カタリーナ・キッス
まだ、出会って2ヶ月も経ってはいない。千々石アンジェリーカは夕暮れの中の帰途、サックスを教わっている大原ミチルという先輩の事を考えていた。
明朗快活でいながら、掴みどころがない。凛としているようでいて、妙に抜けている。そして、サックスを吹いている時の、何とも言えない無敵感。テクニックだとかを超えた、有無を言わせない存在感がある。
ミチル先輩の師匠、佐々木ユメ先輩のサックスも上手い。吹奏楽部のヒロイン、市橋菜緒先輩と甲乙つけ難いものがある。だが、ミチル先輩のサックスには、それとは違う何かがある。あの人は、そしてザ・ライトイヤーズはここから、どこへ向かうのか。自分は、それを間近で見ているのかも知れないと、夕暮れの空に見え始めた星を眺めてアンジェリーカは思った。
「姉ちゃん、またヴァイオリニスト目指すのか」
自宅にまでヴァイオリンを持ち帰って練習しているミチルに、夕飯の食卓で弟のハルトが訊ねた。
「まあ、成り行きで練習を再開する事になった。ヴァイオリン入れる曲もあるかも知れないし。あんたの好きなブルーハーツの後期のアルバムにも、そういうナンバーあるでしょ」
「"DUG OUT"とか、あのへんのアルバム?」
自分が生まれる前のアルバムタイトルが即座に出て来るあたり、こいつも結局私の弟だな、とミチルは思う。弟が好きなナンバーは"月の爆撃機"とか"夢"、"1000のバイオリン"あたりだそうだ。もちろん、初期の定番ナンバーもバンドでコピーしている。
「ヴァイオリンはやっぱり、感覚が他の楽器と違う。ノンフレットだからね。ベースでもノンフレットはひと味違うでしょ」
「弾いた事ねーからわかんねえ」
最近、食卓で弟との音楽談義が増えたのは、ミチルにとって楽しかった。
「よく音程合わせられるな」
「最初は絶対ムリだと思った。慣れって凄いわね」
部屋に戻ったミチルは、サブスクからジャズ・ヴァイオリニストの大御所中の大御所、神と言っても差し支えない、ジャン=リュック・ポンティの曲を再生してみる。久しぶりに聴くが、ヴァイオリニストという以前に、楽曲のコンポーザーとしても偉大な人物だ。
その夢幻的な調べは、ミチルには今更のショックだった。ふだん演奏している、アップテンポな曲とは全く異なる。バラードとも異なる、といってスムースジャズでもない、流れるような曲調。ミチルは再生を止めるとパソコンの録音ソフトを立ち上げ、メロディーラインを真似てみた。
ふだん、サックスで鳴らしている感覚とは違う。楽器が変われば、作曲の感覚も変わるのだ。
試みに、刻むようなリズミカルな演奏を試してみる。もはや伝説のグループ、ミチルが生まれるはるか以前に解散したアコースティック楽器のインストバンド「G-クレフ」のような、ちょっと前衛的な香りもするヴァイオリンだ。
「これは違うな」
自分の演奏に、ミチルは首を傾げた。自分達がやるべきではない音楽、というのも何となくわかる。
「もっとこう、ナチュラルでメロディアスな」
呼吸を整えて、低いオクターブからのメロディーを紡いでみる。劇的ではなく、穏やかなメロディー。そのとき、ミチルは姿勢を崩して弓がずれてしまった。
だが、そのずれた弓によって偶然に奏でられた、ほんの一瞬の転調が、メロディーに微かな不気味さ、あるいは神秘性を付与した。
「!」
ミチルはもう一度、そのメロディーを再現してみた。どこか大昔のプログレのような、SFとか、神秘主義の香りも感じさせる、ミステリアスでゾクゾクするメロディーライン。1分半ほどのメロディーに、ミチルは"Life is miracle"という仮タイトルをつけた。のちに正式タイトルになる事を、この時のミチルは知らない。
そのあとも何曲か、ミチルはヴァイオリンでメロディーを録音しておいたが、これだと思えるのは最初の1曲だけだった。
翌朝、ミチルは部室を早くに開け、ゆうべ自宅で演奏したメロディーを、ヴァイオリンとサックスの両方で鳴らしてみた。だが、この曲に関してはヴァイオリンの方がいい。
「…マヤに訊いてみるか」
そう思った瞬間ドアが開いて、そのマヤが入ってきたので、ミチルは心臓が止まるかと思った。
「うわあ!」
「わあ!なに!?」
マヤもまた、ヴァイオリンを手にして突然驚いたミチルに対して、驚きの表情を見せる。
「…おはよう」
「何やってんの、あんた。朝も早よからヴァイオリン構えて」
「うん、ゆうべヴァイオリンで作曲してみたの」
「へえ」
特に気に留める様子もなく、マヤはいつも通りキーボードの椅子に座って、授業で使う教材を確認した。だが、ミチルが奏でたメロディーに、マヤは突然振り向いた。
「ちょっと、もういっぺん弾いてみて」
「うん」
ミチルは、繰り返し演奏していい加減覚えたメロディーを、ひととおり演奏して聴かせた。マヤは腕を組んで、真剣な表情でそれを聴き終え、「うん」と頷いた。
