In perfect
翌日、弟のハルトと共に折登谷ジュナ宅を訪れたミチルを待っていたのは、透明な作業用フェイスガードを装着し、ドリルビットがついた電動ドライバーを持ったジュナだった。ボロボロのカーゴパンツを履いており、髪は後ろに結っている。肌の色もミチルよりやや暗めなので、パッと見は男子にしか見えない。Tシャツは真っ赤な地に、白くチェ・ゲバラの顔がプリントしてある。
「おー、来たか」
フェイスガードの下から、いつものハスキーボイスが聞こえた。どうやらジュナで間違いないらしい。
「ちょっと部屋で待ってて。すぐ行く」
そう言うとジュナは、フェイスガードを外しながら玄関に通じているガレージに戻っていった。作業台の上には、この間から入退院を繰り返しているジャンクの青いアイバニーズが横たわっていた。
勝手知ったるジュナの部屋に、ミチルはハルトと一緒に入った。女子の部屋に入ると独特の緊張を覚えるはずの思春期の少年が、なぜかまったく抵抗なくいられる空間である。壁には無造作に塗装の剥がれたレスポールが立てかけてあり、部屋は散らかっているわけではないが、ギターの雑誌がカーペットに伏せてある。壁には、ハルトにはわからない大昔のパンクギタリストのポスターがあった。ただ、コスメ関係のアイテムがきちんと整頓されていたりと、まるっきり少女っぽい要素がないわけでもない。
「待たせた」
ドアが開いて、アイスコーヒーが載せられた盆と、グリーンのメタリック塗装が派手派手しいギターをそれぞれの手に持ってジュナが現れた。チェ・ゲバラが汗で胸に張り付いている。
「悪い、ミチル」
「あいよ」
ミチルは両手で盆を受け取る。アイスコーヒーにガムシロップ、スティック状のミルフィーユが添えてあった。
「おっ、お邪魔してます」
初対面でもないのだが、ハルトは今更ちょっと緊張した様子でお辞儀をした。理由はバレバレで、ジュナのそう小さくない胸に視線がチラチラと向けられている。
「おう。久しぶり」
「そっ、それ、お話してたギターですか」
今度は胸からギターに視線が移った。本体そのものはストラト型の無名メーカー品、要するに安物である。ピックアップはブリッジ側がハムバッキングに交換してあり、ピックガードを加工した跡がわかった。
「うん。メーカーはよくある胡散臭いやつだけど、あたしがチューニングと改造でまともなギターに調教してある」
ジュナは部屋の隅の小型アンプに、その調教済みギターをつないだ。ノイズは若干感じられたが、ミュートすると問題ないレベルになった。
適当にコードを押さえて音出しをしてみせる。ピックアップ交換のせいか、ストラトタイプにしては音が分厚い。
「ナリはちょっとアレだけど、音のバランスはいいよ。これで良かったら」
「ちょっと、弾かせてもらっていいですか」
「ああ」
ハルトは、恐る恐るネックを握るとストラップをかけた。予想外に重かったようで、立ち上がるとふらついた。その様子を姉は面白そうに、アイスコーヒーを傾けながら観察する。
「重いだろ。安物のなかで、重いやつを探したんだ。軽いやつは音が発泡スチロールみたいに頼りないからさ。まっ、このへんが目利きだな」
ジュナが見守る中で、ハルトはごく簡単なコードを試してみた。まだ、コードを押さえるだけで精一杯のようだ。
もっとも、ことギターに関してはミチルは偉そうに言える事はひとつもない。先日ようやくFを押さえられるようになっただけで、いまだコード進行がまともにできないのだ。
「いい音ですね」
ハルトは素直に感想を言った。
「買う?」
「買います!」
「よし。じゃあ昨日言ったとおり、4千円でいいよ」
ジュナは指を4本立てて示した。ハルトが財布に手を伸ばそうとすると、その目の前に千円札が一枚、スッと横から差し出される。
「え」
「千円だけ支援してあげる」
ミチルが微笑んでみせると、ハルトは両手を合わせて頭を下げた。
「感謝いたします、女王様」
「苦しゅうない」
わけのわからない姉弟のコミュニケーションに、ジュナは代金を受け取りながら笑った。
「ま、とりあえず最初は自分でやれるとこまでやってみな。動画で練習のしかた配信してる人もいるし。真面目にやれば、あんたの姉さんよりは上手くなると思うよ」
