Miss You In New York
後日、ひととおり期末考査の結果が出たフュージョン部の面々は、マヤとクレハ以外は何か悟ったような表情で部室に集まった。ちなみにミチルとマヤは情報工学科、ジュナとマーコは電子工学科、クレハだけは都市環境科という学科にそれぞれ所属しており、普通科目以外はそれぞれ試験科目も異なる。
かいつまんで言うと、ミチルは全体としてはまあ優良点だったが、プログラミング系の科目の成績が芳しくなかった。ジュナとマーコも表情が冴えないので、それぞれ同じような結果だったのだろう、と思い、ミチルは何も言わなかった。
マヤとクレハはもともと成績優秀であり、何となく考査の時期は二人との間に壁を感じてしまうミチルである。とりあえず、両親に申し訳が立たない、というほどの成績ではない事で満足するべきだろう。
兎にも角にも夏休み前のラスボス、期末考査との戦闘は、多少ダメージを受けつつも終わった。遅れてやって来た梅雨も去り、ようやくフュージョン部はかねてからの計画である、学園敷地内ストリートライブを決行したのだった。
結局、演奏できる場所はフュージョン部の部室前、花壇わきのアスファルトのスペース以外には見つからなかった。機材をセッティングしていると、通りかかる生徒達が物珍しそうに眺めている。難関はPAの設置だったが、これはクラスメイトの柔道部員とラグビー部員に田中商店の鯛焼きを手渡す条件でお願いした。体育館裏で取り引きする手筈になっている。
『えーこれからフュージョン部、季節外れの部員募集やりまーす!』
マイクを握ったミチルが叫ぶ。最初に反応したのは、部室の裏にある畑と田んぼのお爺ちゃん達である。そのあと、何だ何だと生徒達が集まってくる。
『ワン、ツー』
イントロのドラムスから入って、ベース、キーボードの爽やかな前奏が始まる。曲はT-SQUAREの一九九四年のアルバム「夏の惑星」から、一曲目の"夜明けのビーナス"。アルバムタイトルどおり、夏の訪れを予感させる、熱く爽快なナンバーだ。
この曲はアルトサックスではなく、ウインドシンセのAKAI・EWIを使う。フュージョンのメインパートは使い分ける楽器が多い。
この曲は、EWIとギターのハイスピードなソロがある。ジュナはテクニカルなソロが大の得意なので、水を得た魚のように、見事に直した青いアイバニーズを飼い慣らしていた。
集まってきた人達の反応を見る。最初は女子五人が演奏しているせいか男子中心だったが、次第に女子も集まってきた。それなりに反応は上々のようだ。
最初の曲を皮切りに、本田雅人のソロアルバムから2曲、続いてスパイロ・ジャイラ、アコースティック・アルケミーといったアーティストのナンバーを演奏した。
一度だけ、直ったはずのアイバニーズが突然沈黙して、ジュナが慌てて部室に駆け込んで愛機のレスポールを引っ張り出してきた以外は、さしたるトラブルも発生せず、そこそこ盛況といえた。
「おつかれ!」
機材を翌日もすぐ準備できるよう部室に押し込んで、五人は買い込んできたドリンクで乾杯した。特にEWIとサックスをずっと吹いていたミチルの喉には、スポーツドリンクが染み渡った。
「思ったより生徒、集まってたね」
ミチルの感想に全員が頷く。単なるストリートライブとしては、まあまあ成功と言っていいだろう。
だが、これは部員勧誘のためのパフォーマンスである。演奏だけが上手く行っても、それほど意味はない。せいぜい夏休みの音楽祭のリハーサルになるくらいだ。
そうそう簡単に事が運ぶとは誰も思ってはいなかったが、その日に入部希望を表明する生徒は現れなかった。
