Return To Forever
運ばれてきた単品千五百円のハンバーガーは、絶品という表現以外はミチルには思いつかない味だった。ハンバーグはもはや肉であり、バンズは香りも食感も、家で食べているトーストなどとは次元が違う。こんなお店が、市街地を外れた山間に近い所にあるとは想像もしなかった。
ハンバーガーを惜しみつつ片付けたあと、ミチルは改めてクレハの提案について訊ねた。
「マネージャーって、どういうこと」
「私達には、音楽を作って演奏する能力はあるかも知れない。でも、海外のレーベルと契約についてやり取りする事なんて、できると思う?」
クレハの言う事はもっともではある。そんな経験は自分にはない。だが、ミチルには引っ掛かるものがあった。
「もちろん、小鳥遊さんのギャランティについては――」
「ストップ」
ミチルは、手を上げてクレハを制した。が、よく見ると親指にトマトソースがついていて、いまいち締まらない。ソースをナプキンで拭きながら、ミチルは言った。
「クレハの言う事はわかる。その通りだと思う。けど、私達まだ駆け出しでさえない、ひよっ子よ」
クレハはそれを言われて、黙って聞いていた。ミチルは続ける。
「まず、自分たちで出来る所まで、やってみようよ。もちろん、向こうとのやり取りを英語ができるクレハに任せっきりになるのは、そこは申し訳ないけれど」
いったん、アイスコーヒーを傾ける。コーヒーひとつまで香りが違う。
「自分たちでやってみて、どうしてもわからない事とか、出来ない事が出て来たら、その時小鳥遊さん達に応援をお願いしよう。私は、そうするべきだと思うよ」
すると、小鳥遊さんがパチパチと小さく拍手してみせた。
「お見逸れしました。言った通りでしょう、お嬢様。大原様はこの提案を受け入れないだろう、と」
いつもと違うグレーのサマージャケットを羽織った小鳥遊さんは、サングラスがない事もあってか、何となくクレハのお兄さん、もしくは叔父さんのように感じられた。そういえば、そもそも二人はどういう関係なのだろう。外部顧問がお嬢様と呼ぶのは何か奇妙だし、クレハは時々小鳥遊さんをファーストネームで呼ぼうとする。
「そうね。私が勇み足すぎたかも知れないわ」
「ううん、クレハはいつも細かい所まで考えてくれるもの。別に、間違った事を言ったとも思ってないわ。ただ、今の私達には、マネージャーは大袈裟だと思っただけ。そのうち大ブレイクして、小鳥遊さんを引き抜くかも知れないけどね」
すると、小鳥遊さんは少しだけ笑ってみせた。
「では、その時のための名刺を準備しておくとします」
こんなジョークも言える人なのか。ますます謎が深まったような気もするが、いま全部知ってしまうのは勿体ないような気もしたので、ミチルは素顔を拝見できただけで良しとした。あとでみんなに自慢してやろう。
そのあと小鳥遊さんの運転で、街を見下ろせるという隠れた絶景スポットのルートを通って市街地へ向かった。だが、自動車教習所のある通りを走っている時、クレハのスマホにメールの着信があった。LINEではなく、音楽活動のために新たに作ったアカウント宛のメールだ。
それを読んだクレハは、わずかに緊張した面持ちで、横目にミチルを振り向いて言った。
「ミチル。ワンダリングレコードの、シューメイカーさんという人からよ」
「えっ!?」
ミチルは身構えた。一体何だろう。というか、すでにクレハは連絡を取っていたのか。いまアメリカは真夜中だと思うが。
「シモンズさん経由で紹介してもらった音源。あれを、ミニアルバム扱いでワンダリングレコードからストリーミング配信したい、ですって」
「まじか」
あまりにも話が早すぎる。ここまで早いと、何かやばい話がウラにあるのではないか、と思ってしまう。それでなくても、ミチル達はすでに、デビュー前に悪質なレコード会社と出会ってしまったのだ。
だが、小鳥遊さんはハンドルを握ったまま、ミチルに助言をくれた。
「大原様、時には"見る前に飛ぶ"事も肝心です。特に、今回のようなケースは極めて稀と言えます」
「…どういうことですか」
