フレンドシップ
職員室の外が暗くなっても、何人かの教職員は3年生の進路関係の書類を処理するのに忙しかった。フュージョン部の顧問、情報工学科の竹内克真47歳もその1人である。斜め向かいには都市環境科の、年配で頭頂部が寂しくなってきた小嶋という眼鏡で小太りの教師が、同じく作業を続けている。
ようやく今日の作業も終わりが見えてきたところで、竹内顧問は天然パーマの頭をくしゃくしゃと掻いて伸びをした。
「台湾のオードリー・タンさんみたいな人なら、我々のこういう作業も効率化できるんですかね」
凝った肩を揉みながら、竹内顧問はなんの気なしに呟いた。小嶋先生は頭をパシンと叩いて、
「できるんじゃないですかね。もっとも、あんな天才でも私の頭だけはどうにもできんでしょうけど」
と自虐ネタをかましてきた。どう反応すればいいものか一瞬悩み、竹内顧問は無難な線で話を続ける。
「日本で、オードリー・タンみたいな人は出て来ますかね」
「そりゃ竹内先生、無理だよ」
ケタケタと小嶋先生は、皮下脂肪多めの上半身を揺すった。
「日本って国は特に、権威主義とムラ社会の国だからね。オードリー・タンみたいな天才は間違いなくいますよ。うちの卒業生にもね。けど、優れた人材はここでは称賛よりも警戒される。おれのポジションを脅かすんじゃないか。体制を壊すんじゃないか、とね」
やはり自虐的に、小嶋先生は冷笑する。悪い人ではないし、嫌な笑い方でもないが、シニカルではあるな、と竹内顧問は思いつつ相槌を打つ。
「なるほど」
「組織から見ると、頭はそこそこで、組織にノーと言わない従順なやつが好まれる。突出した天才は好かれない。それに体制云々ではなく、失敗やコストを恐れて無難な人材しか登用しない事もある。個人に限らず、優れたチームもそうだね。結果を出せるチームだとわかっていても、上からストップがかかって取るに足らない仕事に回される連中もいる」
「レース参戦を継続するのかしないのか、ハッキリさせない上層部に振り回される、自動車メーカーの優秀エンジニアみたいなもんですか」
その例えは、いかにも科学技術高校の教師らしいものだった。生徒たちの卒業後の進路に関する書類をチェックしながら、この中にそんなふうに才能を埋もれさせる者も出て来るのかも知れないな、と考えて、竹内顧問はかぶりを振った。
そのとき脳裏に浮かんだのは、担当するフュージョン部の少女たちのことだった。いま、彼女たちは自分たちの部活を潰すまいと奮闘している。次期部長の大原は、過労で倒れてしまった。無理はするなよ、とメッセージを送っておいた。
彼女たちのような前向きな連中に、暗い未来があって欲しくはないな、と竹内顧問は思いながら、残った仕事を片付けるのだった。
翌土曜日、一学期最後の休日の1日目の午前10時ごろ、折登谷ジュナはミチルが入院する病室を訪れた。ミチルのリクエストどおり、駅前の通りにあるベルギーワッフル専門店「フランコルシャン」のラズベリージャムワッフルと、ほんのちょっとだけお高いアイスコーヒーのボトルを用意してのお見舞いである。
「なんだよ、全然元気そうじゃんか」
病室のドアを開けるなり、ジュナは微笑んだ。白いガウンを着て上半身を起こしたミチルは、スマホにイヤホンを差していつもと変わらない様子だった。
「ほら。ご希望のワッフル」
「わあ、ありがとう!いい人に見える!」
「持って帰るぞてめー」
いつもと変わらないやり取りのあと、ミチルはマヤからスマホに送られてきた、1年の音楽動画配信グループ「こりあんだー」のチャンネルを示した。
「この子たちの動画見たよ。すっごい面白いじゃん」
「あたしも見た。レベルは高い」
ただし、とジュナは言った。
「フュージョン部としてこのサウンドを活かせるかどうかとなると、判断がつかないな」
「うん。私もそれは考えたけど」
「ミチルとしてはどうなんだ。まあ、この状況で入部させないって手はないけどさ」
ジュナの言う事はもっともである。1人でも1年生が欲しい所に、3人も来てくれるのは御の字だ。それに対するミチルの返答は明快だった。
「いいじゃない、その子たちが入部したいっていうなら、入部でいいよ。合計9人の現状でもたぶん、少なくとも廃部は回避できると私は見てる」
「…同好会で存続ってこと?」
「うん。ラジオ局が来たり、ある程度話題を作れるくらいの発信力は証明したわ。この状況で、自分が先生だったら廃部にできる?」
ミチルの目は、名前のとおり自信に満ちている。それを見ていると、自分は案外悲観的な所があるんだな、とジュナは思ってしまう。
「そこらへんが全くわからない教師どもだったら、人数が揃わない時点で廃部ルートだろうな」
