ステンレスの飛行船
ジュナがミチルの病院を退出した土曜午前11時すぎ、ミチルのスマホにひとつのLINE着信があった。
「ん」
仰向けのまま通知を見ると、青空と桜の写真のアイコンだった。オーディオ同好会の村治薫くんだ。
『こんにちは。身体大丈夫ですか』
なんだ、わざわざご丁寧な奴だな、と思いつつ、ミチルは返信した。
『大丈夫だよ、ありがとう。私いない間もレコーディングしてくれて助かってる』
これは本心だった。音源は残しておけば何かの機会に役に立つし、単純に記念として保存しておけるのも嬉しい。まして、薫のマスタリングは、ミチルたち素人と違ってなかなか腕がいい。
すると、間をおいて返信があった。
『ちょっとライブに関連してやってみたい事があるので、フュージョン部の部室の鍵を借りる許可を貰いたいんですけど、いいですか』
ミチルはキョトンとして、もう一度読み返す。ライブに関連して、って何のことだ。
『機材壊さなけりゃいいよ。私から許可もらったから鍵借ります、って言うといい』
すると、薫からの返信は若干予想外のものだった。
『壊すわけではないけど、それに類する作業は行います。なので、ミチル先輩の許可が欲しいんです。もしダメならこのお話は無しで構いません』
その、何か企てているような文面が気になり、ミチルは薫に初めて電話をかけた。
吹奏楽部は今月末のコンクールに向けて、土日返上で学校に集合して練習に励んでいた。夏休み序盤はこれで全部潰れる。午前中の練習が終わり、市橋菜緒は昇降口わきの自販機まで降りてきた。
そのとき菜緒は、休日としては珍しい人物が校門をくぐってきた事に気がついた。それは、パッと見だと女子と間違える顔立ちの、オーディオ同好会の1年生、村治薫だった。
「何かしら。フュージョン部は来てないと思ってたけど」
よく見ると、薫は何か大きなバッグを下げている。軽くはなさそうだが、大して苦もなく運んでいた。
「そう体格は良くもないけど、案外力はあるのかしら」
しかし考えてみればオーディオ同好会となると、巨大なスピーカーを動かしたりする事もあるだろう。意外に腕力が要るのかも知れない、などと考えつつ、それ以上は特に気にせず昼食をとりに菜緒は戻った。
薫はオーディオ同好会の部室に荷物をおろすと、コンビニの惣菜パンとボトルコーヒーという、あまり健康には良くなさそうだが男子高校生らしい昼食を片付けた。
「よし」
そこへ、何やら部室の外にドヤドヤと人が集まる気配がした。薫は「来たか」と部室のドアを開ける。そこには2名のよく日に焼けた、体格のいい野球部員が立っていた。
「おう薫、来たぞ」
「ああ、待ってた」
「なに運べばいいんだ」
何やらやる気満々の運動部員たちは、オーディオ同好会の部室内を興味深げに観察した。薫はバッグの片隅から4本のプロテインドリンクを取り出し、床に置く。
「報酬はここに置いておく。2本ずつ持って行って」
「おう、サンキュー」
「運んで欲しいのは、こいつだ」
薫は、奥の物置きに二人を招いた。木陰にあるため暑くなる事はそうそうない部室だが、狭い空間にドカベン一歩手前の体格の野球部員2名が入ると、温度と気圧が一気に上がったような気がする。
「なんだ、こいつは」
薫が指差した2つの同型の黒光りする物体を、野球部員たちは怪訝そうに眺めた。
「僕の腕力じゃ手に負えない。こいつをフュージョン部の部室前まで運んで欲しい」
「おう、わかった」
「ちなみに腰を痛めるといけないから言っておくけど、27kgあるからね。心配なら二人一組で運んで」
「あ?」
その予想外の重さに、野球部員たちは怯みはしなかったものの、一体これは何に使う物なのだろう、という疑問は増大したのだった。
「よし」
野球部員の仕事が終わると、薫は今度は自分の作業に取り掛かった。まず、部室にある工具を作業台に並べる。18Vあるドリルドライバー、それに装着して板に丸穴を開けるための自在錐、ノコギリ、カンナ、サンダー、ビス各種、木工ナイフなどなど。
