Acoustic Alchemy
株式会社タカソーデパート事業部長の白鳥は、予想よりも早いペースで送られてくる、ザ・ライトイヤーズのデモ音源を忙しい仕事の合間にチェックしていた。もともとは他系列の企業から引き抜かれてきた白鳥は、長年様々な店舗BGMに触れており、それまで聴いてきたものとは一線を画す曲調に、初めは驚き、訝りながらも、不思議な手応えを感じていた。
最初に受け取った3曲のうち2曲は、極めて無難、使える事は使えるが、事務所の抽斗を開ければ出てくるCDのBGMと大差ない。むしろ、プロが作ったものと遜色ないレベルのものを、女子高校生5人が作れるだけでも凄い事ではある。事実、他の部署の人間に聴かせたところ、これでいいんじゃないか、と好印象だった。だが、と白鳥は思う。
「まだだな」
白鳥は、スマホの再生を停めて呟いた。いま送られてきた、ギターの音色を変えたバージョンは、細かいアレンジの修正もあって完成度が非常に高い。深く考えない店員なら、これで完成だと思うだろう。
だが、こうなると欲が出てくる。バレンタインデーの催事はもうとっくに始まってはいるが、2月まではまだ10日近くある。アレンジを決めて、レコーディング、ミキシング、マスタリングまで終わらせて、各店舗に配布するのにトータルでギリギリ1週間としよう。逆算すると、あと3日、いや4日。あと4日以内に、決定版となるアレンジを考えてもらう。良い物ができれば、来年も再来年も使えるだろう。
「白鳥部長、葛原営業部長から電話です」
ふいに連絡が入って、思考が中断された。後で改めてバンド側に連絡することにして、受話器を取る。
「もしもし。お疲れ様です。…ああ、はい。納品は20日にどうにか間に合わせる、ということで調整したと聞いてます」
仕事が山積している。バレンタイン、ひな祭り、新入学セールが終わったら、各店舗が順次改装に入る。新装オープンに合わせて、ライトイヤーズの新店舗BGMが流れる予定だ。
話題のバンドとはいえ、地元の女子高校生に店舗BGMを作らせるというのは、なかなかの暴挙だと自分でも思う。だが、能力に年齢もキャリアも関係ない。それが10歳の子供だろうと、80歳の老人だろうと。
大原ミチルは月曜朝登校すると、マヤから受けた連絡に目を丸くした。
「あれでダメなの!?」
白鳥事業部長からの連絡によると、信じられないことに、修正したテレキャスター・バージョンで実用レベルには到達したが、もう一歩"突き抜けた"アレンジを求めている、という。CMで流れたとき、耳に残ってなおかつ楽しいアレンジを。あれだけ完成度が高い、もうデモとさえ言えないほど音を練ったアレンジで不満なのか。
「むー」
ミチルは、半ば憤慨して教室の天井を睨んだ。どれだけレベルの高いものを求めているんだ。
「あそこから、どうアレンジすればいいってのさ。もう、レシピはほとんど完成形だよ」
「ミチル。重要なのはレシピの完成度じゃない。そのレシピが、求められているかどうかよ」
「うっ」
ぐうの音も出ない。
「アップルパイを注文した人のテーブルに、極上のザッハトルテを持って行っても、注文していない、と言われるだけ。アップルパイを頼まれたなら、アップルパイを持って行かないといけない。お金をもらう以上」
「それは、そうだけど」
ミチルは、まだプロ意識という点でマヤに及ばない、と自覚せざるを得ない。マヤは出会った頃から、プロ意識みたいなものを感じさせる少女だった。
「ま、言いっ放しで何もしないわけにもいかない。私も何ができるか、考えてみる。とにかく私達は高校生。やる事はやったうえで、仕事をしよう」
「真面目だな」
頭が下がる。どうしてこうも同じ人間で、中身がこんなに違うものなのか。ただマヤに言わせるとミチルはミチルで、マイペースに見えるのに成績は一応及第点ではあるのが、真面目にやっている人からすると面白くないだろうな、という話である。マヤは、ミチルが本気で勉強すればどれくらいの成績になるのか、興味があるらしい。今更そんなこと言われても、もう2年生の3学期である。
釈然としない気分で、ミチルはとりあえず授業を受けるのに専念した。そういえばプロ棋士としての活動に専念するために、高校を中退してしまった人もいるが、すごい決断だと思う。それに比べたら中途半端なものだ。だが、中途半端なら中途半端なりに真面目にやるか、とマヤを見習う事にした。
「そういうわけで、ヴァイオリン講習はしばらくお休みさせてください」
ミチルは、理工科の清水美弥子先生のもとを訪れて、仕事が絡んでいるためヴァイオリン講習を受ける余裕がない事を説明した。すると先生は微笑んで立ち上がり、ミチルの両肩にぽんと手を置いた。
「大原さん、もうあなたに教える事はないわ」
「えっ」
