Get Up, Stand Up
金曜日の朝、ミチルは何の気なしに第2部室、つまり旧オーディオ同好会の部室の前に立っていた。初めてここを訪れた時の事を思い出す。あの時、ミチルはフュージョン部の存続について、部員に打ち明ける事ができず、フラフラ彷徨ってこのドアから微かにもれる音楽に気付いたのだ。
「何してんの」
背後から、聞き慣れた声がする。かつての、そして今も事実上この部屋の主、村治薫だ。付き合いが悪いわけではないが、独りでいるのが似合う少年だ。
「おはよ」
「寒いでしょ」
薫は、11月に入っていよいよ寒さが増し、冷たくなったドアノブの鍵を回して開けた。第2部室の開け締めは、ほとんど彼が行なっている。
スピーカーが林立する部室に薫と2人だけで入ると、出会った時を思い出す。初夏、まだ暑さが本格化する手前の頃だ。
「秋はオーディオ再生にちょうどいい季節だ」
薫は、いつものようにデスクに座ると、いつものようにオーディオ談義を始めた。彼の解説は、なぜか興味がない人間も引き込むものがある。
「季節があるの?」
「体感的なものかも知れないけどね。理屈で言えば、湿度が高い方が音の伝播速度は速くなって、瞬発力が上がる筈なんだけど、乾燥した時期の方が音はクリアに聴こえる。楽器やスピーカー自体の音色が湿度で変化するせいだ、っていう説もあるけど」
なんだか、薫のトークは久々に聞いた気がする。会った頃はリミッターがかかっていなくて、こんなものではなかった。関わる人が増えて、学習したらしい。一見すると無愛想で気難しいタイプにも見えるが、無愛想なりに社交性はある。
「薫は、そういう音響とかの道に進むの?」
ミチルは、旧オーディオ同好会のマニアックなCDコレクションを眺めながら訊ねた。一般的なジャンルとまるで分け隔てなく、「墨田川の花火」といった、ひたすら花火の音を収録したアルバムだとか、レーシングサーキットの走行音を延々と収めたアルバムだとかが並んでいる。
「まだ、進路を具体的に考える所までは行ってないけどね」
「けど、そういう道に行きたいって気持ちはあるんでしょ?」
突っ込んで訊ねると、薫は保温ボトルの中身を少し飲んで、ひと息ついて語り始めた。
「そうだね。まだ、漠然としてはいるけど」
「才能は間違いなく、あると思うけどね。今だって、薫のミキシングやマスタリングに助けられてるし。なんだか、10年経っても結局、あなたにレコーディングをお願いしていそうな気がするわ」
ミチルは冗談めかして言ったが、薫の表情はいつもの通りだった。あまり感情をハッキリと表に出さないという意味では、会って間もない頃のクレハにも通じるものがある。
彼は、これまでのザ・ライトイヤーズを縁の下で支えてくれていた。それは紛れもない事実で、もっとハッキリ言えば、彼の支えなくしてザ・ライトイヤーズはここまでの道のりを乗り越えて来られなかった。ミチルは、その事は自覚していた。
「仮の話よ。この先も、私達と一緒に来て欲しいって言われたら、どうする?」
ミチルは、ふいにそう訊ねた。薫は珍しく少し驚いた様子で、ミチルの目を見る。
「…バンドのメンバーってこと?」
「違う違う。薫は薫のままでいい。薫個人として、私達と今みたいな関係を継続したいっていう気持ちはある?」
「…先輩はどうなの」
来た。おなじみの、まず言い出した側から意志を示せ、という論法だ。ミチルは苦笑して答えた。
「じゃあ、ハッキリ言うね。私は、この先も薫が力を貸してくれたら、すごく頼もしいし、嬉しい」
「…そう」
「もちろん、これは単に私の願望だからね。あなたに意志を押し付ける気はないわ。…ただね」
ミチルは、部室をぐるりと見渡した。初めてここに入った時に聴かせてもらった、焼却炉みたいな不思議な形のスピーカーが、あの時と同じ場所に鎮座している。
「私、これでけっこうセンチメンタルな性格だからさ。薫と私達の、半年足らずの思い出を、思い出で終わらせたくないんだ」
そこでミチルは、そういえばいつからか、"薫くん"ではなく"薫"と呼び捨てにしている事に自分で気がついた。ジュナは最初から呼び捨てだったが、ミチルは何となく最初は"くん"付けだったのだ。
