Sweet Sorrow
ミチルは誕生日の2月28日朝、大概いつも駅で会うジュナがいなかった事に首を傾げつつ、ひとり学校の門をくぐった。
そして、いつものようにマーコか誰かが開けているであろう部室のドアを開けた時、多数の破裂音に囲まれた。
「わああ!」
「部長、誕生日おめでとー!」
クラッカーの連発とともに、カラフルなリボンが飛び出してくる。煙が晴れた向こうには、空になったクラッカーの筒を持った2年生と1年生が勢揃いしていた。まだ煙の臭いがする中、温かい拍手が送られる。
「びっくりした!」
心臓が止まるかと思いつつ、ミチルはようやく誕生日を祝ってもらえた事を把握した。横断幕とケーキこそないが、この間のバレンタイン以来、部室に"備蓄"されているチョコレート類が引っ張り出されてテーブルに散乱している。
「いちばん遅れて17歳になった感想は?」
ミチルが気にしている事を、遠慮なしに言ってのけられるのは親友のジュナだけである。ミチルは、少しだけ目尻に涙を浮かべて笑った。
「みんな私より先におばさんになっちゃうから、しばらく気まずい思いをしなくて済むかな、って」
「こいつシールドで縛り上げて龍膳湖に沈めちまえ!」
ジュナの愛情あふれるコブラツイストを喰らいながら、ミチルは涙目でみんなに感謝した。ようやく17歳、今年はいよいよ3年生になる。どんな1年になるだろう。
すると、みんなを代表してアンジェリーカがミチルの前に進み出た。手には細長い小さな包みを持っている。
「先輩、私達全員から、贈り物です」
ミチルは何だろうかと、両手にすっぽり入ってしまうくらいの白い包装をゆっくり開けた。現れた透明なプラスチックのパッケージには、白い太めのフォントで「YANAGISAWA」とある。そのメーカー名を見た瞬間、ミチルの目が輝いた。
急き立てられるようにパッケージを開けると、現れたのは白銀に輝く、すらりとしたサックス用のメタル製マウスピースだった。
「こっ、これ…」
ミチルは、アンジェリーカを見た。このメンバーの中で、この製品の価値がわかるのは彼女だけだ。ヤナギサワのマウスピース。プロのサックス奏者も使う、定番のひとつだ。
「みんなで出し合って買ったものです。どうか、受け取ってください」
「でっ、でも、こんな高いもの」
ミチルは、みんなの顔を見渡した。みんな微笑んでいる。だが、ミチルはこの製品の値段を知っていた。10人で割ったとすれば、1人あたりは高校生が出せない額ではない。だとしても、この品物それ自体が、いち高校生のサックス奏者が所有するには高価すぎるのではないか。
「先輩が以前、ヤナギサワ製メタルを使ってみたいって言ってたので、みんなに相談したんです。そしたら、みんなで出し合えば買えないものでもない、っていう事になって」
アンジェリーカの説明を聞きながら、ミチルの目からボロボロと涙がこぼれ始めた。
「ありがとう…ありがと」
「だから言ったじゃねーか、絶対こいつ泣くから放課後にしようぜ、って」
ジュナは、自分のハンカチでミチルの涙を拭ってくれた。一見ガサツだが、誰よりも優しい。これ以上泣いたら、みんなに迷惑をかける。ミチルは頑張って涙を引っ込めた。
「本当にありがとう。大事に使わせてもらうね」
「ま、それでいいレコーディングができればモトはすぐ取れるでしょ。それくらいの気持ちでいなさい」
マヤは相変わらずだ。そうだ、元なんてすぐに取ってみせる。本格的なレコーディングはもうちょっと先になりそうだけど。
その時は、そう思っていた。
放課後、ミチルは満を持して、プレゼントされたヤナギサワ製マウスピースを愛用のアルトサックスにはめ込んだ。市橋先輩からもらったリガチャーを取り付け、リードを差し込む。違いがわかるよう、セッティングはいつもの物と同じくらいにした。
みんなが息を呑んで見守る中、ミチルは息を吹き込む。音が出た瞬間、ミチルの目が見開かれた。
なんていう、音の反応速度だ。今までのマウスピースもスピード感を重視して選んでいたが、スピードの質が違う。ただ闇雲にトップスピードが伸びるだけではない。例えるなら、F1マシンで連続するコーナーを次々と駆け抜けて行く感じだ。
ミチルは、本田雅人のソロデビューアルバム"GROWIN' "の1曲目、イントロのサックスソロをコピーしてみた。凄い。こちらが思ったとおりに、サックスが反応してくれる。今までは頑張ってコピーしていたフレーズが、何の苦もなく音になってくれる。これはマウスピースのおかげなのか、ミチルの実力が向上したのか。
吹き終えると、全員から一斉に拍手が贈られた。ミチルは、もっともっと吹いてみたい、という欲求にかられていた。