薫は、まずドリルドライバーとメジャーを握ってフュージョン部の部室前に行った。最初にやったのは、PAスピーカーのフロントバッフル、ついでユニットの取り外しである。
「うおお」
薫は、古いPAの中を見て眉をひそめた。中はスカスカで、吸音材は申し訳ていどにユニットまわりにへばり付いている。配線ケーブルは糸のように細い。
キャビネットの各面を、木製のドライバーの柄で軽く叩いてみる。いかにも木の板です、という頼りない音がした。次にウーファーの穴に顔を近づけて、あー、あー、と声を出す。こもった音が反響する。
「なるほど」
薫は、これは手強いぞ、という表情で、まずバッフルの寸法を測るところから取りかかった。
暑い。薫は、フュージョン部の部室に退避して涼みつつ作業を続けた。床には、カットして大きな丸穴が開いた15mm厚合板が置いてある。その横には太めのスピーカーケーブルと、各種コイル、コンデンサー、抵抗、グラスウールなどがころがっていた。全て、オーディオ部の部室で眠っていたものである。
「どうせ無くなる部活だ」
薫は呟いてそれらを見た。フュージョン部が存続するなら、そこで使ってくれればいい。無為に処分されるよりはいいだろう。
ふと、フュージョン部の部室を眺める。今はストリートライブのために、各種機材は入口付近に寄せて置いてある。年季の入った機材だ。要するに古い。今はパソコンのソフトウェアやインターフェイスが進歩したおかげで、こんな古い機材も、音を出すだけなら十分使える。
薫は少し陽が雲でかげった事に感謝しつつ、合板をPAのバッフル面に留めていった。ふと、ビスが落ちてアスファルトにカラカラと転がる。
「おっと」
若干遠くまで転がったため、悪態をついて手を延ばすものの、届かない。仕方なく立ち上がろうとした時、薫はふらついて膝をついてしまった。
「くそっ」
手をついて肘に力を入れようとした、その時だった。
「おい、しっかりしろよ。ミチルの二の舞になるぞ」
頼もしいハスキーボイスとともに、少しメラニン色素が強めの腕が薫の上腕を支えた。
「えっ?」
誰だ、と思って振り仰いだそこに立っているのは、ビニール袋を下げた折登谷ジュナだった。
「じゅっ、ジュナ先輩?なんで休みの日に来てるんですか」
「あのな。それを先に訊く権利があるのはこっちだ」
ジュナが、薫が何やらPAと格闘している様子を眺めた。すると、ジュナに続いて知った声が続々と聞こえてきた。
「うおー、なんかすげー事になってるー」
その独特のマイペースな明るい声の主は、ドラムスの工藤マーコだった。肩には保冷ボックスを下げている。
「何かやってるとは聞いたけど」
「予想してたより大掛かりみたいね」
マーコの後ろから聞こえてきた独特の気だるげな声と柔らかな声の主は、金木犀マヤと千住クレハである。要するに、ミチル以外のフュージョン部2年生が全員やって来たのだ。
「どっ、どうしたの、先輩たち」
薫は驚きとともに4人の顔を見た。今日、学校に来ることはミチルにしか話していない。――つまり、考えられるのはひとつだった。
「ミチルから連絡が来てさ。お前が何だか悪だくみをしてるっていうから、監視しに来たんだよ。ほれ、アイス買って来たぞ」
ジュナはマーコの下げていた保冷ボックスを開けて見せた。中身はシャーベットのアイスバー、コーンのラクトアイスなど色々である。差し入れつきの監視役とは、だいぶ気が利いている。
「一人でやるのも寂しいだろうから、素敵なお姉さま達が来てあげたわよ」
「手伝える事があったら言って。一人でやるよりは捗るでしょう?」
もう何やらオタクコンビが板についてきたマヤとクレハである。クレハは、ビニール袋の中のドリンクを勧めた。薫はキョトンとしつつ、レモンスカッシュを受け取る。
「お前も水くさいやつだな。もうここ最近、お前もフュージョン部の一員になりかけてるだろ。レコーディング担当だけどな」
ジュナのビニール袋には、惣菜パンが詰まっていた。もう、炭水化物と糖分のお祭りである。マーコが勝手にアイスの袋を開けつつ笑った。