「そもそも、有名なリーマン・ショック以降、積極的にアーティストと契約を結ぼう、というレーベル自体が少ないのです。特にメジャーレーベルとその傘下はそうです。基本的にはリスクヘッジで、すでにある程度の人気を獲得しているアーティストを優先して契約するパターンがほとんどでしょう」
「でも、私達まだ何もリリースしてませんよ」
「そこです」
赤信号で、小鳥遊さんのアウディはゆっくりと停まった。目の前を赤い農薬散布車が横切るのが、いかにも地方である。
「契約条件もざっと確認しましたが、ワンダリングレコード自体が信頼できるレーベルです。インディーですが、なかなかのビッグネームも所属しています」
「そんなレーベルが、どうしてこんなに話を急ぐの」
「企業が契約に早く動く理由は、2つにひとつです。ひとつは何らかの打算がある場合。そしてもうひとつは」
シグナルは青に変わり、再びアウディは走り出した。
「才能や可能性を見出し、他社に獲られる前に既成事実を作ってしまおう、という場合です」
「そっ、それじゃ…」
「考えるまでもありません。ワンダリングレコードは、ザ・ライトイヤーズの音楽そのものに、可能性を見出したという事です」
アウディは、青空の下を加速した。橋の向こうには、市民音楽祭のステージに立った公園が見えている。あれからまだ1ヶ月も経っていない。
「ミチル」
クレハが、決断を迫るように訊ねた。ミチルは頷く。
「小鳥遊さん、さっきの話の後で早速ですけど、契約のうえで私達にアドバイスをください。音源の配信をする事に決めます」
すると、小鳥遊さんは道路の先を見据えたまま答えた。
「喜んで。ただし、条件があります」
「…なんですか」
「仕事としてではなく、友人からのアドバイスという形で参加させてください。だから、報酬だなんていう水くさい話は無しです」
それが、小鳥遊さんとミチル達が「友達」になれた瞬間だった。
同じ頃、フュージョン部の1年組は意気消沈していた。楽器持ち込みOKのカラオケボックスで、何度かセッションを繰り返してみたものの、思ったようなサウンドが出せないでいるのだ。
メロディーの構築も、楽譜が読める人間が二人もいるというのに、思うように作れない。届いたLINEによると先輩たちはどうやら、アメリカのインディーレーベルから音源を発表するような話にまで進んでいるらしい、というのに。
「はあー」
帰路に立ち寄ったマックで、ギター及びEWI、たまにベース担当の獅子王サトルはため息をついた。
「先輩たち、すげえなあ」
なのに俺たちは、という話は続けない事にした。みんな思っている事だからだ。
「シェイク溶けるよ」
キーボードの長嶺キリカが、力無く紙カップをつついた。その両脇の鈴木アオイも戸田リアナも、アイスコーヒーをちびちび飲んでは重い表情をしている。
「落ち込んでも仕方ない」
今回、改めてベース担当として演奏にも参加している村治薫が、一人だけホットコーヒーを一口飲んでメンバーを見渡した。みんな、同じ表情をしている。実のところ、薫も同じ気持ちではあった。
先輩たちは、この数日間で遠くまで行ってしまった。そんな気分に囚われているのだ。もう、自分達と一緒には活動してくれないのではないか。そんな寂しさと、演奏への自信喪失が二重に彼らを落ち込ませていた。
だがそんな時、まったく想定外の出来事が起きていた。充分想定できた筈なのだが、なぜか1年生の誰もが気付かなかった。それは、マックを出て5人がトボトボと、機材を抱えて歩いていた時だった。ふいに、キリカのスマホにLINEが入った。
「誰だ」
表示を見ると、それは同級生の一人の女子だった。名前は里崎里香という。キリカとはそれなりに交流がある生徒だ。
『いま、電話いいかな』
何だろうと思い、OKだと伝えると間もなく通話着信があった。
「もしもーし」
『久しぶり。宿題ちゃんと終わらせた?』
「久しぶりでそれかよ!終わらせたっての」
『あはは』
里香は笑う。
「どしたの、突然」
『うん、あのね。私の事じゃないんだ。他の学科の子なんだけど。私を通じて、あんた達にコンタクトを取ってほしいっていう子が一人いて』
「コンタクト?」
何だろう。
『実はさ』
フュージョン部2年キーボード担当、金木犀マヤにキリカから電話が入ったのは、16時30分ごろの事だった。
