Big Girl
その少女は、1年生3組、理工科の生徒だった。ちなみにクラスは1組から順に情報工学科、情報システム科、理工科、電子工学科、都市環境科、建築デザイン科、ロボット工学科、となっている。
「あの、さっきの演奏聴いてて、素敵だなと思って、その…」
なんとなく緊張しているようだが、その少女は1年生としては長身なせいで、緊張と裏腹に存在感はあった。ミチルやクレハとほとんど変わらず、ジュナより2センチくらいは高い。マーコよりは頭半分以上高い。顔付きはキリッとしているが、細身で風に揺れる柳、といった印象だ。
「見学かしら?」
クレハが柔らかい声でフォローしてくれたのに助けられて、リアナと名乗った少女は思い切ったように語り出した。
「あの、私、じつはクラシックギターを勉強してるんですけど、そういう楽器でも、この部活で活かす事って、できるんでしょうか」
それは、入部希望という意味でいいのだろうか、と思いながら、この場ではギターの専門家であるジュナに視線が集まる。ジュナはとりあえず、少女に座布団をすすめた。
「ま、座って。クラシックギター?」
「はい。子供の頃から教わってて」
「クラシックということは、奏法もそっち寄りってことか」
ジュナは部室の奥に行くと、1本のエレクトリック・アコースティックギターを取り出して持ってきた。
「クラシックギターはちょっと置いてないんだけど、弾いてみて。何でもいいよ」
「はっ、はい」
リアナはエレアコをしなやかな指で受け取ると、座った状態で器用に抱え、チューニングを確認した。ジュナ達はその様子を見て、軽い驚きを覚えた。チューナーなしでチューニングを完璧に合わせてしまえる。つまり、音階が頭の中にある、ということだ。
「(絶対音感か)」
マヤはそう推測した。もちろん、トレーニング次第で絶対音感がなくても音感を鍛える事はできる。だが、この少女の自然な仕草は、そんなレベルではない。
リアナは、開放弦を鳴らしてチューニングが合った事を確認すると、ひと呼吸置いてゆっくりとエレアコを弾き始めた。可愛らしい、誰もが聴いた事のあるメロディ。ドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」だ。
リアナの演奏は完璧で、きちんと教育を受けている事を実感させた。ジュナは弾き終えたリアナに拍手を送る。
「すごいじゃん。あたしじゃ、そんなの弾けないわ」
「そっ、そんな事…先輩のギター、かっこ良かったです」
「褒めてもなんも出ないけど、ありがと」
エレアコを受け取ると、ジュナも同じ曲を弾いてみせる。いちおう形にはなっているが、音のアタック感がどうしてもロックギタリストのものになってしまう。
「ふーん。なるほど」
ジュナは、他のメンバーとアイコンタクトを取り、リアナにストレートに訊ねる事にした。
「単刀直入に訊くけど、入部希望ってことでいいのかな」
期待を隠さずにジュナがそう訊ねると、リアナは若干硬直した様子を見せた。
「はっ、はい。…そう、なんですけど」
ジュナは首を傾げた。
「けど?」
「わっ、わたし、エレキギターが弾けないんです」
フュージョン部の5人は、顔を見合わせた。事実上の部長のミチルが身を乗り出す。
「弾けないっていうのは、どういう意味の弾けない、なの」
それは、その場にいる全員の疑問だった。クラシックギターとアコースティック及びエレキギターでは異なる点が多いものの、基本的には同じギターである。そこへ、ジュナが口をはさんだ。
「エレキギター独特の鳴らし方が掴み切れない、って事だろ。特に、エフェクターを通した場合。コンプかけた時の音の伸び方とか、生のギターとは別物だからな。違う?」
ジュナの言葉に、リアナは首を縦に振った。どうやら図星らしい。
「そうなんです…アコースティックギターなら、スティール弦だったりネックが細かったりするけど、基本的には同じ生ギターなので違和感はないんですが、エレキギターになると、どうしても上手く鳴らす感覚が掴めないんです。何度かやってみたんですけど」
「それでもエレキギターを弾いてみたい、ってことね」
ジュナは、横目でにやりと微笑んで言った。
「弾けるようになりたいんです。…そういう目的で、この部活に所属しようというのは、許されるでしょうか」