「どういう意味よ!」
「言ったとおりの意味だよ。もう半年以上教えてるこっちの身にもなれ」
ミチルとジュナは顔面を接近させて睨み合う。すると、ハルトはおもむろに立ち上がった。
「あのっ、俺、ダチんとこ行きます」
「とーとととと、落ち着け少年。ほら」
ジュナは、ベッドの横に投げ出してあったギターのソフトケースを手渡した。ホコリをはらった跡が見え、だいぶ年季が入っているようだった。
「あたしが最初に背負ったギターケースだ。未来の偉大なギタリストから譲られた事を光栄に思いなさい」
「ありがとうございます!」
どの程度本気にしたのか不明だが、ハルトはメタリックグリーンのギターを大事そうにソフトケースにしまうと、挨拶もそこそこにジュナ宅を飛び出して行った。
「最初に手にしたギターってのは嬉しいもんだ」
「ありがとうね、ジュナ」
「いいって事。しかし、姉弟揃って音楽の道に行くのかね」
「さあね、どこまで続くもんだか」
目を細めて、ミチルは窓の外を駆けて行くハルトの姿を見送った。
「なあミチル、ゆうべ受け取ったメッセージだけど、あれ、どういう意味だ」
「え?」
「演奏したい音楽、って」
ジュナは、手元に一枚のCDを置いた。小田和正の2000年のアルバム”個人主義”だ。ミチルは手に取って「渋すぎる」と呟いた。
「うん、単なる思い付きなんだけどね」
「ま、お前に任せるって言ったからな。あたしも、演奏したい曲を選んでみた」
ジュナは、CDケース裏面の曲を指で示した。3曲目”the flag”と、9曲目"こんな日だったね"、そして10曲目"風のように"。
「あたしがちょいちょいみんなに聴かせてるから、メンバーみんな知ってる曲だけどな」
「うん、それでいい。ありがとう。なるほど、いいチョイスだ」
「まさかとは思うけど、学校で演奏する気?」
ジュナは怪訝そうに目を向けてきた。ミチルはにやりと笑う。
「明日、部室にみんな揃った時話す。悪いけど、朝、部室に集まってくれる?」
「…わかった」
ジュナはそれ以上何も言わなかった。
「他のメンバーからも返事は来てるの?」
「うん。マヤはすぐ返事が来た。マーコは、ちょっと面白いチョイスだったな」
「クレハは?」
「わかりました、って返事は来たけど、その後はまだない」
「あいつが好きな音楽って、そういえば何なんだ」
音楽部に1年3カ月在籍しながら、音楽の趣味がわからないメンバーというのも凄い。これを機会に、その謎が暴かれるのだろうかと、ミチルたちは何となくドキドキしていた。ミチルは、スマホを閉じてジュナが置いたCDを見る。
「このアルバム、配信サービスでいつでも聴けるよね」
「ああ」
「よし」
ミチルが頷くのを見て、ジュナは小さく笑い、溜息をついた。
「お前もわからないよな。落ち込んでたかと思えば、突然立ち直るし」
「立ち直ってないよ。落ち込んだまま動いてるだけ」
何だそれは、とジュナは呆れた。ミチルは立ち上がって時計を見る。
「それじゃ、私帰るわ」
「え?どうせなら、お昼食べて行ったら?健康に良くない食品ばっかりだけど」
昼食の誘い文句としてはどうなのか、というジュナの言葉に、ミチルはそそくさとドアを開けた。
「悪い。ちょっと帰ってやる事がある。あんたの選曲も確認できたから、あとはクレハだな」
「なに考えてるかわかんないけど、何か決まったらすぐ伝えてくれよ。たぶん、こっちも何か準備しなくちゃいけないんだろ」
「もちろん。まとまり次第、すぐ連絡する」
さすが親友、よくわかっている、とミチルは力強く頷いた。
クレハからのLINEメッセージがミチルに届いたのは、自宅に戻る電車に揺られている時だった。何やら長ったらしい前置きのあとでクレハが選んできた曲は、なるほど、そういう事かとミチルを頷かせるものだった。明日の朝、ちょっと面白い事になりそうだ。
同じころ、オーディオ同好会の村治薫少年は、フュージョン部の録音データのマスタリングまでを終えていた。これはミチル達への協力というよりも、単に彼がオーディオマニアとして、録音物を編集するのが楽しいという動機の方が強かったかも知れない。まことにオーディオマニアという生物は、音を鳴らすという、ただそれだけの行為が楽しいのである。
