって、菜緒先輩が言ってる。いいよね、あげても」
マヤにそう訊ねるも、返事がない。
「マヤってば。聞いてた?」
ミチルはマヤを向いた。マヤはこちらに向かって口を大きく開けている。
(だから、私から送っておく、って今言ったじゃん)
何でそんな小声で返すのか。そのとき、ミチルは何か違和感を感じたが、とりあえずOK、譜面はあとで送るという返事を菜緒先輩に送信する。
そのあと、手入れしたサックスをケースに入れようとした時、ミチルは明らかな違和感に気付いた。
音が遠い。
周囲を見渡す。ジュナたちが何か話している。だが、それは厚いカーペットに遮られたような、こもった声だった。
ミチルを、かすかな恐怖が支配した。恐る恐る、ジュナに話しかける。
「ジュナ、私に何か話しかけてみて」
(あ?)
「私の声、聞こえてるよね。…いや、違う。そうじゃない、逆だ」
(何言ってんだ?大丈夫か?)
ジュナは、心配そうに顔を近付けてきた。
(どうしたんだよ)
近い近い。だが、そこでミチルはいよいよ異変に気が付いた。ふと、立てかけてあるアコースティックギターの弦を鳴らしてみる。やはり音が遠い。1弦の音が、ほとんど聞こえない。
「…音が聞き取りにくくなってる」
その一言が、メンバー全員の背筋を凍らせた。
(典型的な、突発性難聴です。聞こえてますか)
ギリギリの時間で飛び込んだ耳鼻科の先生が、なんとか聞こえる声で説明してくれた。ミチルは頷く。
「突発性難聴?」
(そう珍しい症状ではありません。先程の聴力テストの結果ですが)
少し白髪が目立ち始めた先生は、オージオメーターでさっきミチルが受けた聴力の検査結果を示して説明した。
(このラインが、標準の聴力です。あなたは今、こういう状態)
聴力の基準となるラインの下に、折れ線グラフのようにミチルの現在の聴力が示されていた。聞こえないわけではないが、だいぶ低くなっている。
「何が原因なんでしょうか」
(一概には言えません。風邪やインフルエンザなど、ウイルス感染が原因の事もありますが、耳孔と鼓膜に炎症は見られません。多いのはストレスによるものです)
「ストレス?」
(そうです。日頃抱えているストレスなどに、心当たりはありませんか)
そう問われて、ミチルは考えた。ストレスはないわけではない。昨日今日だって、ネットの誹謗中傷にフラストレーションを覚えたばかりだ。だが、嬉しい事、楽しい事の方が多いと、ミチルは思っていた。
「…わかりません。あるといえば、ありますが」
(ストレスというものは、そうそう簡単にコントロールできないものです。何ヶ月も、少しずつ蓄積されたストレスが、ある日表に出て来る事もあります)
ミチルは愕然とした。だとしたら、一体どうすればいいのか。というよりも。
「…これは、治るんでしょうか」
(ストレス性のものであれば、自然に治る事もあります。あなたの場合、やや中度寄りの軽度といった所ですし、発症してすぐ来られたのは良かったです。まず、血行と末梢神経を改善する薬と、ビタミンB12による治療を試してみましょう)
受付時間が過ぎた待合室に戻ると、付き添ってくれたジュナが駆け寄ってきた。
(なんて?)
ミチルは、心配そうなジュナを座らせると、先生に説明された事をそのまま伝えた。ジュナは黙って聞いている。
「受診するのが早いほど良い、って言ってたからね。…けど、リモートライブまでは4日。ひょっとしたら、私は演奏できないかも知れない。ハイハットの音が聴こえないと、リズムが取れないものね」
変に自分の声が反響する。これは先生によると、耳管開放症という症状の併発の可能性があり、補中益気湯という漢方薬も処方してくれるらしかった。
「だから、サックスはアンジェリーカに代わってもらって…」
そこまで言って、ミチルはジュナの手元にポタポタと雫が落ちるのに気が付いた。
「ジュナ」
(神様はバカ野郎だ。どうしようもない)
震える声で呟くのが、ミチルにも聴き取れた。
(なんで、こんな頑張ってる奴に、こんな仕打ちするんだよ。罰を与えるなら、いい歳してネットで人をこきおろしてる奴らでいいだろ)
ジュナは泣きながら、ミチルにしがみついて来た。ジュナの涙なんていったい、いつ以来だろう。ミチルは、自分の代わりに泣いてくれるジュナの肩をポンと叩いた。
「大丈夫。さいわい、明日明後日は土日だし、休めば良くなるよ」
(…そんなこと、わかんねえだろ。保証があるのかよ)
「そうだよ、保証なんてない。治らないっていう保証はない」
ミチルの言葉に、ジュナはガバッと顔を上げた。
(お前、今までずっと正面で、あたし達が受け止めなきゃいけないストレスと戦ってきたんだな。お前に任せっきりだったんだ、あたし達は)
「やめてよ」
(ミチル、今はライブの心配はするな。とにかく、治す事だけ考えろ。それが最優先だ)
ジュナの言葉に、ミチルは胸が熱くなるのを感じた。だが、今は泣かない。きっと治る。治ってみせる、そう思った。
「それにしても、なんて偶然かしらね。聴覚障害医療の基金チャリティーに出演するバンドのリーダーが、直前で難聴に罹るなんて」
思わずミチルは笑いさえこみ上げてきた。一体、どういう偶然でこんな事になるのだろう。だが、不思議と不安はなかった。治るという確信はあった。問題は、それがリモートライブまでに間に合うか、という事だ。
病院を出たミチルは、事故に遭わないよう大げさに腕を組んでくれるジュナと一緒に、夕暮れの中を歩いた。耳の事は不安だが、友情への感謝で涙が出て来た。暗闇で泣き顔を見られずに済んだのは幸いだった。