水を差すつもりはないが、ミチルを支える役として、あまり楽観的にならないようバランスを取るのがジュナの立ち位置だった。それをミチルもわかっているので、渋い表情は見せない。
「うん。それも可能性としてはある」
「でも、お前は良い可能性に賭けるって事だな」
「うん」
「わかった。それならあたしはミチルに全部任せる」
ジュナは微笑んで、少しお高いアイスコーヒーのボトルを傾けた。ミチルの叔父さんの喫茶店並みとはいかないが、きちんと風味に腰がある。
「ラジオ楽しみだね」
「ああ」
そう返して、ジュナは言葉を詰まらせた。それに気付いたミチルは、何か察したようにジュナを見る。
「きのう言いかけてた件、ひょっとしてラジオに関係ある?」
「…ある」
「いいよ。言ってみて」
ジュナは少し迷った様子を見せたあとで、学校でごく短期間広まった、ラジオ局にフュージョン部がお金を払ったという流言の件をかいつまんで説明した。それが、吹奏楽部の例の二人組によるものだという情報は伏せておいた。
だが、ミチルはやはりカンが鋭かった。
「それ、あの二人でしょ」
「…やっぱ、わかったか」
「状況から見て、誰でも辿り着く結論よ」
ほんの少し険しい表情で、ミチルは溜息をついた。
「先輩たちには世話かけちゃったわね」
「どうだろうな。もう動画流れてるけど、明らかに面白がってやってたぞ、先輩たち」
ジュナは、スマホアプリに生徒の誰かが流した「マネーロンダリングストーンズ」のMCと演奏の様子をミチルに見せた。ミチルは、大声を出さずに爆笑するという高度な技術を披露しつつ、腹をかかえてベッドにうずくまっていた。絵面だけ見れば、すぐに看護士を呼ばなくてはならない光景である。
「ひっひっひっ」
「な。どっちかっていうと、事件を口実に先輩たちが、受験勉強のストレス発散してるふうにしか見えないだろ」
「あ、あの被り物どこから持って来たのかな」
「おおかた演劇部あたりから借りたんだろ」
ジュナは当初、流言を封じ込めるために取った先輩たちの、行動の早さと的確さに敬服していたが、あとから考えると先輩たちが遊んでいた要素のほうが強く思えた。そのうえ、彼らの動画のほうがジュナたち2年生の演奏よりも再生数で上回っているのである。
「まあ先輩たちはいいとしてだ。例の二人組について、除名処分だとかはしないよう、あたし達を代表してクレハが市橋先輩にメッセージを送ったんだ。…ミチルに相談もなく、勝手な事しちまった」
それを聞いたミチルの反応は、ごく簡潔なものだった。
「うん。それでいいよ」
「あっさりしてんな」
「気に食わないのは確かだけどさ。だからって、あの二人をやっつけた状況で、自分たちが目的を達成するってのも、あまり気分は良くないよね」
「ミチルならそう言うだろうな、ってみんな言ってたよ」
ジュナは仕方なさそうに力なく笑った。これが大原ミチルだという事は、もうみんなわかっている。だからみんな、ミチルをリーダーだと認識しているのだ。
「わかった。みんなに伝えとく」
「うん」
「あとな、顧問から伝言。校内のストリートライブだけど。終業式とか半日授業の日を挟むと、もうやれるのは実質3日ってとこだ」
ジュナは、シビアな現実を突き付けた。ミチルは無言で聞いている。
「終業式の日に、勧誘の状況を顧問に報告する事になった。その時点で新入部員が5人以上集まっていれば、基本的に存続は保証してくれるそうだ」
それを聞いて、ミチルは身構えた。いよいよ、長い戦いの最終局面ということだ。あと1人加入すれば、それは達成される。
「あと1人か」
ミチルは下を向いて、強張った表情で呟いた。ここまで、よく戦ってきたと思う。そう、それは戦いだった。その決着がつく時がきた。
「明後日から、いけるのか、ミチル」
「あたしを誰だと思ってんのよ」
「そうだな」
ジュナは、ミチルと力強く手を握り合った。
「最後の戦いだ。やろうぜ、相棒」
「任しといて」
互いの視線が交差する。思えば、出会って以来いろんな場面を乗り越えてきた。最初に今の2年生だけでステージに立った時も、隣にいてくれる事が頼もしかった。
まだ、終わっていない。けれど、この初夏の出来事はきっと忘れないだろう、と二人は強く感じていた。
その夜、ミチル達の演奏がラジオに流れるということで、ミチルの叔父の啓はいつものレコードやCDを止め、FMチューナーの電源を久しぶりに入れた。店内には近くに住む小説家、自称探偵といった常連客が5名ばかりコーヒーを飲んでいる。純喫茶なので酒類は置いていないのだ。
