アンジェリーカ
ある意味で、夏休みのラストはステファニーのライブOAよりも大変だった、とフュージョン部2年生は口を揃える。片付ける案件が、大きく3つあったからだ。
ひとつは当然フュージョン部2年生自身、つまりザ・ライトイヤーズのレーベル契約問題である。クレハが、ニューヨークにオフィスがあるインディーレーベル、ワンダリングレコードとやり取りして、ひとまず音源を配信するという所までは話が決まった。だが、目的地が決まってもそこに到着するまでは道のりがあるように、契約に関しても決めなくてはならない事が山ほどある。
「格好悪い!」
ミチルは、出来る事は自分たちでやる、と言ったものの、早々に小鳥遊さんの助けを借りる事になってしまった自分に対して叫んだ。ちなみにここは、キーボードの金木犀マヤ宅である。各メンバーの家のちょうど中央くらいの距離にあり、駅にも近いため、ここをメンバーが集まる仮オフィスとして決めたのだった。
「まず、ミキシングはとりあえずあれでいいけど、ハイレゾマスターがあるならそれを送って欲しい、という話だったわ。この準備は薫くんにお願いするの?」
クレハが、急場にプリントしたチェックリストにボールペンを当ててミチルに確認する。
「うん。っていうか色々バタバタしてて、あいつ以外にマスター音源の保存場所がわからない」
「それはそれで問題だけど、今はまあいいわ。薫くんに準備してもらう、と」
「マスタリングは向こうでやってくれるの?」
「ええ。現状でも、学生がやったわりには完璧に近いマスタリングだって驚いていたけど。わずかにコンプをかけてたから、ハイレゾ配信用にコンプをかける前の音源が欲しい、って」
なるほど。レコーディング時は96kHz24bitだったが、提供したデモ音源はCD音質まで落とし、しかも多少音圧を稼ぐために、わずかだがピークを削っていた。現在は192kHzクラス、中にはDSDといった、CDとはデータの仕組みそのものが違う高品位フォーマットで配信しているサービスもあり、そういう場合は音圧よりも、音の素性を優先してピークを残す事もある。
「配信っていうのは、サブスクのストリーミングだけなの?」
「今の所はね。ある程度実績ができれば、音源そのものをダウンロード販売できるかも知れないけど…」
そこでクレハは言葉を途切れさせる。そう、駆け出しのインディーバンドにそこまでの事は期待できない。
「まずはストリーミング配信。そこで、音源の次に必要なのが、バンドのイメージ写真と、ミニアルバムのジャケット」
「あー、それもあったか」
今さら、という様子でミチルは髪をかき上げた。音源だけでリリースはできない。当然、ビジュアル素材も必要になる。
「マーコ、あんたそのへん考えてくれる?」
「あたしに全振りしないで」
腰に手を当てて、マーコは不服を表明した。
「この間、CD-R出す予定でざっくり決めたイメージあったじゃん。あの、宇宙に虹が延びていくやつ。あの路線でいいんじゃないの」
「あ。忘れてた」
ミチルは、スマホに保存してあったマーコのジャケット案の画像を示す。
「これを元にしてデザインを作るか」
「いいんじゃねーの。これに、あたし達の写真を合成してさ」
「できる?」
マーコに訊ねると、「やってみる」という返事である。
「メンバーの写真はまた別の話としてだ。さて、音源とビジュアルの次は」
「銀行口座。売り上げの振り込みに使うための」
「誰名義でやるの?」
すると、マヤが率先して挙手した。
「あたしがやる」
「おおー」
「クレハにはレーベルとのやり取りを任せっきりになるし、ミチル達におカネの管理は難しそう。となると、あたし以外にいない」
「なんだとう!」
ミチル、ジュナ、マーコの3人が立ち上がるものの、マヤのひと睨みですごすごと着席した。全くもって反論できない。
「売り上げって、どうなるんだ。あたしらの取り分は」
「心配しなくても、最初はそんなもの気にするほどの収益はないと思うわ。1再生1円未満だとかの世界だからね、サブスクは」
マヤは冷静に言ってのけた。そもそもテイラー・スウィフト級のトップアーティストが、サブスクの取り分の少なさに抗議しているような現状である。
