ビッグ・アイディア
何曲か演奏したところで、ミチルがマイクの前に立った。
『ここで、新たに加入してくれた1年生の4人に演奏を代わってもらいます』
振り向くと、ミチルはリアナとマイクを交代した。なんとなく、リアナが1年組のリーダーみたいな空気が出来つつあるらしい。
『1年、理工科の戸田リアナです。それでは、2曲セットでお聴きください』
それだけ言うと、リアナは左手に下がってガットギターを下げた。サトルがEWIを持ち、キリカがキーボードの前に立つ。そして、アオイがオタマトーンを持って真ん中に立つと、客席から笑いが起こった。教頭先生は再び憮然としているが、もはやフュージョン部には教頭の存在など眼中にない。
アオイがアイコンタクトを取り、キーボードによるベースがゆったりとしたリズムを取る。やがてオタマトーンから気の抜けたような「美しく青きドナウ」の主旋律が流れると、審査員達も吹き出してしまった。
だがミチル達と同様に、リアナのギターと相まって、聴いているうちに不思議な魅力を持った音の世界に客席は引き込まれていった。その演奏から「ラデツキー行進曲」に移行した時、清水美弥子先生と吹奏楽部の顧問が反応を見せた。
「なるほど」
「ウィーンフィルですね」
二人は呟くと、にやりと笑った。
いつの間にかミチルは指揮者役でステージの前面に立ち、例の客席に向かって手拍子を促すパフォーマンスの真似をした。当然のように客席から、演奏に合わせて手拍子が鳴る。最初は渋っていた教頭先生も、仕方なく横の先生たちに合わせていた。
ニューイヤーコンサートさながらの拍手で演奏が締め括られると、再びリアナがマイクの前に立つ。
『ありがとうございました。1年生のパフォーマンスは、これで終了になります。キーボード、長嶺キリカ。パーカッション、鈴木アオイ。ギター、ウインドシンセサイザー、獅子王サトル。そしてガットギター、戸田リアナでした』
4人は深々とお辞儀をして、拍手のなか袖に下がる。すでに、立派なフュージョン部員だった。
1年生に代わり、再び2年生がステージに立つ。ミチルの手には、アルトサックスではなくトランペットが握られていた。
『それでは、最後の3曲になります。マイルス・デイヴィス"That's what happened"、キャンディ・ダルファー"For the love of you"。そしてT-SQUARE"Romantic City"』
袖で聞いていた1年生は、またもセトリにない曲がある事に気付いた。キャンディ・ダルファーなど書かれていなかった。また土壇場でやる事にしたのだろう。
"That's what happened"は、マイルス・デイヴィスの1984年のアルバム「Decoy」からの、スピード感が特徴のエレクトリックナンバー。それでもやはりマイルス独特の、陰りを帯びたサウンドに味がある。ジャズ奏者としてのマイルスファンからはあまり評価されないアルバムだが、むしろ現代にこそ相応しいサウンドでもある。
"For the love of you"は、正確には同名のアルバムのラストナンバーになっている同曲のダンスミックス版である。ここでミチルはアルトサックスに持ち替え、勝手に師匠と仰ぐキャンディ・ダルファーのサウンドに肉薄できるよう、真剣な表情で演奏し切った。アダルトな雰囲気のコーラスは、マヤとジュナが担当するのが常だった。
"Romantic City"は1991年のアルバム収録、フュージョン部ではここぞという時のために取っておくナンバーだった。ギタリスト安藤正容による傑作であり、アコースティックギターがほぼ全編にわたって入る、リズミカルでありながらどこかスパニッシュで切ないサウンド。全てのパートにハイレベルな演奏が要求され、特に間奏でのキーボード、ソプラノサックスのソロは一切のミスが許されない。この曲を8割がたの完成度でコピーできる時点で、現在の2年生の実力が本物である事は疑い得なかった。
全ての演奏が終わったとき、全員が軽い放心状態で、一瞬拍手を忘れていた。清水美弥子先生の拍手をきっかけに、盛大な拍手が贈られ、1年生を含むフュージョン部の全員が、深々とお辞儀をした。
ようやく拍手がおさまると、ミチルは体育館の後方の席に、動物の被り物をした不審な4人人組が座っていることに気が付いたが、無視してマイクの前に立った。
『以上で演奏は終了です。ありがとうございました』
すると、吹奏楽部の顧問がマイクを取った。
「素晴らしい演奏でした。2年生は当然のこと、個人的には1年生も、全く違う個性を持っていると思います」
『ありがとうございます』
「正直、方向性はだいぶ異なると思うのですが、1年生に、自分たちのサウンドを引き継ぐといった事は考えていますか?」
その問いに、ミチルは少し考えて答えた。