自分自身にとって、村治薫という少年はどういう存在なのだろう。後輩には違いないのだが、どうしても後輩と呼ぶには違和感がある。かといって弟という気もしない。では、恋愛感情か?少なくとも今の段階では、明確に恋愛意識があるとは思わないし、薫がミチルに対してそんな感情を抱いているようにも見えない。仮に今後そんな感情が育たないという保証もないが、現時点で薫に対するミチルの感情は、恋愛とは別の何かだ。
「まあ、単なる先輩の感傷ってことで、聞き流してくれてもいいよ。それじゃ、明日の準備の最終確認があるから、行くね」
そう言って出て行こうとするミチルを、薫は呼び止めた。
「先輩」
「ん?」
「明日、頑張ってね。先輩のおじさんのお店で、みんなとTV中継観てるから」
薫にしては珍しく、素直で普通の励ましだった。ミチルは微笑んで、サムズアップしてみせた。
「ありがと。頑張るね」
その日の放課後ザ・ライトイヤーズは、予定していた通りジャズフェスのセットリストを通して確認し、いちおうチェックに回ってもらった1年生からも特に問題なしとのお墨付きをいただいたので、翌日に備え早めに帰宅する事になった。
「それじゃ、部室の戸締まりは任せたよ、リアナ」
「はい」
リアナはマヤから部室の鍵を受け取る。1年生のリーダーはアンジェリーカなのだが、実務的に仕切っているのはリアナである。このへんは、マヤと似たポジションだった。
「まあ、ちょうどいい機会だ。1年のみんなに伝えとく事がある」
突然ミチルが改まったので、何だろうと1年の6人は身構えた。ミチルは、柔らかな笑顔を向ける。
「私達、パシフィックオーシャン・ジャズフェスなんて大舞台に立つ事になったけどね。ここまで来られたの、1年生のみんなのサポートがあったからだと思ってる。だからね」
ミチルの合図で、2年生の5人は整列した。
「ありがとうございました!」
一斉に5人が、1年生に向かって頭を下げた。他の部活では、ほぼ間違いなくあり得ない光景だろう。1年生は困惑し、しどろもどろになっていた。
「とっ、とんでもないですよ!」
「そうです!先輩たちが凄いから、ここまでの事ができたんです」
キリカとアオイが必死で謙遜する様子を、クレハが可笑しそうに見つめた。
「そうっすよ、俺たちはただお手伝いをしてただけっす」
サトルも、キリカたちと同じく先輩の顔を立てようとする。他の部活ほど上下関係が堅苦しくはないフュージョン部だが、そこはキッチリさせてくれ、と言いたげだった。リアナは無言で困った顔をしている。だが、いつもクールな薫は別として、演奏組で1人だけ落ち着いている者がいた。サックスの、千々石アンジェリーカだ。
「先輩のお力になれたのなら、嬉しいです」
トレードマークの青い瞳をまっすぐにミチルに向け、アンジェリーカは言った。ミチルは、その赤い髪をそっと撫でる。
「うん、色々助かったよ。みんなの分まで演奏してくるからね」
その一言で、1年生のみんなは何となく、ミチルが伝えたかった事を理解してくれたようだった。そうだ。ステージに立つのは自分達5人だけではない。ここまで自分達を支えてくれた人、全員と一緒に立つのだ。
「それじゃ行って来るね!」
ミチルたち5人は、1年生に向かって敬礼をしてみせた。1年生もつられて同じポーズを取る。
「ご武運を!」
驚くべき事だが、まだ1年生が加入して、実際には3カ月も経っていない。それなのに、もう1年も一緒にやってきたような感覚を、その場の全員が感じていた。最後に出たクレハがドアを閉めるまで、1年生のみんなは真っ直ぐな眼差しを向けてくれていた。
秋の夕暮れの中、ザ・ライトイヤーズの5人は帰路についた。明日のジャズフェスは、観客の数だけで言えばステファニー・カールソンの横浜赤レンガ倉庫でのライブをはるかに上回る。環太平洋という国際的な範囲のジャズフェスであり、国内外から30万人規模のオーディエンスが集まるのだ。もちろん単独ライブではなく、何十ものビッグアーティストが出演するからこその動員数である。
「そうだわ、忘れてた。実は、例のバンドからレーベルあてにメッセージが届いていたの。読むわね」
赤信号に差し掛かった時、クレハが慌ててスマホを取り出し、一件のメールを読み上げ始めた。