「あなたの演奏した音源を聴かせてもらったわ。立派よ。あそこまで弾けるなら、もう私なんかがどうこう言う必要はない」
「いえっ、それは…」
ミチルは面食らった。自分のヴァイオリンはまだまだだ。清水先生ほどのレベルには到達していない。それは自分でもよくわかるし、清水先生なら尚のこと、わかっているだろう。だが、先生は言った。
「もう、教えなくてもあなたは自分で向上させられる。それでも誰かから学ぶ気があるなら、理工科の教師でなく専門のコーチに習うべきよ。私の講習は、もうおしまい」
そう言われた時、ミチルの心を何か切ない風が吹き抜けた。おしまい。何か月か、清水先生にヴァイオリンを習ってきた。最初は、理屈から入って頭がパンクするかと思った。だが、正直な気持ちを言うと、先生の所に来るのが楽しいと思える瞬間もあったのだ。夕陽が差し込む部屋で、先生とヴァイオリンを弾くのは楽しかった。それが終わりだと不意に告げられた時、ミチルの目からひとすじ、涙が落ちた。
「まだ、もうちょっとだけ受けたいです」
「そう」
先生は静かに座ると、シャッターの外の景色を見た。
「そうね。もう少し、教えておいた方がいい部分も、ないではない」
なんだか遠い昔を思い出すように、先生は陽がかたむいてきた空を見る。何を思い浮かべているのだろう。形のいい脚を組むと、ミチルを見た。
「わかった。私で良かったら、また来なさい」
「ありがとうございます」
「今は仕事を優先しなさい、ザ・ライトイヤーズの大原ミチルさん。あなたはもうプロのミュージシャンなのよ」
大人の先生から言われると、身が引き締まる思いがした。プロ。いつの間にか、ミチル達はプロの道を歩き出してしまった。想像していたのと形がだいぶ違うので、いまひとつ実感がなかっただけだ。
「大御所の作曲家も、若い頃は小さな仕事を積み重ねているものよ。地方の中小企業のラジオCMとかね。でも、デパートのBGMっていうのは、決して小さな仕事じゃない。ひとつのデパートに、1日にどれだけの客が出入りするか、ちょっと想像すればわかるでしょう。そういう場所で流れる曲を任されるというのは、大変な事なのよ」
だいぶプレッシャーをかけられ、ミチルの涙も引っ込んでしまった。大きな仕事。まだ、来月やっと17歳になる少女には、その実感がない。すると、先生は笑って言った。
「過度に緊張する必要はないわ。けれど、甘く見てもいけない。お客さんに聴かれるという事は、じゅうぶんに意識するべきでしょうね」
先生はパソコンをシャットダウンすると、手元にあった書類をまとめて立ち上がった。話をしながらも、自分の仕事は片付けてしまったらしい。
「さあ、行きなさい。作業が行き詰ってるんでしょう」
「先生だったら、どういう考え方をしますか。求められる音が何なのか、わからない時」
それは、清水先生をひとりのミュージシャンとして見たミチルの質問だった。先生なら、アイディアが出ない時にどう対処するか。先生は笑った。
「私は理工科の教師よ。作曲については、あなたに教えてあげられる事はないわ」
「…そうですか」
「でも、そうね。理工科の教師としてなら、教えられる事はあるかも知れない。化学 (ばけがく)にも、作曲と同じ要素はある」
「化学と音楽、ですか」
「あなた、モータースポーツに興味はある?」
唐突な問いに、ミチルは首を傾げた。モータースポーツはほとんど関心がない。1年生はたまにF1グランプリの話をしているが、何を言っているのかはわからない。
「レーシングカーはタイヤでパフォーマンスが変わる。これはなんとなくわかるわよね」
「…なんとなく、ですけど。グリップ力とか、ですか」
「そう。タイヤメーカーは、そのレースカテゴリーの運営サイドやチーム、あるいはドライバーから、こういう性能のタイヤを作ってくれ、と要求される。タイヤ開発は化学の分野。ゴムの配合ひとつでも性能や耐久性が変わってしまう。全然要求を満たさないと、文句が飛んでくる。これ、あなた達が作曲の仕事を請け負うのと、似ていると思わない?」
「あっ」
ミチルはハッとさせられた。要求に応えるというのは、製品開発も作曲も同じだ。
「そう。製品開発チームは、もしクレームがついたら、即座に会議を開く。いま欠けている要素は何か。余計なものは何か。素材は適切か。配合は、構造は。その結果が新しい製品に反映されて、時速200kmでコーナーを曲がれるタイヤ、鈴鹿サーキットを30周してもグリップが落ちないタイヤが出来上がる」
それは、素人のミチルにもわかりやすく、また理工科教師らしい例えだった。いまミチル達に求められているのは、一体何だろう。
「楽曲を、様々な成分の複合体だと考えてごらんなさい。時にはバラバラに解体して分析する事も、有効だと思うわ」
清水美弥子先生のアドバイスを伝えられたマヤが、キーボードの前で腕組みした。