「それでもインディーだから、メジャーよりはアーティストの取り分は多くなる可能性はあるけど。まあ、ギター弦の代金ぐらいになればマシでしょうね」
マヤはカラカラと笑うが、これがもし完全にプロなら死活問題である。そしてミチル達が将来的に、完全なプロにならない、という"保証"もない。
それ以外の楽曲の権利だとかに関しては、小鳥遊さんの指導のもとに、メンバー全員でのちのち勉強する、という事になった。現状、とりあえずワンダリングレコードは信頼していい、という話である。弁護士の資格持ちの人が言うのならそうなのだろう。
残る問題のひとつは、マスコミの取材への対応だ。これは個別のメディアには時間的に対応しきれないので、通信社一社のみ受ける事になった。収録は二学期の始業式のあと、学校で行う。たかが無名の女子高校生バンド、と自分たちで油断していた事をミチル達は後悔した。『なんなら俺が代わりに一人でインタビュー受けてやるか』と名乗り出たのは、例によって田宮ソウヘイ先輩である。俺が育てた、と何度も繰り返しそうだ。丁重にお断りした。
余談だが、ソウヘイ先輩に頼まれていたステファニーのサインは、ミチル達へのサインと別にフュージョン部あてにも書いてもらったので、部室で保管する予定である。ソウヘイ先輩個人のためにとはいかなかったが、先輩たちは世界のステファニー直筆のサインを目にして満足そうだった。
ここまではいいとして、ある意味最大の問題は、殺到しているという入部希望者だ。実はステファニーのライブ主催者側が折れて、ほんの数十秒だけ、ミチルたちのステージが各局のニュース等に流された。話題に火がつくには十分で、あっという間に日本中に「ザ・ライトイヤーズ」の名は知れ渡ってしまう。
それによって、それまでフュージョンなど興味も示さなかった生徒達が現れたわけだ。
「何人いるんだっけ」
マヤが、聞きたくなさそうに訊いてきた。
「きのう薫くんから連絡を受けた限りでは、11人」
「萩尾望都かよ!」
11人いる。いまの高校生の誰がわかるんだ。
「で、どうするおつもりですか、部長どの」
「うーん」
さんざん考えたすえ、ミチルは結局ユメ先輩に相談した。すると、返ってきたのはまさかという内容だった。
『え?あんた、うちに定員あったの知らないの?』
「定員!?」
『そう。各学年7人の、合計21人がフュージョン部の定員。まあ、今はオーディオ同好会と合併した状態だから、あんたの裁量で定員増やしてもいいけど。音響系の部員枠1人としても、1学年8人がいいとこじゃないの?人ばっかり溢れかえって、演奏もなにも出来なくなるよ』
「…なるほど」
定員数は議論の余地ありとして、参考にはなった。そういう所でスッと意見を出せるのが、たった1年だが年季の差だろうか。ユメ先輩は、電話を切る前に言ってくれた。
『ニュース見たよ。決まってたじゃない、なかなか。よくやったね』
誰に褒められるよりも、ミチルにとってそれは嬉しい一言だった。
相談した結果、とりあえず追加の新入部員は2人だけ、という事になった。それも、いま不足しているポジションの、できれば経験者。この時点で、サックス経験者が最初に名乗り出たという女子1人だけだったので、まだ会っていないが確定である。
「あとはドラムスだな」
ジュナの提案に、マーコが意見した。
「アオイもドラムは出来そうだよ。デジタルパーカッションで、リズムの基礎はできてるから」
「そうなると、後はなんだ。サトルの奴とリアナで、ギターは間に合うだろ。サトルはベース担当やってもいい、って言ってるし」
つまりキリカのキーボードを含めると、新入部員の加入で基本パートは揃う事になる。そこで、ミチルが指摘した。
「あの子達に決めさせればいいじゃない。あの子達のバンドになるんだし」
それはそうだ、と全員が頷いた。あれもこれも決めなくては、という強迫観念みたいなものに急き立てられていたが、1年生の事は1年生に決めさせるべきである。ただ、人数だけはサックスを入れてあと2人、と伝える事にした。
さんざん話し合ったあと、5人の女子高校生は、世の中は"決め事"で成り立っているんだな、という当たり前の事を認識させられた。テーブルに転がるボールペンのデザインひとつだって、たぶん長い会議のすえ決められているのだ。決める、というのがこんなに大変だとは思わなかった。