「外部からレコーディングエンジニアを呼ぶなんて、プロみたいじゃん」
「だからこうしてギャラ払ってんだろ」
「プロって菓子パンとかアイスで仕事してくれるもんなの?」
どうでもいいジョークで4人の上級生が笑うと、つられて薫も笑い出した。炭水化物と糖分のパーティーが始まったところで、クレハが改めて薫に訊ねる。
「それで、ミチルに許可を取ってまでやってる事が、これなのね」
クレハは、作業台の周囲に散乱した合板の切れ端やらを眺めた。薫は、その作業の目的と内容を、レモンスカッシュで喉を潤しながら説明した。
「なるほど」
マヤは、クレープのカスタードアイスの包み紙を丸めるとビニール袋に入れた。
「内容はわかった」
「マヤ先輩、カンナがけ出来る?」
「女子への質問としてはだいぶ斬新な部類だな」
すると、ジュナがツナマヨサンドを片手に手を挙げる。
「できるぜ。カンナがけもサンダーも、塗装も」
「…先輩いったい何者なんですか」
「土日は家のガレージでギター職人やってるからな」
なるほど、と薫は感心しつつ頷く。
「じゃあ、ジュナ先輩。そこにある板の片面に、アールつけてくれるかな。サンダーは…」
「あたしできるよ!」
手を挙げたのはマーコである。
「ジュナの手伝いでギター磨かされた事ある。遊びに行ったら作業させられた」
「恨みがましい言い方すんな!」
漫才コンビをよそに、マヤが訊ねた。
「私にできる事ある?」
「うーん。あ、それじゃケーブルの接続頼めるかな」
「ハンダづけ?」
「ハンダは僕がやる。ハモニカ端子に、ケーブルをつなぐのを頼みたい」
ハモニカ端子というのは、ネジ留めの端子によるケーブル中継器が何列にも並んだもので、配線の組み替えなどが容易にできる器具である。
「わかった」
「私は?」
まだ作業前なのに、いかにも手持ち無沙汰といった表情でクレハは身を乗り出した。すると、薫は少し考えて「よし」と頷く。
「クレハ先輩は、作業はいいや。けど、最後の音質のチェックでサポートしてほしい」
「音質のチェック?」
「うん。先輩、耳が良さそうだから。コンデンサーとかコイルの交換で、音がどう聴こえるか教えて欲しい」
「ふうん。わかったわ」
「それじゃ、始めようか」
立ち上がった薫は何となく、それまでよりも頼もしく見えた。
「なんだ、ありゃ」
「また訳のわからない事やってるぞ、あいつら」
通りかかった陸上部やサッカー部など運動部員たちが、男子1人と女子4人で何やら工作している様子を、怪訝そうに眺めながら歩き去ってゆく。それを尻目に、ジュナは指示どおり穴だらけになったPAの側面に、やっと塗装が乾いた板をネジ留めしていった。ドリルドライバーの音が連続すると、なんとなく住宅の建築現場の趣きも漂ってくる。
「こんなもんでいいかな」
「うん、上等」
マヤが背面に取り付けたハモニカ端子の状態を、薫は確認して頷く。クレハは作業中、道具や部品を手渡す係を務めた。
スピーカーユニットが嵌め込まれたバッフルが、キャビネット前面にネジ留めされると、組み立て作業はほぼ終了である。
「よし、いったん一休みしよう」
「つかれたー」
板にサンドペーパーをかけ続けたマーコは、いつものように金ダライに水を張って肘を冷やしていた。
その後、薫はハモニカ端子に何パターンかでコイルやコンデンサーをつなぎ、スマホに入っている音楽を鳴らして、クレハと共に色んな位置で音のバランスをチェックしていった。マイクと測定ソフトで周波数特性をチェックする念の入りようである。
「今のが一番バランスいいと思う」
「クレハ先輩、やっぱり耳がいいね。波形も悪くない。うん、これだな」
薫は頷くと、大きく息を吐いて安堵の表情を見せた。
「それじゃ悪いけど先輩たち、テストで何曲か演奏してもらえるかな。音をチェックできればそれでいい」
「今のじゃダメなのかよ」とジュナ。
「スマホの音源と演奏だと、音が違うかも知れない。実際に演奏の音を聴いて、イコライザーを調整する」
「なんとまあ、本物のエンジニアみたいだな」