「”ザ・ライトイヤーズのみなさん、我々はコスタリカのジャズグループ、『アルファロ』です。今回、日本でのジャズフェスティバル出演予定でしたが、リーダーのロドリゲスが急病で長期入院のため参加を見送る事になりました。たいへん残念な事ではありますが、若く才能あるみなさんが代役を務めてくださるとの事で、一同たいへんうれしく思っています”」
信号が青に変わったので、いったん横断歩道を渡ると、歩きスマホを許さない会・副会長のクレハは断固として立ち止まり、続きを読んだ。会長が誰なのかは知らない。
「”ですが皆さんにお願いがあります。どうか、自分達を単なる穴埋め、代役などとは思わないでください。きちんと理由があって、あなた達が選ばれたのです。これは、神がもたらした正当なチャンスです。私達、老人に引け目や負い目を感じる必要はありません。若い才能をステージに響かせてください。それがあなた達の義務です。アルファロ・ギター担当、カスティリアより”」
クレハが読み終えると、ジュナがヒュウと口笛を吹いた。
「神がもたらしたチャンス、か。いかにもラテンアメリカって感じだな」
「コスタリカってキリスト教?」
マーコの質問に、マヤが答えた。
「中南米はまあ、歴史的な経緯もあるからね。たいがいはカトリックとかでしょ」
曖昧にぼかしたのは知らないからではなく、先住民が植民者によってキリスト教に教化されてきた生々しい歴史を語るのは、今はあまり好ましくないと思ったからだろう。ミチルは、話が重くならないようジャズバンドの解説をした。
「アルファロってバンドは、詳しくはないけど半世紀近く活動してる、ベテランのラテンジャズバンドだね。ジャズだけど、けっこう電子楽器も当たり前に使ってる。フュージョンというよりは、その前の”電気化したジャズ”みたいな感じかな」
「音楽の電子化で帰れコールくらってたような世代かな」
ジュナは苦笑した。電子楽器、などという呼称じたいが死語みたいな現代では、エレキギターを持っただけで客席から「帰れ!」と叫ばれた時代があった事は想像もつかない。音楽史にそこそこ詳しいジュナだが、しょせん16の女子高校生に、祖父母が生まれたかどうかという時代の事は実感が湧かなかった。
「代役だなんて思うな、か。そういえばステファニーのステージでも、ディレクターのシモンズさんに、単なる前座だなんて思うなって言われたね」
マヤの言葉で、全員が夏の横浜でのステージを思い返した。あのとき、シモンズさんは「15分のステージを任されたプロだと思って演奏しろ」と言った。添え物ではなく、独立したアーティストのつもりでやれ、と。地球の反対側から届けられたメッセージに、ザ・ライトイヤーズの少女たちは胸を熱くした。半世紀近い音楽の大先輩が、自分達を立派なアーティストとして認めてくれたのだ。もう、本気で演奏する以外にない、とミチルは思った。
「やろう。もう、立ち止まる事も出来ないしね。自分達の力で、30万のオーディエンスを沸かせてこよう」
「そうだな。アルファロとかいう、”先輩”たちのぶんまで」
先輩。音楽の世界には、数え切れない先輩たちがいる。いつか自分達も、そういう存在になれるだろうか。暮れなずむ赤い空の下、5人は音楽の歴史に思いを馳せながら、夕日に向かって歩いた。
翌朝、ミチルはスマホのアラームが鼓膜を叩くより40分も早く目覚め、まだ母親以外の家族が寝ている中、シャワーを浴びて髪を整えると、キッチンに向かった。母親はすでに、ミチルのために朝食を用意してくれていた。起きて自分で用意するつもりだったミチルは、少し残念な気持ちと、ありがたいという気持ちでテーブルについた。
「出発は早いんでしょう?」
出来立てのスクランブルエッグをトーストの隣に置くと、母はテレビのスイッチを入れた。各地の天気予報がちょうど流れているところだった。
「ライブ会場のあたりは天気良さそう。よかったわね」
「そっか」
ミチルは、とりあえずホッとした。ここまで準備してきて、雨でジャズフェス中止など勘弁してほしい。いつものカシスジャムをトーストにのせ、かじり付く。独特の酸味が舌に広がった。
「それにしても、ずいぶん早く出るのね。最初は9時に駅出発の予定だったんでしょう」
