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Light Years  作者: 塚原春海
ようこそフュージョン部へ
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少年とスワン

 翌日の練習には、キーボードのマヤが来なかった。家の用事が急に入ったとの事である。とりあえず、リズム隊がいれば音にはなるので、キーボード抜きで演奏することにした。ジュナが、ある程度はキーボードのパートもギターでカバーしてくれるという。クルセイダース「Street Life」だとかの稀にあるボーカル曲も、単純なリフぐらいなら歌いながら弾いてしまう。いつも思うが、器用な子だ。

 

 今日の練習曲は、ザ・リッピントンズの一九八九年のアルバム「ツーリスト・イン・パラダイス」から、一曲目のアルバムと同名のナンバー。ちょっと気怠いような初夏の午後を思わせる名曲だ。自分で言ったとおり、ジュナはイントロのキーボードを、空間系エフェクターを上手く使ってそれっぽく弾いてくれた。

 クレハのベースも、マーコのドラムスも、シンプルなだけに難しいこの曲をきっちり再現している。さすがだ。よくも、これだけのメンバーが奇跡的に揃ったと思う。


 問題はミチルのサックスだ。今日は生のサックスの手入れが面倒なので、ウインドシンセサイザーを使っている。ウインドシンセとは要するに電子版のサックスで、吹く事で音量変化を再現できる。――のだが、本日のミチルはリズムが狂っていること甚だしい。この曲は特にメインパート他のパートとのコンビネーションが難しい。

 四分二〇秒くらいの所でメインがサックスに切り替わるところで、ミチルは音出しが遅れてしまう。それを取り戻そうと急いだせいで、テンポがめちゃくちゃになってしまった。

「!」

 ジュナが眉間にシワを寄せてミチルを見る。演奏のミスではなく、ミチル自身の狂いに気がついたのだ。ミチルはパッドを操作する指を止め、手を上げて演奏を中止させた。

「ごめん。……今日はちょっと、調子が出ない」

 そう言って、中古で見つけたウインドシンセサイザー、AKAIのEWIを首から外す。クレハとマーコはキョトンとしていたが、付き合いの深いジュナはだいたい察してくれたようで、無表情で「わかった」とだけ言って、水色のテレキャスターをスタンドに置く。ジュナがそうするなら、といった様子で、他の二人もそれに倣った。

「ごめん。先に帰る。鍵お願い」

「ああ」

 ジュナはそれだけ言って部室の鍵をミチルから受け取ると、特に何も言わず部室を後にするミチルを見送り、部屋の隅に立てかけてある、ピックアップの調子が悪いギターを手に取った。この前から直してみると言っていたので、この機会に着手するつもりなのだろう。


 

 言い出せなかった。


 そう心で呟きながら、ミチルはクラブハウスが並ぶ道を歩いていた。もうみんな何となく思ってはいる事だが、じかに顧問から「廃部」という単語を突き付けられると、やはり終わってしまうのか、という切ないショックが襲いかかってくる。

 あと一カ月かそこらで、一年生五人を集める。春の勧誘で一人も獲得できなかった部活が、である。普通に考えれば、できるわけがない。


 部活がなくなっても、サックスやEWIがあるかぎり、ミチルの人生から音楽がなくなるわけではない。都合のいい考えかも知れないが、今の同学年のメンバーとも、長くやっていければいいな、とも思っている。それでも、フュージョン部という共同体ですでに一年以上やってきた以上、卒業するときも「フュージョン部の大原ミチル」として去りたい気持ちがある。


 ミチルは行動力にも統率力にも長けた少女だが、一度何かを溜め込むと、それをなかなか外側に出せないという欠点があった。無駄に責任感が強すぎるのである。フュージョン部が仮になくなるとしても、それはミチルの責任ではない。仮に、重箱の隅をつついて責任の一端をほじくり出したとしても、責め立てられるほどのものでもないだろう。それはミチルもわかっていた。

 だが、とっくに他のメンバーから次の部長はお前だ、と言われている以上、なくなるのは仕方ないよね、で片付ける事もできないのだった。


 そんなことを考えながら、外に出てから何回目かの溜息をついた時だった。

「?」

 ミチルは、かすかに聴こえてくる、聴いた事のあるサウンドに気が付いた。アップテンポのロックナンバーだ。

「これ…マイケミ?」

 ミチルは耳をすませた。それはミチルも良く知るというか大好きな、マイ・ケミカル・ロマンスの「I'm not okay」であった。

「なんだ?」

 どこから聴こえるんだ、とミチルは周囲を見回した。うちに軽音部はないし、そもそもこのボーカルは間違いなくマイケミのジェラルドだ。誰かが再生している。学校のすぐそばに民家はない。遠くに見える家からこの距離で聴こえるなら、近所迷惑どころか警察が飛んでくるレベルで、ガンガン鳴らしている事になる。