「もしもし」
『あっ、先輩、こんにちは。えっと、いまお時間…』
「いいよ。どうした」
キリカは何だか慌てたような様子だ。マヤはベッドに腰掛けて訊ねた。
『実はですね。入部希望の1年生がいるらしいんです。女子で』
「入部希望!?」
それはマヤにとって、すごく新鮮な響きを伴って聴こえた。入部希望。そうだ、自分はフュージョン部の2年生だったのだ。1年生がその話を持ちかけられて、2年生に話をするのは当然ではあった。
「何か楽器は出来るの」
『それが、聞いて驚きのアルトサックスなんです。私達に欠けていたポジション』
「そりゃ良かったじゃない。うん、話進めちゃいなよ。細かい事は、休み明けに全員で部室に揃って話そう。連れて来な、その子」
すると、突然キリカの声が途切れてしまった。
「もしもーし」
『あっ、ごめんなさい』
その声に、マヤは違和感を感じた。鼻をすする声も聞こえる。
『…どうしたの』
「あっ、いえ、何でも…」
『何かあったなら、話してごらん』
キリカは、1年生が思っている事を素直に話した。2年生と距離感を感じている事。演奏に自信がなくなってきた事。マヤ先輩は、いつもの少しニヒルな調子で返してきた。
『バカね。私達は、ずっとフュージョン部の2年生よ』
「そうなんですか」
『当たり前よ。私達の活動は、フュージョン部の延長線上にあるんだもの。それに、バンドの名前だってフュージョン部の後輩が決めてくれたものでしょ。どこまで行っても、私達は永遠にフュージョン部』
それを聞いて、またキリカの目から涙が流れてきた。察してくれたリアナが、ハンカチを貸してくれた。
「じゃあ、また部室で練習できるんですね」
『もちろんよ。まだ、先輩らしい事ろくにできてないからね。それにサックスの子が入るなら、ミチルもようやく堂々と先輩面できるわけだ』
ケラケラと、電話の向こうで先輩が笑う。そうだ。ミチル先輩だけは、演奏を直接教える相手が今までいなかった。
『そういうわけだから、休み明けに部室で会おう。新しい子も連れてね』
「はい!」
そこで通話が終わりそうだったので、キリカは慌てて「あっ、先輩!」と引き止めた。
「昨日のお仕事、お疲れ様でした!」
『お仕事、か。いい響きだね。うん、ありがと。それじゃあね』
「はい、ありがとうございました!」
通話が切れた後、キリカは周りのメンバーを振り返った。
「休み明け、部室でみんなで会おう、って。私達はずっと、永遠にフュージョン部だ、って」
それは、その場の全員が聞きたかった言葉かも知れない。たとえ先輩たちがプロデビューしたって、フュージョン部は変わらない、と言ってくれたのだ。5人は、いくらか救われた気持ちで帰路につく事ができた。まだ、自分達の楽曲ができていないという課題は残っているが。
サックスの新入部員が、ここにきて加入する。その情報をミチルが受け取ったのは、小鳥遊さんのアドバイスのもと、両親も交えて色々な方針を決めた後の事だった。突然自宅に謎の若いイケメンが現れて、突然彼氏を紹介しに来たのかと、母がソワソワしていた事は伏せておく。
「とりあえず、うちの両親と小鳥遊さんが言うには、まず学業を疎かにしちゃいけない、っていう事だった」
『それはそうだ。私達は結局、ただの女子高校生なわけだし。うちの親も、ジュナ達のところも、だいたい同じみたい』
電話の向こうで、マヤはそう言った。
「うん。ただね、そのうえで、本気で音楽を続けるつもりならそれも手は抜くな、って。お父さんが」
『お父さん?』
「うん。お父さんも結局、若い頃にグラフィックデザイナーの仕事を選ぶ時、同じように親に相談したから、気持ちはわかるって言ってくれた」
『ふうん。いいお父さんじゃない』
マヤの評価は本当にその通りだ。世の中には子供を虐待するようなひどい親もいるというのに、ありがたい事だとミチルは思う。
「だからね。ワンダリングレコードには、まず学業に基盤を置いたうえで、少しずつ活動の幅を広げるような形は取れないか、って打診するつもり」
『なるほど。それで断られたら?』
「断られるだけの話だよ。チャラ、無かった事にしましょう、ってね。そんなのはもう、私たち経験済みでしょ。契約がなくなったって、私達から音楽がなくなるわけじゃない」
