それぞれの明日へ
南條科学技術工業高等学校の卒業式は、校風が先進的なのに対して、あんがい古風だと佐々木ユメは思う。さすがに今どき"仰げば尊し"までは歌わないが、"蛍の光"は歌う。
それでも、いきものがかり"YELL"合唱がプログラムに挟まれているのは現代だが、大人達に言わせると、ポピュラーソングを式で歌うのは、自分達の世代では考えられないらしい。
と、ここまでは普通の卒業式だった。しかし今年は違う。土壇場で、ある部活に「卒業式で何か演奏してくれないか」と打診があったのが、卒業式当日の朝だった。そう、言わずと知れたフュージョン部2年生、ザ・ライトイヤーズである。噂のバンドを生で見たい、という親御さん達の声もあったそうだ。
本人達は抵抗した。アルバム制作でてんてこ舞いなのに、今更そんなのブッキングされて、準備はどうするのかと。そこで、重い機材は運動部に運ばせる事になり、また選曲もバンドに任せるということで、しぶしぶ承諾したらしい。祝辞を述べる先生達の後ろに、ドラムとキーボードが控えているのはなかなかロックな光景だ。古風な卒業式を終わらせたという意味でも伝説になりそうである。
◇
田宮ソウヘイは、ステージの混沌とした様子がおかしくて、卒業の感慨も何も感じるヒマがない。
『卒業される諸先輩方、おめでとうございます』
大原ミチルがマイクに立つ。手にはアルトサックス。あとから聞いた話だと、EWIで済ませようと思ったが、せっかくの卒業式だからちゃんとアルトを吹いてやれ、とジュナに言われたらしい。「祝卒業」の垂れ幕の下に、いつものように後輩達がスタンバイしている。もう、どんなステージでも大丈夫だろう。
ギターの弟子、折登谷ジュナは愛機のエピフォンのレスポールモデルを引っ提げて登壇した。ギブソン・レスポールを手にする日も近いだろう。ところで、ソウヘイ自作の32フレットギターが部室に貸しっぱなしなのだが、貸したことを忘れたまま卒業式になってしまった。まあいいか、あんな扱いにくいギターは、変わり者のギタリストの手元にあるのが相応しい。また会うときに返してもらうとしよう。
◇
さて、いったい何の曲を聴かせてくれるのかしら、とカリナはステージ上の5人に注目した。ジュナあたりが、クイーンとかエアロスミスをやろうと言い出して皆に止められたのではないか。
そんなことを思っていると、流れてきたのは全く予想外の、そして実に彼女達らしい、抒情的なドラム、ベース、エレクトリック・ピアノのイントロだった。
(そうきたか)
カリナの目の前で、マヤが真剣な表情でキーボードを弾く。高度な演奏にチャレンジしすぎる悪い癖は、少しずつ克服してきた。そう、落ち着いて弾くんだよ。マヤの音を、しっかりと胸に刻みつける。曲は、ロビン・ザンダー"In This Country"。ここから、それぞれの道へとみんなが旅立つ。いつかこの場所で、また会おう。
◇
初めて千住クレハにベースを教える事になった時、ショータは困り果てたのを今でも思い出す。あまりにカリナやユメと性格が違いすぎて、接し方がわからなかったのだ。カリナに何度も、こういう子にはどう接すればいいんだ、と訊ねたら、まるで年頃の娘に手を焼く父親だ、と笑われた。
だが、そのカリナの言葉が助けになった。父親、あるいは教師の目線で接すればいいのではないか。そう考えたら、うまく行った。適度な距離感で、自然に教える事ができるようになったのだ。
ベースを始めたきっかけを訊いたら、祖父がエレキと間違えてフェンダージャパンのベースを買ってきてしまったからだ、という。そこでベースギターの存在を初めて知り、弾いてみたらはまってしまったらしい。そんな奴は初めて聞いたが、現にこうして見事なベースを聴かせてくれる。師匠目線だが、世界一かわいいベーシストだ。カリナに言えばシンセサイザーの角で殴られるので、黙っておく。
◇
まったく渋い選曲だ。ロビン・ザンダーをやる卒業式が、日本で過去にあったのかは知らないが、少なくともジュンイチは聞いた事がない。彼女達がよくやるロックナンバーは主に、ギターのジュナが好んでいるものがほとんどだが、彼女はライトイヤーズに、ロックのエッセンスを吹き込む役割を果たしている。