そのあとザ・ライトイヤーズのメンバーで、そのまま本田雅人の曲をやったあと、定番のリッピントンズ、クルセイダーズを1年生に披露し、ミチルは新しい音の手応えを十分に感じた。
だがそこで、1年生のリアナが手を挙げた。
「あの、今まで私達が出された課題曲って、どちらかというと今のような、テクニカルな曲が多いですけど。音楽祭でやったようなバラードナンバーって、まだ1年生のメンバーでやった事ないですよね」
リアナの意見に、1年生が頷く。そこで、ミチル達もハッと気付いた。そういえばそうだ。テクニックの向上ばかりに気を取られて、深みのあるバラードとか、シンプルなポップナンバーだとかを疎かにしていた。
「言われてみれば」
「バラードも大事よ」
マヤとクレハが、とたんに深刻な顔をした。すると、マーコが「はいはい」と手を挙げる。
「あれとかいいんじゃない、ほら、ジュナがほとんど仕事しないでいいやつ」
「どれだよ」
「"夏の惑星"の最後の曲!」
ああ、とジュナが手を叩いた。T-SQUARE"夏の惑星"のラストナンバー、"SWEET SORROW"。屈指のバラードナンバーだ。構成は難しい所は何もない。演奏のセンス、クオリティーが全ての、ある意味では最大級の難曲である。上手い奴が演奏すれば至上の名曲になるが、下手な奴が演奏すれば駄曲になる。ジュナが乗り気で、仕事がないと言われながらギターを準備した。エフェクターは使わず、クリーントーンだ。
「久々にやるか」
「最後にやったの、いつ?もう半年以上やってないかも」
ミチル自身は何の問題もない。他のメンバーを見ると、余裕の表情だった。
先輩達が、いつもの調子でコードだけを二言三言確認し合う。いま、半年以上やってない、ってミチル先輩言ったよな、とサトルは思った。半年以上やってないというのに、先輩達はケロリとしている。メロディーを確認することもない。
そう思っていると、ふいにマヤ先輩のピアノがイントロを奏でた。切なくも綺麗なリフレインだ。やがて、ミチル先輩のサックスが入る。なんていう、柔らかで深いサウンドだろう。
Aメロはピアノとサックスだけで、Bメロからリズム隊、ギターが控えめに参加する。そこから、一気にサビへと移行すると、全パートが一斉に、厚みのあるサウンドを響かせた。音楽で"痺れる"事は時々あるが、サビを聴いた瞬間に、サトルは背筋に電流が走るのを感じた。
サトルはその完璧に合った演奏に、戦慄さえ覚えた。っていうか先輩達、まだこんな名曲を隠し持っていたのか。そして、半年以上演奏してないと言っていたのに、どうしてこんなに合わせる事ができるんだ。これを課題曲として出されたら、自分達はこの演奏に太刀打ちできるのだろうか。サトルはまだ、この原曲を聴いていない。先輩達が作ってくれたプレイリストには入っていないのだ。なので、オリジナルのスクェアの演奏にどれくらい近いのかがわからない。
ふと他のメンバーを見ると、みんな聴き入っている。キーボードのキリカは、間奏のマヤ先輩の完璧なピアノ演奏に、恐れ慄いているようだ。テンポはスローであり、一切の乱れがない。いつもの、気合を入れすぎるマヤ先輩のピアノではなく、余裕と冷静さをもって、端正かつ艶のある演奏に集中しているようだ。間奏明けの、海に沈む夕日を思わせる雄大なサウンドののち、静かに演奏は幕を閉じた。
久しぶりの曲だったが、ミチルは以前よりもこの曲を理解できている自分を感じた。それは、マヤも同じだったようだ。この曲の根幹はピアノとサックスの協奏にある。演奏が終わって、1年生達からは控え目な拍手が送られた。表情を見るに、どうやら演奏に圧倒されて、若干自信が揺らいでいるようだ。
「やれる?」
ミチルはあえて、アンジェリーカにそう訊ねた。アンジェリーカは目をキョロキョロさせている。
「あっ、あの…演奏はできる、と…思いますけど」
「そうだね。曲じたいは難しくはない」
アンジェリーカの気持ちはよくわかる。テクニカルな曲は覚えれば何とかなるが、情感を込めて演奏するのは、覚えるだけではできない。そこに必要なのは感性と、感性を形にする技術なのだ。そして、バンドの一体感が完成されていなくてはならない。
「この曲は、時間かけていいから、みんなで練習しな。何か月かけてもいい。この曲が演奏できると確信できたなら、それはバンドが一体化できたっていう事だから」
「…先輩達は、これぐらいのレベルになるまで、何か月かかったんですか」
その質問に、ミチルは首を傾げて他のメンバーを見た。みんな、覚えていないらしい。夢中でやっているうちに、できるようになっていた。そして、重要な事をミチルは指摘した。