『フュージョン部の伝統的なレパートリーやサウンドは、もちろん引き継いで行きたいです。しかし、学年ごと、世代ごとにそれぞれが個性を持ったサウンドを出せるなら、それでいいとも考えています。フュージョンはバンドによって、音の世界観が異なります。伝統と自由、その両方が必要ではないかと今では思います』
その回答に、吹奏楽部の顧問は数秒間無言だった。伝統的な演奏、音を連綿と引き継いでいくのが吹奏楽部だが、それとは全く異なる価値観を平然と受け容れている。
「わかりました。素晴らしい姿勢だと思います。これからも、それを続けてください」
そう言ったあとで、先生は続けた。
「それと実は、ある生徒から、みなさんの演奏をマスタリングした音源を頂いたのですが、マスタリングされたのはどなたですか」
すると、フュージョン部のメンバーは驚いた様子で互いを見た。そして、視線は一点に集中する。その中心にいた少年、薫はマヤのマイクを借りて答えた。
『…僕です』
「村治君でしたね。ちょっとお願いしたいのですが、今ここで、その音源は再生できますか」
突然の注文に、薫は面食らった。どういう事かと訝りながら、ノートPCの中を見る。
『はい。マスタリングする前と後の両方が再生できます』
「では、何の曲でもかまいません。マスタリング前と、マスタリングしたものの順で、お願いします」
『わかりました。では』
薫は録音したファイルの中から、数日前に録音した、チック・コリア・エレクトリック・バンドの”Light Years”の、録音したまま一切調整していないファイルを再生した。
最初の、未調整の音源はいかにも録音しました、というような音質だった。空気感はよく出ているが全体的に音がぼやけていて、高音の切れもよくない。審査員たちの反応も、まあこんなものだろう、といった表情である。
だが、次の薫がマスタリングした音源を聴いた瞬間、全員が目を瞠った。まったく違う。モヤがかかって見えなかった景色が、一気に晴れて遠くまで見渡せるような違いだ。サックスが、まるで目の前でいま演奏しているかのようなリアルさである。
『以上です』
「本当に同じ音源?」
今度は、別な30代くらいの男性教師が訊ねた。
『はい。間違いありません。連日のライブで、この曲は一度しか演奏していません』
「それを、君が調整してこの音に仕上げたの?」
『はい。正確には、サックスだけは独立したマイクで録ったマルチトラック音源なので、2本だけのマイクで録った場合より、音のバランスの調整がしやすかった事もあります』
「なるほど。それにしても、これはまるで市販のCDみたいに、きちんとした音になっているね」
『ありがとうございます』
薫が礼を言うタイミングで、吹奏楽部の顧問が再び訊ねた。
「ちょっと質問。仮に、吹奏楽部の演奏の録音とミキシング、マスタリングをそちらに依頼するとしたら、引き受けてもらえますか?」
その質問に、ちょっとしたざわめきが起こった。薫は少し思案し、ミチルと一言二言なにか交わしたあとで答えた。
『それについては、のちほどこちらからプレゼンテーションを行う際にお答えしていいでしょうか』
「なるほど。わかりました」
吹奏楽部の顧問はそれで質問を終えた。すると、それまで黙っていた40代くらいの、やや白髪が見える細面の男性教師が挙手した。
「最初に、同じ曲を音響調整の前と後で演奏してみせたけれど、あれもマスタリングと要領は同じなのかな」
『まあ、考え方としては同じ事です。ただ、調整の目的が異なります。ええと、このままプレゼンテーションに移らせていただいて、僕の番で先ほどの質問とまとめて回答したいと思いますが、良いでしょうか』
男性教師は教頭と頷きあって答えた。
「かまいません。どうぞ」
『ありがとうございます。いったん、部長の大原に返します』
再びバトンタッチされたミチルが、ひとつ咳払いして話し始めた。
『大原です。私たちフュージョン部は、フュージョンという音楽の良さを表現するために活動しています。過去にはフュージョン・ブームの時代もありましたが、私たちが生まれるはるか以前の事なので、少なくともそういった時代へのノスタルジー、といった姿勢ではありません』
ミチルの説明は堂々としたものだった。その様子に感心している教師もいる。
『手前味噌ですが、私たち2年生は、本当にいいメンバーが奇跡的に揃ったと思っています。3年生の先輩方にはまだ及ばないところもありますが、みんなの演奏は確かなものです』
ミチルは、ステージ上のメンバーを見渡した。ジュナがわざとらしく、明後日の方向を見る。
『ご存知とは思いますが、ここ数日、私たちはずっと部室前で毎日ライブを行ってきました。最初は部員勧誘が目的でしたが、だんだんそれを忘れて、演奏そのものが楽しいと思えてきました。ラジオ局まで来てくれた事は、私たちの活動が好意をもって受け入れてもらえるものなのだ、という自信にもつながりました』
ミチルは、教頭先生を見た。相変わらず憮然としているが、少し表情が和らいでいる。