ジュンイチの弟子のマーコは、ほとんどセンスだけでやっているドラマーだ。マーコは性格的にジュナと相性がいいのもあってか、ジュナのギターを意識して叩くうち、ロック系のビート主体のサウンドもすぐに掴んでしまった。ジュンイチは拍子の基本を教えたくらいで、あとはマーコが勝手に自分で掴んだものだ。
もちろん今後ずっと活動を続けるなら、ジュンイチが教えた以上の理論を、覚えなくてはならなくなる時が来るだろう。体感、右脳で覚えるタイプのマーコにとっては、ひとつの試練になるはずだ。それを乗り越えた時のドラムを、いつか聴かせて欲しい。預けたスティックは、もうお前のものだ。折れたら、立派なやつを買うといい。
◇
折登谷ジュナの、低めのハスキーな声は、ロビン・ザンダーのボーカルと相性がいい。オリジナル曲にはないサックスを加えたアレンジは、卒業生たちの胸に響く。市橋菜緒の前後左右からは、小さな嗚咽が聞こえてきた。まったく、最後まで聴かせてくれる子たちだ。この子たちに送ってもらえる私達は、なんと幸運なのだろうと菜緒は思った。みんなきっと、この演奏を忘れないだろう。
演奏が終わり、感動が冷めやらぬまま、静かなキーボードのイントロが流れた。やがて、大原ミチルの深みのあるサックスが、思い出の詰まった体育館に響き渡る。T-SQUARE、”Forgotten Saga”-忘れられた物語。夏にステージで聴いた時より、格段に表現力が向上している。もう、本家の原曲に迫るのではないか。
厚みのある壮大なサウンドに、この学び舎で起きた数々の出来事が去来する。吹奏楽部に入部したこと。佐々木ユメと改めて出会った事。大原ミチルを、そのユメがいるフュージョン部が獲得した事。出場した、数々の吹奏楽コンクール。理工科の授業と実践で覚えた知識。大原ミチルとの和解、そして彼女のバンドが大きく飛躍した、この8カ月の伝説。
皆、泣いている。この場所を旅立つ一人一人に物語、伝説がある。栄光の物語もあれば、二度と思い出したくない辛い記憶もあるだろう。時は無情に、そして優しく全てを包んで流れてゆく。みんな、幸せでいてほしい。涙でにじむステージを見つめ、菜緒はそう願った。
◇
式が終わり、3年生はこの学校での全ての事を終えて、校舎を旅立ってゆく。そんな中、フュージョン部の部室で、1年生と2年生が3年生と向かい合っていた。ミチルたち2年生の5人はそれぞれ、一枚の四角い水色のラッピングを手にしていた。
「先輩、今まで本当にありがとうございました」
ミチルに続いて、全員が声を揃えた。
「ありがとうございました!」
「これは、先輩達の3年間の記録です」
ミチルが一歩進み出て、佐々木ユメの前に立つ。たった数十グラムのプラスチックディスクが、なんていう重さだろう。ここに、先輩達の全てがあるのだ。
「受け取ってください」
そう言った瞬間、ディスクにぽつり、ぽつりと涙が落ちた。泣かないと決めていたのに、涙腺は約束を破った。もう、嗚咽で次の言葉が出てこない。そんなミチルの手を、ユメ先輩は握ってくれた。
「ありがとう。宝物にするわ」
「うっ、せっ、せんぱい」
ユメ先輩は無言でミチルを抱きしめてくれた。この人にサックスを教わって、自分はここまで来れた。出会ってから今までの全ての出来事が、ミチルの脳裏によみがえる。何がザ・ライトイヤーズだ。自分は結局、佐々木ユメという偉大なサックスプレイヤーの弟子にすぎない。ミチルの演奏は全て、ユメ先輩から受け継いだ音なのだ。
3年生それぞれが、弟子の手から思い出の音源が詰まったディスクを受け取る。ジュナからソウヘイ先輩へ。マーコからジュンイチ先輩へ。マヤからカリナ先輩へ。クレハからショータ先輩へ。1年後、アンジェリーカ達もこうしてミチル達に、ディスクを手渡してくれるのだろうか。そして、その1年後は。
涙でぐしゃぐしゃになったミチルの顔を、ユメ先輩はハンカチで拭ってくれた。
「さあ、泣いてられないよ。みんな帰っちゃってるけど、私達にはまだ、ここでの最後の活動が残ってる」
