ヴァルキリー
会場時間になると、いよいよステージ下に人が集まり始めた。ミチル達の控え室からは当然見る事はできないが、"太ったスーパーマリオ"こと、音響のダニエルさんがモニターの様子を見せてくれた。いる。ぞろぞろ集まってきている。見た感じ、ほとんどが若い女性だ。ミチル達と同じ年代もたくさん見える。だが、40代くらいの男性もそれなりに多い。
『どうだ、緊張したか』
しない筈はない。だが、ここまで来てもはやそんな事は言っていられない。そのあとミチル達はコンサートディレクターのシモンズさんから、ステージでのパフォーマンスについていくつか指示を受けた。MCで不用意な発言をしないように、といった基本的な事に加えて、ひとつ重要な言葉があった。
『自分たちを、ステファニーの添え物などと思うな。15分のライブを引き受けた、プロだと認識しろ、いいな』
その言葉は、ミチル達にとって重い一撃だった。向こうは、ミチル達をステファニーと対等のアーティストとして認識していた、ということだ。自分たちは単なる賑やかしだ、とどこかで軽く考えていたのではないか。ミチルはステファニーが、自分たちに白羽の矢を立てた意味を悟った。
ディレクターが去ったあと、控え室のミチル達に、それまで感じた事のないテンションが走った。
「…甘く見てたかも知れないね」
自戒を込めるように、ミチルは下を向いた。ジュナたちも同様である。
「そうだね。ステファニーのオマケだなんて考えるのは、ステファニーを侮辱する事になる。添え物に過ぎない相手に、自分のステージを貸すなんて、ミュージシャンがするわけない」
「緊張してきた?」
クレハが、柔らかい笑みを向けてきた。まるで落ち着いて見えるが、緊張していないのだろうか。そう訊ねると、クレハは苦笑いした。
「してない筈ないでしょう。この状況で」
「…それはそうだ」
「けど、そうね。ギターもベースも、弦のテンションがないと音にはならないわ」
その言葉に、メンバーがぴくりと反応した。
「もし、弦のテンションが緩ければ、フレットに干渉してしまう。テンション、張力は適度に必要なものよ。高すぎても良くないけれど、低すぎても駄目」
「上手いこと言うな」
ジュナが不敵にニヤリと笑う。
「リラックスだけがメンタルじゃないって事か」
「ええ。だから、緊張している位でないとダメなのよ」
「そうだな。だったら、大丈夫だ」
ジュナは時計を見た。16時50分。いよいよ、開演の時が来る。客席のざわめきは、すでに控え室にまで響いていた。ふいに、控え室のドアが開いて、ヘッドセットをつけた若いスタッフが引き締まった表情で告げた。
「それじゃライトイヤーズの皆さん、袖でスタンバイしてください」
「はい!」
5人は立ち上がると、いつものように円を作って手を重ねた。
「いくよ。夏の総決算だ」
ミチルの言葉に、全員が力強く頷く。
「フュージョン部、そしてザ・ライトイヤーズ。レディー…」
「ゴー!!」
5人の声が、狭い控え室に響いた。
空はわずかに雲があり、太陽が隠されて、会場は突然暗くなった。ステージに流れていたBGMが不意に静まると、客席から歓声が上がった。オープニング用のBGMが流れ始める。ステージ前面には真っ白なベールがかけられており、バックのスクリーンにはツアータイトルの映像ののちに、ひとつの文字列が踊った。"Opening Act by The Light Years"と。
BGMが終わると同時に、左右で特効の花火が炸裂し、ベールがサッと取り除かれる。その背後に現れたのは、カジノディーラーを思わせる衣装に身を包み、アルトサックスを下げた少女を中心にした、5人の少女たちだった。客席から、一斉に大きな歓声が送られる。
少女たちが一言も語ることなく、即座に背の低い少女が蹴る、バスドラムがリズムを刻んだ。風雲急を告げるかのごとく、重く速いリズムだ。そこへ畳み掛けるように、ベースが唸りを上げる。窓辺で詩集を開いているような儚げな少女が、この力強い低音を轟かせるのは信じ難い事だった。