『私たちは音楽が好きです。それは例えば吹奏楽部と、何ら変わるものではありません。そして、機材さえあればどこに行っても演奏できます。現に毎年、市民音楽祭に出演していますし、例えばさきほどの1年生のユニークな演奏。ああいったものを、幼稚園のイベントだとかに出張して演奏する、といった事もできるでしょう』
その提案に、教師たちはハッとさせられたようだった。部活動の内部だけで完結するのではなく、外部にも出て行ける。確かにそれは、大規模な吹奏楽部にはできない事だ。
『極論すれば、フュージョン部に演奏できない音楽はありません。吹奏楽部の市橋菜緒先輩に指摘された事ですが、フュージョンには垣根がないのです。千変万化できるフュージョンを、学校生活の中で体現していきたい。それが私たちのやりたい事なんです』
ミチルがそう締め括ると、教師たちから小さく拍手が起こった。ミチルは礼をして言った。
『ですが、それだけではありません。ここは、科学技術工業高等学校です。その、学校なりの特徴を活かして活動できないか、という事を、ここ数日の間に考える機会がありました。それを、村治部員に説明していただきます』
薫に合図すると、ミチルは一歩下がって控えた。
薫はマイクの前に立つと、小さく礼をしてから説明を始めた。
『まず、一番最初の質問に回答します。今日の演奏の音響についてですが、我々は学校から借りた測定器を用いて、体育館の音響特性を測定する事から始めました』
その説明に、最初に反応して表情を変えたのは吹奏楽部の先生だった。
『現在の音響機器には、空間の共鳴周波数を自動で突き止めて、マイクのハウリング等を抑える機能があります。ですが、僕はその方法論で、演奏の音質を上げることを試みました。体育館の音響特性を調べて、周波数のどの部分にピークやディップができているかを調べます。そして、ピークが起きる音域は下げ、ディップができる音域は上げる。これで、まず基礎となる周波数特性のフラット化が完了します。これを、ソフトウェアにいったんプリセットしておきます』
突然、物理的な講義が始まったので、教師たちは「うーん」と唸り始め、興味深そうに耳を傾けた。教頭の表情も変わっている。
『ここまでは自動補正でもできる事です。が、僕はここから、我々の音楽にもっとも合った特性に調整する事を考えました。具体的には、サックスが気持ちよく伸び、ベースがふくらみと締まりを兼ね備え、ギターはロックのように歪みすぎない事、などです。これは、演奏する各メンバーの意見を聞きながら詰めていきました』
ここで初めて、男性教師から質問が出た。
「それは例えば、同じ事をここではない、他の環境でも出来るの?」
『もちろんです。たとえば、部長が言った幼稚園でも、小さな公民館でも、野外でも。ただし、あまりPAの質が悪ければ対応には限界はあります。このスピーカーは、オーディオ同好会が所有する自作品で、非常にフラットでワイドレンジな性能を持っているので、シビアな調整にも対応できるのです』
「スピーカーを作るところから、か。それはちょっと聞いた事がないな」
『はい。正直なところ、例えばこの体育館備え付けのスピーカーは音質が良いとは言えません。自作なら、比較的安価なコストでその音質も上げられます』
ふうむ、と男性教師は腕組みした。
『つまるところ、音質がもっとも影響するのは音楽です。我々は、自らが演奏者であり、演奏から音出し、音楽に合わせた音響の調整、録音までをトータルで行う事が可能です。もうひとつの質問ですが、たとえば吹奏楽部の録音を引き受ける事ができるか、と問われれば、イエスです』
なるほど、と吹奏楽部の顧問は頷いて質問を終えた。
『それでは、部長の大原から最終的な説明を行います』
薫は後ろに下がり、ミチルとバトンタッチした。ミチルはマイクの前に立つと、真剣な表情で、体育館を見渡すようにプレゼンテーションを始めた。
『エジソンが録音と再生を実現してから現代に至るまでに、音楽はもう録音再生なしでは語り得ない所まで来ました。少なくとも現代文明がなくならない限り、音楽イコール録音物、と言っても過言ではないと思います。その重要性に、私はこの村治薫くんが所属するオーディオ同好会を見学するまで、気付いていませんでした』
一息ついて、ミチルは背筋を伸ばす。
『そこで、私は他のメンバーや、先輩方のアドバイスを総合して、ひとつの結論に至りました。私たちフュージョン部は、科学技術工業高校の部活に相応しい存在として、音響技術の研究までトータルで行う、新しい部活を設立する必要がある、と』
ここで、ざわめきが一気に大きくなる。清水美弥子先生は、ミチルを真っ直ぐに見ていた。教頭先生は、それまでにない極めて真剣な表情で、ミチルが何を言うか待ち構えているように見えた。
ミチルは、高らかに宣言した。
『私たちはフュージョン部とオーディオ同好会を母体とした、”フュージョン・アンド・サウンドクリエイション・クラブ”、その略称としての”フュージョン部”の創設をここに提案するものです』