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Light Years  作者: 塚原春海
YOKOHAMA RED BRICKS
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YOKOHAMA RED BRICKS

 横浜赤レンガ倉庫。20世紀初頭に、当時最新の建築技術を詰め込んで建設された巨大な2棟の倉庫だ。のちに関東大震災で半壊、終戦後はアメリカ軍に接収され港湾司令部として使用されるなどの変遷の後、一度は休眠状態に置かれながらも、修繕を繰り返して現在は商業施設として復活を遂げている。

 その野外スペースでは、すでにステージそのものの設営は9割がた完了していた。熱気と海の香りが混じる風の中、ミチルたち5人と薫は周囲を小鳥遊さんと二人の部下に護られながら、設営現場へと足を踏み入れた。現場周囲をうろつくファンの女性たちが、グラサンに黒スーツのSPらしき人物に護られた少女達を怪訝そうに眺めていた。ステファニー本人ではないのにSPがついているのは何故なのか。うち二人はギターケースを背負っている。大物ミュージシャンが、機材を自分で持って来るはずもない。そのあとライブの公式インフォメーションを見て、どうやら彼女たちがオープニングアクトの何とかというガールズバンドらしいと気付くのだった。


「オー、サダーコ!!」

 ヘッドセットをつけた太ったヒゲの音響さんらしき人が、ステージ裏に現れたミチルを見るなりそう叫んだ。サダーコ?

「ノー、ノー、アイム・ミチル。ミチル・オーハラ」

「ハッハッハー!!」

 バンバンとミチルの肩を叩くと、ヒゲの音響さんは大笑いした。何なんだ。雰囲気的になんとなく、中南米の香りがする人物である。

『おうい、ヘレナ!サダコとその仲間たちが、ギターを背負ってご登場だぞ!テレビ画面から出て来ると思って待ち構えてたんだがな!』

 オジサンは仮組みの通路の奥に走って行った。英語で言われても何だかわからない。するとミチルの右後ろで、クレハが突然吹き出した。

「何よ」

「何でもない」

「嘘おっしゃい!今あのオジサン何て言ったの!?」

 クレハは笑いをこらえるのに必死だった。サダーコ?サダコ?さだこ…

「貞子のことか―――!!」

 ミチルは激怒した。そう、ミチルは市民音楽祭での演奏中の姿が貞子そっくりだったため「EWIを吹く貞子」などという動画がアップされて、ちょっとした有名人なのだ。どうやら今の反応からして、すでにステファニー経由で彼女のスタッフにも「Sadako」として知れ渡ってしまっているらしい。ジュナが半笑いでミチルの肩を叩く。

「どうする、ミチル。芸名、大原貞子で行くしかねえんじゃねーのか」

「ノー!」

 すると、奥から見覚えのあるブラウンの髪の女性が、スリムなパンツスーツで現れた。ステファニーのマネージャー、ヘレナ・キャシディ氏だ。

「ハーイ、グッドモーニング!来てくれてありがとう、ミティル!」

 ミティル。どうやら、彼女には「チ」が発音しづらいようだ。そういえば、「チルチルとミチル」もどっちかというと「ティルティルとミティル」が本来の発音に近いらしい。ミティルなら、まだ悪くない。サダコよりは。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします、キャシディさん」

 ミチル達は深々と頭を下げる。ヘレナは笑った。

「ヘレナ、でいいわ。それと、彼女もステファニーと呼ばれる方を好むわね」

「そうなんですか」

 なるほど、文化の違いか、それとも単に個人の好みか。するとヘレナは、ミチル達の後ろにぽつんと立つ少年に気が付いた。

「あら、プリティ・ボーイ。そちらは?」

「ああ、この子は私達の何というか、サウンドディレクターみたいな…見学したいというので、連れて来ました。ご迷惑であれば…」

「いいえ、そんなことはないわ。さあ、バンドのみんなはこっちに来て。急場だったもので、あまり立派なお部屋は用意できなくてごめんなさい」

 

