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Light Years  作者: 塚原春海
伝説の夏
51/187

11:58

「お待たせいたしましたー。オリジナルブレンドコーヒー、マンデリンです」

 ミチルの張りのある声が、純喫茶・ペパーミントグリーンの古風な空間に響いた。落ち着いた赤いレザーの椅子に腰を下ろした中年の男女が、見かけない若いウェイトレスの立ち去る姿を見送る。埋め込まれたタンノイのスピーカーからは、コルトレーンが流れていた。

 カウンター越しに、マスターのハジメ叔父さんから声がかかった。

「ミチル、ナポリタンとピザトースト」

「はーい」

 キッチンから出された皿をトレイに載せ、ビクトリアンメイド風の衣装のミチルは軽やかに客のテーブルへと移動する。入れ替わりにジュナが、若干ふらつく足で戻ってきた。

「ジュナちゃん悪い、洗い物頼む」

「はい」

 バイト2日目、予想していたよりハードな仕事に、ジュナは自分の油断を呪った。以前のファーストフード店でのバイトに比べれば、大した事もないだろうとたかをくくっていたのだ。時刻は12時38分、まだランチタイムは終わらない。バイトを決めたあとで知った事だが、ミチルの叔父さんは昔ホテルのレストランで働いていて、この喫茶店も料理の評判は良いのだった。

「あと30分もすれば、客足はひとまず引くよ。頑張って」

「頑張ります」

 言っているそばから、ミチルが回収してきた皿やカップをシンクに置いていく。

「ジュナ、メイド服似合ってるじゃない。さっき出たお客さん、かわいいって言ってたよ」

「うるさい」

 ミチルに罪はないが、積まれて行くカトラリーが恨めしい。

 洗い物を終わらせたそばから、この店の名物チキンカレーの最後の一皿を客席に運んだ。朝に仕込んだカレーは本日分これにて終了である。ちなみに毎日ではなく、週に3日ぐらいなので、来店しても最初からない日もある。


「お疲れ様。先に休憩していいわよ」

 この店での先輩女性店員が、ホットサンドとナポリタンのまかないランチを準備してくれた。ランチの客足もようやく引いて来た頃合いだ。ミチルとジュナは、そこそこ疲れた身体を引きずって、2階の休憩室に上がった。

