第3話 私は心を固く閉ざす
朝の静けさを打ち破ったのは、ノックもせずに部屋に入ってきた人間だった。
レイブンではないのは、その背格好から明らかだ。
黒髪をきっちり結んだメイド服を来た女性は、無表情にこちらを一瞥する。
「アイラと申します。旦那様から身の回りを仰せつかって参りました、奥様」
感情の伴わない声は、いかに歓迎されていないか匂わせているようだ。私は身を引き締めた。
「奥様ですって?」
「はい奥様」
「それ、やめてくださらない?」
「では何とおよび申し上げたらよろしいでしょうか。奥様は奥様ですわ」
あまりにも毅然としたアイラの態度に、私は昨日まで自分がこの国の王女だったということを危うく忘れてしまいそうになった。
正直言って、使用人にこんな風に言い返されたのは初めてだった。城にいるメイドたちは、私がそうだと言う前に、すべてことを終えていたから。レイブンは使用人の教育を怠っているのだろうか。
「名前とか、王女様とか、いろいろあると思うわ」
眉一つ動かさない彼女では、自分がひどく間違ったことを言っているのではないかという気になってくる。
「ですが、ただの使用人であるわたくしが、身分が上の方の名を呼ぶのは恐れ多いですわ。それに、あなたさまはもう王女ではございません」
あっけらかんとした口調に、言い返す言葉が出てこなかった。
朝から疲れ切った私に、アイラは言う。
「さ、奥様。朝食のご用意がございます。食堂で? 部屋で?」
「レイブンはどうしているの」
アイラはぎこちなく微笑む。
「奥様の姓もレイブンでしょう? ……旦那様は早くに出かけていきましたよ」
やっぱりね。
と私は思った。
結婚式の翌日にもう姿がないなんて、どう考えても愛する妻に取る行動じゃない。安堵する一方で、小指の爪よりも小さな失望を覚えたが、私はそれに、気がつかないふりをした。
朝食は不味いとさえ思え、一口食べて下げさせた。
屋敷をアイラに案内してもらったが、大きくもないようですぐに終わった。庭に小屋を見つけ、そちらに行きたいと言ったところ、あれは朽ち果てた馬屋で危ないからと断られた。
馬が居るわけではないようで、残念に感じたのは確かだ。女らしくなく、加えて言えば王女らしくもないから周囲には隠していたけど、私は乗馬が好きだったから。
レイブンが戻ったのは、使用人の紹介も一通りされ、手持ち無沙汰で一人きりのティータイムを過ごしていた頃だった。
「今朝はすまなかった。火急の用があってね――君のお兄様に呼び出され城に行っていたんだ」
気にしてもいない朝食にいなかったことを律儀に謝ってくる。奇妙なところで生真面目で、調子が狂う。
ふと、背後にいる彼の部下が大荷物を抱えているのが目に入った。
「君のだ」
「私の、ですって?」
どさり、と床に置かれた荷物は、すべて城に置いてきてしまった服や化粧道具だった。
「入り用だと思って」
「あ、あなたは私の部屋のクローゼットの中を漁ったって言うの?」
恐ろしいことに下着まである。怒りで震えるのが自分でも分かった。どうやってこの低俗な男から、自分の誇りを守ればいいのだろう。
「それはさぞ楽しかったでしょうね」
「ああ、類いまれなる娯楽だった」
続けて文句を言おうとしたところ、目の前に大きな花束が差し出された。それはそれは見事な。
「我が妻に」
甘い匂いにくらくらする。
ほんのわずかの間だけ、私の顔は綻んでいたに違いない。目の前のレイブンの顔が満足げ笑ったのだから。
正直、心が弾んだことは事実だ。
だけど喜んでいると彼に知られたくなかった。上がりそうになる口角を下げ、私は言った。
「花なんていらないわ。私が欲しいのは別のものよ」
「例えば?」
「あなたには与えられないもの」
先を促すように、彼が首を曲げたので言ってやる。
「自由な人生。自分で、何もかも決められる生き方。好きな勉強をして、心から愛する人と結婚をすること」
なぜだか、レイブンがこわばった表情を見せた。
だがそれは一瞬のことで、すぐにもとの冷笑が口元に戻る。
別にレイブンと結婚したから自由がなくなったのだと被害的になるつもりはなかった。
大学へ行きたいと言った時、お兄様には一笑して終わられた。私の人生は生まれたときから決まっている。だけどヒースは少なくともお兄様へ私の望みを通すよう、話してみると言ってくれた。結果は変わりはしなかったが。
「確かに、俺には無理なことだ」
心に、果てしのないさざ波が沸き立った。まさか彼は、私の言葉に傷ついたとでも言うのだろうか。すぐにでも謝りたい衝動に駆られるが、レイブンは私の前から花束を下げると、側にいたアイラにあげていた。
アイラは嬉しそうに笑い、私をチラリと横目で見る。
どことなく、親密そうな二人。侮辱されたように感じる。
レイブンには愛人が数人いるという噂を思い出した。
気にしたら負けだ。この人たちの何もかもを。
レイブンはいずれ、私が彼を愛するようになると言ったけど、それは永遠にあり得ない。
レイブンは私に向き直ると、一歩詰め寄った。その表情は凍り付いているかのように恐ろしい。宮殿で時折目が合う彼が浮かべていたものと同じ顔だ。
怒っているの? まさか、贈り物を断ったから?