ちなみにマスタリングというのはマルチトラック録音の場合、ステレオ2チャンネルへのミキシングが完了した音源の、最終的な調整作業になる。特にアルバム一枚を編集する場合は、複数の楽曲の音色を統一させる、極めて重要な作業になる。薫は、マスタリングエンジニアになった気分で作業に当たっていた。
「なるほど…だんだんわかってきたぞ」
PCを操作する薫の手元には、ミキシング、マスタリングについての雑誌記事が開かれている。興味がない人にはわけのわからない暗号の羅列である。こうして薫は、オーディオマニアに加えて録音マニア、アマチュアエンジニアという属性が追加されていったのだった。
翌日、早めに自宅を出て来たフュージョン部の面々は、まだ校庭に朝の香りが残る中、部室に集合した。それぞれ、各人各様の面持ちである。中でも、千住クレハの強張った表情は、当人には申し訳ないものの、ミチルには見ものであった。
「はい、ちゅうもーく」
例によってそれぞれが、楽器を鳴らしたりスマホをいじったりしている所に、ミチルが手を鳴らした。
「昨日の昼過ぎに、みんなに送ったLINEは読んでくれたものと思う」
全員が無言で頷く。ミチルは、プリンターで印刷したリストを全員に手渡した。そこには、LINEでミチルが全員に呼びかけて各人が選んだ楽曲と、ミチル自身が選んだ楽曲が、”セットリスト”として並べられていた。
「ちょっと、これ…」
マヤが、絶句してミチルとセットリストを交互に見た。
「これを演奏するっていうの?」
「もちろん」
「まじで?」
つい、マヤの口調までが変わってしまう。それぐらいのセットリストである。例えばセットリスト(1)は、次ののような内容だった。
1.情熱大陸/葉加瀬太郎 (マーコ)
2.the flag/小田和正 (ジュナ)
3.インパーフェクト/オーイシマサヨシ(クレハ)
4.Run into the horizon/テイルズ・オブ・ベルセリア(マヤ)
5.Sax-A-Go-Go/キャンディ・ダルファー(ミチル)
「このセット、やるの!?」
大事な事なので二回聞いたマヤは、今度はミチルと他のメンバーの顔を交互に見る。クレハが、唇をきりりと結んで黙りこくっていた。ミチルはあっけらかんと答える。
「やるからセットリストっていうのよ」
「フュージョン要素は!?」
「そんなものはない」
ミチルはきっぱりとそう言い切ったあとで、付け足した。
「言い方を変えようか。フュージョンに音楽の垣根は存在しない。やろうと思えば、フュージョンはあらゆる音楽を飲み込んでしまう事ができる。それに、J-POPやゲーム音楽の編曲に、フュージョンがどれくらい影響を与えているか、考えてみればわかる」
「あっ」
ミチルの言葉に、全員が一瞬、憑き物が取れたような表情を見せた。ミチルは特に意味もないが、EWIを手にしてパッドをパタパタと押してみせた。
「市橋先輩が言った『フュージョンなんて音楽は存在しない』っていうのはまあ、思考を促すための一種の引っ掛けだったんだと思う。あらゆる音楽の交差点にあるのがフュージョンなんだよ」
「つまり、このセットリストをフュージョンアレンジするって事?」
「あははは、違う。それじゃ、それこそスーパーの店内BGMだよ」
ミチルは呆れ半分に笑いながら座り込んだ。
「ヴァン・ヘイレンの”JUMP”とかを、安っぽいフュージョンアレンジしてるBGMは、日本全国津々浦々、あちこちで流れてると思う。ああいう、カップ麺みたいな安いサウンドにはしない。あれはあれで存在意義はあるだろうけど」
「聴いた事あるな。エディのギターソロを無理くりシンセで演奏してて、スーパーの事務所に怒鳴り込んで止めさせようと思った事があった」
ジュナの表情は笑っていない。ロック好きとして看過できない体験だったのだろう。
「うん。ギターのパートはギターでやるよ。それと、ボーカルがある曲は、基本的にボーカルを入れる」
「誰が歌うんだよ」
「ジュナに決まってるじゃん」
「なんだと!?」
ジュナは、たぶん直ったように見えるアイバニーズを抱えたまま立ち上がった。
「オーイシマサヨシも、あたしが歌うのか!?」
