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Light Years  作者: 塚原春海
残光
82/187

主よ、人の望みの喜びよ

 中間考査の時期の少し前、フュージョン部は夏の喧騒が嘘のように、穏やかな日々を送っていた。1年生のポジションもようやく、以下のように固まる。


千々石アンジェリーカ:サックス、バンドリーダー

戸田リアナ:ギター

長嶺キリカ:キーボード、プログラミング

獅子王サトル:ベース、ギター

鈴木アオイ:ドラムス、パーカッション


村治薫:レコーディング、音響、ギター(サポート)


 入部して早々にバンドリーダーを任されたアンジェリーカは「ムリです!」と強硬に辞退しようとしたが、「君は消去法で決められた。春風亭昇太が笑点の司会を任されたのと同じ」という薫の謎の説得のすえ、しぶしぶ(ここ重要)引き受けたのだった。ちなみに、学年バンドリーダーはそのまま次期部長になるのがほとんど伝統であり、来年の今頃は赤毛の部長が誕生している筈である。


 一方で3年生はというと、佐々木ユメは市橋菜緒の機嫌が妙に良いのが気になって、昼休みに食堂でつい訊ねてしまった。

「なんかあった?」

「え?」

「いや、最近妙に表情が明るいから」

「失礼ね、普段は暗いみたいで」

 そういう返しが、もう普段の菜緒ではない。

「ひょっとしたらだけどね」

 菜緒は、もう言ってもいいだろう、といった表情で紙パックのお茶を飲んで言った。

「音大に行けるかも知れない」

「ほんとに!?」

 その報せは、ユメにとっても喜ばしいものだった。音大に進みたい、という気持ちは何度も聞いている。だが菜緒は実家の意向もあって、理系の大学に進み、そのまま研究者方面のコースから実家の系列企業に入社、というレールが敷かれている風な事を、言っていたのではなかったか。

「主に2つの要因があるんだけど、最近うちの会社の社長が、私の大叔父に交代したのは知ってるわね」

「ええ。ニュースにも出てたし」

「今まで、うちは世襲のカラーが強かったんだけど、大叔父はそういうカラーを廃していかないと、時代について行けない、という意見なの。血筋ではなく才覚と適正、そして個人の意志だ、っていう考え」

 なるほど、とユメは思った。菜緒が音楽の道に進みたがっているのは、周囲の人間なら知っている。だが、吹奏楽部で菜緒の音楽の道はひと区切りつく予定だった。

「大叔父がね。お前は恵まれているのだから、遠慮なくその境遇を活用して、やりたい事をやれ。ただし、その結果には自分で責任を持て、って。その覚悟があるのなら、音大を選択するのに反対はしないそうよ」

 大叔父、つまり現社長というのが、一族中でどういう権限を持っているのかは、ユメにはわからない。ただ、菜緒が望む道に進む事ができるのは、親友として喜ばしい事だった。

 もちろん、音大に進んだからと言って、音楽家になれる保証はない。中途半端なキャリアになって、将来が不安定になる可能性も大きいだろう。だから清水美弥子先生は高校の時点で、夢をすっぱり諦めたのだ。

「まだ決定したわけじゃないのよ。両親や、私の兄とも相談しなくてはならない。この時期になって、希望進路を変えるわけだから」

「それでも、だいぶ見えてきたのね」

「ええ…でも、以前はそのことで切羽詰まってたから、ミチルには迷惑をかけちゃったかしら」

 菜緒は音楽活動の思い出に、ミチルという逸材とともに部活動を送りたかった、と吐露している。

「ほんとはね、ユメ。あなたも吹奏楽部に誘いたかったのよ」

「知ってた」

「そう」

 菜緒は笑う。中学時代から吹奏楽を通じて交流はあったので、入学したらユメは吹奏楽部に入るものだと思っていたらしい。そこでまず、二人の間に軋みが入る。

 ユメはミチルの存在も、風の噂ぐらいにしか聞いていなかった。その少女がまさか、フュージョン部に飛び込んでくるとは考えもしなかった。そのため、結果的には菜緒との間でミチルの取り合いのような形になってしまい、フュージョン部が"獲得"したことで、二人に決定的な軋轢が生じたのだ。

