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Light Years  作者: 塚原春海
ようこそフュージョン部へ
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カピオラニの通り雨

 ミチル達は機材の片付けを済ませると、久々に気楽な気持ちで部室でひと息ついていた。明日のセトリはいつも演奏している定番のフュージョン曲なので、練習の必要がないのだ。

「そういう曲こそアンコールでやるべきなんだろうけどね」

 明後日の譜面をリアナと一緒にチェックしながら、マヤはペットボトルの緑茶を喉に流し込んだ。久々に歌ったせいか、喉をだいぶ使ったようにマヤは感じていた。

 今日は朝から色々あって、全員どっと疲れていた。部室のPCで相変わらず、薫が録音した音源をチェックしている。

「おい薫、今回はラジオ局がばっちり録音してくれてるだろ。お前もゆっくりしろよ」

 ジュナが余っているコーラのボトルを薫の横に置いた。薫は遠慮なく受け取りつつも、今日の録音は興味深いのだと言った。

「演奏も良かったし、終盤のアクシデントというかハプニングも面白かったけど、オーディオマニアとしては、オーディエンスのざわめきが面白い」

 フュージョン部の面々は、久々に聞く薫のオーディオおたくトークに、耳を傾けるよりもまず先に首を傾げた。

「ライブ音源は客席のざわめきとか拍手、歓声が臨場感を盛り上げるでしょ。それがリアルに再生できるかどうか、というのもオーディオのポイントのひとつなんだ」

「クラシックの、客席の咳払いとかは?」

 マヤの問いに、薫は真顔で答えた。

「うん。ああいう音をリアルに再生するのに凝ってた事もある」

「あるのかよ」

「あるんだ」

 ジュナとマヤのツッコミが重なった。今日のライブはオーディエンスも多かったから、さぞかし編集も楽しめる事だろう。薫は、自分のポータブルSSDに音源をコピーすると、バッグにしまってそそくさとドアを開けた。

「それじゃ、また明日」


 薫がいなくなるタイミングで、そろそろ自分たちもお開きか、と全員が帰り支度を整えはじめた。新入部員のリアナは地元のマーコと帰宅の方向が同じということで、一緒に帰ろうと話がまとまる。

「明後日もそんな面倒なセトリじゃないよな」

「あんたはね」

 マヤはジュナを恨めしそうに見ると、バッグを背負って立ち上がる。続いてミチルを除く全員が立ち上がると、ジュナが照明のスイッチに手をかけた。

「ミチル、消すぞー」

「あ、ごめん。よいしょっと」

 ミチルは、バッグを肩にかけて右脚に力をかけ、立ち上がった。そのとき、ミチルは床が大きく揺れるのを感じた。地震だ。これは大きい。

 そう思った瞬間に、眠気にも似た重量感が頭を支配した。視界がゆらぎ、手足の力が抜け、一瞬天井のLED照明が見えた。

『ミチル!』

 駆け寄ってきたジュナの両腕が首や肩に回されたところで、ミチルの視界は急速に昏くなり、意識は途絶えた。



 ミチルは、自分の部屋――のような気がする、6畳あるかないかという木造の古い部屋にいて、真っ白なストラトキャスターでギターの練習をしていた。部屋には布団を取り払ったコタツがテーブル代わりに置いてあり、壁にはBUCK-TICKのポスターが貼ってあった。櫻井敦司が、こちらを凝視している。

 ふいに、押し入れの戸が開いて、中からアルトサックスを持った、スーツ姿のキャンディ・ダルファーが出て来た。ミチルはキャンディに訊ねる。

「今日、市民会館でライブでしょ。こんなとこにいて、いいの」

 すると、キャンディはなぜか日本語で答えた。

「今日、私は休みだから」

 そう彼女が笑って言ったところで、ミチルは目が覚めた。



 そこは病室だった。少なくともミチルの知識では、個人用の病室に見える。目が覚めてすぐに、自分でも驚くほどの速度で、ミチルは状況を理解した。自分は、部室で帰り際に気を失って倒れたのだ。

 ベッドに横たわる自分は白い患者用の服に着換えさせられており、左腕には点滴のチューブが繋がっている。カーテンが引かれており窓の外は見えないが、たぶん夜だ。


 ドアの外からボソボソと、話をする声が聞こえた。母親の声だ。

『大丈夫だから、あなたはもう帰りなさい。ありがとう、気遣ってくれて。いい友達に恵まれたわね、あの子も』

『あのっ、ミチルの目が覚めたら』

『わかってる。すぐ連絡するから、帰って休みなさい』

 少しして、重い足取りで歩くスリッパの音が遠ざかって行った。ミチルは起き上がれるかと思ったが、少し体に力をこめた瞬間、強烈な睡魔が襲ってきて、またミチルは眠りについた。



