Don't Give It Up
洋華大学の宮本ラボでは、もとフュージョン部の仁藤和也がディスプレイに向かって、生成されてゆく譜面を睨んでいた。
「面白くなさそうね、仁藤くん」
白衣をまとった黒いロングストレートの研究員が、ディスプレイ越しに意地の悪そうな笑みを見せた。
「そんな顔じゃ、食事に誘おうという気も起きないわね。せっかくギャラも出たのに」
「起きなくてけっこうだ。今はな」
「評判のラーメン屋さん、みつけたのに」
新堂麻奈美はパソコンの電源を落とすと白衣を脱ぎ、帰宅する準備を始めた。
「いいわ、絵里香と食べに行くから」
「そうしてくれ」
「なんだか人が変わったみたいね。前はもっと、ディスプレイを見る目が楽しそうだったわ。ギャラ付きとはいえ、春休みに引っ張り出されたから?」
そう、今は大学は当然春休みである。だが、仁藤たちラボの研究員は、所長の宮本真一郎に数日間、協力を要請されたのだ。
「所長も変な人よね。音楽が嫌いなくせに、AIで音楽を生成する研究を進めるなんて」
「音楽だけじゃない。あの人は芸術に興味がないんだ。それどころか、食べ物にもな。このラボに入るまでは、知らなかった」
仁藤は椅子にもたれて、置いてあったモンスターエナジーをあおった。ディスプレイを見るも、まだ解析は終わらない。
「麻奈美、君が今まで食べたラーメンで、いちばん美味しいと思った店の味を想像してみて」
「うん」
「それを超える味を作れと言われたら、君はどうする」
「私じゃ無理だから、誰か他の人に頼むわね」
その答えに、仁藤はつい吹き出した。
「うん。まあ、あながち的外れな答えでもない。それを、人ではなくプログラム、AIに解析させるのが、このラボでやっている事だ。人間が作ったものより、高度なものを作るというね」
仁藤はモンスターエナジーを飲み干すと、空き缶をデスクわきに置いた。エナジードリンク特有の香りが漂う。
「君が言ったとおり、僕も変だと思う…いや、思うようになった。なぜ所長は、芸術に関心がないのに、絵や音楽をAIで生成する技術に執着するんだろう」
「そうね。けど、仁藤君こそどうして、今になってそんな疑問を持ったの?所長がそういう矛盾を抱えた人間だってことは、昨日今日知った事でもないでしょ」
その麻奈美の問いが、仁藤をわずかに動揺させた。そうだ。どうして、今まで疑問にも思わなかった事が突然気になり始めたのか。
「考えすぎると体に毒よ。もう例のコンペに出す曲は完成したんだから、ラボにこもる必要はないでしょ」
まったくその通りだ。所長からは小遣い程度だが、休み中に引っ張り出された報酬ももらっている。春休みの気楽な生活に戻るべきだと、仁藤も思う。だが、仁藤はまだそこを動けなかった。
「わかってるよ。適当なところで切り上げるさ」
「そう。じゃあね」
麻奈美は、やや年季の入ってきたドアを閉めて出て行った。仁藤は、なぜ自分は仕事が終わったのに、ここにいるのだろうと考えてしまう。
例の曲。エイジア・フォーミュラという、新たに開設されるレースカテゴリーの、プロモーション用テーマ曲のコンペティションに応募するための曲だ。AI解析によって、ザ・ライトイヤーズが作る楽曲の"欠点"を突くことで、審査員の音響心理に訴える。
以前、仁藤和也がライトイヤーズの楽曲をAIに解析させたのも、同じプログラムを搭載したスパコンだ。だが、あっちは元フュージョン部のメンバーとともに、AIが弾き出した譜面に独自のアレンジも加えていた。もちろん、基本的にはライトイヤーズの楽曲に酷似するようAIを調整したのだが。
今回使用した"宮本オリジナル"のAIモデルは、古今東西のモータースポーツのテーマ曲の中から評価の高い13曲を抜き出し、さらにそれらの中で今回のレースカテゴリーに最も相応しいコード進行を持った6曲を選んだ。
それらの楽曲から最もレースファン、音楽ファンの心を掴んでいる箇所を抽出し、音響心理学に基づいてAIがメロディー、使用楽器、コード進行、リズム、アレンジの全てを自動で譜面化する。仁藤に任された仕事は、音楽制作の知識に基づいて、AIゆえにどうしても発生する細部の不自然さを修正する事だった。