「あなたとの学園生活にも、私の勝手でケチをつけてしまったわね。ごめんなさい、ユメ」

 菜緒は申し訳なさそうに視線を下げる。ユメは掌を向けて言った。

「おーっと、それ以上は言いっこなし。私はあんたと会えて良かったと思ってる。それで十分」

 そう言われた菜緒は、わずかに瞳を潤ませて微笑む。大人びているが、結局はまだ十代の少女である。

「ありがとう。それで、あなたは予定通りの大学に進むの?」

 菜緒は、親友が進路をどうするのかが気になって訊ねた。ユメは、少しだけ難しい表情を見せる。

「…たぶんね」

「そう」

 菜緒はそれ以上、自分からは訊かないことにした。ユメはこの学校から順当に、理系の大学に進むだろう。成績は優秀なので、それは問題ではない。問題は、彼女の音楽活動だ。

「大学は、バンドメンバーみんなバラバラだからね。少なくとも、私とソウヘイ以外は県外に行く予定。今の段階ではね」

 つまり、彼女のバンドは卒業とともに事実上解散、ということだ。

「まだわからないけどね。案外みんな近くにいられるかも知れないし。バンド活動が、できなくなると決まったわけじゃないよ」

「…そうね」

「菜緒。私達の事は気にしなくていい。あなたは、あなたの道を進んで。私のせいで気を遣わせたら、その方が私は気が重いから」

「それ、ミチルにも言ったんでしょ」

 ユメは図星とばかりに微笑む。そういう性格だ。この少女と親友になれて本当に良かったと、菜緒は思う。

「将来なんてわかんないよ。ショータあたり、要領よさそうに思えて結構抜けてるから、気が付くとこの辺に帰ってきて、やる事ないからバンドやる、ってなるかも知れないし」

「ひどい言いようね」

 菜緒は笑う。そうだ、未来の事などわからない。後にこの時の会話を、二人は思い出す事になるのだが、それは何年も未来の事だった。

「それで、肝心のあの子達はどうなのよ」

 菜緒は、一番気になっている事を訊ねた。そう、ミチル達ザ・ライトイヤーズの現状である。文化祭以降、目立った動きがない。

「なんでも、コンペに出した音源が落ちたそうよ」

「…そう。残念ね」

「まあ、最終選考まで残ったから良しとする、ですって。目に見えて残念がってたけどね」

 ユメは笑う。ミチルは表情でウソがつけないタイプだ。

「清水先生から聞いてるわ。ミチル、ヴァイオリンの練習が捗ってるみたいね」

「へえ」

「たぶん、教わった先生が良くなかったんだろう、ですって。ミチルも案外、理屈で覚えるタイプみたい。本来ものすごく優秀な頭を持ってるけど、優秀な頭の使い方がわかってないんだとか」

「ひどい言われようだけど、なんとなくわかる」

 その感想も先輩としてはどうなのかと菜緒は思うが、わかる気もする。要するに自分の知性や能力の、コントロールが下手なのだろう。直情型でメンタルの管理も下手なのは、部員勧誘活動の際に過労で倒れた事からもわかる。

「1年生の子たちは、ようやくまとまってきたそうよ。まだ演奏は硬いけど、じきにいいバンドになるだろう、って。問題はミチル達自身」

「なるほど」

「ここにきて、何となく道が見えなくなってるみたいね。今までは、明確な目標があったでしょ。部員獲得、市民音楽祭、ステファニーの前座に、文化祭。それが終わって、いわば野原に放り出された状態なの。クルマはいつでも出られるけれど、どこに行くべきかわからない」

 さすがに先輩、よく見えている。ずっと見守って来たからこそ、それだけ正確に分析できるのだろう。

「それで、何か道を示してやる事はしないの?」

「道はあの子たち自身で探さないと。探すための手助けはできるかも知れないけどね」


 大原ミチルは、本日の清水美弥子によるヴァイオリン講習を終えた所だった。今回の課題曲はバッハ”主よ、人の望みの喜びよ”である。

「うん、良くなった。音楽に興味ない人なら、普通に上手いって言ってくれるでしょうね」

「その評価もどうなんですか」

 それじゃ耳が肥えた人の鑑賞にはまだ堪えないという事か、とミチルは憮然としつつ、ヴァイオリンをケースに仕舞い始めた。何度も練習しているうちに、だんだん愛着が湧いてきたのが困り物である。清水先生は眼鏡を外して、両側にたらした髪を整える。素顔を見ると、なおさら42歳とは思えない、憎たらしいほどの美人だ。32歳でも通るのではないか。

