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Light Years  作者: 塚原春海
【終章】-ザ・ライトイヤーズ-
173/187

Over The Border

『姉貴の目がおかしいんですけど、なんかあったんですか』

 そんなLINEをギターの弟子、大原ハルトから折登谷ジュナが受け取ったのは、夜9時すぎの事だった。

『あー、大丈夫、いつもの事だ』

 とりあえずそう返しておいたが、いつも家にいる弟が「変だ」と言っているのだから、まあやっぱりどこか、ミチルはいつもと火の付き方が違うらしい。

 相手がAIだとわかった瞬間、ミチルは明らかに敵意をむき出しにした。まあ何となくはわかる。今までさんざん悩んで曲を作ってきたのを、そんなのクリックひとつで済むんだから、もう作曲家なんていらないよと言われたら、ミュージシャンとしては不本意だろう。

 そう思っていると、そのミチルからLINEがグループに送信されてきて、ジュナは焦った。

『デモ作ったから確認して。打ち込みのベースとドラムスは単なる間に合わせだから、メロディーだけ意見ください』

 送られてきた、いつものファイル共有サイトのurlをタップして、そのデモ音源aacファイルをダウンロード、再生する。

「おっ」

 ジュナは、それを聴いた瞬間に目を瞠った。ファンクサウンドだ。まるでキャンディ・ダルファーのような、野性的かつ自信に充ちたサックス。EWIだが、音域はアルトなので本番ではアルトでレコーディングするつもりだろう。

 Aメロ、Bメロ、サビ。どれも鮮烈で、切れ味鋭い。スランプを脱したミチルの面目躍如と言っていい出来だ。これをマヤがアレンジすれば、アルバムのオープニングを飾るにふさわしい曲になるだろう。

 そう思って、ミチルに感想を伝えようと、スマホをタップしかけた、その時だった。

「……」

 ジュナは、どうしても今伝えようとしている感想を、トーク画面に打ち込む事ができなかった。デモはいい出来だ。親友の贔屓目なしに、そう思う。

 だが、ジュナは次の瞬間に、ミチルではなくマヤとのトーク画面を開いていた。


 ミチルからのデモ音源の出来に唸っていた金木犀マヤに、唐突にジュナからのLINEが入った。きっと、ミチルの楽曲の出来に関してだろう。もうすでにマヤの頭の中では、どうアレンジを組み立てるかのプランが立ちかけていた。

 だが、ジュナのトークの内容は、予想と少々ずれたものだった。

『マヤ、ミチルの音源を聴いたって前提で言うぞ。もうちょっと待ってくれ』

 なに?

『お前の事だ、もうアレンジを考え始めてるかも知れない。けど、あの楽曲は未完成だ。あいつは重大な間違いを犯している』

 どういう事だ。マヤは、返信を送るのも忘れて、ジュナの言葉の意味を探った。そして当然の質門を返す。

『私はあの曲、いいと思うけど。インパクトがあって』

『頼む、マヤ。あたしを親友だと思ってくれているなら、少しだけ時間をくれ』

 なんだか知らないが、その言葉はマヤの胸を打った。親友。今ではもちろん、疑いもなくそう思う。だからこそ、出会った頃のジュナとの険悪さを思い返すと、まるで奇跡のように思えるのだった。マヤはひとり微笑んでため息をつくと、短く返信した。

『わかった。ジュナ、あなたに任せる』


 ミチルは、今生み出したメロディーの展開に自信を持っていた。この音楽は、誰にも負けない。機械、プログラムなんかには絶対に負けない。この音を、世界に響かせてやろう。

 そんなふうに思って椅子を立ち上がると、勢いあまってミチルは腿をデスクにぶつけてしまった。その衝撃で、飾ってあったステファニー・カールソンのサイン入りCDのジュエルケースが、パタンと倒れた。

 慌ててミチルは、ケースが割れていない事を確認する。あの夏の日、ステファニーから目の前でサインしてもらった、大切なディスクだ。ジャケットのステファニーは、力強く、優しくこちらに微笑んでいた。



 洋華大学のひとつの研究室で深夜、コンピュータのディスプレイを睨む男がいた。痩せぎすな中年で、髪はすでに白髪が目立っている。ディスプレイのウインドウには、五線譜のデータが表示されていた。男が三角の再生ボタンをクリックすると、シークバーが動いて五線譜の楽曲が奏でられた。モニタースピーカーから流れるそれは、ロック調のギターを主体としたハイスピードなフュージョンだった。

「こんなもの、何がいいのか」

 吐き捨てるように男はディスプレイの譜面を睨んだ。その目には苛立ちと、理解できない事への困惑の色があった。自分以外は誰もいないラボを見渡すと、グラフィックスを制作するための液晶ペンタブレットや、シンセサイザー、電子ドラムなどが置いてある。