 次の日の朝、ミチルは窓から微かに聞こえる雨と、ドアが開く音で目が覚めた。女性の看護士さんが、ハッとした様子で駆け寄ってきた。

「大原さん、気がつかれましたか。良かった」

「あ…あの、私…」

「そのまま、安静にしていてください。…もしもし、こちら203号室の大原ミチルさんの病室です。意識が戻りました。…はい。わかりました」

 おそらく半ば形式的なやり取りなのだろう、そのあと看護士が数名やって来て、ミチルの脈拍などを確認し、起き上がれると判断したところで白髪の医師がやってきた。


「病気などの心配はありません。が、疲労がだいぶ蓄積して身体が弱っています。まあ若いし、3日も安静にしていればすぐ回復するでしょう」

 優しいのか機械的なのかわからない口調で、白髪の先生はカルテに謎の記号じみた文字を書き連ねて行った。看護士たちはあれを読めるのだろうか、とミチルが考えたところで、先生はミチルを向いて言った。

「にんにく注射、1本打っておきますね」

 ミチルの頭の五線譜に、8ビートのリズムでハテナマークがメロディを刻んで行った。にんにく注射とは何だ。まだ人生16年かそこらではあるが、それにしても聞いた事がない。

「ま、アリナミン注射なんて呼び方もありますけど、要するに点滴より即効性のある栄養剤です。芸能人とかスポーツ選手も、よく用います」

「はあ」

 効くならべつに文句はない。今、部活のライブに穴を開けるわけにはいかないのだ。ニンニクでもショウガでも打ってこい、とミチルは承諾した。すると、先生はひとつだけ注意点を説明してくれた。

「打つ前に言っておきますが…」


「ごめん、ジュナ。いま私はニンニク星人に身体を乗っ取られている」

 夕方、雨の中お見舞いに来てくれたジュナに、ミチルはわけのわからない返事をした。ジュナが半分本気で不安そうに見ている。そのジュナは起き上がったミチルに時速何kmかで抱きつきかけて看護士に止められ、しこたま注意されて今、ベッドの横に座っていた。

「やっぱりだいぶダメージ大きかったんだな。ミチル、あんたがどんな事になろうと、あたしは友達だからね」

「変に誤解すんな」

 ミチルは、午前中に打ってもらったニンニク注射というものについてジュナに説明した。ニンニク注射と呼ばれるゆえんは、ニンニクに主に含まれる栄養成分が配合されている事によるのだが、打った後に"副作用"が起きるのである。

「身体の内側からニンニク臭が沸き起こってくる」

 絶望的な表情で、ミチルはジュナを見た。

「血管に直接ニンニク成分を打つから、嗅覚の神経にもダイレクトにニンニク臭が効いてくる。どこに行ってもニンニク臭から逃れられないの、想像してみて」

「うわあ…」

 地獄を垣間見たような顔をして、ジュナは上半身ごとドン引きしてみせた。

「なんだか吐く息までニンニク臭いんじゃないかって思う」

「どれ」

 ジュナが真っ正面に寄せた顔に、ミチルは息を吐きかけた。ジュナは首を傾げる。

「べつにそんな匂いはないけどな」

「そうなの?良かった」

「とりあえず、いくらか元気は出て来たみたいだな。医者は何て言ってんだ」

「うん。典型的な、働きすぎによる疲労だって」

 それを聞いたジュナは、深いため息をついて椅子に腰をおろした。何か、諦めがついたような顔をしている。ミチルはジュナが何を言うか、ほぼ完璧に予想できているうえで黙っていた。

「ミチル、今みたいな無茶なプログラム、もうやめよう。お前の身体がもたない。仮に明後日からの土日である程度回復したとして、倒れないって自信、あるか」

 ジュナはミチルの目を見て言った。こういう時のジュナは、もう意志が固まっているという事をミチルは知っている。ミチルは返す言葉をなくして、静かにうつむいた。

「あたしたち、もう十分やったと思う。きのうの盛り上がり、凄かっただろ。あれがピークだよ。だから今日、雨が降ってライブもできなくなったんだ。神様が、休めって言ってんだよ」

 ジュナは、ミチルの手をぎゅっと握った。言い返す事ができない。涙こそ出なかったが、ミチル自身も疲労が重なった事もあってか、続ける気力が目減りしている事は自覚していた。

「”人事を尽くして天命を待つ”って、年寄りがよく言うけど、あれは真実だと思う。できる事ぜんぶやったんなら、後は神様に丸投げしておけばいいんだよ。それで何もしない人でなしの神様だったら、こっちから切り捨ててやりゃいいんだ」

 そこでミチルから、くすりと失笑がもれた。

「…あんたらしいね」

「らしかろうが、らしくなかろうが、これがあたし達の気持ちだ。マヤ達も同じ事言ってる。ミチル、あんたはもう立派にリーダーの役目を果たしたんだ。その気持ちはあたし達だけじゃない、昨日のライブで学校全体に伝わった。それに、明後日のラジオでも流れるんだ、あたし達の演奏が」