「少しずつ、良くなってはきてる。私は無駄なお世辞は言わないわよ」

 それもよく知っている。理工科という学科を体現したような先生である。

「ある意味では、もう教える事はないんだけどね。その先は、あなた自身の努力で、あなたの音色を見付けなくてはならないから」

「…私の音色、ですか」

「市橋さんが言ってたわ。”ミチルのサックスには独特の輝きがある”って。ヴァイオリンで同じ音を追及しろとは言えないけど、そうね。サックスの音をどういう風に磨いてきたか、思い出してみるといいんじゃないかしら」

 サックスの音。ミチルは、最初はとにかくキャンディ・ダルファーの音を真似たくて仕方なかった。何と言うか、一歩はみ出すと下品な音になりそうな、ギリギリのレベルのファンク・ジャズサウンド。そのあとジャズの流れからフュージョン全般に興味が移って、今では40代50代のおじさんも敵わないほどの知識を有してしまった。

 キャンディの次に魅力を覚えたのは、本田雅人だ。何をどうすれば、こんなテクニカルな演奏ができるのか。中学の吹奏楽部で本田雅人ふうのアドリブをやったら、先生が演奏を止めさせてめちゃくちゃ怒ってきた。そんなの吹奏楽で出す音じゃない、やりたきゃ将来自分でバンドを組んでやれ。できるものならな。何と答えたか覚えていないが、自分の性格からして「じゃあやってやります」ぐらい言ったと思う。思えば、よく最後まで在籍していたものである。

「私のヴァイオリンの音色って、先生はどう感じますか」

「そうね。まだ、音色を論ずるまでの領域に到達していないけれど」

 だいぶバッサリ切り捨てられた。

「けど、ひょっとしたら、変な癖がないという事なのかも知れない。癖がない、ナチュラルな演奏というのも、貴重な個性よ。無個性であるということは、逆に言えば何にでも対応できる、という事でもある。特にあなたのようなジャンルでは、そうじゃない?」

「…なるほど」

「フュージョンは多彩な楽曲を要求される。ましてあなた達は、明らかにT-SQUARE直系のスタイルでしょう。バラードからポップ、ロック、時にはプログレみたいな演奏もある。ヴァイオリンの音が欲しいとなった時に、たとえデモ音源であっても、生のストリングスを弾けるのは武器になるわ。外部の演奏者を招く時、伝えやすいでしょ」

 まるで音楽教師のようなアドバイスだ。本当に、音楽の道に進まなかったのが惜しく思える。もっともこの先、そういう展開がないとは断言できないが。

「ま、プロになってギャラの安いヴァイオリニストが必要になったら、声をかけてちょうだい。格安で引き受けるわよ」

 最初の頃からはイメージしにくいジョークを言って、先生は部屋を閉じる支度を始めた。ミチルは荷物をまとめて立ち上がる。

「今日も、ありがとうございました」

「どういたしまして。そろそろ中間考査の時期だから、いったんお休みしましょう。学校の勉強もきちんとやるのよ」

「はい。それじゃ、失礼します」

 ミチルはお辞儀をして、ヴァイオリンのケースを下げて部屋を出た。人の気配がしない廊下、階段を抜けて、昇降口に向かう。まだ部室に、みんないるだろうか。


 部室のドアを開けると、予想外の人物がサックスを吹いていた。癖のあるショートヘアの、ミチルの師匠佐々木ユメ先輩である。曲は”太陽にほえろ/メインテーマ”である。だいぶ真剣な顔で、高校1年女子にして刑事ドラマ・時代劇マニアのアンジェリーカが聴いている。ミチルの代わりにサックスの指南役を務めてくれていたらしい。