「たかだか喫茶店と甘く見てたわ」

 ジュナが、カーペットに足を投げ出して壁にもたれた。

「冷めちゃうよ」

「お前なかなかタフだな」

 よいしょと身を起こし、ジュナはナポリタンを口に運ぶミチルを見た。自分の方がミチルより体力も腕力もある、と何となく思い込んでいたのだが、そうでもないようだ。

「去年もやって、まあだいたい感覚掴んでるからね。慣れだよ」

「そんなもんかな」

 ジュナは疲労で食欲がなかったような気がしていたが、漂ってくる匂いですぐに食欲は戻ってきた。美味い。さすが、もとホテルの料理人である。

「失礼だけど、喫茶店でそんな収益見込めるのかと思ってたんだよな。この客の入りじゃ、納得だわ」

「お盆前は特にね。帰省してきてる人達とかも多いよ。この近辺の飲食店が満員で入れなかった人が、流れて来るパターンもあるみたい」

 ひょっとしてそれを計算した立地なんじゃないか、とジュナは疑った。実際は単なる偶然である。

「ホントに忙しかった日は、給料と別に金一封くれたりするよ」

「マジか。今日はどうだ」

「これぐらいじゃ、まだね。明後日あたり、たぶん凄いと思うよ」

 ジュナは複雑な表情で黙々とホットサンドに噛みついた。お金は嬉しいが、忙しいのは辛い。まあ、仕事というのはそういうものだと、わかってはいるが。

 その時ジュナは、ミチルがスマホのブラウザで、五線譜が表示されたページを開いている事に気付いた。

「オリジナル曲、作れる自信あるのか」

「うーん。なかなかね」

「パッと思い付けるものでもないしな」

 ジュナはホットサンドのハムとチーズの香りを堪能しつつ、さて自分には楽曲など作れるだろうか、と考える。

「私としてはね」

 アイスコーヒーで喉を潤すと、ミチルは少しだけ身を乗り出した。

「仮にみんなで続けて行くとしたら、メンバーみんなで楽曲を作れたらいいな、って思うの」

「なるほど」

「もちろん、強要するわけじゃないけど」

「お前、五線譜読み書きできるんだっけか」

 ジュナは、音楽の道を進む上で何かと議論になりがちな話題を振ってきた。楽譜は読めなくていい、という意見は意外なくらい多い。

「読むのはできる。中学で吹奏楽部だったし」

「あ、そうか」

「でも、聴いて譜面に起こすとかは無理。マヤはそのへん、独学で身に着けたっていうから、根性あるよね」

「あたしもバンドスコアは一応見れるけど、苦手だな。頭と指で覚えた方が早い。マーコもそんなタイプだろ」

 ジュナやマーコは典型的な「演奏して覚える」タイプである。最終的には全員が楽譜なしでライブをこなすわけだが、それでも、とミチルは思う。

「やっぱり、曲を理論立てて構築できるスキルも、持っておいて損はないというか、プロになると必要になる」

「マイケル・ジャクソンとか、楽譜読めない大先輩も多いぜ。それに極端な話だけど、辻井伸行さんみたいな盲目の天才もいる」

「なるほど」

 楽譜は必要か否か。それについて、ミチルはマヤにLINEで意見を訊いてみた。すると、マヤの回答は踏み込んだものでもあり、明快でもあった。


『たとえマイケルが書かれた楽譜を読めなかった、あるいは必要としなかったとしても、楽譜がない音楽作品なんか存在しないわ』

 それはどういう意味かと訊ねたら、やはり回答は明快だった。

『"ビート・イット"だろうと"スムーズ・クリミナル"だろうと、それが演奏された瞬間に何の曲かはわかる。それは拍子とメロディーが決まってるからであって、それはすでに"楽譜"なの。書かれていようと、頭の中にあろうとね。ついでに言うなら、マイケルのバックミュージシャン全員が楽譜も読めなかったとしたら、マイケルの音楽は成功したと思う?』

 なるほど、としかミチルは返すことができない。マヤは、まるで学校の先生のようだった。

『書かれた譜面を読めるべきかどうか、という問題だけどね。それが必要だと思ったら学べばいい。私は、ミチルにはできれば、書けるようになって欲しいけどね』

 え?と返したら、マヤは予想外の答えを返してきた。

『実は3曲ばかり、簡単なデモを弾いてみた。今夜にでも仮の音源にしてミチルに送るから、ちょっと聴いて欲しい』

 

 休憩時間も終わるので、マヤとのやり取りはそこで一旦終わったが、ミチルはマヤの行動の早さに、敬服よりも焦燥を覚えた。何だかんだで、マヤはもうすでに踏み出しているのではないのか。そして自分は、まだメロディーのひとつも考えてはいないのだ。叔父の喫茶店でアルバイトなど、している場合ではないのではないか。ともあれ、引き受けてしまった以上、バイトもしないわけにはいかない。帰宅して、できる時間に作曲活動をする以外にない。

 ただ、少なくともオリジナル曲を作る事は、締め切りがあるわけでもない。完全にミチルたちの自由意志に任されているものだ。マヤに置いて行かれたような気持ちは致し方ないが、ミチルに時間がないわけでもない。その時は、まだそう思っていた。



 東京都内にあるレコーディングスタジオを、レコードファイル誌の編集者、京野美織は訪れていた。作曲家、竹久桂一郎氏の、ある映画のサウンドトラック収録の取材のためだった。

「いや、待たせて申し訳ない」

 63歳、微妙に横にふくらんだ髪はすでに真っ白の竹久氏は、セッションを終えた他の演奏メンバーとともに演奏ブースからコントロールルームに現れた。本日予定していた収録は、これで全て終了である。美織は、何度も取材してもはや顔なじみの竹久氏に、いつものようにボイスレコーダーを置いたテーブルを挟んで向かい合った。

