FACES
それは金曜日の終わりのことだった。夏至を過ぎたばかりとは言え、前座の不審者バンド「マネーロンダリングストーンズ」のせいで時間が押した事もあり、6時近くなって空はすでに暗くなり始めていた。
ドリンクだけの打ち上げもそこそこに、フュージョン部の面々が部室を出ようとしていた時、防音ドアをノックする鈍い音がした。
「なんだ?」
ジュナが肩にギターケースを下げたまま、立ち上がってドアを開けた。
「はーい」
開けたドアから、アスファルトで熱された生ぬるい風が入り込む。その風の中に、二人の女子と一人の男子が立っていた。学章の色は赤。
「えっ?」
ジュナはその場に一瞬立ち尽くし、奥にいたメンバーも何が起きたのかと考えた。我に返ったジュナが訊ねる。
「えっと、どちら様でしょうか」
すると、手前の眼鏡をかけたおかっぱの女子と、ショートカットの女子が頷き合って、決意したようにジュナを見た。
「あのっ、にゅ、入部希望って今からでも受け付けてもらえるんでしょうか」
それは、夕暮れ時にもかかわらずの、青天の霹靂だった。何がというと、メンバーが本来の目的をほとんど忘れかけていたからである。その日その日の演奏をこなすのに精一杯で、もはや「手段が目的化」していたのだった。
「えっと、まあ、とりあえず入って」
本当にそれは、とりあえずという態度だった。リアナの時もそうだったが、そもそも入部希望者を受け付ける機会が彼女たちにはほとんどなかったのだ。ジュナは慌てた様子で3人に、古いコンポの前あたりに座るよう促した。
「そう、そことりあえず座って…ほら、ちょっと。お茶をお出しして」
「お前がまず落ち着け」
マヤがジュナの頭をギターのストラップではたくと、部員希望の3人から失笑がもれた。
「あっ、す、すみません」
女子の後ろにいた、背の高い短髪の男子が笑いを噛み殺して申し訳なさそうに頭を下げた。眼鏡の女子が気持ちを落ち着けて背筋をのばす。
「私達、みなさんの演奏、ずっと聴いてました。フュージョン部っていうからちょっと敷居が高いのかなって思ってたんですけど、びっくりするくらい、色んな音楽を演奏されてて」
その語る様子に、マヤはなにか既視感があった。どこかで、この3人組を見た覚えがある。どこだろう。そう思った時、記憶の抽斗が勢いよく引き出された。
「あっ」
マヤの声に、フュージョン部と薫の視線が集まる。
「あなた達、変な音楽の動画配信してるでしょ」
マヤはスマホを開いて、動画の公式アプリを立ち上げると、素早く検索を開始した。その指のスピードはキーボーディストゆえなのか、スマホ廃人だからなのか、判断はつきかねた。
マヤが見つけた動画は、DTM主体のオリジナルやカバーを演奏するチャンネル「こりあんだー」だった。最近の演奏はCGアニメーション主体だが、初期には3人が顔出しで、シンセやデジタルパーカッション、ギターの演奏も行っていたのだ。
基本デジタル民のマヤはその存在をかすかに知っていたが、まさかこの南條科技高の生徒、しかも1年生だとは考えもしなかった。
「そう、それです」
ショートカットの女子は、はにかみながら微笑んだ。動画ではシンセを弾いていたはずだ。マヤは多少驚きつつも訊ねる。
「その3人組が、フュージョン部に入部するっていうの?」
「はい」
「あなた達には、あなた達のホームといえる活動の基盤がすでにあるんじゃないの?動画配信っていう」
すると、一瞬3人は押し黙ったが、短髪のギターを弾いていた男子が語り出した。
「そうなんですけど、みなさんの演奏を見ていて、オーディエンスの前で演奏するのって、なんかいいなあ、って思ったんです」
「私達、基本ネット配信なんで、それはそれでもちろん楽しいし、続けて行こうとは思うんですけど」
「それと平行して、生でやる音楽っていうのを、体験してみたいっていうか」
3人の語り口は高校1年生そのものというか、若干フワフワしたものではあった。興味本位、という印象もないではない。だが、そもそも学生の活動なんて興味本位が入口だよな、とマヤは思った。
「うん、なるほど。わかった」
マヤの返事に、3人の表情は若干色めいた。だが、マヤはまだ冷静だった。
「正直言うと、いまうちの部活は1年生が入らないと廃部になりかねない。だから、頭数が揃うのはありがたい。けど、そういう理由とは別の意味で、音楽を一緒に楽しくやって行けたらいいな、とは思う」
「そうね。でもマヤ、この子たちの動画配信の経験は強みになるんじゃないの?」
クレハの指摘に、マヤもなるほどと頷いた。そういえば、フュージョン部はここ最近、動画配信していない。たまに演奏を各種スマホアプリに短時間上げたりする程度である。