 相変わらずの見事な演奏が終わったところで、ミチルは拍手をして声をかけた。

「お久しぶりです、先輩」

「あら、愛しの後輩が会いに来てくれたのね」

「珍しいですね、受験勉強飽きたんですか」

 直弟子ならではの皮肉を飛ばすと、ユメ先輩は笑って答えた。

「まったくその通りよ。ほんとに、やりたい事も満足にできやしない」

「ご苦労さまです」

「あんた達も1年後の今頃、同じ目に遭ってんだからね!」

 ユメ先輩は、2年生全員をぐるりと見渡して言った。知らん顔をする者、笑う者、各人各様である。

「いやね、ミチルの直弟子と正面向いて話した事なかったからさ。どう、アンジェ。やっぱりミチルよりあたしの方が上手いでしょ」

「えっ、あっ、いえ、その」

 どうしてこう先輩というのは、答えにくい質問でいじるのが好きなのだろう。困っているアンジェリーカの前に割って入ると、ミチルは腰に手を当てて抗議した。

「答えに困る質問しないでください」

「あーっ、さっそく優しい先輩面してる!柄にもない!」

「柄にもないってどーいう意味ですか!」

 2年生たちは「また始まったよ」という顔で、無視して譜面を見たり、チューニングを直したりしている。アンジェリーカは初めて見る二人のやり取りに呆気に取られていた。ミチルは咳払いして、ユメとアンジェリーカを両サイドに見る。

「それで、ユメ先輩から見てどうでした。アンジェの演奏」

「うん、悪くない。まだ硬いのは確かだけど、スジはいいよ。あとは、どんな音色を身に付けるかだね」

 その意見に、ミチルはギクリとした。それはついさっき、清水美弥子先生からミチルが言われた言葉だったからだ。

「でも、昔の刑事ドラマとか好きなんだな、っていうのは伝わってくるよ。あの独特の、泥臭い情念みたいなのを出そうとしてるでしょ」

 そう言われて、アンジェリーカは頷いた。

「はい。何て言うか、こう…ハードボイルドな感じ。地べたを這いずり回って捜査する、男臭さっていうか」

「うんうん。そういう、自分が表現したいものを、どうやったら再現できるのか、そこを考えてごらん。去年ミチルがやってたみたいにね」

 そう言って、ユメ先輩はミチルの肩をポンと叩いた。

「あんたは面倒だったわね。キャンディの音が出せない、出せない、って念仏みたいに唸ってるんだから。ヤバイ奴が入部してきた、ってソウヘイなんか怯えてたんだよ、今だから言うけど」

「よく覚えときます」

 ソウヘイ先輩だな。次に会った時追及してやる。

「だからまあ、なんか見えなくなっちゃったときは、自分が何を目指してたか思い出すといいよ。大野克夫の曲の雰囲気を出したいとか、何でもいい。やりたい事が何だったのか思い出せば、自然に自分の音も見つかると思う。音が見つかれば、次にそれで何ができるかも見えてくる。ミチル達だって、ひたすら色んなアーティストのコピーしまくって、今こうして自分達の音に辿り着いたでしょ」

 それはアンジェリーカに向けて語られた言葉だった筈だが、聴いていたミチル以下、2年生全員がギクリと背筋を伸ばした。彼女ら自身が、なんとなく方向が見えなくなっている最中だからである。ミチルは、ユメ先輩がわざわざ来てくれた理由を悟った。アンジェリーカに会うというのは、目的と口実を兼ねての事だ。

 ミチル達が迷っている事を、ユメ先輩達は気付いていた。だから、こうしてさり気なくアドバイスをするために、受験勉強をサボって(そのための口実だったかも知れないが)会いに来てくれたのだ。

 ミチルは涙が出そうだったが、なんとかこらえてヴァイオリンを取り出した。

「おっ、弾く気満々じゃん。なんかやってみせてよ」

「上手かったら、田中商店の鯛焼きおごって下さい」

「いいですとも。はい、どうぞ」

 ユメ先輩の合図で、ミチルはさっき弾いて来たばかりの”主よ、人の望みの喜びよ”を再び弾いてみせた。メンバーに驚きの表情が浮かぶ。どうやら、本当に上達しているらしい。1年生も、そしてユメ先輩も聴き入ってくれている。

 ミチルは、ようやくヴァイオリンで弾く事の楽しさが、わかってきたような気がした。そしてその時、ミチルは自分自身が奏でる音で、一人のアーティストを思い出した。そもそも、サックス奏者だったミチルが、ヴァイオリンの音に興味を広げたきっかけになったミュージシャンだ。


 そのヴァイオリニストの名は、ジャン=リュック・ポンティ。


 ここから、ミチルたちザ・ライトイヤーズの音楽性は、一気に広がってゆく。そして、それに呼応するかのように、彼女たちはやがて自分達の道を見出して行く事になるのだった。

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