翌日はカシオペアやMALTA、ネイティブ・サンといった、日本のフュージョン・ブーム時代のナンバーを中心に演奏した。当然、自分たちが生まれるよりはるか昔の曲である。サックスが昨日ほど頑張らなくて済む選曲は、メンバーの気遣いであった。
その当時を知っているらしい世代の先生が何人か見物に来ていたのは嬉しかったが、今の高校生が演奏すると「現代の音」になってしまうらしい。「上手いけどちょっと雰囲気が違うな」と話しているのが聴こえて、ミチルは少しだけ憮然とした。どうやったって、こっちは現代の高校生なのだ。
二日目の演奏は、前日より少しだけ人だかりが少なかった。
三日目になると、みんながカレンダーを気にし始めたのがわかった。もう、夏休みまで3週間をとうに切っている。休日を入れると、実質的に活動できるのは正味二週間もなさそうだった。その間に、一年生五人を集めなくてはならないのだ。昨日まではそれなりにあった意気込みが、後退しかけていた。
そんな心理が演奏に影響したのかどうかわからないが、三日目のストリートライブはさらに人が減ってしまう。客が少ないライブハウスで演奏した時のことをミチルは思い出した。いるのは遠巻きに眺める数名の生徒だけである。何やら知った顔が奥にいたような気もしたが、ミチルはとにかく演奏に集中した。
どうにか、本田雅人ナンバーを中心にしてクルセイダーズ、イエロージャケッツなどのメジャーなナンバーを演奏し終えるも、オーディエンスがいないのはミュージシャンにとって精神的に堪える。
演奏を終え、まばらな聴衆が一人、また一人と姿を消す中、重い気持ちで機材の片付けに取り掛かろうとした、その時だった。ケーブル類を取り外しているミチル達に、二つの拍手の音が聴こえてきた。何だろうと思って振り向くと、そこにいたのは二人の女生徒だった。校章の色で同じ2年生とわかる。ミチルは何となく見覚えがあった。二人とも、どこか憐れむような笑みを浮かべている。
「お上手、お上手。さすが大原さん」
左の、ポニーテールの方が嫌味たらしく言った。瞬間的にミチルの眉間にシワが寄る。
「お褒めいただいて、どうも」
「あら、素っ気ないこと。本心なのに」
その顔を見てミチルは思い出した。吹奏楽部のアルトサックス担当の二人だ。その態度からして、感想を言いに来たとは思えない。ミチルの隣でギターのシールドを巻いていたジュナも、険しい顔でミチルの斜め後ろに立つ。
「何かご用?申し訳ないけど、片付けをしなくてはならないの」
「片付け? ああ、部活がなくなるんですものね」
右の、ロングヘアの方がそう言った瞬間、ミチルの目に怒気が走った。二人は一瞬びくりとしたが、すぐに表情を元に戻した。
「そんな嫌味を言うために、わざわざA棟からご足労いただいて恐縮だわ。7月のコンクール、頑張ってね」
「あら、応援してくださるのね。嬉しいわ。あなたの分まで精一杯吹いてくるわね。あなたの分まで」
それは、ミチルがもし吹奏楽部に入部していれば、彼女たちのポジションに納まっていた事を指しての皮肉だった。
「せっかく1年の春に、市橋先輩が直々にスカウトしてくれたのに、蹴るなんて勿体ないこと」
「そうまでしてしがみついた部活も、風前の灯ってわけね」
「仕方ないわよ。フュージョンなんて、ジャズにもロックにもなりきれない、合鴨みたいな音楽もどき。スーパーかホームセンターのBGMがいいところよ。好んでやる方が珍しいわ」
二人は声を上げて笑う。ジュナが、拳をわなわなと震わせて前に踏み出した。
「てめえら…」
今にも殴りかかろうとするジュナを、ミチルは腕を出して無言で制した。ジュナに横目で「やめろ」と合図する。ジュナは、爆発寸前の怒りを押し止めるので精一杯だった。
