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第2話 救済

 レイズナーの体に包まれていると、今まで感じたことのなかったような安堵と幸福を覚えた。優しく触れる手を、どうして今まで欲しがらなかったのか分からない。


 彼をもっと感じていたかったけれど、無情にも馬車は屋敷に着き、そしてもう一つ、解決しなくてはならないことがあるということを、私は思い出していた。

 話は明日、と私は言い、早々に休むフリをした。レイズナーに疑った様子はない。

 

 深夜になって、誰もが寝静まったと思われた頃、見張っていた窓の外に、明かりを見つける。


 かつての世界でハンを初めて見つけた日以前にも、アイラが彼に会っていてよかった。


 私は静かに部屋を出る。 

 

 


 馬屋の扉を開け放つと、やはり二人がそこにいた。

 

「アイラ! ハン!」

「……奥様?」


 アイラが振り返り、驚きつつもお辞儀をした。


「初めまして、わたくし、メイドのアイラと申します」

「知っているわ。そちらの男性のことも、よく知っている。……ハンね?」


 ハンを見ると、彼もまた、驚愕のまま私を見る。どうやって言おうと考え、じわり、と手に汗が滲んだ。


 ハンが危害を加える人間だと知れば、レイズナーは彼をまた殺すかもしれない。ハンは自分の恨みがあってレイズナーを殺すのではない。だから、説得すれば思い直してくれるはずだ。


「ハン、聞いて。“私は、あなたが暗殺のために雇われたと知っているわ”」


 彼の国の言葉でそう言った瞬間、その漆黒の目が見開かれ、古い藁の中に隠していたらしいナイフを取り出した。

 悲鳴を上げようとするアイラの口を慌てて塞いだのは、レイズナーがここまでやってきてしまうかもしれないと思ったからだ。


 アイラの口を手で覆った私を奇妙に思ったのか、ハンはナイフを握ったものの動く気配はない。アイラがもう叫ばないと分かったところで手を離し、ハンに向き直った。


「“私はあなたを逃がすわ。レイズナーを殺さずに、この屋敷から出て行きなさい”」

「“そうはいかない”」


 ハンはナイフを握り直すと、素早い動きでアイラを引き寄せると、その喉に刃を当てた。


「何をするの!」


 しかしハンの目は、私の背後に向けられている。顔を向け、自分の浅はかさを後悔した。


「俺の屋敷で、騒ぎは困る」


 見ると、レイズナーが今にも魔法を放ちそうな勢いで手をハンに向けて構えていた。


 彼の鋭い洞察が、私の違和感を見逃すはずがなかったのだ。


「ヴィクトリカ、君の挙動がおかしかったから、見張っていた。時が戻ると大それたことを言い出した君が、大人しく眠っているとは思えない」

 

 私に厳しい目が向く。

 ハンは動揺し叫んだ。


「“動けばアイラを殺す!”」

「レイズナーだめよ!」


 私もレイズナーを止める。

 もしハンを殺せば、アイラの心に癒えない傷を作ってしまうことになる。

 

