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文書9  再び、怪

ほんとうに随分と遅くまで学校に居残ってしまった。

窓から除く空はすっかり夕焼け色だ。

どこからかカラスが家路につきながらぎゃあぎゃあと鳴いているのが聞こえる。

だいぶ下校時刻過ぎちゃったからなぁ、教室が閉まっちゃったりしちゃってたらどうしようか。

そう漠然(ばくぜん)とした不安を抱きながら楓が階段前の廊下を急ぎ足で通り過ぎようとした時だった。


「そこのあなた。」


ふと呼び止められる。

上を見上げると階段の踊り場から初月がこちらを見下ろしていた。

赤い夕日が凛とした初月をオレンジに照らす。

鬼ですら逃げ出しそうなほどに鋭い眼光が楓に向けられた。


「何故、こんな時刻まで学校に残っているのです。きちんと終礼の連絡を聞いていたのですか?」


初月の氷のように冷たい声音が楓を刺す。

険しい顔つきで楓を睨むその目からは嫌悪感しか感じ取れなかった。

こうやって初月が楓にだけ特に厳しい態度をとるのはいつものことだ。

今回ばかりは下校時刻を破っている自身が悪いとはいえ、楓はもうウンザリだった。


楓が黙り込む。

そのまま夕日に照らされて真っ赤な階段に沈黙が漂った。

初月が痺れを切らしたように口火を切った。


「いいですか、今すぐにでも支度をして帰宅なさい。もうとっくに最終下校時刻は過ぎています。」


初月の有無を言わせぬような強い口調。

楓はすこしムッとする。

確かに自分は悪いことをした、しかしそれは初月も同じではないか?


「そういう室長は大丈夫なんですか。」


楓は意趣返しといわんばかりに反駁した。

すると、初月の顔が夕日に照らされた橙の上からでもわかるほどさっと朱に染まる。

楓に向けられた視線に強い怒りが含まれた。


「僕はいいんです! 先生の頼まれごとを片付けていただけなので!」


一息でまくし立てると、再びこちらをぎろりとねめつけてから、初月は踊り場を曲がって上階に姿を消した。


なんだったんだ、あれ?