 ミチルは、ようやく音の発生源に気付いた。クラブハウス棟の脇に、オンボロの物置小屋がある。そこからだ。物置小屋で、誰かが音楽を鳴らしているのだ。ミチルはゆっくり物置小屋のドアに近付いて、ロングストレートの髪をかき上げ片耳を出した。聴こえる。ただし、非常にかすかに。耳を澄まさないとわからないレベルだ。

 その時、ミチルにはこの古いドアが、防音ドアである事に気が付いた。完璧ではないが、明らかに防音処理が施されている。そして、なぜこんなオンボロの物置小屋に、防音ドアがあるのかもわかった。そのドアには木の札が貼り付けてあり、こう書かれていたのだ。


[オーディオ同好会]


 と。


 正しくは、[オーディオ部]の”部”を訂正して、その下に”同好会”と書いてあるのだ。以前は部活だったが、同好会に格下げされたのだろう。最近どこかで聞いた話である。

「オーディオ同好会……? こんなマイナーな部活あったんだ」

 よその事は言えないけど、とミチルが呟いたその時だった。気が付くと演奏が止まっていて、静寂とともに風に木の葉が掠れる音が聞こえた。次に何を聴くか考えているのだろうか、と思った刹那、ドアがガチャリと開いたのだ。

「わあ!」

 ドアに接近していたミチルは、あやうく額を強打しかける所だった。バッグを抱えて飛び退ると、開いたドアのノブに手をかけたままの人影に気付く。

「どちら様?」

 それは、男子生徒だった。いや、正直に言うと、女の子かと思った。開襟シャツをスラックスに入れているのに気付くまでは、少しウェーブのかかったふわりとした髪に、細い縁の眼鏡をかけている。背丈はミチルと同じくらいだ。

 シャツの学年章が赤い。つまり一年生、ミチルのひとつ下だ。ちなみにミチルたち二年は青、三年は緑である。

「えっと、ごめんなさい。知ってた曲が聞こえてきたから、何かなと思って」

「この防音ドアで? 耳、いいんだね」

 向こうもミチルの学年に気付いたのだろう、女の子みたいな少年は、すぐに丁寧語で話しかけてきた。

「てっきり物置小屋だとばかり思ってたんだけど、よく見たらオーディオ同好会ってあったから……」

「こんなマイナーな部活あったのか、って?」

「ちょっと思った」

 つい、本音がもれる。少年はごくわずかに眉をひそめ、ドアを閉じかけた。

「ご用がないならお引き取りを」

「ある! 興味あります!」

 いきおい、そう言ってフォローするしかなく、ミチルはなし崩しにその「物置小屋」に招かれる事になったのだった。



 外観はひびが入ったコンクリートの小屋だが、中に入ると四〇畳はある、同好会に与えられたスペースとしては広大と言っていい空間だった。ただし造りは古く、一人でいるのはちょっと怖い。何の建物だったのか知らないが、これも旧校舎の遺産だろう。

 しかし、驚くのはその広さではない。入ったその正面の奥には、大小様々なサイズの、奇怪な――奇怪と言っていいデザインの、スピーカーらしき物体が文字通り、林立しているのだ。その手前には手製の頑丈そうな、厚い板で組まれたオーディオラックが並べられており、オーディオアンプやCDプレイヤー、アナログプレイヤーまでもが据えられている。

「すごい……」

 ミチルの月並みであり、素直な感想がそれだった。それ以外になんと言えばいいのか。スピーカーのデザインは見た事もないもので、天井すれすれまで立ち上がった柱のようなもの、何やら階段状に積層したホーン状の巨大な口を開けているもの、身長を超えるやはり柱のようなキャビネットに、縦に何個もユニットを連ねたもの。

 中でもひときわ奇怪なのは、なんというか焼却炉のような、四角い土台から頭がにょきっと突き出して、10センチくらいのユニットが一つだけついたスピーカーである。高さはミチルの鳩尾くらいまである。

「これ……スピーカーなの?」

 思わずミチルは訊ねた。少なくともこんなスピーカー、電気店では絶対に売られていない。

「そうです」

 少年はそっけなく答えた。変声期はとうに過ぎているはずだが、高く透き通った、凛とした声だ。

「さっき鳴っていたのが、このスピーカーです」

「え?」

 私は耳を疑った。さっき漏れ聞こえていた音は、確実に下のオクターブ、ベースの帯域までしっかり再生されている。オーディオは素人の自分でも、いちおう音楽を専門にやっているのだ。あれがこんな10センチくらいのユニットから出ている音でない事くらいわかる。楽器演奏だって部室のモニター用ベースアンプと、ライブハウスやステージの巨大なアンプでは、音の重みが違うのだ。