ユメ先輩は、手に提げたケースをミチルに示した。忘れもしない、ミチルもずっと目にしてきた、蓋の右端にわずかな凹みがあるケースだ。
「はい!」
ミチルは泣きはらした情けない顔で、アンジェリーカを振り向いた。アンジェリーカもまた、涙がこぼれるまま微笑んで頷いた。
ついさっきまで卒業式が行われていた体育館に戻ると、そこにはすでに大勢の人間がいた。理工科の清水美弥子先生、吹奏楽部の市橋菜緒先輩、同じく顔は知っているが名前は知らない、確か菜緒先輩の従兄だとかいうイケメンの人。酒井三奈、桂真悠子コンビ。永遠の天然パーマ、竹内顧問。そして、何やらうわさを聞きつけて集まってきた一般生徒たち数十名、いや百人はいそうだ。後方には放送部のカメラと音声がスタンバイしている。
さっきまで泣いていたミチルは、まだ目の下が赤いまま、意気揚々とさっきまで上がっていたステージに向かった。
「ようーしみんな、いくよー!」
「おーう!」
ザ・ライトイヤーズ、そして佐々木ユメ先輩、菜緒先輩に三奈と真悠子、そしてアンジェリーカの総勢がステージに向かう。頭数だけなら、ビッグバンドまであと一歩だ。
「征司、あなたもどう?」
「バスクラリネットの出番はないよ」
菜緒先輩はくすりと笑う。そうだ、思い出した。吹奏楽部のバスクラリネット担当、たしか樋口先輩だ。一緒にやってきたソウヘイ先輩たちと合流すると、男同士の談笑が始まった。3年間の、積もる話があるのだろう。それぞれの人間関係の数だけ、卒業がある。ついでにフュージョン部の残りの1年生は、なんとなく隅の方に固まっていた。
◇
『えー、ホントは部室前でやる予定だったんですが、卒業式で演奏してくれと言われて機材を運び込んだら、そのあと体育館で30分くらいなら記念ライブをやっていい、という事になりました!動画で配信する予定なので、来てない人にも教えてあげてください!』
ミチル先輩が、さっきまで泣いてました、という顔で声を張り上げる。ほんとに涙もろい先輩だが、切り替えも早いなと薫は思う。
『もうちょい待ってね!セッティングし直さないといけないから!』
歓声が起こる中、噂を聞きつけたらしいオーディエンスが、またぞろぞろと入ってきた。フュージョン部存続のために開いた、プレゼンライブを思い出す。そういえばあの時もこの体育館だ。
ジュナ先輩はレスポールではなく、ここ最近お気に入りのカシオEG-5、通称エレキングを持ち出してきた。ジャンク品をレストアする腕を持っているので、女子高校生のわりにやたら所有するギターは多い。「エレキングだ」とか「何あの変なギター」とかの声が聞こえる。うん、ライブでエレキング使う人、いるかも知れないけど絶対少数派だろう。
壮観なのはサックスだ。左から市橋菜緒先輩、佐々木ユメ先輩、ミチル先輩、アンジェリーカ、そしてデマ騒動を起こして謝罪、和解した二人の先輩、総勢6人がアルトサックスを持っている。今回セッティングは放送部に任せたが、マイクの準備大変だっただろうな。まあ晴れの門出の日だ、音響うんぬんという無粋な話はしないでおこう。
けっこう待たせたあと、ようやく演奏が始まった。やっぱりT-SQUAREというか、正しくはザ・スクエア時代のアルバム”ADVENTURES”のアルバムの1曲目、短いオープニング曲”Adventure-プロローグ-”だ。さあ始まるぞ、という期待感に拍手が起こる。そんな中、ミチル先輩だけがEWIに持ち替えた。
やはり最初はスクエアで来た。夏の市民音楽祭でもやった、”夜明けのビーナス”だ。なんとなく湿っぽかった卒業式の雰囲気を一掃するような、カラリと晴れ渡った爽やかナンバー。だがメインのEWIに加え、原曲にはない5つのサックスが、分厚いハーモニーの伴奏を加え、まるで別物のような曲に仕上がっている。
のっけからフルスピードで始まった短いライブは、いきなり最高潮に達した。実のところフュージョン部の活躍のおかげで、南條科技高ではフュージョンに興味を持つ生徒がこの半年くらいの間に増えているのだ
そのあとも、ごきげんなナンバーが続いた。これも軽快なザ・リッピントンズ”聖ジェームズ・クラブへようこそ”。クルセイダーズ”ストリート・ライフ”。サックス6連による矢野沙織”オープンマインド”は圧巻だった。