ミチルは、一歩踏み出して二人の目の前に立った。
「ご用はそれだけかしら。私たちは音楽のことで忙しくて、他の誰かにケチをつけているヒマなんかないわ。ミュージシャンの仕事は演奏する事、作品を作る事、自分を表現する事、それだけではなくて?」
そのミチルの言葉に、吹奏楽部の二人は反応を見せた。ミチルは言外に、あなたたちは無駄な事に時間を費やしている似非演奏家だ、と言っているのだ。
「――なんですって」
「あら、何か気に障ったかしら」
「この……!」
ポニーテールが、手を上げようとしたその時、背後から凛とした声が響いた。
「やめなさい!」
その声は、吹奏楽部の二人よりもむしろミチルに緊張を強いるものだった。声の主は、吹奏楽部3年の市橋菜緒であった。
「あなた達の負けよ。彼女の言う通り。音楽家の仕事は、弁舌をもって他の表現者を貶める事ではないわ」
「せっ、先輩……」
「大原さんに謝罪なさい。今すぐ」
市橋菜緒は、鋭く低い声でそう告げた。二人はしぶしぶ、ミチルに向かって頭を下げる。
「ごめんなさい」
「失礼な事を言いました」
まだ頭が高い、と言いかけて、菜緒は言葉を飲み込んだ。
「行きなさい」
冷たく吐き捨てるように、菜緒は顎で二人に指示した。二人は菜緒に叱責を受けた焦りと、ミチルへの不快感を同時に表情に出しながら、そそくさとその場を走り去った。市橋菜緒は、深々と頭を下げる。
「部員が、たいへん失礼な事を申しました。吹奏楽部を代表して、フュージョン部に心より謝罪します。申し訳ありません」
それは、まったくもって公明正大な態度だった。南条科学技術高等学校の吹奏楽部はコンクール上位の常連で、名門のひとつに数えられている。その名に泥を塗るような行為を、菜緒は上級生として看過することはできなかった。ジュナ達はそれに感銘を受けて、すでに先刻の事は水に流しかけていたが、約一名、菜緒に対して緊張を解けずにいる者がいた。ミチルである。
「大原さん、演奏を聴かせていただいたわ。以前より、さらに磨きがかかってきたわね」
菜緒の、裏のない真実の讃辞が、ミチルには堪えた。そして菜緒もまた、ミチルができれば言って欲しくなかった一言を、言わずにはおれないのだった。
「本当に。あの時あなたが私のスカウトに墜とされていれば、今ごろあなたと一緒に、学園生活最後のコンクールに向けて練習に励んでいたものを」
墜とされていれば。すごい表現だ、と聞いていたミチル以外のメンバーは思った。菜緒は、大原ミチルという演奏者を、どうしても自分の手元に置きたかったのだろう。それが叶わなかった時の気持ちが、どれほどのものだったのか、ミチル自身には想像ができない。
「……ごめんなさい」
ミチルは、それ以外にこの場でどう言えばいいのかわからなかった。ミチルには何の罪も責任もない。ただ、部活動の選択の自由を行使したに過ぎない。道理でいえば、後輩に無理強いを断られて不満を表明する、菜緒の方にこそ問題があるのだが、ミチルは今、菜緒の気持ちがいくらかわかる立場に追い込まれている。それを察してかどうか、菜緒は意地悪く、また寂しそうに微笑んだ。
「謝る必要はないわ。けど、あの時私がどう思ったか、あなたにわかって? 私ね、プロポーズを断られるってこんな気持ちだろうか、と思ったのよ。あなたが、フュージョン部に奪われたあの時」
まるで、ナイフを何本も突き刺されるような気持ちでミチルは聞いていた。
「だから、一度くらいこうして、言いたい事を言ってやりたい、と思っていたの。あなたには申し訳ないけれど。せいせいしたわ。そうね、この機会を作ってくれたという意味では、さっきの無礼な後輩にも感謝しなくては」
