クロス・オーヴァー
どんな取材が行われるのかと思っていたら、編集者の京野美織は先に取材の謝礼について説明した。
「謝礼なんていう額ではない、申し訳程度の金額だけど。部費として顧問の竹内先生にお渡ししたので、あとでご確認ください」
のちに確認したところ、それは本当にささやかなものではあったが、それでもミチル達はたとえ高校生相手でも、子供扱いしない態度を印象的に思った。
取材の初めは、ごく無難な内容だった。1年生、2年生それぞれの名前と楽器のパート。フュージョン部の大まかな沿革と、現在の主な活動内容。それぞれが、そのパートを担当することになった経緯。この場にいない3年生について。
「1年生と2年生では、まるっきり音楽性が異なるんですね」
ボイスレコーダーをミチルに向け、京野さんは興味深そうに訊ねた。
「そうですね。1年生は実をいうと、一学期の終わりになって一気に入部してきた5人なので、まだハッキリと方向性は定まっていないんですが」
「デジタル主体の3人と、ギターの組み合わせというのは面白いですよ。それに、レコーディング専門の部員というのも、興味深いです。よろしければ、音源を聴かせていただけますか」
京野さんの希望で、ノートパソコンに収められている過去の音源が、薫がチューニングしたヤマハの古いモニタースピーカーから流された。1年生がストリートライブで演奏した、"美しく青きドナウ"から"ラデツキー行進曲"だ。
最初に試聴されたのが自分たちの音源であることに、1年生達は緊張しているようだった。京野さんは2曲を聴き終えると、何か難しい顔をしてミチルを見た。
「演奏は、ものすごく面白いです。しかし、この音源もまた、あまりにも音がクリアです。市販のライブアルバムでも、これより音が悪いものは沢山あります。これは、そちらの方がマスタリングされたのですか」
京野さんの視線は、村治薫少年に向けられた。ミチルは、まるで自分の事のように自信有りげである。
「はい。彼は厳密には現在、廃部予定のオーディオ同好会との掛け持ち部員なんです」
「オーディオ同好会?」
それに反応を見せたのは、京野さんではなく写真撮影担当の男性だった。
「君はオーディオに詳しいの?」
それまで黙っていたカメラ担当から突然声をかけられ、薫は珍しく焦りを見せる。
「はっ、はい。現在は、主にこちらでレコーディングを担当しておりますが、もともとはオーディオをいじくるのが好きで…この、ヤマハのモニターも、僕がチューニングしたものです」
そう説明を受けた二人の編集者は、おもむろに立ち上がると、鋼鉄のスタンドに載せられたヤマハのモニタースピーカー、NS-1000Mを間近で観察した。男性編集者の米倉さんはスピーカーの背面を注意深く観察し、全体をあらゆる角度から撮影した。
「えっと、それはもともと部室に据え付けてあったもので…おそらく30数年以上前の製品です。ちょっとした事故で練習用のPAスピーカーが壊れてしまって、僕がこれをレストアしたんです。室内用なので、ライブでは使えません」
「バスレフに改造してあるね」
「もともと密閉型なので、チューニングは限界まで低めにしてあります。ほんの息抜きというか…」
突然、ミチル達には何を言っているのかわからない、オーディオトークが始まった。インピーダンス特性とか、ダンピングファクターって何のことだ。
宇宙人どうしの会話が落ち着いたところで、薫が改めて自分の役割を説明した。
「僕は、ライブの音響からレコーディングの音質まで、トータルで考える役割を引き受けています。測定機器に関しては、何しろこういう学校なので、探せばどんな機材でもあります。…高価な機材を貸してもらえるかは、先生がたのご機嫌の取り方しだいですが」
薫は至って真面目に言ったらしいが、大人の二人には"ご機嫌の取り方"というフレーズがツボだったらしく、声を上げて笑い始めた。
「なるほどね。学生だものね、結局は」
京野さんは、笑いながらも表情は真面目だった。いつしか、会話もくだけたものになっている。きっと、こちらが素なのだろう。
「なるほど。演奏から、音響までトータルで行う部活動か…」
「薫くんは、それだけではなくて、ライブの選曲も考えてくれています。音楽祭のアンコールの曲目は、ほとんど薫くんがその場で決めてくれました」
「そうなの?」
「はい。1年生が演奏している間に…」
そこで、またしてもサトルからツッコミが入った。
「ムチャブリで演奏させられてる間に、です」
「根に持ってんのか、お前は!」
ジュナがギターのモニター横に置いてあった、ザ・ハイロウズのバンドスコアでサトルの頭をはたくと、再び部室は笑いに包まれた。京野さんは目尻に涙を浮かべている。
「ふふ、懐かしいわね。私も、若い頃にバンドやってたのを思い出したわ」
「そうなんですか」
ジュナが目をキラキラさせて訊ねると、京野さんは少しだけ、自らの若い頃について語ってくれた。オリジナルのパンクバンドを組んで、ライブハウスで活動していたこと。プロを目指していたこと。その後、みんな社会人としての生活に追われ、バンドは自然消滅したこと。