さらに、わずかにディストーションがかかった、ハムバッカーの分厚いリフ。ヘアバンドを巻いた、眼光鋭い少女は、まるで往年の名ギタリストの来臨を思わせる。
嵐のような激しいサウンドに、オーディエンスがわずかに気圧され始めたその瞬間、雲間から光が差した。と同時に、サングラスをかけたお団子ヘアの少女のピアノが、一陣の風のようにステージから吹き抜ける。まさにそれは、自然による奇跡の演出だった。
重々しく始まったイントロは、ピアノによる期待感に満ちた音色に一瞬で変ぼうした。この少女たちは何者なのだ。オーディエンスがそう思ったとき、照り付ける太陽のような、アルトサックスの輝くサウンドがステージを支配した。フュージョングループ「ザ・ライトイヤーズ」がその姿を公に現した、音楽史に残る瞬間だった。
そのサウンドは鮮烈で、軽やかで、瀟洒で、どこまでも前向きだ。それはまさに、ステファニー・カールソンのサウンドと根底で通じるものだった。ステファニーが彼女たちと出会ったのは偶然かも知れないが、選んだ事は偶然ではなかった。
1曲目"Shiny Cloud"の演奏が終わると、サックスの少女がマイクに向かって叫んだ。
「We are "The Light Years"!! I'm Grateful to Stephanie and everyone!!」
少女たちのMCは、ついにそれ以上何も語られる事はなかった。オーディエンスの片隅から起こった拍手が、やがて大きな波となって赤レンガ倉庫の会場を埋め尽くした。ザ・ライトイヤーズ。それが、彼女たちの名らしい。その佇まいは堂々としており、およそ無名のバンドとは思えない。
ネットでフュージョンのコピー演奏は話題になっていたが、誰も彼女たちのオリジナル楽曲を聴いたことがない。今ここにきた3万人が、初めて彼女たちのオリジナルを聴いたのだ。ステファニー・カールソンは一体どうやって彼女たちとコンタクトを取ったのか。なぜ彼女たちに、オリジナル楽曲がある事を知っていたのか。ネットで飛び交っていた疑問と憶測を、3万人のオーディエンスのうち半数以上が見聞きしていたが、このただ1曲を聴いた瞬間に全てがわかった。ステファニーは、彼女たちの才能を買ったのだ。ただそれだけの事だった。
演奏は間髪入れず2曲目に入った。呆れるほどストレートな、キーボードとギターによるイントロ。何の変哲もない。いや、そうではない。変哲のない、クオリティーの高いイントロだ。やがて、いつの間にか持ち替えていたウインドシンセサイザーの、電子的で軽快なサウンドが主旋律を奏でた。
だが、ここでもオーディエンスは驚く体験をする事になる。主旋律がEWI、ギター、キーボードによってシームレスにつながれて演奏されている!まるで、一つの楽器の音色が切り替えられているように。リズムも、メロディーも一糸乱れぬ完璧な演奏。音楽というのは、こんな遊びができるものなのか。
間奏では、ドラムとベースがそれぞれ単独でソロを披露した。他のパートは完全に休んでいる。そして、やがてハイハットだけの演奏から無音状態に移行したかと思った、次の瞬間に全パートが一斉にサビを演奏する。どれほど息が合っていれば、このような芸当ができるのだろう。アレンジと演奏能力でオーディエンスを圧倒したそのナンバーは、モニターに表示された"Friends"というのがそのタイトルらしい。
2曲目が終わると、再び真ん中の少女は金色に輝くアルトサックスに持ち替えていた。ドラムスのフィルインから始まって、軽快なベースとキーボードが入る。わずかにディレイをかけたギターのバッキングが軽妙に響くなか、アルトサックスの天高く抜けるような音色が、赤レンガ倉庫に響き渡った。