 そこへドアが開いて、20歳前後の若い男性研究員が入室してきた。

「宮本教授、その譜面でいいんですね」

「ああ」

 素っ気なく、宮本と呼ばれた男は答えた。

「AIによる、心理パターンと作品の傾向の分析結果だ。憤った状態のクリエイターは88パーセントの確率で、その作品に自らの憤りを表現する。オーディエンスはその思考、感情のエッセンスを、不快に受け取る事がわかっている。怒りの感情に満ちた音楽家が、好んで用いる音域の分析データもすでにある」

「つまり、その不快感を和らげるような作品を生成すれば…」

「そうだ。相対的に、オーディエンスは好ましく感じる」

 笑うでもなく、不気味なほど明瞭な声で宮本はそう言った。

「今おそらく、君の後輩は私の挑発によって、私や君に対して憤りを抱えているだろう。まさに心理モデルに合致した状態だ。つまり、彼女が作る楽曲には、オーディエンスが不快に感じる音域が含まれる事になる」

「我々はそれを中和する音域を多用した楽曲をコンペに提出する、と?」

「そのとおり。AIの心理パターン解析に基づいて導き出されたのが、この譜面ということだ。激しいビートを用いていながら、心理的にはリラックスをもたらす。感情に支配された人間では気付かないような、深層心理まで踏み込んだ音楽だ」

 ここで初めて宮本信一郎は、わずかに笑みのような表情を一瞬だけ見せた。

「わかるかね。人間が心などと呼んでいる代物は、二進数の解析によって満足、快感を得るようなものに過ぎない、ということだ。この楽曲の前に、ザ・ライトイヤーズの楽曲は敗北する。稀代のガールズフュージョンバンドなど、虚像にすぎない事が証明されるだろう」

 宮本の、さほど楽しそうにも聞こえない独白じみた呟きを、仁藤は無表情で聞いていた。




 楽曲のデモ音源を、慣れないDTMソフトで自分なりに仕上げようと、ミチルが自室のパソコンのディスプレイと睨めっこしていた時だった。ふいに、ベッドに放り投げていたスマホが鳴動し、ベッドが巨大なウーファーとなって盛大な低音を響かせた。椅子のキャスターを転がしてベッドに近寄ると、手を後ろに伸ばしてスマホを手に取る。画面には、ジュナからのLINEの返信があった。

『ミチル、デモを聴いた。すごく良かった』

 月並みといえば月並みな感想だが、ミチルはそのメッセージに安心を覚えた。やっぱり親友、自分の音楽を誰よりもわかってくれている、と思った。だが、続くメッセージは少しだけ予想していた反応と違った。

『ひとつの楽曲としては優れているかも知れない。けどミチル、お前の音楽としてはどうだろう、とあたしが思ったのも事実だ』

 その言葉が、ミチルの胸にわずかだが突き刺さった。そして、ミチルの返信を待たずに送られて来た次のメッセージで、ミチルは頭をレスポールで殴られたような衝撃を受ける。


『なあミチル。お前の音楽は、誰かを打ち負かすための音楽なのか?』


























 一瞬、頭が真っ白になった。


 小学校の時、走り回っていて、鉄棒の柱に側頭部を打った時、こんな感じだった。痛みと衝撃で、世界がどうにかなったように感じた。ふらふらとよろめいて、友達に背中を支えられなければ立っていられなかった。


 誰かを打ち負かすための音楽。


 お前の音楽はそういう音楽だったのかと、ジュナは問うたのだ。その問いに、ミチルは答える事ができなかった。なぜならいまミチルは、あの宮本という教授に対抗するという、闘争心に基づいて音楽を作っていたからだ。

 それを指摘された時、ミチルは自分が立脚するものに、根源的な不安を抱く事になった。自分は、何のために音楽をやってきたのか。そのとき思い出したのは、1年生の村治薫が子供の頃に体験したという、ステージに立てなくなった原因となる出来事だった。薫は自分がギターコンクールで優勝し、2位の女の子が会場の廊下で号泣しているのを目撃した時、自分の音楽が人を傷つけたという事実にショックを受けたのだ。

 ミチルは、椅子に座ったまま呆然としていた。ジュナに返信をする事も忘れていた。自分は何をしていたのだろう、と。コンペに出す曲は、アルバムに載せる曲でもある。バンドとしてリリースしたあとでコンペに出しても構わない、審査にも響かないという了解はすでに取り付けていた。だが、アルバムの1曲目が、誰かを攻撃するための楽曲なのか。

 無意識にミチルは、改めてスマホを手にしていた。震える指が、たどたどしく文字入力フォームをタップする。やがてライトイヤーズのグループLINEに、ひとつのメッセージが送信された。

『みんな、ごめんなさい。さっきアップロードしたデモはボツにします』


 そのあとミチルは、ジュナにひと言『ありがとう』とだけ返信した。ジュナからの返信はない。既読マークがついただけである。それだけで、ふたりは互いの心がわかった。ミチルはジュナに、心から感謝していた。ジュナはいつも、ミチルが間違った方向に向かいそうになった時、必ずそれを正してくれる。お前が本当に行きたいのはそっちなのか、と。