やけにカリカリしていた初月を内心怪訝に思いながら、楓は自教室に戻る。

言い方はどうあれ下校時刻を過ぎても学校にいるのは自分が悪いことに変わりはない。

さっさと荷物をまとめて帰ってしまおう、楓はそう考えた。

運よくまだ戸締りがされていなかった自教室の引き戸をガラリと開け、楓は急いで机の中から必要な教科書類を出して制鞄に詰め込んでいく。

窓からさしこむ夕日が教室に机の長い影を落としていた。

いつもだったらグラウンドの野球部の掛け声で賑やかだったからだろうか、先ほどから学校がやけに静まり返っているように感じる。

ほとんどの生徒や教師が帰った後の学校はどこか伽藍洞(がらんどう)で空虚な雰囲気を漂わせていた。


楓がすっかり重くなった制鞄を肩にしょいこむ。

これ以上誰かに見咎められないようにとっとと帰ってしまおうとしたとき。


ふと、かすかに何かが打ち付けるような音がするのに気が付いた。


コン………コン………コン………。

絶え間なく音が響く。

楓が引き戸を開けて廊下に出るとその音はより一層はっきりと耳に聞こえてくる。

音は廊下の奥から伝わってくるようだった。


2階のこちら側の廊下の奥はいくつかの使われなくなった教室と手洗い場、家庭科室しかない。

下校時刻をとっくに過ぎたこの時間に誰かいるはずもなかった。

しかも、それぞれの教室に明かりは灯っておらず、室内はただしんしんと薄暗いのが扉のガラス越しにでも容易に見て取れる。

呆然と楓が廊下に突っ立っていると、図書室の空調で冷たくなった肌に残暑の風が生暖かくまとわりつく。


その間も、夕暮れの静寂に包まれた校舎にコン………コン………と音が響く。

早まることも遅くなることもなく、常に一定の間隔が保たれていた。

誰かが蛇口を緩くしめてしまって、水滴がポタポタとステンレスのシンクに垂れているのだろうか。

それとも、誰かが教室に閉じ込められていて、助けを求めて信号でも送っているのだろうか。

様々な可能性を考えてみるも、しっくりとくるものは楓には思い浮かばなかった。


楓は迷う。

どうしようか。

もう一刻も早く下校しなければいけない時間帯だし、先生にでも見つかったら確実にどやされる。

でも、もしあれが何かしら助けを求めるものだったとしたならば、見過ごすのはなんとも忍び難い。

しばらくの間、楓は視線を階段と廊下の奥で行ったり来たりさせる。


が、覚悟を決めて廊下を恐る恐る進んでいった。


真っ赤な廊下をゆっくりと進んでいく。

音が廊下の奥から聞こえてくるのは確かなのに、具体的にどの部屋からかはわからない。

窓際の手洗いシンクにずらりと並ぶ蛇口をみる。

銀に鈍く輝くシンクの底は残暑の熱にやられてからりと乾ききっていて、どこにも水が滴っている様子はなかった。

もう一方で静まりかえっている教室には、夕日の赤い光に照らされて人っ子一人いないのがよく見て取れる。

どこにもおかしなところはなかった。

となれば、最後に残るのは廊下のつきあたりに鎮座する家庭科教室のみである。


そうっと手を伸ばして扉に触れる。

金属のひんやりとした手触りが塗装越しに伝わる。

ものは試しということで、扉に力をこめてみる。

とたん、廊下中を敷居と戸車が擦れる軋んだ騒音が駆け巡り、楓は驚いて後ずさってしまう。

驚いたことに、扉があっけなく開いたのだ。


注意深く楓が中を覗き込む。

これまでの教室と同様、室内には全く人の気配がなくいたって正常な放課後の風景が広がるだけのように思われた。

しかし、確実にこの部屋で何かが起こっているのは明らかだった。


扉をくぐって教室に入ると、途端に例の音がはっきりと聞こえるようになったのだ。

ゆっくりと、夕日に赤く染められた教室を見渡す。

気持ちが悪いほどに整然と並ぶ九つの調理台。

全てがきれいに整えられ、すまし顔で佇んでいた。

教室の前には古びた黒板、後ろにはきれいに食器類が並べられた食器棚。


おかしなことだ。

確かに音ははっきりと聞こえるのに、その出どころが全く分からない。

ものが散乱しているわけでもない。

何も異常がないように思える。

ひとまず楓は教室の真ん中あたりまでいってみるが、いつもと変わりない、何の変哲もないただの家庭科室だった。


しかし、例の音はおさまるどころか徐々に大きくなっていた。

家庭科室の中で反響し、くぐもって四方八方から聞こえる。

いったいこの音は何なのか。


その時。

こつりと、楓の下履きのつま先に何かが当たった気がした。

ゆっくりと視線を下に落とす。

そこに落ちていたのは一杯の黒い漆器の茶碗だった。


いったいどこから転がってきたんだろう。

つま先の先を視線で追う。

そこには食器棚があって、ガラス戸が半開きになっていた。

楓はかがんで茶碗をとり、食器棚に戻して戸を閉める。


気を取り直して再び例の音の正体を探ろうとしたとき。

後ろからかたりと物が落ちる音がした。

振り返ると、こちらの足元にむけてさっきの黒い茶碗が転がってくる。

食器棚に目をやると、戸は半開きになっていた。

あれ、さっき戸をちゃんと閉じていなかったのだろうか。

仕方がないともう一度茶碗を拾い、食器棚に戻して今度はきちんと戸を閉める。