途端、居心地が悪くなり、一歩下がる。だが彼の目を間近で見てしまった。
そして気がつく。
浮かんでいるのは怒りではない。男が欲しい女に向ける、あの独特の熱のこもった瞳だ。だけど彼が私にこんな目をするのはおかしい。愛なんてないんだから。
それとも魔法使い達は、自分の感情さえも魔法で変えてしまえるのだろうか。
彼の手が私に向かって伸ばされ、結婚式での口づけが蘇る。またあんなキスをされたら、私の頭はおかしくなってしまうかもしれない。思わず叫んだ。
「無理強いはしないと言ったわ!」
やや遅れて、彼の声が聞こえた。
「一生は無理だと言ったんだ」
「明日でもないと言ったわ」
「言ったのは君だ。俺ではない」
レイブンの目が私の体を見透かすように上から下までなぞり、そして再び目を合わせた。触れられたわけでもない、それだけの行為に、なぜかぞくりと鳥肌が立った。
動揺などするもんか。私はそんな、初心でもか弱くもない、誇り高き第二王女だもの。
目の前の男をなんとかやり込めてやらなくては気が済まない。
何かされたらひっぱたいてやろうと思った時、風が撫でたときよりもわずかな揺れを髪に感じた。
次にはレイブンの指には白い綿毛のようなものが掴まれていた。
「髪に埃が着いていた。古い屋敷だ、越して間もないし、まだ掃除が行き届いていなかったか。どれ……」
彼が指をぱちりと鳴らすと、屋敷中に風が通り抜け、一段と明るくなったように思えた。腐っても一流の魔法使いだ。家の埃を取り除くことなんて簡単なんだろう。勘違いで顔の赤くなった私に、彼は冗談めいてお辞儀をし、片手を差し出した。
「夕食は一緒に取りましょう、ヴィクトリカ。
俺も今日は屋敷にいる。城へ行って、ついでに仕事は終えてきたからな。これからの二人について、ゆっくり話そうじゃないか」
「朝も昼もいただいたけれど、一流とは言いがたいわ」
実際、ほとんど手を付けなかった。
当てつけ半分でそう言うと、彼は微かに笑う。
「では料理長に精進するよう伝えておこう」
淑女の礼儀として、彼の手を取った。
できることなら彼を殺して、大好きなルイサお姉様のところに逃げ去りたい。きっとそこでなら、私は穏やかにいられるだろう。理由はよく分からないが、彼は危険だと、私の本能が警鐘を鳴らしている。だから一刻も早く離れなくちゃ。
そこまで考えて、ひらめいた。
そうよ、ルイサお姉様に手紙を書けばいいんだわ。
急な結婚のことを、外国にいるお姉様はまだ知らされていないかもしれない。あのお姉様だもの。絶対に助けになってくれるはず。
機会は絶対に訪れる。それまで、自分を守っていればいい。
そう心に決め、夕食の間中、レイブンに話しかけられてもそっけない返事を繰り返した。お風呂と寝間着へ着替える手伝いをアイラが申し出たけれど、それも断った。誰にも心を許さずに、固く閉ざしておこう。
それが唯一、私が私を見失わずに済む方法だ。