そのとき、眼鏡の女子がスマホ画面を見せ、メンバーは驚いていた。それは、まさにスマホアプリで流されている、フュージョン部のストリートライブの様子だった。何日目かの、アンコールでやった"TRUTH"である。そういえば、スマホ撮影するなとも配信するなとも言っていない。
「あたしが流したんじゃないですよ。校内の誰かです。でも再生数、地味に伸びてます」
「なに!?」
ジュナが身を乗り出した。なるほど、圧倒的な数字でもないが、そこそこの数字である。コメント欄は演奏クソうめえとか、サックスの子可愛いとか月並みなものから、"TRUTHとかニワカ乙"といった、アイバニーズの角でこめかみの辺りを殴りたくなるものまで様々である。
「なるほど。こいつは、ちょっとミチルにも相談だな」
「ミチルさんって、あのサックスの先輩ですか」
「ああ」
ジュナは、ミチルが勧誘活動の疲労で倒れ、入院中である事を説明した。男子生徒は「まじっすか。ダイジョブなんすか」と、まさに男子高校生以外の何者でもない反応を見せた。
「ああ、心配いらねーよ。けど、あいつが一応部長だからな。ま、君らを断るって理由もないから、そこはほぼ確定でいい」
「参考に、ミチルにあなた達の動画のリンク送ってもいいわよね」
マヤの申し出に3人は是も否もなく頷き、自己紹介を求められたのでショートカット、おかっぱ眼鏡、男子の順に名前を名乗った。
「情報システム科の、長嶺キリカです」
「同じく情報システム科の、鈴木アオイです」
「都市環境科の、獅子王サトルです」
最後の名前に、フュージョン部の面々は一瞬、聞き間違いか、聞き取れなかったかのどっちかだろうか、と思った。ジュナは改めて訊ねる。
「…なんて?」
短髪の涼し気な目元の男子は、爽やかな笑顔で名乗った。
「獅子王サトルです」
ししおうさとる。ものすごい苗字と、現代の若人としてはだいぶ普通のファーストネームの組み合わせに、電話の向こうでミチルが爆笑していた。
『あはははは、すっごい子が入ったものね』
「人の名前で笑うなよ。まああたし達も面食らったけどさ。目元なんかも切れ長っぽくて、なんか名前にマッチしてるようにも見えて来るんだよな」
電車を降りて自宅に向かう中、ジュナはミチルに電話をかけていた。
「あー、ちなみに獅子王だから一部界隈で"しーちゃん"って呼ばれてるらしい」
『あはははは!!…あっ、すみません』
急にミチルの声が小さくなった。看護士に大声を出すなと言われたのだろう。ちなみにジュナは中学の時入院して、エレキとミニアンプを持ち込んで大目玉を食らった事がある。
『でも、やったじゃん!一気に3人だよ』
「まあ、そうだけどさ」
ジュナは、自販機の近くで立ち止まって壁に背をもたれさせた。目の前を、家路を急ぐ人達が通り過ぎる。
「まだ入部しただけだからな。月曜日になったら、やっぱやめます、って言い出さないとも限らない」
『それはそうかも知れないけどさ』
「悪い。ことさら悲観的になるつもりもないんだけど」
ジュナは自販機にコインを投入し、アセロラドリンクのボタンを押した。暮れてゆく舗道に、ボトルが落ちる音が響く。
「今までが今までだからさ。どうしても、現実的になっちまう」
『ま、それは仕方ないか』
「けど、面白い子たちではある。それに話を聞いたら、例の獅子王くんがウインドシンセは吹いた事あるみたい」
『それは貴重だね。アルトサックスは?』
「残念、生のは吹いた事ないって。デジタルバンド、って割り切った方がいいかもな。マヤがそっちに、あいつらの動画のリンク送ると思うから、参考にしといて」
できればアルトサックス経験者なら言う事はないのだが、とジュナは思ったが、このさい贅沢は言えない。そもそも今のミチルたちが例外的なまでに、演奏能力もチームワークもハイレベルなのだ。
「アルトも仕込めば覚えるかもよ。それはミチル、お前の仕事だろ」
『…いよいよ、こっちが教える番になるってことか』
「まっ、とりあえず希望は見えてきたって事だ。蓋を開ければ入部希望殺到で、逆にどこで締め切るか、なんて事だってないとは言えない」
『さっきの悲観との温度差が凄いわね』
二人は電話ごしに笑う。
「そんなとこだ。明後日退院だって?」
『うん。ほんとは、もう動けるんだけどね』
「無理するなよ」
それじゃ、と言いかけて、ジュナはひとつ思い出した事を、いまミチルに話すべきかどうか迷った。例の吹奏楽部の2年生二人組が行った、誹謗中傷についてである。
『どうしたの?なんかあった?』
その問いかけに、ジュナはギクリとした。ミチルは変にカンがいい。
「…あった」
『あんまり言いたくない系?』
「ああ」
ジュナは正直な気持ちを答えた。回復したとはいえ、まだ入院中のミチルに、ネガティブな話はしたくない。だからと言って、次の部長のミチルに言わないわけにもいかない。考えたすえ、ジュナは言った。