そうして、戸が閉まっているのを確かめてから、黒板のあたりを調べてみようと踵を返す。

後ろからまたかたりと物が落ちる音がした。

恐る恐る振り返ると、またこちらの足元に向けてあの黒い茶碗が転がってくる。

いやいや、今度はちゃんと戸が閉まっているのを確かめたはずだ。


視線を食器棚に向けると、その戸はなぜかまた半開きになっていた。

こつりと、また下履きのつま先に何かが当たった気がした。

ゆっくりと視線を下に落とす。

そこに落ちていたのは一杯の黒い漆器の茶碗だった。


ばっと食器棚を見つめる。

気が付けば、食器棚の中には整然とあの黒い茶碗だけがいくつもいくつも並んでいた。


またつま先に何かが当たる。


視線を下に落とすと無数の茶碗が床に転がっていた。


食器棚をもう一度見つめる。

その戸は半開きだった。


また、下を見る。

くるぶしのあたりまで茶碗に足が埋もれていた。


後ずさる。

この食器棚は異常だ。

明らかにおかしい。


踵を返してこの教室を出ようとして、目を見開く。

おかしい、こんなに調理台は多くはなかったはずだ。

九つしかなかったはずの調理台。

それが今や、まったく同じに見える調理台が、夕日の赤に照らされて奥へ奥へと永遠と続いていた。


次の瞬間、全ての蛇口から一斉にポタリ、と水滴が垂れた。

ポタリ、ポタリ、ポタリ、ポタリ。

寸分も違わぬ精巧な時計のように、規則正しく同時に水滴が落ちていく。

シンクに水滴が当たるくぐもった音が重なり合ってボワボワとなんとも形容しがたい異様な騒音を掻き立てる。


その中を恐怖に駆られて走り抜ける。

何なんだ、これは。


永遠にも感じられる長い間、走り続けてようやく教室の前にたどり着く。

息を切らしながら黒板に背を預ける。

食器棚のほうを見やるも、永遠に続く調理台の向こうに追いやられて目で捉えることができない。


ほっと一息ついた時、鼻をつんとした腐卵臭が突き刺した。

その悪臭に顔を歪める。

気分を悪くするほどの激臭は、どうやら脇のごみ箱から漂っているようだった。

ゆっくりと中を覗き込む。


口元をおさえ、吐き気を必死にこらえる。

しかし、目が離せなかった。

そこには腐った果実とも腐敗した肉片とも見分けがつかない何かが無造作に捨てられていた。

思わずヒッとひきつった声を上げてしまう。

その何かを突き破って白い鶏卵とおぼしきものが無数に転がり出てきた。

それらがコンッ、コンッ、コンッ、とすさまじい勢いでごみ箱の中を暴れまわる。

やがてそれはひび割れ、中身をまき散らして破裂した。

その内容物はしばらくの間もがき苦しむかのようにジタバタとした後、初めのなんとも言い難い物体と果てて静止した。

また間をおいて再び白い卵が生み出されていく。


どうやら、これが例の音の正体だったようだ。


こんなに怖い目にあって結果がこれじゃ、骨折り損のくたびれ儲けどころの話じゃないな。

ぼんやりとした頭で他人事のような感想を抱く。

あまりにも理解のできない恐怖に、もはや思考を放棄してしまいそうだ。

とにかく、一刻も早くここを出よう。

生まれたての小鹿のように震える足で懸命に家庭科室の扉を目指す。


そのとき、ふと、何かに見られているような気がした。

よせ、よせってば。

理性が冷静に反対するのも聞かずに、動物的本能に支配された肉体は後ろを振り向いてしまう。




あのごみ箱から何かがこちらを覗きこんでいた。




目に見えるわけではない。

音が聞こえるわけでもない。

ただ、直感で理解した。

あの、クチナシの祠にいた何かだ。

あの祠の何かがこちらをじっと見つめている。


一瞬の静寂が漂う。

先ほどまでけたたましい音を立てていた茶碗も蛇口も、息を潜めて静まり返っていた。

窓から見える太陽はもう山際に手をかけていた。

薄暗い教室には濃密な異常の気配が立ち込めている。


恐怖をこらえてゆっくり、ゆっくりと後ずさる。

気づかれませんように、気づかれませんように。

踵が出口の敷居に触れた。


次の瞬間、己のうちからとめどなく湧き上がってくる衝動に身を任せて、全力で走り出した。

背中越しに凄まじい騒音が追いかけてくる。

茶碗が絶え間なく落下し、シンクに異常な早さで水滴が打ち付ける。


そして、あの何かが追いかけてくるのがはっきりと感じ取れた。

薄暗くなった廊下を電灯が照らしていた。

無機質な白色の光が降り注いでいる。

その下を駆け抜ける。

背後であれが近づくにつれ、LED灯が狂ったように点滅を繰り返し始める。

やがて限界を迎えたかのようにそれらは明かりを消して沈黙した。


階段を滑り降りるように下っていく。

昇降口で自分の下駄箱に一心不乱にかじりつく。

中から体育用の外靴をひったくると、上履きをそこら辺に放り投げて履き替える。

上履きでこの田舎の道を走るなんて無茶だとしてもこの履き替えている間がひどく恐ろしかった。

気が急いて前につんのめるかのように走り出す。

校門まで一気呵成(かせい)に駆ける。


楓がようやく一息ついたのは(さび)れた駅前まで来てからだった。

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