ひとまず今進められる事は見えてきたので、とりあえずその日は解散となり、翌日は部室でシモンズさんに送るためのデモ音源制作、ジャケット写真撮影を1年生に手伝ってもらう事になった。ついでに、予定を早めて例のサックス担当新入部員も呼んでもらう。早い話が、既成事実を作って定員数をひとつ埋めるのだ。
結局、夏休み中もフュージョン部の部室は通常営業である。さすがに9月近くなると、朝は少し気温が下がったのが部室のドアノブの冷え加減でわかる。
「さあ、いっちょ始めるかー」
まだ眠そうな目で、ジュナはいつものレスポールのチューニングを始めた。だが、ミチルとマヤは浮かない顔である。なぜかと言うと、まだアレンジが決まっていないからだ。
「この間の演奏は本当にただの即興だったからな」
いちおう、大雑把な譜面は起こしたマヤだが、何の面白みもない"ただのフュージョン"だ。メロディーは確かにいいが、それを活かすアレンジが出て来ない。ミチルも、サックスの手入れをしながら呟いた。
「TVドラマのテーマでしょ。やっぱ、インパクトが大事よね」
「作曲家の大島ミチルさんが、CM音楽は5秒が勝負、って言ってたしな」
5秒。その一瞬で聴き手を注目させる。難題だ。そこで、ドラムの調整をしていたマーコが突然笑い出した。
「あはははは」
「どうした。いよいよおかしくなったか」
ジュナが半分本気の顔でマーコを見る。
「おかしくもなるよ。今、どういう話してるかわかってる?イギリスのTVドラマのオープニング曲の、コンペに出す曲について話し合ってるんだよ。日本の女子高校生バンドが」
すると、クレハも彼女らしく上品に笑い出した。
「そうね。ちょっとあり得ないわ。採用されるかどうかは、わからないにしてもね」
「けど、あのおっさん乗り気だったぞ。やっぱ、ミチルが寝ぼけて思い付いたメロディーが良かったってことか」
すると、ミチルは憤慨して訂正した。
「寝起きだけど、寝ぼけてはいなかったわよ!失礼な!」
「わかんねーぞ。20年くらいしてベテランになったら、"寝起きのミチル"とか二つ名がついてるかもな」
「何よそれ!寝起きでないと作曲できないっていうの!?」
早速始まったミチルとジュナの漫才にメンバーが呆れ始めた頃、アスファルトを鳴らす足音がして、ドアが開いた。
「もう来てた」
「おっすっすー」
キリカとサトルが、いつもの調子で入ってきた。そのあとに眠そうな目で、薫とアオイが続く。最後にリアナと、そして新顔の女子が一人、アルトサックスのケースを下げて緊張しながら入ってきた。
「しっ、失礼します!」
ガチガチに緊張しているそのミディアムヘアの、ごく普通のシルエットの少女は、ドアからの逆光の中で深く頭を下げた。
「こっ、このたび入部希望で参りました、千々石アンジェリーカです」
そう名乗ったリアナより少し背が低い少女は、逆光では気付かなかった赤毛と白い肌、そして海の浅瀬のように透き通った蒼い瞳で、一瞬にしてメンバーに印象を残すことに成功した。掴みはオッケー、というやつだ。
「あの、ごめんなさい。お名前をきちんと聞き取れなかったんだけど」
「はい、千々石アンジェリーカ、と申します」
ちぢわアンジェリーカ。ナントカ遣欧使節団の方でしょうか。そのとき、マーコが「あー」と手を叩いた。
「思い出した。入学式のとき、ちょっと話題になったじゃない。ハーフの可愛い子が入学した、って」
「ああ、そういえば」
マヤも、数ヶ月前の記憶を辿る。確かにいた。ロシア人女性と日本人の父親のハーフで、赤毛の自毛証明書を提出させられたとかいう話が少し話題になっていたのだ。顔立ちもだいぶ西欧人寄りである。
「なるほど。それで、アルトサックスの演奏経験があるっていう話だったけど」
ミチルが、興味深そうに訊ねる。とにかく立ったまはまでは話もできないので、全員いつもの定位置に座り、アンジェリーカにはテストで1曲吹いてもらう事にした。
アンジェリーカが何を演奏するのか、全員が真剣に耳を傾けた。が、彼女の吹いたメロディーに、全員が面食らった。下手というわけではない。特別上手いわけでもないが、一応吹けている。それより、曲が彼女の外見とミスマッチなのだ。
「…渋い選曲ね」