呆れ気味に笑いながら、ジュナ達はミチル抜きの4ピースバンドを即席で結成した。
「バンド名決めるか。先輩たちみたいに」
ギターのチューニングを確認しつつ、ジュナが呟いた。
「ストーンズに対抗して、なんか考えろよ、マーコ」
「なんであたしに振るかな」
「お前そういうの好きだろ」
図星を突かれたマーコは、ハイハットの位置を直しながら考える。
「あっちがストーンズなら、こっちはツェッペリンかな」
ジュナがそう言った瞬間、マーコは手を挙げた。
「ステンレス・ツェッペリン!」
「なに?」
「本家が鉛の飛行船だから、こっちはステンレス!頑丈で錆びないよ!」
「墜ちそうなのは同じだけどな」
ジュナのツッコミに全員が笑い、謎のガールズバンド「ステンレス・ツェッペリン」は厳かに結成され、さっそく結成記念の無観客ライブが行われたのだった。
ステンレス・ツェッペリンのライブはまず、当然のごとくレッド・ツェッペリンとは無関係に、ヴァン・ヘイレンの”Eruption”で幕を開けた。ほぼ全編ギターソロという、ジュナとしては最も楽しい1分40秒である。ちなみに、先輩の指導でようやくライトハンド奏法を身に着けた際は、毎日のようにこの曲を部室で弾いて「ヴァン・ヘイレン禁止令」が出た事もあった。
その勢いでヴァン・ヘイレン”Dreams”を演奏し、続いていつもやっているクルセイダーズ、スクェアといった無難なメジャーどころを、サックス抜きで即興アレンジで演奏してみた。演奏が終わる頃には客がまばらに集まり、何やら驚いたような表情を向けていた。
その反応に確かな感触を覚えたステンレス・ツェッペリンと薫少年は、ハイタッチして休み返上の労をねぎらい合ったのだった。
その日の夕方、ミチルのスマホにジュナから連絡が入り、薫が計画していた作業が完了した事を報告した。
『っていうことだ。薫のやつ、土日かけて一人でやるつもりだったらしい』
「そうなんだ。ありがとね、ジュナもみんなも」
『いいってことさ。それより、月曜日に来て驚くかも知れねーぞ』
驚くとはどういう事か。作業の結果なにがどうなったのか、ジュナはわざとぼかしている。学校に行ってのお楽しみ、ということだろう。
「ふーん。わかった」
『しかし、薫も不思議な奴だよな。控えめなんだか、行動的なんだか』
それは確かにそうだ、とミチルは思った。そもそも、毎日のように顔を突き合わせているのに、薫の事はまるでよくわからないのだ。どこに住んでいるのかも、成績がいいのか悪いのかも。運動神経はあまりなさそうに見えるが、どうだかわからない。
『なんだかもう、フュージョン部の一員って気もしてきたけどな。楽器を弾けないのが残念だ』
「そっ…そうだね」
またしてもミチルは返答に窮した。
『病室で話し込んでると、またなんか言われるだろ。そろそろ切るな』
「うん。月曜日、学校でね」
『ああ』
おやすみ、と言って二人は通話を切った。
「フュージョン部の一員、か」
ミチルは溜息をついた。薫はギターが弾ける。それも、かなりの腕前だ。だが、人前で弾く事ができないという。それが単にあがり症のせいなのか、他に原因があるのかはわからない。何にせよ、薫はミュージシャンとしてステージに立つ意志はないのだ。だが、薫がフュージョン部に今加入してくれれば、フュージョン部は存続が確定する。
薫の持つレコーディングやマスタリングのセンスは、フュージョン部としても大いに力になる。だが、それはオーディオ同好会としての活動の延長線上にあるものだ。”オーディオ同好会は廃部が決まってるから”という理由で、薫を獲得するといっても本人は納得しないかも知れない。
村治薫を部員として獲得したい。だがそのためにはまず薫の意志の確認と、それができたとして、”演奏できないフュージョン部員”を、他のメンバーが納得できるか、という問題がある。
少し考えたところで、夕方の病院食が運ばれてきて思考は中断させられた。薄味で低カロリーの夕食を食べながら、ミチルは何か突破口はないだろうか、と思案したのだった。