「おいおい、大げさだな」
ジュナは、少々呆れぎみにリアナの肩をポンと叩いた。
「こっちは今、一人でも多く1年生が欲しい。その意味では、ほとんど無条件でウェルカムなんだけど、まあなんだ。もっと、肩の力抜いていいと思うよ。ね」
ジュナは、ミチルに自然体で同意を求めた。それは恣意的なものを一切感じさせない、友情あってこその自然体だった。ミチルも同じように微笑んでみせる。
「そうね。音楽はまず、楽しまないと。ま、私たちもけっこうピリピリしてるけどね」
どういう意味だろうか、と思うリアナに、ミチルたちはフュージョン部が現在おかれている状況を、包み隠さず説明したのだった。
「そんな事になっていたんですか」
残念というよりは驚きの様子で、リアナは正座して話を聞いていた。あと正味10日ほどのうちに1年生5人を見付けなくては、廃部がほぼ確定する。つまり、リアナが入部しても残りの4人が集まらなければ、活動の場はなくなる、ということだ。ジュナは笑って言った。
「ま、そういう状況だから、入部するかどうか決めるのはむしろあなたに選択権がある。売り手市場、ってやつだね。沈むかも知れない船に乗る気、ある?」
せっかくの1年生を逃すかも知れないようなジュナの発言を、フュージョン部の面々は誰一人として咎めはしなかった。ジュナをフォローするようにミチルは言った。
「ただの頭数を揃えたいわけじゃないの。やるなら、音楽に熱意を持った人に来てほしいもの。無理やり人数だけ揃えて、ダラダラ存続するくらいなら、きれいさっぱり無くなる方がよっぽどいい」
「そういうことだ。ただし入部するなら、あたしがエレキギターをみっちり教えてやる。クラシックギターで基礎を勉強してるなら、すぐにエレキのコツも掴めるさ」
ジュナは、エレアコを爪弾きながらリアナの目を見て言った。リアナは少し難しい顔をしたあと、決意したように背筋を伸ばした。
「わかりました。役立てるかどうかわかりませんが、先輩方がよければ、ぜひ、入部させてください」
そう言って、リアナは両手をついて頭を下げる。なんだか妙に育ちの良さを感じる少女だ、と面々は思った。ミチルが拍手すると、それに倣って全員が拍手でリアナを迎えたのだった。
「歓迎するわ、リアナさん。よろしくね」
「こっ、こちらこそ、よろしくお願いいたします。えっと」
「大原よ。大原ミチル。暫定部長ってことになってる」
ミチルが差し出した手を、リアナはしっかりと握り返した。細いが、やはりギタリストらしく鍛えられた指である。ようやく、待ち望んだ新入部員の1人目が、思わぬタイミングで訪れてくれた事に、フュージョン部の5人は正直、安堵の思いだった。
だが、喜びの空気の中で1人、リアナに熱いまなざしを向けている者がいた。キーボード担当マヤである。
「リアナ、あなたクラシックギターを学んできたのね」
「え?はっ、はい」
唐突に言われて、リアナはやや緊張した。
「ということは、ひょっとして五線譜も読める!?」
「よっ、読めます…クラシックギターは基本的に五線譜ですから」
「採譜は!?できる!?」
食い気味にマヤが身を乗り出したので、リアナは若干引き気味に顔を強張らせた。採譜というのは要するに、いわゆる耳コピの事である。音楽をじかに聴いて、楽器ごとに楽譜に起こしていく作業だ。せっかくの新入部員をビビらせてどうする、とミチルは思ったが、リアナは姿勢を正して答えた。
「ええと、完璧かどうかはわかりませんけど、いちおう出来ます」
「よし。リアナ、さっそくだけど入部して最初の仕事は、私をサポートしてほしい」
「はい?」
何の事かわからないリアナに、マヤは1枚のプリントを提示した。それはミチルがプリントしたセットリストだった。今日やったリストは斜線で消されており、その下に明日の予定のセットリストがある。曲目は以下のとおりだった。
【セットリスト2日目】
1.風の少年/THE SQUARE (ミチル)
2.Shiny Ray/YURiKA (クレハ)
3.エミールショップ/Nier:Automata (マヤ)
4.西部警察PART2オープニングテーマ/高橋達也と東京ユニオン (マーコ)
5.東京快晴摂氏零度/Eastern Youth (ジュナ)
「何度読み返してもコンセプトが意味不明なセットだな」