AIやニューロンネットワークによる画像や音声の生成は、既存の著作物を参考にするため、著作権の問題が発生しうる。だが宮本オリジナルAIは、それを根本的に解決できる仕組みを開発しており、特許の取得も視野に入れているという。その理論はまだ宮本所長の"企業秘密"らしい。
「僕らは実験を進めるための駒か」
仁藤の無意識の本音が口からもれる。慌てて、部屋に誰もいない事を確認すると、安堵のため息をついた。そして、ふいに仁藤の脳裏を、あの後輩たちの顔が掠めた。ザ・ライトイヤーズ。フュージョン部の後輩にして、仁藤の嫉妬の対象だったバンドだ。彼女たちの目の前で醜態と本音をさらした今、もう嫉妬も何もない。
だから、所長が突然例のコンペに参加すると言い出した時は、何を考えているのかと思った。洋華大学はモータースポーツとの関わりがあるので、そのツテで新カテゴリーの件を知ったのだろう。だが、ライトイヤーズがコンペに参加しなければどうするのか。しかし、「宮本AI」の予測では、ライトイヤーズのリーダー大原ミチルは、99.957パーセントの確率で、参加を決定するはずだという。
所長は、仁藤の単純な嫉妬とは違う意味で、ライトイヤーズを敵視している。そう、敵視と言っていい。あの無感情な宮本が、技術によってライトイヤーズを上回る事に固執している。だから、彼女たちに嫉妬する仁藤を上手く利用したのだろう。年下の少女達の成功に嫉妬した仁藤も、褒められたものではないとは自分で思うが、嫉妬それ自体は歪ではあっても、誰でも抱きうる感情だ。
だが楽器ひとつ弾くでもない、IT研究が専門の宮本が、ライトイヤーズを目の敵にする理由は謎である。それを知りたい、と仁藤は思った。
ザ・ライトイヤーズのファーストアルバムのオープニングを飾る、大原ミチル作曲のナンバー"Lightning"は、ほぼ完成に近づいていた。ミチルのサックスは吹くごとに情感の表現が高まり、マヤのキーボードもリズミカルになってきた。そこで、マヤの指示でドラムス、ベース、キーボードまではレコーディングしてしまう事になった。
「オーバーダビングも、慣れれば慣れるものね」
レコーディングしたトラックを再生し、マヤは問題がない事を確認した。あとはミチルのサックスと、ジュナのギターが入れば完成だ。本当はもっと時間をかけて練りたい気もするが、先輩バンドの人達によると、曲は一気呵成に仕上げた方が勢いが出る、とも言う。どっちが正解かはわからない。
残る唯一の課題は、間奏のジュナのギターソロだった。ジュナがとりあえず弾いてくれたソロは、十分良いとは言えるが、抜群ではない。優れたギターソロを聴いたときの、あのゾクッとくるインパクトがないのだ。現状でも、曲としては及第点と言えるだろう。メインはミチルのサックスだ。だが、マヤはあえて厳しい姿勢を取った。
「主人公だけが目立っても、いい物語にはならない」
それが、マヤの持論だった。
◇
まだ課題は残しつつ、いよいよアルバム完成の目途は見えてきた頃だった。自分の作業が終わったクレハは、ライトイヤーズ公式サイトのメールフォームから、ひとつの差出人不明のメッセージが届いていることに気付いた。そこには、ごく簡潔にこう書かれていた。
『いまのAIにできるのは、データの収集と合成だけだ。どれほど処理が速くとも、真の意味で新しいものを創ることはできないし、既存のデータを超えたものに対応することもできない』
それが何者からの送信であるか、クレハはすぐに理解した。それを伝えられたミチルは、視線を交えて首を傾げる。
「どういうつもりなんだろ」
「少なくとも、いま起きている事は全て把握したうえで、送ってきたのは間違いないと思うけれど」
「何のために?」
ミチルの問いに、クレハは答えることができなかった。このメールを送る事が、送信者にとって何の意味を持つのか。何かメリットがあるのか。ミチルは、アルトサックスをスワブで拭きながら言った。