そのミチルの言葉に、マヤは感心したようだった。
『あんた強くなったわね。うん、それでいい』
「マヤはだんだん学校の先生みたくなってきたね」
『何ですって!』
そういうとこだよ。ミチルがツッコミを入れると、二人は笑い合った。
『そうだね。まずは向こうと話し合ってから、か』
「そういうこと。だからさ、気持ちとしては、これまでと変わらずにいようよ。あんたが言ったとおり、私達はまだフュージョン部の2年生。まずは、それでいいと思うんだ。もっとも、少しばかり話題にはなっちゃったかもね」
ミチルは、諦観したように笑ってみせた。クレハからは、いちおう仔細を竹内顧問に相談して許可を取り付けてから、レーベル側には返事をする、という話である。
「連絡待ちだな」
シモンズさんから依頼されたデモ音源制作にしても、後日メンバーが集まってからになる。ひとまずやれる事はなくなったので、ミチルは疲れた身体をベッドに横たえた。その直後に強烈な睡魔が襲ってきて、夕食だぞ、と弟のハルトから叩き起これるまで熟睡してしまうのだった。
翌日、月曜日。もう、夏休みは残り4日である。基本的に休日も比較的早起きの大原家だが、ミチルはさすがに疲労が溜まっているだろうと、家族は朝寝坊を許してくれた。ミチルが目覚めたのは午前10時過ぎ、それもスマホのLINE着信の音でだった。
「ん…」
寝ぼけまなこでスマホを見る。LINEメッセージはフュージョン部顧問の竹内先生からだった。
「なんだ」
クレハからの連絡に関してだろうか、と思って開いてみると、どうもそうではなかった。
「…なに!?」
ミチルは、文面をまじまじと読み返した。
『大原、ライブ出演上手く行ったみたいだな。お疲れ様。』
という月並みな文章の次に届いていたのは、なんだか既視感のある、だが驚きの内容だった。
『実は、学校側にお前たちへの取材の申し込みが殺到していてな。今、どう対応すればいいか協議している所だ。ひょっとすると休み明けにも、TV出演する事になるかも知れん。考えておいてくれ』
『それと、千住からアメリカのレーベルとの契約についての相談は受け取った。お前たちの意志はもう学校側でも確認した。職員会議でも、多少心配ではあるが、生徒の自主性は尊重してやろうという話だった。うちの学校は在学中に起業してしまった連中もいる位だし、たぶん話は通るだろう。契約に関しては、清水美弥子先生が協力してくれると言っている。あとはお前たち次第だ。』
ミチルは、二つ目のメッセージはとりあえず安心したが、最初のメッセージには「またか!」と口に出してしまった。取材の申し込み殺到って、いったいどれくらいのレベルの殺到なのか。やはり、ステファニーのライブのOAを務めた事は話題になっているらしい。正直、テレビを見るのが怖い。ネットのニュースも見たくない。そういえば、例の月刊レコードファイル誌のWEB版に載せられたミチルのコメントもアクセスが伸びているという連絡を、編集の京野さんから受け取った。フュージョン部の取材が掲載される雑誌は、発売前から予約が殺到して増刷がかかっているらしい。
「あははははは」
ミチルはもう笑うしかなかった。弟のハルトは、「姉はどうやら時々笑い出す発作があるらしい」と理解してくれたようである。
殺到、殺到。ステファニーのライブでやったオリジナル曲をネットにアップしろ、という声も日増しに増えている。1年生の動画チームに頼んで「近日公開の予定あり」とでも告知動画を作ってもらうか。となると、レーベルとの契約も急がなくてはならない。そう、すでに事態は「用件をさっさと片付ける」というレベルまで来ていたのだ。
そして、これ以上もう何もないだろうな、と思っているところへ、1年の村治薫からトドメのメッセージが届いていた。
『先輩、ちょっと困った事になった。1年生の入部希望者が殺到してる。連絡の取り次ぎで、リアナ達がてんてこ舞いになってる』
そんなの部員募集の時に殺到してくれよ、とミチルは言いたかったし、実際そう独り呟いたが、どうやら嘘ではないらしい。もう、安穏と過ごせる夏休みは終わった事を、ミチルは悟った。