 ヘレナに連れられた5人は、確かに急場に用意しました、といった様子のプレハブに入った。ただし、いちおうエアコンも、ミネラルウォーターが入った冷蔵庫もついている。

「用意ができたら、ステージに来てちょうだい。すぐにゲネプロに入るわ」

「わかりました」

 荷物を下ろして、持って来たドリンクで喉を潤すと、ミチル、ジュナ、クレハの3人はそれぞれケースから自分の機材を取り出した。ジュナは、ソウヘイ先輩から預かってきたギターピックを確認する。

「なんだか、あまり緊張感がないね」

 マーコは、自前のドラムスティックをクルクルと回した。それは全員が同じ感覚のようで、一様に妙な困惑があった。本番ではないゲネプロとはいえ、こうも気が緩んでいていいのか。そこでミチルは、リーダーがピンとしなくてはと立ち上がった。

「午前中だけだからね。あと4時間もない、その間に音響と自分たちのセッティング、演奏チェックをこなさなきゃならない。気を引き締めていこう」

 ミチルの指揮に全員が立ち上がり、頷いた。


 ステージに上がると、ケーブルを肩にかけたり、マウントラックをガラガラと押すスタッフ達が忙しなく働いていた。音響は日本の業者と向こうのスタッフの共同作業らしい。ステージ左右にはすでにJBLのメインスピーカーが設置されている。後方中央にドラムス、右手にキーボード。左奥にはギター、ベースアンプが見える。中央にはマイクがあるが、すでにミチルの要望どおり、サックス用のマイクがセッティングされていた。

 すると、さっきのヒゲの音響さんが、ドスドスと駆け寄りながら周りに声をかけた。

『おうい、みんな。この子達がオープニングのバンドだ!』

 すると、スタッフが一斉に振り向く。日本のスタッフのお兄さん、おじさん達は「よろしくお願いしまーす」と爽やかに返してくれた。ミチル達もそれでいくらか安心し、「よろしくお願いしまーす」と返す。

『俺はダニエルだ。なんかあったら俺にとりあえず聞いてくれ』

 すでにクレハが英会話ができると連絡を受けているのか、ダニエルはクレハに向かって言った。

『ありがとう。私はクレハです』

 クレハは、メンバーひとりひとりの名前をダニエルさんに紹介してくれた。英会話ができるメンバーがいる、というのはありがたい。

 ふと5人は、ステージ下に伸びる客席側を見下ろした。広い。この間の音楽祭の比ではない。さらに横浜赤レンガ倉庫独特の、奥行きがあるスペースだ。ミチルとジュナは音楽フェスで来場した事はあるが、ステージに立つのは初めてである。

 ここで自分たちが演奏するのか、と5人は同時に思った。それまでは考えた事もない。ほんの2ヶ月前は、あの部室前の狭いアスファルトの"ステージ"が全てだったというのに。

 そこで急速に、5人に緊張の波が襲ってきた。それまでは現実感がなかったのだ。だから緊張もしなかった。いざ、3万人が集まる空間のボリュームを目の前にすると、足がすくみ上がる。

 5人は、互いがそこにいる事を確認するように目線を交わし合った。だが、ダニエルさんの声で我に返る。

『それじゃ、さっそくポジションについてくれ。始めよう』

「始めるそうよ。みんな、ポジションについて」

 クレハの通訳で、全員が気持ちを切り替える。いまさら、会場の広さに怯んではいられない。


 ジュナは、日本人スタッフとエフェクターについての確認をする。といってもジュナが使うのはだいたい決まっていた。

「とりあえず、ディストーションとオーバードライブに、コンプとディレイ…あと一応コーラスもあればOKです」

「わかりました」

 ジュナが相棒のレスポールに備え付けのシールドケーブルを差す。プラグといい外装といい、部室や音楽祭のステージのものとは段違いだ。

「キックくださーい!」

 音響チェック担当のいわゆる「PAさん」から、マーコに指示が飛ぶ。キックとはバスドラムの略である。マーコは言われたとおり、ドスドスと連続してバスドラムを鳴らした。

「オッケーでーす!じゃあ次、スネアくださーい!」

 同じように、ドラムス全体の音出しが行われた。さらにベース、キーボード、ギターと次々にPAさんから指示が飛ぶ。言っては悪いが、音楽祭の音響さんより進め方が的確でわかりやすい。同じプロでも違いがある、ということをミチル達は実感した。