「目的は金か」


 レイズナーは手を下ろさない。


「……遊牧民の間で諍いが起こり、土地を奪われたと聞いたことがある。買い戻す金のため、俺を殺そうとしているのか?」


 ハンは悔しそうに歯を食いしばった。


「土地、家族、敵に盗られた。

 “金を稼ぐためにこの国に来たが、買い戻す金をやるから、レイブンを殺すように言われたんだ”」


 彼の言葉を通訳すると、レイズナーは眉を顰めた。


「誰にだ?」


 ハンは、たった一人の男の名を告げる。


「ヒース・グリフィス」


「あのくそ野郎」アイラとレイズナーが、ほぼ同時に、そう罵った。


 私に、そこまでの驚きはなかった。

 頭のどこかでは、気がついていたように思う。ポーリーナが突然敵意を向け始めたのは、ヒースと婚約してからなのだから。

 私の心には、今まで抱いたことのないどす黒い感情が沸き立った。ヒースを好きだと思っていた自分を、呪ってしまいたかった。


 それでもレイズナーは、敵意を失いはしなかった。


「こうして俺に露呈した以上、殺害が上手く行くと思うなよ。貴様を葬り去ることくらい、蝿を叩き潰すより造作もないことだ」


 その瞬間、アイラがナイフを首に当てられながらもレイズナーからハンを隠すように両手を広げた。


「アイラ、その男を庇うのか?」


 レイズナーの目が、厳しくアイラを射貫いた。


「彼を愛しているの!」

「出会ったばかりだろう」

「愛に時間は関係ないわ」


 アイラが微笑んだ瞬間、ハンは魂が抜けたようにその場に崩れ落ちた。レイズナーが魔法を使ったのかと思ったが、そうではない。ハンは両手を顔で覆って、大声で泣き始めた。

 ナイフは地面に捨てられ、もう拾い上げる気さえなさそうだ。アイラはその体を抱きしめた。


 私は、気がついた。

 ハンもまた、アイラを本気で愛してしまったのだと。


「ハンを……彼を攻撃してはいけないわ」


 ゆっくりとレイズナーの腕に触れるが、ハンにまっすぐ向けられたそれは、びくりともしなかった。未だレイズナーの眼光は、鋭くハンを見つめていた。


「全く理解できない。ヴィクトリカ、君までもそいつの味方か? 今までの話はすべて嘘で、その男と同じ目的なのか?」

「いいえ、私はあなたの味方よ。そして、誰もが幸せになる世界で生きていたい」


 静かに、本当に静かに、レイズナーの視線が私に向いた。何もかもを、悟った深い瞳のように感じた。

 低い声が、馬屋に響く。


「俺は以前、この男を殺したのか?」


 勘のいい人だった。

 同時に気がついたのは、それは彼が、私を信じた末の言葉だということだ。


「ええ。あなたはハンを殺して、私たちの親友のアイラを傷つけたわ」


 アイラの顔は私たちの会話の意味が分からずに困惑気味ではあったものの、その体は明確にハンを守ろうとする意思を示していた。

 レイズナーはしばし、アイラを見つめ、やがて諦めたかのように手を下ろした。


「……おい貴様。金ならくれてやる。ヒース・グリフィスの倍は出そう。言え。いくら積まれた?」

 

 ハンが金額を告げると、レイズナーは頷いた。とてもじゃないけどぽんとだせるほど安くはない。思わず尋ねてしまう。


「そんなお金、あるの?」

「持参金がある。ヴィクトリカに生活の苦労はさせない。俺にも蓄えがあるから――。もちろん、ヴィクトリカさえよければだが」

「いいわ。もちろんよ! 全額あげるわ!」

 

 それは、レイズナーが結婚のひとつの目的であった金を手放すということだ。ハンを殺すことなど容易いのに、私の言葉を聞き入れたということでもあった。


 即座何度も頷いた。

 レイズナーはハンに言う。 


「すぐに用意させる。受け取り次第失せろ。グリフィスがお前を見つけられないくらい遠くへ。俺がお前を追えなくなるほどの果てまで。そして、二度と顔を見せるな。それまでは、この馬屋が開かないよう、外から魔法をかけておく」


 それから、うずくまったままのアイラに声をかけた。


「アイラ! 屋敷へ戻るぞ」


 だがアイラは首を横に振る。そこには静かな決意が表れているかのようだった。


「ごめんなさい、レイズナー。私は彼といるよ。それに……もうここでは働けない」


 アイラの目は、真剣にレイズナーを見つめていた。


「お前の首元にナイフを突きつけた男だぞ」

「でも刺さなかったわ」

「十年以上付き合いのある俺から去り、そいつと逃げるというのか」

「彼が好きなの。一人にできない」

「出て行くのか」

「うん。彼の故郷に一緒に行く」

「……苦労をするぞ」

「かまわないわ」


 そう言って、今度は私に目を向けた。


「奥様、ごめんなさい。あなたと過ごすのを、楽しみにしていたのは本当ですわ」


 胸に、込みあげたのが別れの悲しみか、友人の幸せを願う喜びかは分からなかった。だけど、考える前に、私は彼女を抱きしめた。


「私も、あなたと過ごすのを、楽しみにしていたわ――逃げるのよ。誰にも見つけられないくらい遠い場所まで。そして絶対に、幸せになるの」


 どんな時でも、アイラは私に寄り添ってくれた。花を飾ってくれたし、レイズナーと私の喧嘩の間に入ってくれた。あの思い出を共有することはできないけれど、彼女は大切な友達だった。

 私の心が、どれほど伝わったかは分からないけれど、アイラは幸福そうに微笑んだ。

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