「それ、どうやって思い付いたの」
「最初は、なんか適当にメジャーなキーから、当たり障りのないメロディーを弾いてたんだけど。たまたま姿勢を崩して、弓がずれたのね。それで」
「一瞬だけ、部分転調したと」
「そういうこと。それがなんだか、昔のプログレみたいでいいかなって」
マヤは、そこで小さく吹き出した。
「あんたらしいね。でも、これは面白い」
「録音データ、あるけど」
「ちょっと私に貸して、それ」
「うん。"Life is miracle"ってファイル」
マヤは、ミチルから仮メロディーの入ったUSBメモリを受け取ると、それを部室のノートPCにコピーした。もう何度もやり取りしているメモリなので、フォルダーの場所も熟知している。
「あんた自分で気付いてないかも知れないけど、そのメロディー、転拍子が入ってるね」
「転拍子!?どこに」
「はあー」
呆れたようにマヤはおでこに手を当てる。保存したばかりのメロディーを、ノートパソコンで再生しながら、指でリズムを取った。
「最初は普通の4/4拍子。タンタンタタタン、タンタンタタタン。でも、ここ。タタタ、タタタ、って3/4拍子になって、また4/4拍子に戻ってる。ええとね、例えばこの曲知ってるかな」
マヤは、サブスクからひとつの楽曲をサーチして再生してみせた。いかにもプログレっぽい、シンセかアコースティックギターのイントロから、やや癖のあるリズムのギターソロ。そこから、4/4拍子と3/4拍子が入れ替わる。THE ALFEEの1988年のアルバム"D.N.A communication"に収録された、4部構成で9分近くある大作"DNA Odyssey"だ。
「あー、なんか前に聴いた事あるかも。転拍子使いまくってるね。どうやって作るの、こんな曲」
「それに近い曲を、あなたは無意識に弾いてしまったの。もちろん構成は初歩的なものだけど、あなたのメロディーを元にして構成すれば、今までとは違う大作が作れるかもね」
「編曲なんてあたしには無理だよ。マヤに任せる」
「そこもちょっと、レベルアップしてほしい所だけどなあ。まあ仕方ない、さっき私に預けてって言ったばかりだもんね」
ミチル作曲、マヤ編曲。今の所は、このスタイルが定番だ。音楽理論を独学でも学んでいるのが、マヤだけだからである。しかしミチルも確かに、それだけでいいのだろうか、と思う事はあった。音楽理論を学ぶと学ばないとでは、作れる曲とそうでない曲があるのではないか。
そんな事を思っていると、他のメンバーがゾロゾロと集まってきた。キリカにアオイ、ジュナにマーコ。そのあと、ギターケースを背負った薫が入ってきた。
「おっ、話してたアコギか」
ジュナが興味深そうに、薫がケースを開けるのを見た。出てきたのは、マーティンのスプルーストップのアコースティックギターだった。どことなく、年季が入っているように見える。
「祖父が昔買って、一時期趣味で弾いてたけど、いつからか放置されてたギターだよ。使わないから持って行っていい、ってさ」
「本業はクラシックギタリストだもんな」
「まあ保存状態は良かったから、レストアにそんな時間はかからなかった。弾いてみる?」
薫が差し出したマーティンを受け取ると、ジュナは適当なコードを鳴らしてみた。トップ材の明るい色の印象もあってか、意外に抜けの良いシャープな音が響く。部室の小さなエレアコよりボディは断然大きいので、アコギらしい野太い低音も聴かせてくれた。
「おー、いいじゃん。くっきりしてるタイプだから、他の音にも負けないかもな」
「ピックアップついてるからね。即戦力だと思うよ」
もはや薫の手からジュナに手渡されてしまったようにも見えるが、そもそも薫は部活の共用ギターとして持って来たのだ。曲によってはアコースティックのサウンドが必要になる。今までのエレアコより、音の幅は広がるはずだ。
「大きいからステージでは使いにくいかもね。ライブではエレアコ、レコーディングではこっち、みたいに使い分けてもいいと思う」
「ふーん。なるほど」
言いながら、ジュナはアコースティック・アルケミーの1989年のアルバムから”Catalina Kiss”のメロディーを弾いてみせた。爽やかな空を思わせる軽やかなサウンドが部室に響く。今朝は教室に直行したメンバーが多いのか、人数が少なめで音がよく反響した。
ジュナの演奏につい全員が聴き入っていたところへ、バンとドアが開いて、クレハが飛び込んできた。
「おっ、どうしたクレハ。珍しく血相変えて」
「どうした、じゃないわ」
いつも落ち着いているクレハとは思えないほど、焦りの色が見えた。手にはスマホが握られている。ふだん、歩きスマホは絶対しないというのに。
「どうしたの」
