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Light Years  作者: 塚原春海
伝説の夏
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Sentimental Reason

 音楽祭が始まるまでの1週間あまり、フュージョン部の部室は賑やかだった。2年生が全員集合した日は音楽祭に向けての練習が主で、1年生は演奏チェックに回ったり、新たに「接収」したオーディオ同好会の部室で動画制作を行うなど、活動は少しずつ多様になっていった。

 それまでのミチルたちのライブも、演奏を配信してはどうか、という話になったものの、顔出しは色々リスキーだということで、顔や背景は映像処理で上手く誤魔化すか、イラストやCGを流す、という1年の鈴木アオイの案が選ばれた。


 活動は主に午前中のみだったが、それでも夏休み中に学校に来るというのは奇妙な感覚だった。そんなある日、ミチルたちが校門をくぐると、何日ぶりにか知っている人物がいた。

「おはよう。あなた達も来ているのね。ああ、市民音楽祭のリハーサルかしら」

 そう、にこやかに微笑むのは吹奏楽部の3年生、市橋菜緒だった。いつもなら演奏の音色が聴こえてくるはずだが、今日は音が聴こえない。

「おはようございます。今日は、練習はまだなんですか」

 ミチルも、以前よりは和やかな態度で挨拶を返す。ようやく、わだかまりも解けて単なる先輩・後輩の関係になれたようだった。

「もう練習は終わったわ。今日は機材の積み込みがあるの。明日、コンクールだから私達も午後には出発よ」

「もう、明日でしたっけ」

 吹奏楽部とは色々あったが、ここに至ってはもう、応援する以外の気持ちはない。ミチルは他の4人と頷き合って、市橋菜緒に向き直った。

「市橋先輩。吹奏楽部の皆さんが、悔いなく演奏を終えられるよう、フュージョン部一同、応援しています。道中お気をつけて。頑張ってください」

「頑張ってください」

 ミチルたち2年生5人は声を揃えた。菜緒は、真剣な顔で一歩踏み出すとミチルのブラウスのボウタイを直す。

「ありがとう。精一杯、演奏してくるわ」

「はい」

「音楽祭は私も、ユメと一緒に行くつもりよ。あなた達、順番が木吉レミの前になってるのね。ベテランのプロの前座なんて、なかなかないわよ」

 市橋菜緒は苦笑した。ミチルたちはジャズボーカル方面にはあまり馴染みがないため、木吉レミというアーティストについてはほとんど知らないのだが、それなりの人物ではあるらしい。


「プロ、か」

 部室に入って各自が荷物をいつもの場所に置く中、ミチルはポツリと呟いた。

「プロになるって、どんな感覚なんだろうな」

「なってみないと、わからないわね」

 マヤは、キーボードのケーブルを確認しながら答えた。向かいではマーコがタムの位置を直している。

「清水美弥子先生は、プロの音楽家を目指してて、家の事情で断念せざるを得なかったんだよね」

「そうらしいわね。まあ、そんな人は世の中にごまんといるでしょう。経済的な理由、住んでいる場所の理由…人それぞれ、何がしかの制約で目標を断念した人が、清水美弥子先生ふうに言うなら、エクセルの表を作るために満員電車に揺られてるって事よ」

 何ともリアルな話である。それが現実だと言ってしまえば、それまでだ。だが、ミチルはまだ高校生である。話としては理解できるが、実体験がない以上、当然その実感はない。

 プロのミュージシャンになる。そう、ハッキリと考えた事はあっただろうか。ミチルは自問した。今までは、ただキャンディ・ダルファーに憧れてサックスを始め、練習の過程で様々なアーティストの存在を知って、ひたすら演奏の練習と、曲を覚える事に打ち込んできた。

 では、その先はどうするのか。それを考えた時、高揚感と不安の両方が同時に襲ってくることにミチルは気付いた。不安を感じるのは、なぜだろう。何がそんなに不安なのだろう。