母親は、8時に駅出発という予定に驚いているようだった。ミチル達の出番は午後4時ごろである。8時にこちらを車で出れば、ふつうに行けば10時すぎには現地に到着する。
「うん、何かあったらダメだから、早めに出ようって事になったんだ」
「また、あのイケメンさんが運転手やってくれるんでしょ?」
母は目をキラキラさせた。お父さんがまだ起きていないのが幸いである。まあ、小鳥遊さんがイケメンなのは否定しない。
「ごちそうさま」
「もう食べたの!?」
言われて、そういえば早かったかな、とミチル自身も思う。落ち着いているつもりだったが、どうも気持ちが昂っているらしい。朝早いとはいえ、まだ6時前。少し早起きしすぎた。そう思っていると、父親と弟のハルトが、眠い目をこすってゾンビのように降りてきた。
「早くない?二人とも」
「…こっちのセリフだよ」
二人とも、ミチルを見送るために早起きしてくれた事はわかっている。土曜日に申し訳ないと思いながら、ミチルは心で感謝した。
アルトサックスのケースに、ソプラノサックス、EWI。さらに衣装が入ったバッグを肩にかけ、ミチルは玄関に立った。表では、父親のシルバーのセダンから、ミチルに教わって気に入ったらしいデイヴ・グルーシンが流れている。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「姉ちゃん、頑張れよ!」
最近、ハルトもだいぶ素直になってきた。ミチルは、力強く微笑むとセダンの助手席に乗り込んだ。
父親の運転は、啓叔父さんよりも少しだけ荒っぽい。繊細なグラフィックデザイナーとして知られる人物の、いち側面である。
「まさか、高校在学中にここまで来るとはなあ。今でも驚いてるよ」
「私もだよ」
ミチルは、休日の閑散とした通りを見ながら答えた。ミチル自身、ほんの数か月でこんな事になるとは、想像さえしていなかった。部員勧誘でアタフタしていた、あの日々がもう懐かしい。
「お父さん、今まで受けた仕事で一番大きなのって、何?」
唐突な娘の問いに、父は少し困ったような顔をして答えた。
「どれが大きいとは一概には言えないかな。それぞれ目的も規模も違うからね。ただまあ、シンプルに大きかったのは、海外の映画のヴィジュアル関係かな。ポスター用のキーヴィジュアル、パッケージソフトのジャケットデザインとか」
「海外からの仕事って、緊張しない?」
「うーん。仕事の緊張に、国内外は関係ないかな」
父は、一瞬だけ”プロの表情”を見せた。
「仕事は仕事だよ。もちろん、正直に言えばあまり自慢できない案件も数多くあった。でも、どんなデザインの案件が来ても、自分に出来る事は最大限やる。それだけだよ。それはミチル、君たちも同じじゃないかな」
ずばり質問の核心をついてきた父に、ミチルは黙ってうなずいた。
「君たちは明日も、小さな街角ライブに立つんだろう。ジャズフェスに比べれば、吹けば飛ぶような規模だ。だったら、緊張もしないし、手も抜くかい?」
「…そんなことない。本気でやるよ」
ミチルは、一人のミュージシャンとして答えた。ギャラも何もない街角の小さな路上だろうと、出る以上緊張はするし、やるなら本気で演奏する。
「答えは今、君が言ったじゃないか、ミチル。仕事に大小はあるかも知れないが、大きな舞台で手を抜く事もできるし、街角のささやかなライブに全精力を注ぐ事だってできる。全ては、君自身の気持ち次第だ」
「…うん」
「いいかい、ミチル。リラックスとテンションの両方が、いい仕事には不可欠だ。張り詰めすぎては切れてしまうし、緩み過ぎれば伸びきってしまう。ギターの弦と一緒さ。それができれば、いい仕事はできる。あとは、心のまま思い切りやればいい」
父は、分野は違えど一介のプロとして、矜持をミチルに伝えてくれた。こんな近くに手本にできるプロがいた事を、ミチルは改めて実感した。車のスピーカーから、デイヴ・グルーシンの"Get Up, Stand Up"のピアノが流れてくる。いつか、父に誇れるようなミュージシャンになって、プロフェッショナルどうしの話ができたらいいな、とミチルは思った。そのとき車のハンドルを握っているのは、ミチルかも知れないし、父かも知れない。シルバーのセダンは、駅に向かって朝の道を走り抜けた。