"Dream Code"。それがこのナンバーのタイトルのようだ。軽快で、そして不思議なくらい希望的なメロディー。新しいような、懐かしいような、聴く者に子供の頃の無邪気な勇敢さを取り戻させるサウンド。この曲が、この少女たちの全てを象徴しているように思えた。
最後は、全パートのアドリブによって締め括られた。滅茶苦茶なようでいて、よく聴くとコード進行に合わせて即興の演奏を合わせている。アドリブでありながら、きちんとテーマがある。要するにこれは、ジャズの理論だ。フュージョンの源流であるジャズの流れを、きちんと踏まえている。10代の少女たちが。
5人の少女は、堂々と演奏を終えた。それは気のせいだっただろうか、彼女たちはまるで、30年もステージに立ち続けてきたミュージシャンであるかのような錯覚を覚えた者が少なくなかった。
少女たちは、拍手と喝采のなか、無言で微笑んで深くお辞儀をした。頭を下げながらも、キーボードが何かの到来を告げるように壮大なメロディーを響かせ、ステージにはスモークが立ち込める。少女たちの姿は、白煙の中に消えて行った。メロディーはさらに盛り上がりを続ける。そして白煙が消えた時ステージ中央に立っていたのは、ノースリーブの真っ白なロングドレスに身を包み、アコースティックギターを下げたステファニー・カールソンの姿だった。
赤レンガ倉庫は、圧倒的な歓喜の渦に包まれた。主役の登場を伝える役割を終えた少女たちは、いつしかステージから消え去っていた。
ステファニーのオープニングナンバーは、ファーストアルバムに収録されたロックナンバー”Valkyrie”。世界の不条理に立ち向かう抵抗の歌だ。一瞬にしてその空間は、ステファニーとそのバックバンドが創り上げるサウンドに支配されていた。まさに、ワールドクラスのアーティストだけが生み出せる空間だ。
客席からの歓声を通路の奥で聴きながら、ザ・ライトイヤーズのメンバーは安堵と歓喜に包まれて、抱き合って喜んだ。自分達は成し遂げたのだ。自分達のサウンドを表現し、なおかつ主役の登場を盛り上げるという大役を、完璧にやり遂げた。今まで感じた事もないほど、それは誇らしい気持ちだった。
いつの間にか、彼女たちの周囲にはスタッフが集まり、温かい拍手を贈ってくれた。いつものミチルなら涙ぐんでいたかも知れない。だが、今日は涙は見せなかった。そのかわり、確かな何かを掴んだという実感が、メンバーの全身に満ちていた。
「素晴らしかったわ。予定を変更して、あなた達に任せた甲斐があった」
ステファニーのマネージャー、ヘレナさんがミチルの両肩に手を置いた。ミチルは力強く頷く。
「みんなのおかげです。バンドのメンバーと、私達に任せて、教えてくれた、皆さんの。本当に、ありがとうございました」
ミチルが頭を下げると、他のメンバーもそれに倣う。再び、拍手が贈られた。ヘレナさんの通訳がなくても、気持ちが伝わったらしい。ダニエルさんは、全員に冷えたレッドブルをくれた。
『これで終わりじゃないぞ。きっとお前たちには、これから先も仕事が舞い込んでくる。もう、これだけの事をやっちまったんだからな』
クレハがそれを通訳すると、ミチルは神妙な顔で「まさか」と言った。だが、そこでミチルは思い出した。最終チェックの時、未発表の曲のデモ演奏をした所、コンサートディレクターのシモンズさんが「出演後自分の所に来い」と言っていたのだ。シモンズさんは言った通り、ミチルを手招きした。ミチルは通訳のクレハを伴って近寄る。
『良いステージだった』
「ありがとうございます」
『うん。ところで、さっき言った件だけどね。来てくれ』
シモンズさんは、タブレットPCを手にしてザ・ライトイヤーズのメンバーを控室に呼び出した。長テーブルにミチルたちを座らせ、自分は立ったままタブレットをミチルたちに示す。タブレットには、英語の文章が表示されている。当然、クレハ以外はスムーズには読めない。
『いや、これは読んでもらう必要はない。ただ、話をするために見せただけだ』