「おい、ミチル」

 ミチルは、ジュナの声で我に返った。

「音楽祭、車は顧問が出してくれるんだよな」

「え?ああ、うん。だから前の日のうちに機材は積んでおく事になってる」

「…間に合うかな」

「何が」

 ミチルは、何の事だろうと考えて、すぐに思い至った。

「まさか、この間塗装はがしてたテレキャス、持って行こうとしてる?」

「どうしようかなって。塗装が完璧に固まらないうちは弾きたくないしな」

「テレキャスの音だと、あのセトリに合わなくない?」

 ミチルは素直な感想を言った。というより、そもそも普段のサウンドはレスポールが主体である。

「あんたがテレキャスいじってるのが意外と言えば意外だわ」

「うん、なんか最近あのアメリカンな音も悪くないな、って思ってさ。コピーモデルのジャンクを探したんだよ」

「まあ、どうしても弾きたいってんなら持って行けば?」

 ジュナは、うーんと唸ったあとで、胡坐をかいた腿をパンと叩いて頷いた。

「この件は保留」

「何よそれ」

「テレキャスのハイパスフィルター取っ払うか、とも思ったんだけど、それだとテレキャスの意味もないし」

 ジュナは時々、ギターのことで独り言のように語り始める事がある。ミチルは後で知った事だが、テレキャスターにはハイパスフィルターというものが入っていて、それがあの独特のチャキチャキしたサウンドの秘密なのだそうだ。

「さて、それじゃ予定のセトリを通してやってみようか」

 ミチルは、おおむね全員の準備が整った事を確認すると、EWIを手に立ち上がった。横にはアルトサックスもスタンバイしている。

「ワン、ツー、ワン、ツー」

 勢いよくマーコのドラムが入ると、クレハの伸びのあるベースにマヤの爽やかなシンセ、ジュナの軽やかなギターが続いて、夏の海と空を思わせるイントロが始まる。やがてミチルの自信に満ちた主旋律が、古びた部室を支配した。

 5人の息は完璧だった。演奏しながら、ミチルは思う。ずっと、この4人と演奏していたい。ずっと、5人で演奏していきたい。それを実現するには、どうすればいいだろう。何ができるだろう。あの、自分達のあとに音楽祭のトリを務める何とかというジャズボーカリストにも、そんなふうに思えるメンバーがいるのだろうか。

 あるいはいつか、5人が抜き差しならない理由で離れ離れになり、今のこの瞬間が、ただの過去の思い出になってしまうのだろうか。そんな事を思っていると、EWIを吹きながらミチルの目には涙がにじみ始めた。それを隠すために、ミチルは隣のジュナと目を合わせないよう、涙が乾くのを待った。

 その日は1年生達は来ず、演奏をひととおり終えると、衣装の試着をしてお開きになった。


「ジュナ、今日そっち行ってもいいかな」

 ミチルは、電車に揺られながらジュナに訊ねた。

「ん?ああ」

「途中にスーパーあったよね。お昼買っていく」

 それは表面的には、いつもと変わらないやり取りだった。


 電車を降りてクレハ、マヤと別れると、ジュナの自宅に向かって二人は歩いた。新幹線の陸橋の下をくぐると、15分ほどの所にジュナの自宅はある。

「なあ、ミチル。なんかあったか」

 ジュナが突然そう訊ねるので、ミチルは少しだけ肩を強張らせた。

「さっき練習してた時、泣いてたろ」

「なんでそうカンがいいかな」

「言ってみろよ」

 ジュナの声は柔らかく、優しい。言葉遣いはぶっきらぼうだが、誰よりも仲間想いで優しいのが、折登谷ジュナという少女だった。ミチルは、マンションやビルに切り取られた、晴れ渡る空を仰ぎながら言った。

「笑わないでね。さっき、演奏しながら、思ったの。わたしたち、息ピッタリだな、って」

「ああ。…あたしもそう思う」

「それでね。ずっと、みんなと一緒に演奏していたい、それができたら幸せだな、って思ってね、それから」

 ミチルの嗚咽が聞こえたのは、その直後の事だった。

「いつかね、みんなが離れ離れになって、一緒にスクェアを演奏する事もなくなったら、って、思ったらね」

 道端にしゃがみ込んでミチルが泣き始めたのを見て、ジュナは肩を抱いて立ち上がらせた。路を外れて、”入居者募集中”の看板が立つ家と、線路に挟まれた通りを二人は歩いた。