「取材で自分語りしても仕方ないけど、あの頃は夢を持っていた、と言えるわね」
それは、かつてヴァイオリニストを目指して、家庭の経済的事情で断念せざるを得なかった、清水美弥子先生にも通じるものがある話だった。
当たり前だが、誰もが夢を叶えられるはずはない。夢を叶えたわずかな人間の背後には、無数のそれを諦めた人々がいる。その実力とは無関係にだ。
「ここにいるみんなは、プロのミュージシャンになりたい、と思っているのかしら」
不意に飛んできたその質問に、ミチルは震え上がった。薫から、必ず訊かれると指摘されていた質問が、その通りになったからだ。
「それとも、みんなで楽しくやって、青春の1ページにできればそれでいい、と思う?あるいは大人になっても、アマチュアでいい音楽をやってる人達はたくさんいる。そういう風になりたいと思う?」
京野さんの問いは、ミチル達の予想よりもさらに踏み込んだものだった。どう答えればいいのだろう。事前に話していたけれど、結局ハッキリとした答えは出なかったのだ。だがそこで、全く意外な人物が、全く意外な回答をした。
「東京国際フォーラムとか、大阪城ホールとか、さいたまスーパーアリーナとかでドラム叩けたら、気持ちいいだろうなって思うけどね、あたし」
それは、ずっと黙っていたドラムスのマーコだった。マーコの目には一点の曇りもない。ただ純粋に、それをやりたい、という目だ。
そうだ。それでいいのだ。ミチルは、何を難しく考えていたのだろう、という思いに駆られた。
プロになりたいかどうか、ではない。プロになって何をやりたいか、なのだ。
その、呆れるほど単純な真理に気付くのに、ミチルはマーコの言葉が必要だった。マーコは深く考えない。ドラムスを始めたのも、おそらくは、ただただ単純に、純粋に、ドラムを叩きたかったという衝動、それだけなのだろう。
プロになるというのは、手段なのであって、目的ではない。それに気付いた時、ミチルはサックスを始めた、最初の衝動を思い出した。
「…そうだね。そういう気持ちなら、私にもあるよ」
ミチルは、言葉が自然に紡がれるのがわかった。京野さんに向き合うと、ミチルはその目を見て答えた。
「プロになる事が、私の目標にとって必要なのであれば、私はプロを目指します。その時に、ここにいるメンバーが同じステージにいてくれたら、とても嬉しいし、私もみんなのためにサックスを吹きたいと思います」
それは、ひとつの告白だった。プロポーズとはこんな気持ちだろうか。ミチルは市橋菜緒先輩の事を思い出していた。先輩は吹奏楽部への勧誘をミチルに断られた時、プロポーズを断られたような気持ちだった、と語っている。
だがミチルは、望み通りのプロポーズの返事を期待しているわけではなかった。
「今この段階で、そこまで明確に気持ちを決めているとは言えません。…まだ、迷いはあります。でも、迷いと同じくらいの欲求もあります」
「正直ね」
京野さんは小さく笑った。
「そうね。高校生の頃なんて、それぐらいで自然なのかもね。あなたがサックスを始めるきっかけになったっていう、キャンディ・ダルファーは14歳の時にバンドを組んでいるわ。彼女のように、誰かのバックバンドをやりたいとは思う?」
「経験としては、やってみたい気持ちはあります。けれど、やるなら自分自身で、オリジナルをいつか作りたいです」
その言葉が自分から出た事に、他のメンバーのみならず、ミチル自身も驚いていた。
オリジナル。自分たちで作った楽曲。いちいち説明するまでもない。だが、いまのフュージョン部、そしてミチルたち"Light Years"は、事実として単なるコピーバンドだった。京野さんは当然の質問をしてきた。
「では、オリジナル曲の準備があるの?」
ミチル達は答えに窮した。そんなものはないからだ。ひたすらコピーに熱中して、演奏能力は自分たちでも驚くほど向上した。だがそれは結局、他人が作った作品でしかない。
誰かの作品を自分なりに再現すること、それ自体はひとつの芸術として成り立つ。だからこそ、クラシック=古典音楽、が成り立つ。再演奏を否定したら、吹奏楽部など全世界で廃部にしなくてはならない。
だが、それはそれ、これはこれ、である。
「今は、ありません」
端的にミチルは答えた。その通りだからだ。
「けれど、作ります。私達の音楽を」
ジュナの目が「おい!」とツッコミを入れている。言うは易し、行うは何とやら、だ。だが、キャンディ・ダルファーは14歳でオリジナルバンドを始めている。ミチルは16歳。もう、2年遅れを取っているのだ。
ミチルの決意が固い事に、他のメンバーは気付いていた。上手く行くかどうかはともかく、ミチルは一度やると決めたら絶対にやる。それを、2年生の4人はよく知っている。そうなれば、もうついて行くしかないのだ。京野さんは小さく笑ったあとで、ひとつの提案をしてきた。
「そう。それじゃ、もし完成したら、私に音源を送っていただけるかしら」
「えっ」