◇
ミチルにとって、夢のような時間だった。先輩と、友達と、後輩と、みんなで一斉にサックスを奏でる。ハーモニーはほとんど即興だ。ジャズの本領は即興にある。演奏しながら、市橋菜緒先輩と何度か視線が合った。ひょっとしたら、吹奏楽部で師事したかも知れない人と、こうして同じステージに立っている。ユメ先輩との、一緒のステージで吹くという約束も果たせた。アンジェリーカは、先輩達に囲まれてちょっと緊張しているようだ。
夏に騒動を起こされて険悪な関係になった三奈、真悠子も、全てを水に流して、一緒にステージを盛り上げてくれている。もう、いがみ合っていたのは過去の事。全てを忘れて、一緒に新しい1学期を迎えられるだろう。バックのクレハ、マーコ、マヤ、ジュナは、6人のサックス奏者に隠れる形になってしまった。ごめんね。
サックスの重奏を楽しんだところで、オーディエンスがざわついた。佐々木ユメ先輩を残して、ミチルを含むサックス5人はステージ脇にいったん下がったのだ。そのユメ先輩も、サックスを置いてマイクの前に立っている。まさかボーカルか。小さいどよめきの中、ギターと、マヤ・クレハによるバックコーラスのイントロが始まった。
ちょっとブルースっぽい音色のギターが、午後の日差しを思わせる温かみのあるリフを奏でる。知る人ぞ知る、1996年の鈴木結女のシングル”それぞれの明日へ”。クレハによるとアニメ番組の主題歌だったらしいが、内容的には卒業ソングの隠れた名曲だ。ミチル達が生まれる何年も前の曲だが、いい曲だと思う。
ユメ先輩の歌声はジュナよりも柔らかく、かつ芯がある。涙、涙の卒業ソングではなく、寂静感と不安、思い出の切なさを温かいトーンで包んだナンバー。リアルタイムでは知らないミュージシャンの歌だ。字は違うが、奇しくもユメ先輩、佐々木”結愛”と同じ名前である。気のせいか声質も似ているような気がする。ラストはジュナの切なげなギターで終わり、温かい拍手が送られた。
◇
さて、そろそろ時間的に最後の曲だろうか、と薫は時計を見る。ここでアンジェリーカと元・お騒がせ先輩コンビはステージを降り、ミチル先輩、ユメ先輩、市橋先輩がステージ中央に並ぶ。3人が手にするのはアルトサックス、ではない。
「思い切ったな」
ぽつりと薫がつぶやいた。戻って来て隣に立ったアンジェリーカも唖然としている。3人は、揃ってAKAIのEWIを手にしているのだ。っていうか市橋先輩もEWI持ってたのか。そう思っていると、おなじみすぎるイントロが始まった。
『もう何回言ったかわかりませんけど、卒業生の先輩方、おめでとうございます』
ミチル先輩が、バスドラムのリズムにのせて語りかける。
『先輩達の未来に幸あらんことを!それじゃみんな、いくぞ―――!』
歓声が起きる中、ステージの最後を締めくくるのは、お約束のあのナンバー。シンセとギターのおなじみのイントロが流れると、フロアのボルテージは一気に高まった。EWIの3重奏による”TRUTH”。それは、聴いた事のないほどの厚みと、夢幻的な響きだった。もう、これがスタンダードでいいんじゃないかと思えるようなサウンドだ。
間奏のジュナ先輩のギターソロも、負けじとあり得ないほどのアドリブを聴かせてくれた。まだ、これほどのテクニックを隠していたのかと思わせるものがある。
ラストのEWIの3重奏は、圧巻の一言以外に表現のしようがなかった。奇跡的に同時期に在籍した3人の天才サックスプレイヤーによる、力強く、鋭く、そして巧緻きわまるアドリブの応酬。これを生で聴けた人間はラッキーだし、帰ってしまった人たちは残念としか言えない。あとで放送部から録音データをもらっておこう。
◇
両サイドに敬愛する先輩を従え、今、3人の演奏が終わろうとしている。ミチルは、その響きの全てを、耳で、全身で感じ取った。この瞬間を、絶対に忘れないために。これで終わりじゃない。またいつか絶対に、この3人でステージに立とう。けれど、今はひとつの区切りの時だ。
全ての演奏が終わる。明日から、新しい音を奏でるために。
先輩、ありがとうございました。