仲間を求めて
ポニーテールとミディアムヘアの二人組の前に現れたのは、先刻フュージョン部の部室前でピンク・フロイドとビートルズを歌っていた、不審な仮面の3年女子だった。赤い帽子は脱いで、やや癖毛ぎみのショートヘアが露わになっているが、仮面はつけたままだ。
「ミチルに暴言を吐いたことで、菜緒から叱責を受けた腹いせに、くだらない噂を流したということね。信じる方もどうかと思うけど、まあ嫌がらせの仕掛けとしては悪くないわ。証拠が残らないよう、LINEなんかは使わないでアナログの伝聞を用いたところもね」
ゆっくりと銀色の仮面を外すと、その素顔が現れた。最初からわかっていた事ではあるが、その人物はフュージョン部の3年、佐々木ユメだった。ユメは仮面を置くと、髪や襟元、胸元を整えて、改めて二人組に向き合った。二人は黙っているが、顔は青ざめている。
「さて。私はどうするべきかしら。かわいい後輩たちに、事実無根の中傷を投げかけて活動を妨害した事に対して」
「妨害?ばかを言わないでください」
ポニーテールは、わずかに震える声で反論した。
「実際にフュージョン部に対する疑惑を拡大したのは、あの生徒たちです。事実関係を確認もせず、尾ひれまでつけて」
「詭弁ね」
佐々木ユメは、ポニーテールの反論を一蹴した。
「あなた達は彼らを扇動したのよ。むろん、彼らには彼らの罪がある。だからといって、流言の発火点に火をつけた、あなた達の罪がなくなるわけではない。ナチスドイツのホロコーストを実際に行った個々人の兵士に罪があったのであって、扇動、指揮したヒトラーやアイヒマンには罪がない、とでも言うのかしら」
ユメの比喩はかなり極端ではあったが、反論を封じる程度には効果的だった。二人組が思考の中で、これがどういう帰結を迎えるのか、と不安になったタイミングで、ユメは小さく微笑みを浮かべた。
「ま、そんなに心配しないことね。世の中には示談というものがある。私達の介入があったにせよ、ひとまずフュージョン部の彼女たちへの実害は阻止できたのだから」
「…示談って」
ミディアムヘアが、睨むようにユメを見た。
「どういう条件ですか」
「別に難しい事はないわ。単にここで私に、フュージョン部によるラジオ局への金銭譲渡、という噂を流したのが自分たちである事を認めて、謝罪してくれれば、あとはあなた達に用はない。私達はもう、そのことを追求しないと約束する」
「それは、フュージョン部全体として、という事ですか」
その反応に、二人組がすでに保身の態勢に入っている事をユメは見抜き、表情を少し緩めた。
「もちろん。上級生として、全部員にそう通達するわ。私達はあなた達の事を、少なくとも今回の件に関しては二度と追求しない。学校、教職員にも言わない」
そこで二人の顔に安堵の色が浮かぶのを、ユメは見逃さなかった。一歩近付くと、腰に手を当てて二人に迫る。
「どうかしら」
二人組は、頷き合うとユメをまっすぐ見た。ポニーテールが、悔しさのにじむ表情を浮かべつつ、震える声で謝罪の言葉を述べ始めた。
「今回は、フュージョン部の皆様について事実無根の噂を流し、活動を妨害して申し訳ありませんでした」
「申し訳ありませんでした」
誠意によるものかどうかは不明だが、ともかく二人はそう謝罪して、深々と頭を下げた。
「頭を上げなさい」
ユメに言われ、ゆっくりと顔を上げた二人は、そのときユメがブラウスのポケットから取り出した物を見て、蒼白になった。ユメが手にしていたのは、ライトカッパーの可愛らしいスマートフォンだった。ユメは二人に向けたまま、画面の真ん中をひとつタップする。ピコン、という電子音が鳴った。
「申し訳ないけれど、今の謝罪の様子は全部録画させてもらったわ。安心して、あなた達が何かしない限り、これが公にされる事はない」
それじゃあね、もう吹奏楽部の練習が始まるわよ、と手をヒラヒラ振って、佐々木ユメはその場を立ち去った。後に残された二人は完全敗北の屈辱感に打ちのめされ、しばらく無言のまま一歩も動く事ができなかった。
フュージョン部2年生プラス1年生の4人は、唐突にヘルプで参加した吹奏楽部3年、市橋菜緒と簡単な打ち合わせのすえ、やや時間が押している事もあってすぐに演奏に入った。1曲目はTHE ALFEE、1994年のシングル"冒険者たち"。ジャズの演奏スタイルをベースに置いたハードロックであり、ある意味ではフュージョンバンドの真骨頂ともいえた。ちなみにメインボーカルはジュナで、今回はマヤ、クレハと3声のコーラスへの挑戦である。