それはどういう意味だろう。ミチル達は思った。京野さんは音楽誌の編集者であって、レコード会社のプロデューサーではない。
「どうという事はないわ。ただ、聴いてみたいというだけ。その後に、どうなるかはわからないけれど」
「えっ」
「それと、記事の編集のために、今までの演奏の音源をコピーしていただけるかしら。大丈夫、勝手に配布だとかはしないわ」
「あっ、それならほぼ全セッションがすでに動画で投稿されてるから、URLを…」
ミチルがそう言うと、京野さんはチッチッチッと、指を横に振った。
「うちはオーディオ記事を扱う雑誌だから、編集部の試聴室で、できるだけ良い音で演奏を聴きたいの。悪いけれど、これにコピーしていただける?」
そう言ってバッグから取り出したのは、2TBあるポータブルSSDだった。ミチルは受け取ると、現在楽曲を管理している薫に手渡す。
「ここのノートには一部音源しか入っていません。全音源は、オーディオ同好会の部室のサーバーにあります」
薫が立ち上がると、その流れで取材はオーディオ同好会の部室、現在では事実上フュージョン部の第二部室へと移動した。
「すっげえ…」
カメラ担当編集者の米倉さんは、古びて表面にヒビが入ったコンクリートの部室の中に林立する、オリジナルスピーカー群に驚嘆の声を上げ、メモリーカード残量が心配になる速度でひとつひとつ撮影していった。
「今どき、高校生が長岡鉄男のスピーカーなんて作ってるんだな…」
いよいよ、米倉さんの言葉遣いも雑になってきた。長岡鉄男って誰だ。ググれば出てくるのだろうか。
「ちょっと、鳴らしてみてくれる?」
「あっはい。どれを」
「スワンから聴かせて」
なぜ、その名を知っているのか。この米倉さんもオーディオ趣味なのかと思っていると、京野さんいわく、彼はオーディオ新製品のレビュー担当なのだと説明してくれた。
薫くんが「スワン」と名付けた、焼却炉みたいなスピーカーは、相変わらず10cmユニット1発とは思えないような低音を奏でてみせた。さっき言っていた長岡なんとか、という人が設計したという事なのだろうか。ミチルには、よくわからない世界もあるのだろう。
「うん。いいね。うちの試聴室に1セット欲しいくらいだ」
「レコードファイルさんの所のリファレンススピーカーは何ですか」
「JBLだよ。もちろん音はいいけどね。こういう、フルレンジの鮮烈な音は出せない」
「やはりフルレンジ、いいですよね」
「フルレンジだなあ」
なんなんだ、そのフルレンジ連呼は。フルレンジスピーカーって、ユニットひとつだけで音を出すから、低音高音に分割したスピーカーより分解能で劣るんじゃないのか、とミチルは素人らしい質問をした。しかし、薫の意見は違う。
「例えば先輩のサックスや、ボーカルの音を考えてみて。フルレンジはひとつのユニットでその帯域を出しているのに対して、2ウェイスピーカーは、振動板が重いウーファーと、小さなトゥイーターの合成でボーカルを再現している。その交わる帯域を、クロスオーヴァー周波数という。異なるユニットの合成の音は、瞬発力や透明感で、高品位なフルレンジより劣るんだよ。どんなに高価なスピーカーであってもね」
「でもそんなフルレンジスピーカーなんて、売ってないじゃん」
「そりゃそうさ。ないから作るんだよ、自分で」
薫の答えは拍子抜けするほど単純明快だ。ないものは作ればいい。それを聞いていた京野さんは、米倉さんに何かを耳打ちした。米倉さんはなるほど、といった風に頷くと、薫を向いて言った。
「村治君だっけ。君、短いコラム記事を書けと言われたら、書けるかい」
「えっ!?」
薫は、いつになく驚いた様子でギクリと背筋を伸ばした。こんな表情を見せる事もあるのか。
「いやいや、例えばの話だよ。そうだな、例えば…10代の視点から捉えたオーディオ機器、とかね。ワイヤレスイヤホンで聴く音と、スピーカーで聴く音の違い、だとか…何でもいい。書きたいように書くんだ」
例えば、じゃないだろう。この人達はすでにゴーサインを出している。たぶん、編集部に帰って編集長に打診するのに違いない。ミチル達のバンド活動の話から、全くもって意外な方向に話が進んでいた。
「みっ…短い記事なら、書けるとは思います」
「なるほど、わかった。LINEやってるよね?」
米倉さんは、考える暇も与えず薫とLINEを交換してしまった。これが編集者という生き物か、とミチル達は思った。迷いというものがない。それを察したのか、京野さんはミチルに自身のスマホを示してみせた。
「人でも作品でも、待ってたらダメよ。口を開けて待っていれば、優れた人材や作品を親鳥が運んできてくれるだろう、なんて受け身の発想じゃ、天才にも傑作にも会うことはできない。取りに行かなくてはね」
そう言って、京野さんもまたミチルとのLINE交換を済ませてしまった。彼女は一体、自分に何を見出したというのだろう。オリジナル曲ひとつ、まともに作っていないコピーミュージシャンに。
市民音楽祭への出演が、思いもかけない方向にミチル達を誘っている事を、全員が少しずつ理解し始めていた。