「え?」

 ジュナは、力なく笑ってスマホのWEBブラウザを開いた。そこには地元のFM局の放送予定表があり、いつもは時間つぶしに適当に音楽だけを流している土曜夜9時からの枠が、ミチルたちのストリートライブ紹介の番組に差し替えられているのだった。

「この番組が流れる事は、もう全校生徒が知ってる。教頭が嬉々として朝礼で教えてたからな。興味がある奴は聴いてくれるだろう。死に物狂いでやる30分のストリートライブより、何倍も効果はある」

「…そっか」

「正直、これ以上ない成果だと、あたしは思う。それもこれも全部、ミチルが頑張ったから起こったんだ」

 ミチルの肩に、ジュナは手をかけた。ミチルの目から、涙がぽろぽろと流れ落ちる。

「あたし、頑張れたのかな」

「ああ。みんな言ってるよ、さすがあたし達のリーダーだって」

「そっか」

 ジュナは、泣くなとは言わなかった。いま、ミチルには誰よりも泣く権利がある。ただ黙って、嗚咽に揺れる肩をしっかりと握りしめていた。今、こうしてミチルを支えてやれる事に、友としての喜びをも感じていた。

「いけねえ、雨降りだと話まで湿っぽくなっちまう。あーやだやだ」

「どこの江戸っ子よ」

 泣きながら、ミチルはジュナに笑ってみせた。ジュナは頬をハンカチで拭ってやると、立ち上がった。

「看護師から、あまり長居すんなって言われてるからな。悪いけど、そろそろ帰るよ」

「うん」

「なんか、差し入れして欲しいものとか、あれば買ってくるよ」

「フランス製のリガチャー、9,900円」

「食い物とか飲み物の話だよ!お前おやつにリガチャー食うのかよ!」

 ジュナはミチルの頭を軽くはたいた。二人でいると、結局こんな漫才じみたやり取りになる。いつもの会話が戻ってきた事に、二人は笑い、喜び合った。



「そう。容態はいいのね」

『はい。ニンニク注射打たれたって言ってましたし』

「芸能人みたいね」

 自宅の部屋で、市橋菜緒はスマホを片手に微笑んだ。電話の相手は、フュージョン部の2年、折登谷ジュナである。ミチルが倒れたと聞いて、様子を教えてくれるよう頼んでいたのだ。

「伝えてくれてありがとう。無理を言ってごめんなさいね」

『あー、気にしないでください』

「それで、今後の活動はどうするの。差し出がましいようだけど」

 菜緒は、フュージョン部の残り少ない1学期の活動がどうなるのか、気になっていた。1年生がひとり、加入したのは知っている。残り4人見つかれば、とりあえず来年のフュージョン部の存続は保証されるのだ。

『…ミチルには、身体壊すから無理すんなって言っておいたんですけど。とりあえず、明日はミチル抜きでやろうと思ってます。ギターとか、キーボードでなんとかカバーして。雨が降ってなければ、ですけどね』

「そう」

 菜緒は、目を閉じて思案した。サックスのパートを他の楽器でカバーする事、それ自体は容易い。しかし、と菜緒は思う。

「…折登谷さん、明日のセットリスト、良ければ送ってもらえるかしら。LINEでも、SMSでもいいから」

『え?』

 ジュナの声色が、若干怪訝そうなものになったが、返事はすぐにあった。

『いいですよ。あとで送っておきます』

「ありがとう。それじゃ、遅いから切るわね。おやすみなさい」

 やや急ぎ気味に菜緒は通話を終わらせると、デスクトップPCのディスプレイに視線を移した。音楽再生アプリが開いており、そこにはオーディオ同好会の1年生、村治薫から受け取った、ミチルたちのライブ音源のファイルが表示されていた。

 3万8千円するヘッドホンで、菜緒はその音源を再生した。2日目のミチルたちの演奏が、目の前で聴いているかのように鳴り響く。演奏は完璧とまではいかないが、それを補って余りある、頭一つ抜けたセンスを感じさせた。自身が所属する吹奏楽部とフュージョン部では純粋な比較のしようはないが、これぐらいやれるメンバーが、吹奏楽部の2年生にいるだろうか、と思う。

 その驚くほどリアルな録音にも、菜緒は驚いていた。吹奏楽部の演奏の録音を聴いても、こんなふうにクッキリと、かつ広々とした音にはならない。ホールの反響で音像は濁り、音場もぼやけた物にしかならない。

「天才というのは、いるものね。ただそれを探す努力を怠っているか、才能を理解できないか、あるいは」

 菜緒はヘッドホンを置いて、自室の小型冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、窓を叩く雨を見つめながらひと口飲んだ。

「巨大な才能を認める度量と、活かす智略が欠けているか、ね」

 あなたはどうかしら、と菜緒は硝子に映る自分に問いかけた。

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