 ギターまではスムーズに行ったのだが、ミチルの番で音の調整が難航した。

「サックス、もう一度お願いしまーす」

「はーい!」

 ミチルはマイクに向かって、いつも吹いているラッカー仕上げのアルトサックスを吹いた。だが、PAさんからなかなかOKが出ないのである。何か、バランスが取りづらいらしい。

 他のメンバーの視線が集まり、ミチルは嫌な汗が流れるのを感じた。何がおかしいのだろう。

 そう思っていると、ステージ下から、聞き覚えのある声が響いた。

「先輩、吹き方弱いんじゃない!?音楽祭で吹いてたのと同じくらい強めに吹いてみて!!」

 その甲高い声の主は、なんと同行していた村治薫少年だった。下で見学していたはずの薫くんは、スタッフの一員であるかのように指示を飛ばす。周りのスタッフたちが呆気に取られる中、ミチルはPAさんに叫んだ。

「もう一度いきまーす!」

「よーし、じゃあサックスくださーい!」

 ミチルは、思い切って息を吹き込んだ。その瞬間に、いつもの音が出せたという手応えがあった。PAさんも頷いている。

「はいオッケー!じゃあ、ちょっとアドリブで吹いてみてくださーい!」

「はーい!」

 なんとなく調子を取り戻したミチルは、本田雅人のファーストアルバム1曲目の冒頭のソロを吹いてみた。脇で見ていたスタッフ達が、腕組みして聴いている。ついつい調子に乗ってしまったミチルは、単なる音出しである事を忘れて、ソロパートをまるまる吹いてしまう。周りのメンバーが呆れている事にも気付かない。

 演奏を終えて我に返ったミチルは、ビクビクしながらPAさんの顔を見た。だが、PAさんは両腕で大きなマルを作ってみせる。

「はい、オッケー!!」

 ステージ下のスタッフ達から拍手が送られる中、ミチルは「ごめんなさい!」と頭を下げる。しかし、ダニエルさんには好評のようだった。

『オー、ナイスサウンド。オーケー、オーケー。それじゃ、フルで音出ししてみよう』

 ダニエルさんがPAさんにOKサインを出すと、PAさんから改めて指示が飛んできた。

「それじゃ曲くださーい」

 パートごとの音出しが確認できたので、今度はいよいよバンド全体の音である。ミチルたちはそのまま、さっきミチルが吹いた本田雅人の曲”Smack Out”の続きを何小節か演奏してみる。

 だが、音出しを始めた瞬間に、ミチル達は困惑した。何がというと、他のパートの音が聴こえないのだ。

『ちょっと、ストップ。すみません』

 ミチルはマイクに向かって言った。

『返しが聴こえませーん』

「どのパート?」

『ぜんぶ!!』

 返しとは、要するに演奏者の足元にあるモニターのことである。客席に向けたPAの音、いわゆる「外音」は演奏者にはちゃんと聴こえないので、他のメンバーの演奏状態がわからない。そのためモニターの音、いわゆる「中音」で自分達の演奏音を確認するのだ。このモニターの音量は、メンバーが勝手にヘッドアンプなどをいじって調整してはいけない。音出しは基本的に音響スタッフに全て任せるのが鉄則である。

「ほかのパートの人も、中音聴こえない人いたら教えてくださーい」

「ベースでーす。サックス聴こえませーん」

「ギターでーす。キーボードちょっと小さい」

「キーボードでーす!サックス大きすぎるかも!」

 メンバーからの要望を、PAさんは聖徳太子のように完璧に把握してモニターの音を調整した。その様子を、ダニエルさんがうんうん、と頷きながら眺めている。調整が終わったらしく、PAさんが叫ぶ。