マヤは、多少言葉を選んだ。その曲とは、日本人ならかなりの割合で聴いたことがあると思われる"はぐれ刑事純情派メインテーマ"である。トランペットの曲をアルトで吹いているので音色は違うが、きちんと吹けている。
「他には?」
「はい」
そう言って吹いてみせたのは、これも一定の年代以上、あるいは吹奏楽部経験者なら高確率で知っているかも知れない”太陽にほえろ”のテーマだった。続いて”必殺仕事人・殺しのテーマ”。どうも、選曲に一定の志向が見え隠れする。
3曲ばかり吹いたあと、アンジェリーカは恐る恐るミチルの顔色を見た。どうも、吹いている時との落差が大きい。ミチルが小さく拍手すると、みんながそれに続いた。
「うん、上手い。まだちょっと思い切れてない感じはあるけど、そつなく吹けてるね。ひょっとして、吹奏楽やってた?」
「はい、中学の時に…やってたんですが」
そこで、アンジェリーカは突然言葉を詰まらせた。何かまずい事を訊いただろうかと、ミチルはリアナを横目に見る。リアナは、言っていいのかどうか迷う様子を見せたあと、アンジェリーカと目線を合わせてから語り始めた。
「彼女、中学2年になった頃から、吹奏楽部内でひどいいじめに遭っていたそうなんです。一時は不登校になりかけたんですが、結局部活をやめたうえで、どうにか卒業したそうです」
すると、アンジェリーカ自身もぽつぽつと語り出した。
「マウスピースを捨てられたりとか、サックスの中にゴミを詰められたりとかしました。その記憶があって、高校に上がっても吹奏楽部に入る気は起きませんでした。顧問も見て見ぬふりです」
「ひでえ事しやがるな。そんな連中、レスポールでしばき倒してやる」
何かとレスポールを凶器にしたがる物騒なギタリストはさておき、ミチルは訊ねた。
「それが、どうして突然うちに入部を希望したの?」
「はい。私、ストリートライブの時も、音楽祭も、全部演奏を聴いてました。先輩たちも嫌がらせに遭いながら、ぜんぜん折れないで音楽を続けていて、すごいなと思って…ステファニー・カールソンのオープニングアクトまで実現してしまって、やろうと思えば何でもできるんだって、勇気をもらいました」
「そう…なるほど。それで、さっきの選曲はまた、どうしてあんな渋い曲を?」
「私、古い刑事ドラマとか時代劇が好きなんです。BSの再放送でチェックしています」
その返答にミチルとジュナは、クレハやマヤと同じ匂いを感じた。何と言うか、我が道をゆくタイプだ。古い時代劇、刑事ドラマ好きの女子高生。別にいても不思議ではないが。
「面白いわね。いいんじゃない?私は獲るべきだと思うわ」
ミチルが1年生の5人に意見を求めると、誰からも異論はないどころか、ウェルカムという雰囲気だった。
「いいんじゃないっすか。面白いっすよ」
「そうだね。やっぱり、サックスができる子がいないと、フュージョン部って感じはしないもの」
サトルとキリカに、リアナたち他の3人も頷いた。異議なし。
「決まりだね。えっと…千々石アンジェリーカさん。入部決定よ、よろしく。入部届は後からでいいわ」
ミチルが手を差し伸べると、アンジェリーカは心から嬉しそうにその手を握った。
「ありがとうございます!がんばります!」
「うん、まあそう気張らなくていいよ。今そんだけ吹けるなら。ただ、もうちょいスコーンと突き抜けるように吹いてもいいかな」
ミチルは自分のアルトサックスを取り出すと、同じ”はぐれ刑事純情派”を演奏してみせた。同じアルトサックスなのに、ミチルが吹くと力と輝きが違う。ミチルも、久々にコピー演奏をするのは楽しかった。続けて”太陽にほえろ”も吹いたあと、大野克夫つながりで”名探偵コナン”も吹いてみる。演奏が終わると、アンジェリーカを含め全員から拍手が起こった。
「すごい!何が違うんだろう」
「ちょっと思い切りが足りないだけだと思うよ。気持ち的に、縮こまってるような印象。特に日本の刑事ドラマは、もっとこう力と情感をこめた…」
そこまで言って、ミチルは何か思いついたように黙り込んだ。
「…なるほど」
「なんか思い付いちゃった系?」
マヤは、ミチルの表情でだいたい何かを察したようだった。
「マヤ、わかったよ。例のテレビドラマのコンペ用のアレンジ」
ミチルは、サックスを掲げてニヤリと笑ってみせた。