さすがに演奏がハードなうえ、普段やらない多重コーラスという事もあって、演奏は完璧とはいかなかった。コード進行に乱れがあったり、コーラスに気を取られて演奏が抜けてしまったりと、やや厳しいものがあったが、それでも市橋菜緒の力強いサックスに助けられて、全体としてはなんとか音になってはいた。
1曲目のハードルの高さに鍛えられた事もあってか、2曲目はむしろ自信を持って挑戦できた。T-SQUAREの1996年のアルバム「B.C.A.D」の1曲目、則竹裕之作曲”勇者-YUH JA-”。ドラムスが作曲した事もあってか、演奏としてはリズム隊への要求が厳しい。かつ、ウインドシンセのソロも原曲どおりだと非常に難しい、のだが…
「(すげえ…)」
ギターを弾きながら、ジュナは隣の市橋菜緒が吹くEWIの音に、感嘆を隠せなかった。上手い。はっきり言って、ミチルより数段上の安定感である。選曲したマーコのドラムスも、高校2年生としてはかなり原曲に肉迫しているものの、菜緒の演奏に全部持って行かれてしまった感がある。というか、吹奏楽部なのに電子楽器であるウインドシンセを当たり前に吹いてしまうのが凄い、とジュナは思った。
3曲目、キャンディ・ダルファー”Candy”。2007年のアルバム「Candy Store」からの、過労でダウンしているミチルによる選曲である。ここでギターのジュナが、1年のリアナと交替したのでオーディエンスがザワついた。それまでエレアコだけを弾いていたリアナが、正真正銘のエレキギターを下げている。ジュナは後ろに下がって、監督役である。
この曲のサックスはいかにもジャズファンク的な歯切れ、トランジェントを要するため、吹奏楽部の菜緒の演奏はどうかとフュージョン部の面々は考えたが、まったくの杞憂どころか、それが侮りであった事を思い知った。ファンクの空気感を完璧に捉えている。裏方で録音している薫も、モニタリングしながらその上手さに聴き惚れてしまっていた。
だが薫は、ミチルのサックスは何か根本的に違うものを持っている、とも感じていた。1年の差を考えればどうかはわからないが、上手さで言えば明らかに市橋菜緒が数段上である。しかし、ミチルのサックスは上手い下手とは異なる次元の何かを持っている。総合的に見れば、両者の実力は伯仲しているかも知れない。
4曲目は植松伸夫”仲間を求めて”。好きなゲーム音楽のランキングでは、必ずと言っていいほど上位に来る名曲だ。哀愁漂うサウンドに、菜緒はEWIのフルート音源で対応した。1994年とだいぶ古い作品だが、ゲーム自体は何度もリメイクされているため、高校生でも認知度は高い。
それほど難解な演奏は必要ないが、シンプルなだけにかえって粗は目立つ。選曲したマヤは、バックのシンセサイザーを真剣な表情で弾き切った。菜緒の演奏は当然のように完璧で、もはやどんな曲でも任せておける、という恐ろしいまでの信頼感があった。
5曲目のイントロのピアノが流れた瞬間、オーディエンスからは歓声が上がった。マイ・ケミカル・ロマンス”Welcome to the black parade”。これはジュナがボーカルを務めるということで、ジュナのギターはシンプルなリフに集中して、もうひとつのギターパートはEWIのブラス系サウンドでカバーする、というプランになった。もともとマーチ調のサウンドが身上の曲でもあり、この試みは大成功だった。
ちなみに客席からは見えない位置に、ジュナはこっそり簡略化した歌詞を貼り付けておいた。頭の単語さえ間違えなければ歌える、と踏んでの措置である。
ラストの曲の盛り上がりは、ミチルが倒れ、また妙な噂が広まった事も重なって立ち込めた暗雲を吹き飛ばすかのようだった。ここで、アンコールの事をまったく考えていなかった事にメンバーは気付き、どうするかと集まってヒソヒソ相談した結果、マーコの一言でとある誰もが知っている曲をやる事になった。
ダダダン、ダダダンとドラムスが入った瞬間に、おそらく全てのオーディエンスが理解した。大野克夫”名探偵コナン・メインテーマ”、それも”ベイカー街の亡霊”バージョンである。この曲はフュージョン部も吹奏楽部も過去に演奏しているため、そもそも合わせる練習の必要さえなかった。予定外のアンコールは誰でも知っていてすぐやれる曲をやるべし、それが無難かつ最高の選択肢である、という不文律が、このときフュージョン部に生まれたのだった。