何かあったに違いない、と思ったミチルは、みんなにもクレハの話を聞くよう促した。クレハは、ゆるふわヘアーが乱れたまま、スマホの画面を全員に向ける。それは、サブスクのザ・ライトイヤーズのトップページだった。
「なんだよ」
「よく見て」
クレハは、スマホ画面をジュナの眼前に突き付けた。いつぞや、水平線をバックに撮影したメンバーのヘッダー写真があり、ゴシック体で「ザ・ライトイヤーズ」と表示されている。だが、ジュナはすぐにクレハの言っている事を理解した。
「えっ!?」
ジュナは、アーティスト名の下に表示されている、月間リスナー数を見て驚愕した。見間違いだろうか。そこには確かにこう記されている。
【30,233人の月間リスナー】
「さんまん!?」
ジュナは驚いてスマホをつかみ取ってしまった。ミチルが横からのぞき込む。
「さんまん!?」
ジュナと全く同じ声を出す。一体何がだ、とマヤとマーコものぞき込んで、まったく同じ反応を見せた。
「月間リスナー数、3万!?」
月間リスナー数とは、重複再生を除いた”楽曲を再生した人数”の数字だ。つい先日は、全世界で5千にも満たなかった。それが、1週間もしないうちに6倍以上になっている。登録している楽曲はたった5曲なので、単純計算で1曲あたり、平均6千再生だ。しかも、10月初日に公開されて、今はまだ上旬である。
「どっ、どういうこと!?」
「どうもこうもないわ。数字はウソをつかない。私達に、十日足らずで3万人のリスナーが訪れたということよ」
クレハは努めて冷静になろうとしたが、さすがの彼女も声が上ずっている。アメリカのインディーレーベルから発表した音源に、あっという間にそれだけのリスナーが現れたのだ。
「えっと…発表から十日くらいで3万ってのは、多いのか」
「多いわよ!少なくとも、新人の、しかも日本の高校生の、しかもフュージョンバンドよ!?さっきオーイシマサヨシのトップページを見たら、月間リスナー数31万。オーイシマサヨシの10分の1!」
クレハの勢いにジュナが仰け反る。年に何回見られるかわからない、貴重な光景である。一体何が起きているのか。いや、そう難しく考える事ではないのはわかっている。要するにリスナーが増えたのだ。単純にそれだけの事である。だが、あまりにも唐突で、受け止める準備ができていなかった。1年生たちは、ささやかに拍手を送ってくれた。
「おめでとうございます」
「…凄いですね」
キリカもアオイも、呆然としている。彼女たちもさすがに驚きを隠せないようだ。そう思っていると、ミチルのスマホにLINEが入った。見ると、ユメ先輩からだ。
『ミチル!あんたたちの音源のページ見ろ!月間リスナー数!』
どうやら先輩達は、常にチェックしてくれていたらしい。まずその事実が嬉しかったが、すでにこの情報は知られているようだ。
「…まずみんな、落ち着いて」
ミチルは深呼吸して、両手で全員に落ち着くように促した。そういう自分自身が動悸を抑えられない。
「窓の外を見て。空は変わらず青い。世の中は何も変わっていない。だから落ち着こう」
「落ち着いてる奴が言うセリフじゃねーだろ」
ジュナはミチルの胸に手を当ててきた。心臓のバクバクが、ジュナの腕に伝わっていくのが自分でわかる。
「そうだ、みんな落ち着け。あたし達はインディーレーベルから楽曲を発表した。つまり、反応がない事も、そして反応がある事も、どっちも受け入れてたって事だ。違うか」
ジュナの堂々とした態度に、全員が神妙な顔で頷いた。
「だからこんなのは、想定内って事だ。起こり得た事だ。驚くのは仕方ないし、あたしもそうだけど、こうなっちまったものは仕方ない。そうだろ、ミチル」
ジュナはミチルに振ってきた。そう、リーダーのミチルが慌てふためいてどうする、と無言で言っているのだ。ミチルは、相棒の度量に敬服しつつ、ようやく覚悟を決めてジュナの手をガッシリと握った。
「そうだね。リーダーの私が堂々としてないと。これは悪い事じゃない、いい事なんだ。みんな、胸を張ろう。それに、たまたま一過性の出来事かも知れない。来週には、また数字が全然動かなくなってるかも知れないんだし」
ミチルは、ジュナがいてくれた事に心から感謝した。相棒がいるお陰で、大きなニュースが舞い込んで来ても、自分を見失わずにいられる。こいつとなら、どこにでも行ける。そんな風にさえ感じられた。
「みんな、とにかく当たり前の学校生活を送ろう。来週は中間考査だ。今日から部活はいったんお休みして、みんな勉強に集中すること。いいわね。ここにいない1年生にもそう伝えておいて」
今度こそ落ち着いてリーダーらしく振舞うミチルに、全員が頷いた。だが、このときのミチルの予測が不完全であった事は、彼女の責任ではない。事態は少しずつ、全員の予想を超えて、確実に変わり始めていた。