 そう言うと、少年はまたわずかに不機嫌そうな顔をして、ミチルに部屋中央の椅子を勧めた。

「じゃあ聴いてみてくださいよ。さっきと同じ曲を鳴らしますから」

 自信あり気に親指を向けるので、ミチルもついムキになって椅子に近付いた。

「よ……よおーし」

 スピーカーが置いてある面に向かい、再生を待つ。すると少年は、後方のデスクに置かれているノートPCの操作を始めた。てっきり目の前のラックのプレイヤーを鳴らすのかと思っていたが、PCからの音源らしい。


 イントロの高速のギターが流れ、ベースが続いて演奏が始まった時、ミチルは文字通り椅子から飛び上がりかけた。ベースラインが完璧に聴こえる。それも、全身に響く本物の低音である。

「わああ! マイキーのベースが聴こえる!」

 それだけではない。バスドラムもきちんと、骨格を保って聴こえる。それが、スマホのケースに隠れてしまうほどの、刺身醤油の小皿みたいなスピーカーユニットから鳴っているというのが、ミチルには信じられなかった。

 ミチルは椅子を立って、その焼却炉みたいなスピーカーの背面に回った。背面に、30cmのウーファーが隠してあるのではないか。しかし、焼却炉の土台部分となっている四角い巨大なボックスの背面にあるのは、上部に開いた大きなダクトだった。


 そこでミチルは気が付いた。マイキーのベースが聴こえるのは、その背面の大きなダクトからなのだ。

「これ…どうなってるの」

 唖然とするミチルを横目に、眼鏡の少年はアンプのボリュームを会話ができるレベルまで下げた。

「驚いた? これは、”バックロードホーン”と呼ばれるスピーカー構造なんだ」

「ばっくろーどほーん?」

 なんだ、それは。ミチルは思った。重機か何かの名前にしか聞こえない。少年は続けた。

「いわゆる普通のスピーカー、あるでしょ。真ん中にミニコンポの本体があって、その両脇に置かれてるような、せいぜいA5判の紙サイズのスピーカー。あのスピーカーから、部屋を揺るがすような低音が出ない理由、どうしてだと思う?」

「どうしてって……小さいからでしょ、ウーファーが」

「そう思う?いま、この小さなスピーカーユニットで、30センチウーファーみたいな低音が出るの、聴いたよね」

 途端にタメ口で馴れ馴れしく話しかけてくる後輩の少年に、ミチルは好奇と怪訝の両方の視線を向けつつも頷いた。少年は続ける。

「答えは簡単。小さな箱に押し込めたスピーカーでは、動かせる空気の量に限界があるからだ。スピーカーの低音の再生限界は箱の設計で決まる」

「アコースティックギターの胴が大きい方が、低音が出るのと一緒?」

 ミチルの、学生ミュージシャンなりの例えをはさんだ質問が、少年の興味をかき立てたらしかった。

「そう! すごいね、その通りだよ。ドレッドノートみたいな大きいギターの方が、動く空気の量が多いから、音も大きく、低くできる」

 なるほど。そこまではミチルにもどうにか理解できた。だが、と少年は焼却炉スピーカーの頭を叩く。

「こいつは、”スワン”という名前がついている。二〇〇〇年に亡くなった、ある伝説的な人物が考案したシステムだ。単にサイズが大きいだけじゃない。これは、内部が直管をつなぎ合わせた、ホーン構造になってるんだ」

 ホーン構造。そのひとことで、やはり音楽をやっているミチルはすぐに理解した。

「あー、わかった! テナーサックスとかバリトンサックスの原理で低音を出してるんだ! そうでしょ!?」

 手をパチンと叩いて、少年に正解を訊ねる。するとふたたび少年は、日本人離れした透き通る薄いブラウンの目をキラキラと輝かせて、ミチルを見た。

「そう、そのとおり。内部が全長四メートルくらいのホーンになってるから、ユニット背面の音をホルンなんかと同じ原理で、低いオクターブに変換してダクトから放射するんだ。このバックローディングホーンというシステムの音は、普通のウーファーよりも瞬発力の高い低音を聴かせる事ができるんだ」

 原理を解説しながらも、少年の興味はミチルへと移っているようだった。ミチルは、自分が正解を言った事で得意になっていた。

「すごいね、先輩。音楽やってるって言ってたけど、ブラバンか何か?」

 管楽器を引き合いに出した事から、少年は吹奏楽部を連想したようだった。しかしミチルは笑って、自分の所属を明らかにした。

「まあアルトサックスは吹いてるんだけど、ブラバンじゃないんだ。私はフュージョン部。フュージョン部の、大原ミチル」

 立ち上がり、スワンと呼ばれたスピーカーに片腕を載せて、私は微笑んだ。すると、少年の目は今までよりもさらに、キラキラと輝いた。


 この、奇妙な空間での出会いが、まるで光の速さで駆け抜けたような日々の始まりだった。

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