嫌な雰囲気の中で始まった一日だったが、終わってみれば大喝采であり、大変な1週間の締め括りとしては上々といえた。
「市橋先輩、今日は本当にありがとうございました!」
フュージョン部の5人は揃って、市橋菜緒に頭を下げた。今日はどうなる事かと心配していたところに、最強の助っ人が来てくれたのだ。菜緒は笑いながら、自分のサックスとEWIを片付けていた。
「気にしないで。私も、ふだんと違う音楽を存分に吹けて楽しかったわ。また機会があれば、呼んでちょうだい」
顔を上げながら、また参加するつもりなのだろうか、と5人は思った。
「7月のコンクールが終われば、私たち3年生は事実上の引退。秋に2件ばかり演奏会があったかしら。ときどきヒマになると思うし、サックスの練習になるわ。それに…」
言うべきかどうか迷う様子を見せたあと、市橋菜緒はうつむいたまま小さく笑って、
「なんでもないわ。それじゃ、また」
とだけ言い残し、手をヒラヒラさせてその場を立ち去ったのだった。
菜緒が吹奏楽部の部室に戻ると、ちょうど演奏が終わって一息ついている所だった。
「ありがとう。今日は助かったわ」
菜緒が抜けた穴にヘルプで入った佐々木ユメの肩をポンと叩く。ユメは笑った。
「どういたしまして。こちらこそ、後輩が世話になったようね」
「…ユメ、ちょっといい」
小声で菜緒はユメを、誰もいないスペースに呼び寄せた。
「今回の事は、本当に申し訳なかったわ」
「あら、何の事かしら」
「とぼけないでよ」
力なく菜緒は笑う。吹奏楽部の2年が例の流言を流したという事を、菜緒はほぼ完璧に推理していたのだ。
「正直言うと、私自身もうあの二人には限界を感じている。除名処分も…」
「おっと、そこまで」
ユメは、菜緒の唇に人差し指を当てて話を止めた。
「フュージョン部の子から私に、メッセージが入ってるわ。差し出がましいけれど、あなたに伝えて欲しい、って」
「私に?」
菜緒は訝しんだ。そもそもフュージョン部の誰からのメッセージなのか。LINE画面を見せないようにして、ユメは読み上げた。
「”おそらく、聡明な市橋先輩は流言を流布した犯人を、自力で特定してしまうでしょう。私たちが出しゃばっても、先輩の考えを変える事はできないと思います”」
そこでいったん、ユメは読み上げを止めて菜緒の表情を見た。菜緒は目を閉じている。
「”市橋先輩は、彼女たちを吹奏楽部から除名処分しようとするに違いありません。ユメ先輩、どうかそれを止めてくださるよう、市橋先輩に進言して欲しいのです”」
それを聞いて、菜緒はハッとしてユメを見た。ユメは真剣な顔をして、視線を返す。
「”私的な感情としては、制裁を受けて欲しい気持ちがゼロとは言えません。ですが、彼女たちだって本来は音楽を愛してその道に進んだ筈です。過ちは人の常、許すは神の業。私たちは公明正大な気持ちで音楽を続けたいのです。どうかその旨をお伝えください”」
以上よ、とユメは締め括った。菜緒は唇を結んだまま、じっと黙っていた。ユメはスマホを閉じ、ポケットにしまう。やがて、間を置いて菜緒が口を開いた。
「そのメッセージを送ってきたの、あのベースの子でしょう」
「さあ、誰かしらね」
「まあいいわ、誰でも」
菜緒は深いため息をついて、壁に背中を預け腕を組んだ。
「そうね。彼女たちを処罰して、あなたの後輩が気まずくなるというのなら…」
「そんな消極的な理由が本音なの?いまのメッセージ、ちゃんと聞いていた?」
意地悪く、ユメは顔を近づけた。
「わかったわよ。あの子達を、最後まできちんと指導する。それが、入部させた私の責任でもあるし、彼女たちのためでもある」
「そう言ってくれて助かるわ。あとは、あなたに任せる」
ユメは、菜緒の肩をポンと叩いて背を向け、横顔をちらりと向けた。
「あまり、堅苦しい事は言いたくないものね、お互いに」
「仕方ないわ。たぶん、それが大人になるって事なんでしょうね」
「まだ子供よ、私たちなんて」
それじゃあね、と言い残し、佐々木ユメは夕暮れの暗い廊下の奥に消えて行った。菜緒はひとり取り残された気持ちになり、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「あんな仲間が欲しいものね、私も」