「あんたのボーカルが一番上手いもの。あたしはコーラスなら手伝えるけど」
「オーイシマサヨシ歌った事ねーよ!」
そこまで抗議して、ふいにジュナはクレハを向いた。
「そういえばクレハ、お前オーイシマサヨシなんて好きだったっけか」
「うっ」
ジュナの追及を受けて、クレハは数秒間動揺する様子を見せたあと、切腹する武士のように悟った表情で突然正座してカーペットに両手をついた。
「白状します。今まで隠してました。私、じつは」
「アニメオタクなんでしょ」
クレハが言おうとしたところへ横から口をはさんだのは、マヤだった。
「なっ、なんでわかるの」
「わかる。というか、前々からあんたには、ゲームオタクの私と同じオーラを感じてた」
マヤは、クレハの横に座って肩をポンと叩いた。
「いっ…いつから気付いてたの」
「コナン君にアリバイ工作がバレた犯人か、お前は」
そう言われてクレハは、二つ目の憑き物が取れたように、突然晴れ渡ったような表情を見せた。マヤは微笑んでセットリストを見る。
「ダイナゼノンのOPでしょ、オーイシマサヨシ」
「観てたの!?」
「観てた。グリッドマンも」
「BNAは!?」
「あのEDいいよね」
突然仲間の存在を知ったクレハは、ひしっとマヤに抱き着いた。ミチル達は何の話かわからない。
「仲間がいたのね、こんな近くに」
「おー、よしよし。今まで辛かったのう」
マヤはクレハの頭を撫でてやった。オタクの友情が芽生えたところへ、ジュナが咳払いした。
「だいたいわかった。アーケード街でのお前の奇行も」
「あー」
ミチルとジュナは、アーケード街でクレハに遭遇した時の事を思い出していた。今にして思うと、あの青い袋はアニメグッズ専門店の袋だ。あのまま同行していたら、アニメオタクである事がバレるのが怖かった、ということなのだろう。ミチルは、笑って言った。
「クレハ、あなたの選曲がある意味、今回のセットリストのコンセプトを象徴しているの」
「…どういうこと」
「あのね、今まで私たちが選んでた曲って、”これなら注目してもらえるだろう”っていう意識が働いてたと思うのよね。本田雅人のナンバーにしてもそう」
ミチルは、今度はソプラノサックスを手にして語り始めた。
「でも、音楽で一番大事なのって、演奏者自身が好きな音楽をやる事じゃないかな、って思ったんだ。いろんな人たちの話を聴いてて、そう気付かされた」
その言葉に、4人も何か気付いたような表情をした。クレハの表情が、今までのどこかベールを隔てたようなものから、ごく自然なものに変わっていた。
「今から、ちょっと後ろ向きなこと言うよ。このまま行けば、部員募集の結果はどうなるかわからない。…あるいは、もうだいぶ見えて来た、と言った方がいいかも知れない。だったら、みんなでやりたい音楽を、好きなようにやろうって、そう思ったの。ウケるための音楽じゃない。楽しむための音楽」
そうだ。音を楽しむ、と書いて音楽だ、とミチルは自分自身で思いながら、その想いを面々に告げた。ジュナたちは、頷きながら聞いていた。
「ひとつ言っておくけど、フュージョン中心のセットリストも後半には準備してある。いつもやってるメニューだから安心して。ただ、その前に、音楽ってどういう事なのかを、みんなが好きな音楽で見つめ直したいの。私の考えに、意見があるなら言って」
ミチルは、自分の意見を語り尽くしたあとで、全員に公正に意見を求めた。しかし、首を横に振るメンバーは、そこにはいなかった。マヤが小さく頷いてミチルを見る。
「わかった。ミチルの言ってる事、正しいと思う。そのセットリストで、やってみよう。練習が大変そうだけど」
「何とかなるって、あたし達ならできるさ」
ジュナの、何の根拠もない励ましに、全員が笑った。決まりね、とミチルが微笑んだ。だがそのあと、ジュナが今まで黙っている約一名に質問を投げかけた。
「ところでマーコ、お前なんでこの選曲にしたんだ。マヤがゲーム音楽選んだのはわかるけど」
ジュナは、セットリストの1曲目、葉加瀬太郎の"情熱大陸"を指差してマーコに訊ねた。マーコの答えは、やや理解不能であり、またマーコだから仕方ない、と思えるものだった。マーコは言った。
「もじゃもじゃのカツラ被ってこの曲叩けば絶対ウケると思う」