「バカだよね、そんなこと考えるなんて」

 ジュナから借りたハンカチで涙を拭きながら、ミチルは無理に笑った。ジュナは、切なさをたたえた笑顔で俯きかげんに聞いていた。

「ミチル。実はさ」

 ジュナは、ミチルの肩に手を置いて、寂しそうに微笑んだ。

「まったく同じ事、あたしもよく考えるんだ」

「え」

「今、お前に言われてびっくりした。あたしと同じだ、って」

 お前みたいに泣きはしないけどな、とジュナは笑う。

「みんなと会えて、こんなふうにバンドを組めて、あたし本当に楽しいんだ。今が、今までの人生でいちばん楽しいって、本気で思ってる。だから、それがずっと続けばいいな、っていう気持ちと、いつか終わりが来るのかな、っていう気持ちが、同時に襲ってくる」

 それは本当に自分と同じだ、とミチルは思った。その時ミチルは、どうして自分がジュナに強烈に惹かれるのかを、理解できた気がした。自分達はきっと、同じ存在なのだ。

「ミチル、お前さっき、プロって何だろう、みたいなこと、呟いてたよな」

 ミチルはギクリとした。あれは、まったく偶然に呟いた事だったのだが、聞かれていたらしい。

「お前、プロになる気、あるか」

 そのジュナの問いかけは、ミチルがある意味で、待ち望んでいた問いかけだったかも知れない。誰かがそう訊ねてくれないだろうか、と思っていた。それを、ジュナが切り出してくれた。そして、ジュナの言葉は全ての疑問を吹き飛ばしてくれるものだった。

「あたしは、プロになりたい」

 その言葉は、春風のようにミチルの心を吹き抜けた。

「マジで言ってるんだぞ。遊びじゃねーぞ」

「…うん」

「プロになって、お前とステージに立ちたい。お前はどうだ」

 ジュナは、ミチルの前に立ち止まると、振り向いて言った。顔が近い。ミチルは返答に窮したが、やがて意を決したように頷いた。

「…あたしも、プロになりたい」

「よし」

 ジュナがミチルの両肩に手を置くと、琥珀色の瞳がミチルの目を捉えた。

「うちの婆ちゃんが言ってた。言葉にする事が、出発点なんだ、って。あたし達は今、最初の言葉を口にしたんだ。そうだろ」

「うん」

 なんとも間の抜けた返事だな、とミチルは思う。

「そりゃあ、一足飛びにプロになんてなれるわけがないさ。けど、とりあえず言っておくのって、そんな悪い事じゃないと思うんだ」

 そう熱っぽく語るジュナは、どこか大人びて見えた。大それた、現実離れした事を言っているのに、大人に見えるのだ。いや、そうではない。現実離れだと思っている限りは、それはただの夢だ。夢を見るのではない。

 それまで、胸の内でモヤモヤしていた事が、ジュナの一言で形をなし始めた。その決意は、とてつもなくエネルギーが要る。何かを選択する事が、こんなにも重い事だとは知らなかった。

「できると思うの」

 ミチルは、ごく自然にそう訊ねた。

「わかんねーよ、そんな事。けど、今やってる事って、そんな無意味じゃないと思うんだ」

「うん」

「だから、まずは今、みんなでやってる事に全力出そう。まずは音楽祭だ。2学期には文化祭もあるし、街角ライブもある」

 街角ライブは、市内のわりと小さな公園で行われている、個人主催による不定期音楽イベントだ。秋には必ず行われ、ミチルたちも出演経験がある。

「それにあたし達、ラジオ出演もすでに果たしただろ。妙な形式ではあったけど」

「あれ、出演っていうのかな」

 ようやく元気を取り戻したミチルが、笑いながら地元FMの取材を思い出していた。単にインタビューを受けただけのようにも思う。ただ、ライブ演奏がコミュニティの範囲ではあるが電波に乗ったのも事実だ。それは、ミチル達自身の活動が呼び寄せた結果には違いない。ひょっとしたら、もしかしたら、自分たちにも何かできるのかも知れない。そんな根拠のない予感、あるいは期待が、ミチルの心に確かに芽生えた。

 ひとつの決意が、ミチルの中で迷いを取り払ってくれた。その決意が、親友からもたらされたものである事が、ミチルにはとても嬉しかった。

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