「ミチル、明日お見舞いに行くから、そのとき直に話す。…ひょっとしたら、他の誰かがあたしより先に伝えちまうかも知れないけどな」
『そっか。うん、わかった』
ミチルはそれだけ答えた。
「なんか欲しい物あるか。…女子高校生の普段の所持金で買える範囲で」
『うーん。あ、ジュナの駅の近くに、ベルギーワッフルのお店あったでしょ。あれの、ラズベリーが食べたい』
「りょーかい。病室でお茶会だな。それじゃ、切るぞ。早く休めよ」
『うん、じゃあね』
ミチルとの通話が切れると、ふいに人波も途絶えてしまった。夕暮れの寂静がジュナを襲う。だが、こんな景色もジュナは好きだった。
今日は、部室の壊れたレスポールを持って来た。土日でなんとか直してみて、うまく行ったら早速学校で弾いてみよう。
帰宅した村治薫少年は、今日録音した音源をさっそく自宅のパソコンに取り込んで、ミキシング作業に取り掛かった。楽器ごとのマルチトラックと、ワンポイントステレオの2方式で同時に録音しているため、どうミキシングするかで音は大きく変わる。
ワンポイントステレオというのは読んで字のごとく、マイク2本を一箇所のポイントに設置して、多くは扇形に広げて音場全体を録音する方式である。オーケストラ等ではホールの広がり、音場の立体感がよく出るが、下手に録ると音像がぼやけてしまう。また、マイクの性能で音が左右されるのも難しい。
マイクの本数を増やして楽器ごとにオンマイクでマルチトラック録音すれば、ミキシングで音のバランスは自在に調整できるが、ホールの広がり感は出なくなる。そのかわりクリアな再生音が得られるため、一長一短で優劣は決められない。
フュージョンの場合は電子楽器が絡んでくるため、ある意味生のオーケストラより厄介である。楽器ごとにマルチトラックで録るにしても、マイクで録るか、ラインで録るかで音はまるっきり変わる。ライン録音だとスタジオ録音と変わらないので、ライブ感は後退してしまう。
「うーん」
いろいろ考えたすえ、薫はとりあえずワンポイントステレオの音源を優先してマスタリングする事にした。PAからの音をマイクで録るというのは非常に無駄というか、電子楽器のメリットを殺してしまうやり方なのだが、この際そこは目を瞑ることにした。
とりあえず、録ってきたままの音をスピーカーで流してみる。そこそこよく録れてはいるが、野外特有の乾いた反響音が目立つ。これをどう活かすか。
そのとき、薫はひとつの事に気が付いた。
「PAって、音が悪いよな」
不審者バンド「マネーロンダリングストーンズ」の演奏を聴きながら、薫はつぶやいた。
PA、と何気なく呼ばれるが、その正式な名称は"Public Address"となる。文字通り、公衆に音声を伝達するためのアンプやスピーカーのことである。
「PAはホームオーディオとは設計思想が違うからな」
薫は、特有の箱鳴りを聴きながら思った。PAは分類としては「楽器」扱いであり、高温多湿から低温乾燥までのあらゆる環境下で、大音量で長時間鳴らしてもユニットが壊れず、ラフな搬出入作業にも耐える事が前提になる。ホームオーディオ用スピーカーのような繊細な音は、JBL等の高価なモデルであっても限界がある。
まして、フュージョン部のPAは見るからに古く、鳴っているのが不思議なくらいである。むしろ、これくらいの音が出ている方が驚きだと薫は思う。
ミチル先輩達のハイレベルな演奏に対して、この音がネックになっているのではないか。ギターやキーボードの音質にこだわっているのに、最終的な出口がおざなりでいいのか、とオーディオマニアの薫は考えてしまう。といって、JBLやアルテック等の高価なPAを、学生の部活動で導入できるはずもない。
だが、何かできる事はあるのではないか。学生はお金がない。しかし、薫が通っているのは南条科学技術高等学校、糸のようなコードの半田付けから、自立ロボットやフォーミュラカーもどきまで、何でも作り上げてしまう学校だ。オーディオ部、現・オーディオ同好会のスピーカー工作も、ある意味ではその一環である。
自分は、先輩達のようにステージに立つ事が、主に精神的な理由で難しい。だが、オーディオに携わる者として、何かもっと出来る事があるのではないか。同じ1年生が続々とフュージョン部に入部してきた事にも刺激されたのか、フュージョン部という存在の引力にとらわれつつあった事を、この時まだ村治薫少年は、はっきりと自覚できてはいなかった。
ミチル先輩に代わって参加した、市橋菜緒のサックスがスピーカーを通して鳴り響いた。その音色は凛としつつも、どこか霧を隔てているような切なさを覚えた。ミチル先輩の閃くようなサックスとは違う。そして、その音に薫は不思議と親しみを覚えるのだった。