「お疲れ様でした。もう、そろそろレコーディングも佳境ですか」

「スタジオ録音できるものはね。フルオーケストラの大曲がまだ3曲あるんだ。それさえ終われば、ようやく目途がつくかな」

「今回は、竹久さんにしてはフュージョン寄りのスタイルが多い気がしますね」

「映画の内容が、スケール感よりはスピード感主体だからね。自分としては、現代のゲーム音楽に寄せたつもりで作ってるんだ」

 ゲーム音楽。最近取材した、ある少女たちの音楽グループに、ゲーム音楽がきっかけでキーボードを始めたという少女がいる事を、美織は思い出した。その後、今回の映画の内容と音楽のコンセプトや、これまでの作品との違いなど主要なテーマについて話を聞いたあと、雑談に入ったところで美織は、先日取材した女子高校生のフュージョンバンドの事をつい話してしまった。

「ふうん、それはまた若い人にしちゃ珍しいね。今どき、ことさらフュージョンを標榜するのも、日本じゃ時代遅れと受け取られそうなものだけど」

「私も最初は全く知らなかったんです。南條市民音楽祭の取材で偶然、彼女たちの存在を知って」

「ああ、木吉レミがドタキャンしたとかいうやつか」

 竹久氏は笑ったが、美織は焦った。あの件は、もうすでに都内のスタジオにまで届いているらしい。ちなみに、木吉レミが収録したドキュメンタリー「仕事人」は急遽放送取りやめになり、過去の回が再放送された。

「演奏能力はプロ級一歩手前というところです。現代の高校生は凄いなと思いました。竹久さんも学生時代、すでにバンド活動をされてますよね」

「はっはっは。僕の学生時代の音楽活動ってのは、缶ビールや食堂のラーメンを賭けて麻雀やってただけだよ」

 それは美織も知っている。だが、遊びながらでも作ったデモテープが偶然、あるCM制作チームの耳にとまった所から、氏の音楽キャリアがスタートしたのだ。今では、名だたる名作映画、誰もが聴いたことのあるドラマやCM音楽を数多く手がけている、偉大なコンポーザーとなったのだ。

「実はね、そろそろ映画やドラマから離れて、独立したオリジナル曲に軸足を移したいなと思っているんだ」

 それは、音楽業界にとって小さくない独白だった。竹久桂一郎が映画音楽をやめる。

「本気なんですか」

「いやあ、僕が思っても周りがそうさせないだろうね。実際やめる事はないだろう。ただまあ、願望としてはあるっていう事だ。還暦過ぎて、好きなようにやってみたい気持ちはある」

「なるほど」

 美織は、複雑な気持ちで聴いていた。どれほどのキャリアを持っていても、自分でやりたい音楽をやる、という機会はなかなか得られないものなのか。50過ぎて初めてヒットを気にせず、自由にアルバムを作る事ができた、と言っているシンガーソングライターもいる。

「だから、若い人にはやりたい音楽をやれ、って言いたいね。売れる売れないを気にしないで済むうちに。僕なんか、だいぶ若い頃にもう映画やテレビ業界とくっついちゃったからね」


 そのあと、現在の音楽シーンについてなど意見をいくつか話してもらい、その日のインタビューは終了した。

「本日もありがとうございました。それでは、失礼いたします」

「うん。次回もよろしく」

 自らもスタジオを出る支度を始めた竹久氏の前から、美織が退出しようとした時だった。

「そうだ、さっき言ってたその女の子たちのフュージョンバンド」

「はい」

「演奏って聴けるのかな。音源、ある?」

 

 

 フュージョン部部長にして、フュージョンバンド”Light Years”リーダーの大原ミチルは、夜の自室でひとりEWIにヘッドホンをつないで作曲を行っていた。現状では、どうやればメロディなんか作れるのかと、唸っているだけである。