 ミチルは、改めて自分が作ったデモをヘッドホンで聴き直してみた。格好いい曲だという自負はある。だが、聴いているうちに、かすかな刺々しさを覚える事がわかった。ジュナが指摘したのはこの点だったのだ。さすがに、古今東西のロックを聴き倒しているだけある。

 だが、ジュナの指摘がおそらく正しかったのは間違いないが、結局のところそれは振り出しに戻ったという事でもある。また、ゼロから楽曲を作らなければならない。時刻はすでに夜10時30分を過ぎた。さすがにここまでずっと作曲してきたのもあり、いよいよ睡魔がミチルを襲ってきた。

(まずい)

 ミチルはEWIを手に椅子の背にもたれたまま、目を閉じた。



 そこは、広大な大地だった。地上絵で有名な、ナスカのようなイメージだ。茫漠たる大地を、長い長い道路が走っている。ミチルは、とりあえず歩いてみた。

 ふと、小高い丘の上に、老人が立っているのに気付いた。民族衣装こそ着ていない。普通のシャツとジーンズだが、アメリカ先住民のようにミチルには思えた。

「こんにちは」

 ミチルは老人に声をかけた。大地とともに生きて来た、厳しくも優しい顔をしている。その両手には、何かを持っていた。それが何なのか、ミチルにはよくわからない。老人は、ミチルに小さく微笑んだ。

「蛇が来るよ」

 老人は突然、そう言った。それが、生き物の蛇でない事はなぜかミチルにはわかった。ほどなくして、大地の向こうに土煙が立つのが見えた。何かが、荒涼とした大地の向こうから走って来る。

 それは、何台ものF1マシンだった。F1マシンの群れが、サーキットではなく乾いた大地を走っている。銀色のマシン、赤いマシン、黄色いマシン、深い緑色のマシン。何種類ものマシンだ。それは、戦う色の群れだった。その光景にミチルは、とてつもない興奮を覚えた。美しい。やがて無数のマシンの群れは、地平線の彼方に消えて行った。

 老人の目は、地平線を見据えていた。心を射貫くような、真っすぐで透明な眼差しだ。

「心を気高く持て」

 しわがれた声で、老人は言った。

「ほとばしらせるんだ、人間の力を」


 その言葉とともに、ミチルは目が覚めた。慌てて時計を見る。だが、とても長い夢を見ていたわりには、時間は5分しか経っていなかった。 久しぶりに奇妙な夢を見て、ミチルは不思議な気持ちだった。

 ミチルの脳裏に強烈に残っていたのは、あの乾いた大地を駆け抜けるF1マシンだった。フォーミュラカーは、アスファルトの上を走るマシンのはずだ。わざわざ、むき出しの大地を走る必要はない。ラリー用のマシンの方が、安定して走れそうなものだ。

 だが、ミチルはその夢で見た光景が、とても美しいと思った。目が覚めた今でも思い出せる。オンロードマシンが、オフロードを駆け抜ける様子を。


 そのとき、ミチルに雷が落ちた。


 オンロードマシンがオフロードを走ってはいけない、なんていう決まりはない。毎年、雪山だとかでF1マシンを走らせるイベントをやるチームもある。どこで何を走らせようが、本当は自由なのだ。


 走りたいマシンで、走りたい場所を走る。


 ただそれだけの事なのだ。難しい事など、なにひとつありはしない。けれど人は、周りの目やセオリーを気にして、自分自身に枷をはめてしまうのだ。

「わかった」

 ミチルはEWIを手にして、パソコンで録音を開始した。



 ザ・ライトイヤーズの面々に、改めてミチルからデモ音源が送られてきたのは、そろそろ夜11時を回ろうという頃だった。マヤはその音源を再生し、胸が昂然と高鳴るのを感じた。凄い。さっき送って来たデモとは別物だ。今までミチルが作ってきた、どの曲とも違う。使っているのはいつものEWI、ウインドシンセサイザーなのに、なぜか別な楽器に聴こえるのだ。高速かつテクニカルに、うねるようなメロディー。いや、メロディーというより、それは野性の雄叫びにも聴こえた。

 ”Lighting”というタイトルに、これ以上ふさわしい楽曲はあり得ない。ハイスピードで、力強く、鮮烈で、爽やかで、そして熱い。冗談抜きで、”TRUTH”に匹敵する曲だとマヤは感じた。

「ジュナのおかげかな」

 マヤは、少しだけ悔しそうに笑った。ミチルの音楽は自分が一番理解できている、とマヤは今まで、無意識に考えていたのかも知れない。だが、ジュナはもっと深い部分で、ミチルという人間そのものを理解していた。そこにマヤは嫉妬さえ覚えてしまう。

 けれど、ミチルのメロディーをアレンジできるのは自分だ。それは誰にも負けない。世の中のどんなアレンジャーよりも、私はミチルの作る音楽に彩を添える事ができる。もう、時刻は11時を回った。だが、たとえ翌朝寝不足になろうとも、今アレンジを決めてやろう。ミチルが夜中まで、EWIを吹いてくれたのだ。私はミチルの気持ちに応えてみせる。マヤはパソコンに向かい、DTMアプリを立ち上げた。

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