第9話 劇場でのキス
“学校の勉強を続けたい”
だけどそんな望みを伝えても、一笑されて終わるだけだろう。舞台上の役者が持つ小道具を見ながら、私は答える。
「短剣」
「短剣?」
「暗い死から、私を守ってくれる剣よ」
レイブンが不可解そうに眉を寄せる。
「死を恐れているのか」
「ええ」何度も死んだのだから。「だけど、屋敷に来てからは、全然。不思議ね、いつだって人が近くにいるせいかしら? アイラやハン、テオや――あなたも」
死の時は、いやもっと言えば城にいるときから、私は一人で過ごしていた。大勢の中で暮らすというのは不思議だったけど、決して嫌ではなかった。
舞台から目を離しレイブンに向けると、伏せられた睫の合間から、緑色の瞳が私を見ているのが分かった。ふと、私は知りたくなった。
「レイブン、あなたこそ何が欲しいの? 持参金はもう手元に渡ったんでしょう。身分も手に入った。他にはなにが欲しいの?」
「俺が欲しいのは、初めから君だけだ」
返事をする間もなく手を引かれ、キスをされる。驚きつつも、抵抗しなかった。
押し返そうとすればできるし、彼はそれに応じるだろう。
だが離れがたい何かを感じて、拒むことができなかった。
封じ込めていた心の一部が、嫌になるほど彼を望んでいる。ヒースには感じなかった男性的な逞しさを、隠そうともせずレイブンはぶつけてくる。
彼の両手は大きいが、決して私を壊すまいとするかのように、優しく頬を包んでいる。
一心に、彼は私を求めていた。
まるで彼が生きるためには、私という存在が、必要不可欠だとでも言うように。
舞台上で役者が台詞を話しているが、もう、劇どころではなかった。
息をするのも忘れるほどの、深く長いキスだった。頭の中で火花がはじけ飛ぶ。なんて奇妙なんだろう。
初めての感覚に頭がおかしくなりそうだ。
ヴィクトリカ、悲鳴を上げて抵抗するのよ! 理性はそう叫んでいた。だけど私はそうしない。
鳥肌が立つ。震えるほど怖いのに、この行為の先にあるであろうものを、知りたくてたまらない。
彼のことが嫌いなはずだった。
だけど今は――? 今は何も考えず、この危険な幸福に身を任せていたかった。
だけどキスは唐突に終わった。残念だと思っている自分にまた驚く。
彼は劇場の一部に目を向けている。額には、脂汗が滲んでいた。
「どうしたの? 冷や汗がすごいわ。体調が悪いなら、医者へ」
レイブンは首を横に振る。
「医者は必要ない。大丈夫だ、気にしないでくれ。少し外すが、ここで待っているんだ」
そう言い残すとさっと、彼は立ち上がり本当に出て行ってしまった。ストーリーが追えなくなってしまった劇に、ぼんやりと目を向ける。
レイブンがどこに行ったのかは、すぐに知れた。
ちょうど向かい側の二階席に、二人の男と一人の女がいる。そこにレイブンが割って入った。
若い公爵が、男と言い合いになっていたようだ。
同伴する女性の顔に見覚えがあった。確かキンバリー・グレイホルムだ。少し前、パーティで顔を合わせたことがあり、挨拶を交わしたから知っていた。地方の貴族の娘だったはずだ。
レイブンは公爵ではない方の男と言い合いになっている。この場に似つかわしくないように思えた。まるで街のゴロツキが、偶然紛れ込んでしまったかのような服装をしている。
二人は言い合い、レイブンは男をカーテンの外に引っ張り出した。一瞬、カーテンの奥がまばゆく光る。グレイホルム嬢が不安そうに立ち上がると、公爵が宥めるように肩を抱いた。
「“レイブンを見てきてくださらないかしら?”」
席の外にいるハンに、彼の国の言葉で話しかける。しかし彼は首を横に振った。
「“いかなるときも奥様の側でお守りするようにというのが、旦那様がお与えになった私の役目ですから”」
「“だったら私を行かせてちょうだい”」
「“ここに留めておくようにとのご命令です”」
いつか思ったことを否定する。レイブンの使用人は、主人の言いつけを守るように、本当に教育が行き届いている。
やがてレイブンが一人、向かいの席のカーテンの奥から現れる。三人はわずかの間会話を交わし、レイブンだけが再びカーテンを揺らし去って行った。
一体、何が起こったって言うの。
疑問を抱えていると、今度はこちらの席にレイブンが戻ってきた。
「一部始終見てたわよ。何をしていたの」
「柄の悪い男が目に入ったから、追い払いに行っただけさ」
直感的に嘘だと思った。ただそれだけなら、そこにいるハンにやらせればいいし、第一レイブンの様子は今も奇妙だ。顔面は蒼白だし、血走った目は、未だグレイホルム嬢を見つめている。例の、猛禽類を思わせるような、鋭い視線で。
重ねて問いただそうとした時、目の前に、一通の手紙が差し出された。
「パーティの招待状だ。行くかい?」
それはポーリーナとヒースの婚約披露パーティへと誘う招待状だった。