『サタデーナイトソングス、今夜は特別プログラムでお送りします。南條科学技術高等学校、フュージョン部の2年生のみなさんが、部員勧誘のために今学期いっぱいで行っている校内ストリートライブ。その魅力的なパフォーマンスが、校内だけでなく近隣でも噂になっており…』
いつもの女性パーソナリティーによる、相変わらず半分眠そうなトークで番組は始まった。この小さなコミュニティFM局には男女合わせて5名のリポーター兼パーソナリティーがいるが、うるさい、もとい賑やかなのと、聴いてると眠くなると評判なのと、二人の女性パーソナリティーの好対照が有名だった。
ミチルから聞いたところによると、演奏の前にはラジオ局とひと悶着あったらしいが、さすがにそこはカットされているようだった。挨拶もそこそこに、さっそく一曲目のイントロが流れると、店内にいた自称探偵の30代のやせた男が反応を見せた。
「ふうん、2003年のアルバムか。渋い選曲だな」
自称探偵はマスターの影響で、スクェアだけは履修している。が、フュージョンといえばそれしか知らないのだった。さもフリークであるかのように振舞う自称探偵に、マスターは温かくも白い眼を向けた。
ミチルが上手いのは親戚中みんな知っている事だが、他のメンバーもなかなかどうして、と啓は思う。エレアコは若干たどたどしいが、素養は感じられる。エレキギターはやや伸びが足りないが、テクニカルなタイプだ。ドラムスは天性のものを感じる。キーボードは高度な演奏にチャレンジしてたまに音を外しているが、上手い。向上心がありそうなので、1年後は相当上手くなっているだろう。ベースは非常に生真面目というか、やや硬いが安定感はある。
「よくまあ、これだけのメンバーが集まったものだ」
啓はカウンターに肩肘をついて嘆息した。自身もごく若い頃、バンドもどきを組んでいた事はあるが、ここまで本格的にできたとは思わない。ひょっとしたら自分は、未来のすごいアーティストの叔父でいる幸運に恵まれたのではないか、などと考えた。
そのあと、アニメ主題歌とゲームの妙な歌をはさんで、西部警察のテーマが始まると客席から失笑が起こった。だが、失笑のあとでそれは感嘆に変わった。掛け値なしに上手いのだ。最後のイースタン・ユースは、純喫茶の客はあまり縁がないようだったが、こんなロックナンバーもやれるのか、と感心してはいるようだった。
アンコールでのミチルのバイオリンには、客席から遠慮会釈なしに笑いが起こった。ミチルが一時期バイオリンの練習をしていた事を知っている、啓も懐かしそうに笑った。まるで成長していない。だが、最後に誰かが唐突にバトンタッチしたらしく、突然葉加瀬太郎そのものの演奏が始まった事には驚いた。
最後にリポーターからのインタビューに答えるミチルの堂々たる態度には、叔父ながら驚嘆を禁じ得ない。あの、小さい頃は土だらけの足で部屋中を走り回って怒られていた娘が、こんな風にマイクに向かって持論を展開できるようになったのか、と感動さえ覚えた。そのあと清水という女性教師がインタビューに現れて、突然バイオリンの音が変わった謎は解けた。
『すばらしい演奏でしたね。南条科学技術高等学校フュージョン部では、一学期中いっぱい部員募集中との事でした』
おざなりにパーソナリティーが締め括って番組は終わり、ジョー・サンプルだとかの古い曲がいかにも穴埋めのように流れ始めた。啓は、姪のライブ演奏を聴けて満足した気持ちで、自分のぶんのコーヒーを淹れ始めた。
吹奏楽部の市橋菜緒は、大学受験に向けての勉強を一休みして、ミチルたちのライブのラジオ放送を聴いていた。自分もあの時目の前で聴いていたが、こうしてラジオを通して聴くと、また違って聴こえる。
コミュニティFMの音はほとんど手をかけていないようで、オーディオ同好会の薫がマスタリングしたものより音がぼやけて聴こえた。試みに、菜緒は薫から預かったマスタリング済みのライブ音源を流してみる。
「…これほど違うものなのね」
菜緒は、改めてマスタリングという作業の重要性に、音楽に携わる者として気付かされていた。吹奏楽部の演奏も、演奏チェックのために録音する事はある。だが、大抵は「とりあえず録音しました」というレベルの音でしかない。
現代の音楽は事実上、オーディオを抜きにしては存在し得ない。1877年、エジソンは世界で初めて機械による録音と再生の両方を実現した。その延長線上に、いま菜緒がタブレット端末とヘッドホンで聴いている音がある。百数十年の録音再生の歴史に、科学技術高校の生徒として思いを馳せずにはいられない。
薫少年がマスタリングしたミチルの演奏を聴きながら、菜緒は何か起こりそうな、不思議な予感を覚えていた。