「何にせよ、私達のやる事は変わらないわ」
◇
ジュナは、第2部室で延々とギターソロを考えるのに時間を費やしていた。どれくらい弾いて、録音したかわからないが、これはと言えるフレーズにまだ出会えていない。まるで、曲ができなくて悶々としていた、一昨日までのミチルだ。しかもジュナが悩んでいるのは、ほんのわずかな時間のギターソロだけである。
「だめだー」
タイルカーペットを敷いた床に、ジュナは座り込んだ。
天井を仰いだとき不意に、差出人不明の妙なメールが届いていた話を思い出した。『AIは既存のデータを超えたものへの対応はできない』という。何となく誰が送ってきたのか想像はついたが、なぜそれを送ってきたのか、真意はわからない。
だが予測も何も、ジュナは大元のギターソロを自分で決めなくてはならない。AIは楽なものだろう。既に人間が創ったものを勝手に拝借して、自分が創造しましたと言い張れるのだから。
「あー、くそ」
ジュナはブラウンのセミロングヘアをかき上げる。アンジェリーカとリアナが、どうすればいいのかわからずオロオロしていた。薫は相変わらず、涼しい顔でパソコンのディスプレイを見ている。ちなみにサトル、キリカ、アオイの3人はコンピューター室でPV編集中である。
「リアナ、どうすればいい」
「えっ」
リアナが、ジュナの唐突な問いにギクリとして顔を引きつらせた。リアナに言っても仕方ないのはわかっている。それでも最近は、リアナもギターソロが上手くなってきたのだ。1年生のバンド”Night Flight”も、ジュナ達が知らないうちに、信じられないほどまとまってきたのだ。もう、スクェアの定番ナンバーのいくつかは当たり前に演奏できるようになっていた。そろそろ、難しい曲にチャレンジさせても良さそうだとジュナは思うのだが、今の自分の体たらくでは、課題を出しても恰好がつかない。
「ちょっと借りる」
ジュナはリアナに貸している、青いアイバニーズを手に取った。貸しているものを借りる、というのも変な話だが、もうすでにリアナにこの青いボディが馴染みすぎている、というのもあった。
ミチルがサックスを持って神社をウロウロしていたように、発想が行き詰まった人間というのは、何か条件を変えれば新しい発想がやってくるのではないか、という無駄な期待をしてしまう。
「ミチルの事、どうこう言えた立場じゃねえな」
自嘲ぎみにジュナは笑う。無言でリアナにアイバニーズを返却すると、自分のレスポールを手にして立ち上がった。再び、ディストーション強めのソロを奏でてみる。が、なんだか中学生が文化祭でやるソロみたいになってしまう。いちどスランプに陥ると、こんな音になってしまうのかとジュナはまた笑った。そして何曲も弾いた挙げ句、やっぱりだめだ、と再び床に座り込む。
「薫、お前はエレキ弾けるんだっけか」
「ほんとの基礎的なところだけね」
「ちょっとやって見せろ」
ただの気晴らしなのだが、薫は何食わぬ顔でレスポールを受け取った。背丈はジュナと似たようなものなので、ストラップも丁度いい。
薫は、思い付きで適当なナンバーを奏でた。ラリー・カールトン”Don't Give It Up”だ。左右のチャンネルにツインギターが分かれた、ちょっとブルースっぽいスローテンポの静かな曲で、薫は左チャンネル側のアドリブっぽいフレーズを弾いてみせた。渋すぎる選曲である。リアナもアンジェリーカも聴いた事がない、という顔をしている。この曲を知っている高校生は、1000人にひとりいれば多い方だ。知っている現フュージョン部員がおかしいのである。
だが、その演奏を聴いているうちに、ジュナに小さな閃きがあった。ジュナは、もう一度アイバニーズを手にすると、薫に合わせて右チャンネルのコード演奏を始めた。そういえば薫とのセッションは初めてである。
「やっぱりお前、上手いな。リアナよりちょっと無機質な感じはするけど、それはそれで持ち味だ」