「もう一度、曲でやってみてくださーい!問題なければ、最後までやってもいいでーす」

 ミチルは頷く。再び、いつものようにマーコがリズムを取って、改めてさっきの曲を演奏した。こんどは、はっきりとみんなの演奏が聴こえる。広いステージで、みんなの距離は離れているけれど、みんなそこにいる。フュージョン部2年生、そしてザ・ライトイヤーズだ。

 客は一人もいない、まばらなスタッフだけの広い空間に向かって、ミチルたちは自分達の音を響かせた。Smack Out、かっ飛ばす。そうだ、自分達の音を空の彼方まで飛ばしてやろう。演奏している間に、緊張はだんだんとほぐれていった。


 薫は、ステージ下で音を聴きながら、音のバランスについて首を傾げていた。それについてスタッフに質問しようと思うものの、演奏の音で訊ねる事ができない。

 先輩たちの演奏は、信じられないくらい上手くなっていた。ほんのふた月前、部室の前で演奏していた時よりも明らかに上手い。あの時はたぶん「高校生としては」というバイアスがかかっていたと思うが、今は違う。ごく単純に上手い。そもそも、本田雅人の曲をここまでコピーできる時点で普通ではない。

 そんなことを思っていると、演奏が終わった。その見事な演奏に、スタッフ全員から拍手が送られる。だが薫は、別の事が気にかかって、近くにいた40歳くらいの日本人スタッフに訊ねた。

「あの、すみません。低音が…たぶん200Hz近辺だと思うけど、すこしブーミーに調整してありますよね。これでいいんですか」

 その質問に、短髪のおじさんは驚いた目を向けた。

「君、すごいな。よく聴き分けているものだ。そう、意図的に低音をわずかにブーストしている」

「なにか理由があるんですか」

「簡単な話だよ。ライブ当日、このだだっ広いスペースがどうなるか、考えてごらん」

「あっ」

 薫は、即座にその意味を理解した。

「なるほど」

「そういうことだ。ここには3万人もの客が入る。人の群れはそのまま…」

「吸音材になる。低音は吸収されて、減衰してしまう。だから前もってブースト気味にしてあるんだ」

 薫がそう答えると、おじさんは薫の肩をバンと叩いた。細い身体が大きく揺れる。

「そのとおりだ!お前さん、何者だい?すごくいい耳も持っているみたいだ」

「えっと…部活で、彼女たちのサポートみたいな事をやってまして。今日は無理を言って、見学させてもらいに来たんです」

 本当はミチル先輩に無理に連れて来られたのだ、と言いたかったが、すでに薫はプロの音響について興味津々になっていた。ピュアオーディオとはまた違う楽しさがある。音楽を、いかにいい音で客席に届けるか。連れ出された事を、今では感謝していた。


 テストとして本田雅人のコピーを一曲終えたところで、いよいよバンド「ザ・ライトイヤーズ」のオリジナル楽曲を、通しでやってみるという事になった。ダニエルさんからは「本番のつもりでやれ」という指示が飛んだ。3万の客がいるつもりで、と。

 ミチルたちは、目線を交わして頷いた。いくよ。


 ダン、ダン、ダン、ダン。マーコのハイスピードなバスドラムに続いて、クレハのフィンガリングによるベースが響く。重々しい導入から一転、マヤの煌びやかなピアノに、ジュナの風のようなギターが、爽やかな春の訪れを感じさせるイントロを奏でた。やがて、ミチルの輝く太陽のようなサックスが響き渡る。金木犀マヤ作曲、”Shiny Cloud”。アルバムの1曲目を意識して書いたというナンバーだ。

 日はすでに高くなり、熱気を帯びた海風が、赤レンガ倉庫を吹き抜ける。ミチルたちの眼には、この2か月の間に彼女たちのサウンドを聴いてくれた人々が浮かんでいた。学校の生徒、先生。ラジオ局のお姉さん。先輩、後輩。音楽祭に来てくれた人達。演奏仲間。家族。雑誌の編集者。そして、ステファニー。明後日には、彼女のチケットを買った3万人の人達に、この演奏を聴いてもらう事になるのだ。

 もう、緊張なんかしている場合じゃない。私たちは、やるんだ。そんな気持ちが、ミチル達の背中を後押ししていた。

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