「うーん」

 マウスピースに唇をあて、パッドに指をあてがって、音はすぐに出せる。吹けと言われれば、本田雅人でもマイルス・デイヴィスでも、キャンディ・ダルファーにでもなれる。だが、自分にはなれない。

 オリジナル曲。自分がコピーして演奏している音楽は、つまるところ、誰かのオリジナル曲だ。誰かが自分で作ったから、ミチルたちが弾ける。誰かが作らなければ、それは存在しない。ミチルは、その第一歩を踏み出さなくてはならない。何の義務もないが、それをしなくてはならない、という衝動がいま、ミチルを突き動かしている。

 だが、いざ作ろうと決めても、まったく作れない。それを、マヤはすでに3曲も、仮音源ではあるが進めているという。まだ聴いてもいないが、心底「すごい」と思った。

 ミチルは、動画サイトで見る事ができる、キャンディ・ダルファーがまだ10代、おそらく今のミチルよりも若い頃の、ストリートパフォーマンスの映像を見ていた。偉そうなことを承知で言えば、今のミチルの方がテクニックは上かも知れない。だが、ミチルは彼女の演奏をお手本にして、今までサックスを学んできた。その間、色々なサックスプレイヤーの曲をコピーしてきたが、結局はキャンディに帰ってくる。あの、どこか憂いを帯びた野性的な音色。聴いた瞬間にキャンディだとわかる、あの音色だ。

 ミチルは考える。では、私のサックスの音色はあるのか。誰かが聴いたとき、ミチルの演奏だとわかってもらえるような音色は存在するのか。そんな事を思っていると、ふいにスマホにLINE着信があった。マヤからだ。

『お待たせ。とりあえず、バンドリーダーのミチルだけに送る。ファイル共有サービスにデモ音源を3曲上げたから、ダウンロードして聴いてみてください。パスワードは…』


 ミチルは、マヤの指示どおりファイル共有サービスのページから、マヤが作ったというデモ音源のFLACファイルをパソコンにダウンロードした。それぞれ"1.Friends" "2.Under the moon" "3.Summer"というタイトルがついている。昼はマヤに先を越されたという気持ちがあったが、今では興味の方が勝り、ミチルは1曲目をダブルクリックした。

 

 それは、思ったよりもスローテンポで、普段キリリとしているマヤからはイメージできない、柔らかく、穏やかな曲だった。マヤの内面にこんなイメージがあったのか、という驚きとともに、ミチルはヘッドホンから流れて来るデモ音源に真剣に耳を傾けた。

 マヤによると、メインのメロディーは3曲とも、ミチルのサックスを想定しているという。そこでミチルは、曲の再生に合わせて吹いてみる事にした。譜面がないので耳コピである。こういうとき譜面があれば楽なんだな、という当たり前の事にミチルは気付かされた。

 そして、ミチルはマヤの作曲能力の高さも思い知る事になった。こんなに深いメロディーが、16歳の女子高校生に作れるものなのか。そして、友達が作った曲を演奏する事が、これほど楽しいものなのか。ミチルは残りの2曲も再生してみた。清澄で透明な曲、爽やかで力強さも併せ持った曲。まだ仮のサウンドなので曲になってはいないが、それぞれ特徴がある。


 脱帽、とはこういう事か。ミチルは素直に認め、そして友達にライバル心を抱いてしまった事に、後ろめたさを覚えた。マヤは作曲の才能がある。それはそれで、いいではないか。しかし、マヤから送られてきたメッセージに、ミチルは困惑する事になる。

『もう聴いてくれたっていう体で言うけど。1曲目がどうしても、自分のイメージにならない。ミチルの意見を聞きたいんだ。ここをこうした方がいいんじゃないか、っていうのがあったら教えて欲しい』

 ミチルは後に、これがミチルとマヤの間で、楽曲制作の体制が出来上がったきっかけだったと述懐する事になる。時刻は11時58分を回っていた。

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