「何なんですか、これは」
『企画書だ。イギリスの、テレビドラマのね。タイトルは”メイズラントヤード魔法捜査課”という。簡単に言うと、19世紀ロンドン風の架空都市を舞台にした、魔法が登場するミステリ作品だ』
5人の少女は、レッドブルを飲みながら興味深そうに聞いていた。だが、なぜそれを自分達に話すのか。企画書など、外部に漏らしてはいけないのではないか。そう訊ねると、シモンズさんは頷いた。
『もっともだ。だが安心したまえ、私はこの番組の、音楽ディレクターを任されているんだ。ステファニーのワールドツアーが終わりしだい、デスクワークじみた日々になる』
シモンズさんはうんざりだ、といった風に、いかにもアメリカ人らしく大げさな手振りを示す。そこで、ミチルはだいたい話がわかってきた。
「…まさか私たちの楽曲を、この作品に使うっていう事ですか」
『察しがいいね。だが、あくまで提案の段階だ。今はね』
シモンズさんも、持って来たレッドブルのタブを開ける。狭い控室はレッドブルの香りで満たされた。
『さっき君たちが演奏したあの曲。あれを私は、番組のオープニングテーマ曲にしたいと考えている』
ミチルたちは唖然として、メンバーどうし表情をうかがった。話が唐突すぎて、正直困惑した。
「オープニングって、ボーカルも何もない…しかも私の思い付きのメロディーの曲ですよ」
『それがなんだね?ベテランが鍵盤の前で半年唸って出来た駄作のほうが、無名の10代の少女が思い付いた傑作よりも、テーマ曲として相応しいというのかね』
なんという欧米人らしい、理屈っぽい説得だ。だが、反論もできない。そして、シモンズさんはミチルの曲を傑作と言ってくれた。だがその時メンバーの脳裏を掠めたのは、以前ミチルたちに接触してきた、楽曲の権利を奪おうとしたレコード会社の人間だった。その不安を正直に話すと、シモンズさんは笑った。
『遠慮なく言って来るな、君たちは。うん、気に入った。それぐらい図々しい方が私は好きだ』
「すっ、すみません」
『いや、いいさ。実際、音楽業界っていうのはどこの国でもそういうものだ。ビルボードのニュースを見るといい。毎週、どこかで権利問題が起きている』
うんざりした表情で、シモンズさんはかぶりを振った。
『疑うのはいいことだ。だが、ひとまず私を信用してみてくれないか。要するに、君たちはデモ音源を制作してほしい。複数のアーティストの曲と、コンペにかける。私は当然推すだろうが、それでも君たちの楽曲がふるい落とされる可能性はある。私よりも、制作サイドの方に最終的な決定権があるからね』
それを聞いて、ミチル達はさすがに即断もできず話し合ったあと、ようやく意を決した。
「わかりました。その、コンペにデモ音源を提出します」
『うん、それがいい』
シモンズさんは笑ってうなずいたあと、『だが』と断りを入れた。
『私が推したからと言って、採用されると決まったわけではないよ。最終的な決定権は、スポンサーや番組そのものの制作サイドにあるからね』
それを聞いて、むしろミチルたちは安心した。他の大物ミュージシャンと競り合って落とされるなら、それはそれで仕方ないと諦めもつく。だがそれにしても、ミチルがメロディーを思い付いたまさに矢先の出来事であり、メンバーは困惑の色を隠せなかった。神の見えざる手によって操られているような気分だ。
『詳しい応募要項は、あとでヘレナにメールで送らせる。さあ、ステファニーのステージを観ておいで』
そう言われるのは嬉しかったが、すでにミチルたちの意識は違う方向を向いていた。海外のテレビドラマのテーマ曲など、考えた事もない。だが考えてみれば、ミチル達のようなインストグループは、テレビのテーマ曲という活躍の場がある事も確かである。ライブステージに立つだけがバンドではない。
少しずつ、色んな可能性が見えて来たことに奇妙な興奮を覚えながら、ミチルたちはステファニーのステージを観るために控室を出た。