「1曲目と4曲目はぶっつけ本番でいけるでしょ。何度かやってるし」
「なんで西部警察パート2を演奏した事あるんだろうな、あたし達」
ミチルとジュナの会話を聞きながら、新入部員の戸田リアナは先ほどまでの表情を一変させ、眉間にシワをよせて唸っていた。
「エミールショップ…」
「あ、それは私が歌うから安心して」
何が安心なのかわからないフォローをマヤが入れた。リアナはマヤの顔を見る。
「これ、採譜するってことですか」
「そう。あなたに手伝ってもらいたい。ただしギターとドラムスはいらない。あいつら耳と腕で覚えるから」
マヤはジュナとマーコを指差して言った。それもそれで凄い話だ、とリアナは思う。それまで学んできた音楽とは全く異なる。
「とにかく、まあ細かいとこは多少間違っててもいいから、演奏できればそれでいい。採譜っていっても、実戦仕様の簡略化したものでいい。イントロ、ヴァース…いわゆるAメロからエンディングまで、ざっくり区切ってわかればいい。こんな感じ」
マヤは、自分達が理解するためだけに準備した、パッと見では楽譜になど見えない楽譜のサンプルを示した。音楽の先生が見れば卒倒するか、激怒するかのどっちかである。
「こっ…これは…」
入部早々、リアナは頭を抱える事になった。基礎から音楽を勉強してきた人間にとって、そんな無茶苦茶な採譜など聞いた事がない。だが、マヤはそこへ納得の一言を投げかけた。
「あなただってさっき、譜面もないのに亜麻色の髪の乙女を弾いてみせたでしょ。それを全員でやってるだけの話よ。ライブじゃ譜面なんて見れないんだから」
この、マヤの言葉は半分嘘である。なぜなら今日の演奏で、マヤはキーボードに大雑把な譜面を貼り付けていたのだ。ジュナも歌詞をモニターの脇にこっそり貼ってあった。本人たちに言わせると「現場においては臨機応変」とのことである。
「ふっ…ふふふふふ」
突然、リアナは下を向いて笑い始めた。なんだ、どうしたとミチル達は怪訝そうにその様子を見ていたが、リアナは顔を上げていた。やはり変な笑みを浮かべている。
「わかりました。実戦仕様、ですね」
笑っているが、目には不気味な輝きが湛えられている。ひょっとして危ない奴か、とジュナは思ったが、すでにマヤと分担を決める相談を始めており、とりあえず部活に馴染むのは問題なさそうだった。
かくして、フュージョン部は新たな戦力—未知数ではあるが―を得て、2日目の演奏に向けて準備を開始した。その様子を見つめながら、思案するひとつの視線があった。オーディオ同好会、村治薫少年である。
「今日の先輩たちの演奏は良かった。たぶん、明日もいい演奏をするだろう。けれど、何かまだ足りないような気がする…」
それが何なのか、薫にはその時点ではわからなかった。結論から言うと、直面している問題とは必ずしも関係があるものではなかったが、それはミチルたちがいずれ必然的に通過しなくてはならない試練であった。ミチル達がまだ自覚していないその試練に、この少年は気付いていたのである。
薫は一足先にフュージョン部の部室を辞し、ミチルたちの演奏を収めたSDカードを持って帰路についた。そうして、校門を出ようとしたその時だった。
「オーディオ同好会の村治薫くんね」
凛とした声が、薫を呼び止めた。振り返ると、そこに立っていたのは後ろ髪を後頭部に結い上げた女生徒だった。校章は緑、3年生だ。
「そうですが、何か」
「ミチル達の演奏を録音しているそうね」
「え?はい、そうですが」
その時、ようやく薫は気付いた。この女性は吹奏楽部の3年生、市橋菜緒だ。ミチルとは浅からぬ因縁があり、先日やや強引に和解している。菜緒は一歩進み出て言った。
「音源のマスタリングが終わったら、私にもコピーしてくださるようお願いしたいのだけど」
そう言って市橋菜緒は、1枚のSDカードを薫に手渡した。容量は128GBある。
「MP3などは駄目よ。flacかWAVでお願い。そして、私と接触した事はミチル達には伏せておくように」
次々と勝手な注文をつけてくる菜緒だったが、薫はそれを拒否する事ができなかった。理由はひとつで、薫は市橋菜緒という上級生が、信頼に足るものだという直感があったためである。薫がSDカードを受け取ると、菜緒は「では、お願いね」とだけ言い、くるりと踵を返して風が吹く中を立ち去った。