「なるほどね。清水先生らしいわ。楽曲の解体、か」
「でも、そんなのいつもやってる事じゃないの?このフレーズはどうだ、とか」
「うーん。先生が言ってるのは、そういう意味ではないと思う」
「じゃ、どういう意味」
いつものように、ミチルとマヤがアレンジについて話し込んでいると、ジュナが言った。
「解体するってことは、それぞれがどう影響し合っているか、って事を突き止める事だろ。あたし達の場合は、例えばドラムパターンとキーボードは合っているかどうか、とかな」
「なるほど」
「ひとつの音を変えれば全体に影響が出る。加えればやっぱり影響が出るし、まるまる外してしまってもそうだ。今のアレンジがどういう組み合わせになっているのか、だな」
そうなると、やっぱりアフロ・ビートというフュージョンとしては特異なリズムが、曲の根幹をなしているのは間違いない。
「ねえ、今のアレンジって、オーディエンスの立場では、みんなどう思う?」
ミチルの質問に、メンバーは少し考えて答えた。
「どっちかっていうと、ファンキーだよね」
「そうね。可愛らしい、というよりは、楽しいっていう方向だと思う」
マーコとクレハの意見に、マヤも同意した。
「それは確かにそう思う。テレキャスに替えて、音の印象は柔らかくはなったけど。やっぱり、バレンタインデーというよりは、パーティーという印象かな」
「じゃあいっそ、エフェクター入れないでクリーントーンでやってみるか。レスポールで」
ジュナの提案で、5人は仮に少しだけ合わせてみた。クリーントーンのレスポールはほとんどアコースティックギターに近い音になり、曲の印象はだいぶ落ち着いたものになる。アフリカ由来のリズムとあいまって、なんだか民族音楽そのものに戻ってしまったようだ。
「これはこれで興味深いアレンジではあるけど」
ミチルは苦笑した。バレンタインデーのイメージからは、どんどんかけ離れていく。
「リズムを普通のにする?」
マーコの意見に、マヤもミチルも首を横に振った。
「そこは動かさない方がいい」
「そうね。曲の土台を変えたら、別物になる」
二人の意見を受けて、マーコはお手上げのポーズをしてみせる。
「じゃあ、八方ふさがりじゃん。もう、出来る事ないよ」
「うーん」
ミチルが唸っていると、ふいにドアが開いてアンジェリーカが顔を見せた。
「すみません、ちょっと失礼します」
「おっ、どうした」
「ミチル先輩、すみません。ソプラノサックス、借りていいですか。あのっ、ちゃんとアルコール消毒して返しますので」
唐突なリクエストだったが、ミチルは笑って部屋の奥からケースを取り出した。秋のジャズフェスで使って以来だ。
「わかってると思うけど、管楽器はパーツの素材によっては、アルコール消毒厳禁だからね」
「大丈夫です!お借りします!」
赤毛の少女は、ミチルから大事そうにソプラノサックスを受け取る。何の曲を練習しているのだろう。
「ソプラノサックスでないとダメな曲なの?」
「EWIでやってたんですけど、ちょっと変えてみたら面白いんじゃないか、って薫くんが言い出して」
「ふうん。試行錯誤はいい事だ。見てよ、私達。もう途方に暮れてる」
背後のバンドメンバーを示すと、全員が笑った。もう笑うしかない。アンジェリーカは呆気に取られつつ、まあ先輩たちはこうだからな、みたいな顔をして、お辞儀をして立ち去った。
「それじゃ失礼します!」
パタパタと駆けてゆく後輩を見て、なんだか自分達はひどく深刻だな、とミチルは思った。せめて楽しくやりたい。
「サックスの貸し借りって、もろに間接キスだよな」
「またジュナの変態トークが始まった」
「変態とはなんだ!」
ミチルとジュナは睨み合う。まあ間接キスなのは間違いないが、別におっさんと貸し借りしているわけでもない。女同士は気楽なものだ。潔癖症で絶対ダメな人もいるだろう。
「まあなんだ、ジャズフェスの時はソプラノサックス持って行って正解だったよね」
途中の、あるトラブルでEWIが使えなくなってしまい、たまたま持って行ったソプラノサックスのおかげで事なきを得た。また、EWIから生の楽器に替えた事で、音色が変化したのも好評だった。
「怪我の巧妙ってやつかな。楽器そのものを取り替えたことで…」
そこまで言って、ミチルは突然無言になった。ジュナが怪訝そうに見る。
「なんだ」
「わかった」
ミチルは、ジュナとマヤを交互に見て言った。
「わかったよ。簡単な事だった」
「だから、何がだよ」
「マヤ、今回はあなたの出番だったみたい」
まっすぐ目を見て言われると、マヤは何か嫌な予感を察知したようだった。ミチルは立ち上がって、全員に向かって言った。
「今回の曲、メインはジュナのギターでなく、マヤのピアノでいく事にする」
そう伝えながら、なんだかわりと最近、似たような事があったような気もするミチルだった。