なんという、言葉を飾る事を知らない女性だろうかと全員が思った。その、高校生としては鋭すぎる眼光とあいまって、強烈な印象を市橋菜緒という上級生は残したのだった。
「お互いに、わだかまりを残したまま卒業はしたくないものね。これで、あの春の事は決着ということで、どうかしら」
菜緒はそう言って手を差し出してきた。ミチルはその度量の大きさに感服しつつ、笑って手を握り返す。夏の熱気をわずかに含んだ風が、二人の間を吹き抜けた。
「わかりました。ありがとうございます」
「ええ。力を貸す事は難しいけれど、活動、頑張ってね」
そう言って、鮮やかに踵を返して立ち去ろうとした菜緒だったが、三歩ばかり歩いてふと、振り返った。
「大原さん。いえ、ミチル」
唐突にファーストネームを呼び捨てにしてきた菜緒は、また鋭い表情に戻って言った。
「あなた達の活動にどうこう言うつもりはない。それに正直なところ、私にとってフュージョン部も関係ない」
ことさら言うべき事だろうか、という話を始めた菜緒に、ジュナたちは怪訝そうな表情を向けた。なぜ、今さらそんな憎まれ口を言う必要があるのか。
「でもミチル、そんな音楽をやっているようでは、部員なんか一人も獲得できないわね」
何だ、その言い方は、とミチルも憮然とした。そんな音楽、とはなんだ。いまの和解は何だったのだ。菜緒はミチルの表情を無視して、話を続ける。
「あなたは勘違いをしている。フュージョンなんて音楽、そもそも存在しないのよ」
「……どういう意味ですか」
「音楽とは何なのか、今一度、自分で考えてみることね。それじゃ」
菜緒は、颯爽とアスファルトを鳴らして立ち去った。悔しいが、格好いい後ろ姿だと全員が思った。そしてミチルは、最後に菜緒がわざわざ、フュージョンという音楽を否定した事の意味を、理解しかねていたのだった。
菜緒が昇降口に差し掛かった時だった。自販機の陰から、拍手する音が聞こえた。
「優しいな、菜緒。尊敬するよ」
それは、吹奏楽部のバスクラリネット担当、樋口征司だった。菜緒は素っ気ない。
「嫌味なら聞き飽きたわ」
「とんでもない。感銘を受けているところだよ。てっきり、彼女に嫌味を言いに行ったのかとばかり思っていた」
そう言って、征司は冷えたブラックコーヒーの缶を差し出した。従兄は菜緒がブラック党である事を、よく知っていた。菜緒は面白くなさそうにそれを受け取り、プルタブを引く。
「自分の度量が許す範囲内で、励ますつもりでいたけど。嫌味を言う気持がいささかも無かった、と言えば嘘になるわね」
「君がそう言うのなら、たぶん本当だったんだろうな」
征司は笑う。菜緒は嘘や誤魔化しができない人間なのである。菜緒も、コーヒーをひと口飲んで苦笑した。
「あの、失礼な二年生二人を見ていて、私はこんな事をミチルに言おうとしてたのか、と愕然となった。そして、ミチルの決して相手を罵倒しない態度に感銘を受けたの。この子は、人の下で何かをするような器じゃない、私が手元に置こうと考えたのは間違いだった、とね」
「君にそこまで思わせるとは、大したもんじゃないか」
砂糖、ミルクたっぷりのカフェオレをぐびぐび飲む征司に、菜緒は細い目を向けた。征司はくすりと笑う。
「それで彼女、君が出したクイズの答えに辿り着けるかな」
「べつに私は、問題解決の処方箋を出したつもりはないわ」
飲み干したブラックコーヒーの缶を、きれいな手で菜緒はポイと放り投げる。見事な放物線を描いて、缶は缶入れに吸い込まれていった。
「仮に今つまづいたとしても、いずれ彼女は、ふさわしい場所に到達するでしょうね」