ジュナは、村治薫という少年ギタリストの腕前を再確認した。飛び抜けた個性みたいなものはないが、正確な演奏も突き詰めれば味になる。
「なるほど、ラリー・カールトンか」
ジュナは自らも、ラリーの曲のフレーズを爪弾いてみた。リアナ達は首を傾げている。何か閃きそうだ。そんな感覚があるのだが、あと一歩、何かが出てこない。そう思っていると、ドアが開いてゾロゾロとサトルたち3人が戻ってきた。
「うーす。先輩どんな調子っすかー」
「いまなんか閃きそうだったんだよ!」
「あだだだだ!」
レスポールのヘッドで腰をグリグリされたサトルは、もんどり打って床に伏した。そこへキリカとアオイが追い打ちをかける。サトルの悲鳴が響く中、ジュナはいきなりリアナにレスポールを預けると、手を掴んでドアに向かった。
「リアナ、散歩に付き合え!気分転換だ」
「えっ、ちょ、ちょっと」
呆然とするアンジェリーカ達をよそに、ふたりはまだ冷たさの残る風が吹く校庭に飛び出した。
校庭の桜も、そろそろ少しずつ咲いてきた。ライブの頃には、もうあちこちで咲いているだろう。春の息吹を感じる風の中、ジュナとリアナは少し日が傾いてきた空を見上げながら歩いた。ジュナはプラグを抜いたアイバニーズを提げたままである。リアナも、レスポールをどうすればいいのか考えあぐねている様子だ。
「めちゃくちゃ久々に外の空気を吸った気がする」
部室にこもったのは、せいぜい1時間ほど前の事なのだが、延々ギターソロを追及していたおかげで、とてつもない長い時間に思えていた。ミチルが神社まで歩いた理由もわかる。
ふたりは、学校の東側にある土塁の上に登った。学校の東の奥はすぐ山地である。高速道路を走る車の音が、風に乗って聞こえてきた。
「リアナ、お前自分のギター、もう買っていい時期じゃないか」
「えっ」
「お前たちの演奏、もうだいぶ良くなってきただろ。正直、ここまで短期間に、こうもまとまるとは思ってなかった。お前のギターも、力強さはあと一歩だけど、お前らしい繊細さがあって、あたしは好きだ」
「そっ、そんな」
会話がしどろもどろなのは、出会った時からなにも変わらない。ジュナは草の上に腰を下ろすと、アイバニーズを爪弾いた。
「なんか弾こう。やれる曲、あるか」
「えっ」
「前にやった曲でもいいよ。リアナの好きな曲」
突然そう振られて、リアナはあれこれ考えたすえ、ひとつのタイトルを挙げた。
「アコースティック・アルケミーの」
「"カタリーナ・キッス"か?」
「なんでわかるんですか!?」
驚くリアナに、ジュナは微笑んだ。
「弟子の考えてる事なんか、すぐわかるよ」
ふいに、一陣の風が舞った。リアナの長い髪が、ジュナの肩に届く。
「メインのメロディーはお前が弾け。あたしはコードを弾く」
「わかりました」
「ワン、ツー」
ジュナの合図で、アンプを通さない2台のエレキギターの、乾いた音が斜面に響いた。春風にふさわしい、爽やかなサウンドだ。リアナのギターは、クラシックギター出身らしく細やかで心地よい。ロック、ブルースから入ったジュナには、とても新鮮に聴こえる。
こんなふうに、ふたりでギターを奏でるのはいつ以来だろう。先輩らしい事はできているだろうか、とジュナは思う。リアナという後輩を弟子に持てて、正直嬉しかった。あの初夏の日、リアナが部室に飛び込んで来なければ、今ごろフュージョン部が存続していたかもわからない。
ふたりのギターが風に乗って溶け合う。心が躍るような、幸せな時間だった。この時間がずっと続けばいいのに、とジュナは思った。
そして、曲が終わるタイミングで、ジュナに春一番のような鮮烈な閃きが舞い込んだ。
「…そうか」
突然、ネックをじっと見つめて黙り込むジュナを、リアナは不思議そうに見た。ジュナは、リアナに真剣な目を向けて言った。
「リアナ。あたしに、クラシックギターの奏法を教えてくれ。今すぐ」
「はい?」
突然のリクエストに、リアナは面食らったあと、いつもの素っ頓狂な驚きの声をあげた。
「えええー!?」