「まだ、この程度でしかないよ、私達は。本家には敵わない。本家T-SQUAREのアルバムを聴いてみな。あのアルバムの曲は私達も演奏する事がすごく多いから、1年のみんなにも、できればマスターして欲しい」
「”夏の惑星”でしたっけ」
「そう。1994年のアルバム。できれば圧縮音源でなく聴いて欲しいな。第2部室のCDラックに入ってるよね、薫」
薫は、さも当然とばかりに頷いた。
「スクェアはほとんど揃ってる」
「いまだに信じられないんだけど、フュージョン部の部室の反対側に、フュージョンのCDが揃ってる部活があったってのが驚くよね。しかも、フュージョン部の人間がそれをずっと知らなかったって、凄くない?」
ミチルは、薫と知り合って旧オーディオ同好会のライブラリーに驚いた時の事を思い出していた。なくなった同好会には悪いがまるで、フュージョン部に併合されるのを待っていたかのようだ。
「あのアルバムの”BAD MOON”っていう曲は…」
ふと、1年生のドラムスのアオイが訊ねたので、ミチルとマヤは釘を刺すように言った。
「あの曲はまだ早い」
「寿命縮めたくなかったら、今は手を出すな」
「練習するなら、あの曲を除いてやること。まあ、ものの試しに一度やってもいいけど」
その忠告に、1年生たちは怯んで黙り込んだ。まあ、あれは演奏できる方がおかしい難曲である。あれができないからと言って落ち込む必要はない。たぶん。
「とりあえず今は、バラードの感覚を掴む、ぐらいに考えておけばいいよ。何も、つねに完璧な演奏しろって言ってるんじゃないし、完璧にマスターしなきゃステージに立ってはいけない、っていう事でもないんだ。ただ、ステージの締め括りにバラードを持って来る事もあるから…」
そこまで言って、ミチルはふいに黙り込んだ。
「先輩?」
アンジェリーカが、怪訝そうにミチルの顔を覗き込む。だが、2年生は冷静だった。ミチルがこうなるのを見るのは、初めてではないからだ。
「リアナ、悪いけど1年生はこれにて解散だ。向こう行って練習しててくれ」
ジュナが半笑いで、リアナに退出を促す。当然だが、1年生は納得がいかない。そこへ、マヤが説明した。
「いま、ミチルにメロディーが”降りてきてる”ところだと思う」
「イタコか何かっすか」
サトルは笑いながら立ち上がり、他のメンバーに「ほら、行くぞ」と目線とジェスチャーで促した。仕方なく、レコーディング担当の薫を除いた1年生は、音を立てないように第1部室を退出したのだった。
実のところ、ミチルはべつにメロディーが浮かんだわけではない。ただ、今までバラードらしいバラードは"Twilight in Platform"という哀愁系の1曲しか作っていない、という事に気付いたのだ。もっと叙情的、感動的な曲を1曲作ってみたい、とミチルは思った。
「アルバムのラストはバラードにしよう。マヤ、頼むわ」
「メロディー降りてきたんじゃないの!?」
「私の事、何だと思ってるのよ。バラードといえば和泉宏隆。和泉宏隆といえばキーボード。うちのキーボード担当はマヤ、あなた。つまりあなたがバラード担当」
「理不尽だ!」
マヤが精いっぱい抗議する中、ミチルはプレゼントされたマウスピースを丁寧に掃除した。ふだんの練習には今までの物を使う事にして、このヤナギサワ製はレコーディングや、ここぞという場面で使いたい。きっと、いい音で録れる事だろう。
こうして、ミチルの17回目の誕生日は過ぎて行った。仲間たちに囲まれて、この上なく幸せな時間だった。そしてその時ミチルを含めて、水面下で起きている出来事に誰一人として気付く筈もなかった。
ローゼス・ミストラルの風呂井リンは、すでに私立大学の入試については合格を確認していた。友人の佐々木ユメも同様らしい。だが、ともに第一志望の入試はこれからだ。滑り止めに受かったからといって油断はできない。とは言いつつも、やはり少しばかり気が緩んでしまうのは致し方ない。
そんなタイミングで、リンの耳にあまり快くはない情報が入ってきた。正確に言うと、バンドメンバーがなんだかコソコソとしている様子に気付いて、まずギターのマリナを問い詰めた。何をみんなでコソコソ話し合っているのだ、と。
『それ、本当なの』
LINEで、リンは確認を求めた。マリナは誤魔化す事はしても、嘘は言わない。
『ごめん。リンは受験生だから、直接関係ない話題で心配かけたくなかったんだ』
『そんなところだろうと思ってたわ。で、本当なのね』
『うん』
マリナは、観念して認めた。
『ライトイヤーズのバックにはゴーストライターの作曲家がいる、っていうデマが、ネットで広まりつつある』
それが、事件の直接的な発端だった。