第3話 ポーリーナは面食らう
アイラと部屋に二人きりになったところで、彼女が下がらず、まだ何か言いたげに私を見ていることに気がついた。
「奥様。わたくし、実はレイズナー・レイブンを子供の頃から知っているんです。幼なじみで、働き口がないから雇ってもらっていて」
知っていることだった。
「彼の性格なら熟知しています。今までの交友関係も、よく知っているつもりです」
だからなんだろう。
まさか自分も愛人だなんて言い出さないだろか。
目を遣ると、思いがけず真剣な瞳がそこにあった。
アイラは、遠慮がちに、だがきっぱりと言った。
「その上で申し上げます。旦那様に愛人は一人もおりません。愛人が数人いるだなんて、旦那様のことが気にくわない人たちが、流している噂ですよ。ほとんどは、結婚を断られたご令嬢達のやっかみです」
「だけど……」
「確かに旦那様は扱いにくい人種です。大切な人にほど、真実を遠ざける。だけど、優しい人なんですわ」
そして以前と同じことを、彼女は言った。
「もし奥様が、この結婚に希望を見いだしているのなら、本当の旦那様をご自分の目で確かめてくださいまし」
*
本当の彼、というけれどどこにいるというのだろう。前回は、度々それらしきものが顔を出したような気がしていたけれど、結局は全部嘘だった。
「昨日の夜、渡しそびれてしまったんだが、他にもプレゼントがあるんだ」
朝食の席で、彼はテーブルの隅に置かれた山積みの箱を指さした。中身なら知っているから、無感動に目をやる。
「ヴィクトリカ、思っていたんだが、ちょうど馬番も雇ったことだし、馬を買いに行かないか」
それは、何度聞いても心惹かれる提案だった。昨日、アイラにも言われたし、ほんの少しだけなら心を緩めてもいいかもしれない。
「ええ。馬のことは好きだもの」あなたのことは嫌いでも。
「では休戦協定といこう」
レイズナーは、耐えきれなかったかのようにフォークをテーブルの上に放り投げ、そして長いため息を吐いた。
「昨日の俺の態度の謝罪を改めてさせてくれ。……すまなかった。
たった一人の妻に、どうしたら振り向いてもらえるか、昨日の晩はずっとそればかり考えていた。思えば、君は当然俺を知らないし、俺は君のことをあまり知らないのかもしれない。互いに気楽にいこう」
「あら、あなたはいつも私を見ていたんじゃないの?」
「……今だってそうだ。君の目や眉や口がどう動くのか、いつだって観察している」
彼の視線に絡め取られ、顔が赤くなるのを感じ、私は思わず目を反らした。
世間知らずのヴィクトリカ。簡単に男に騙されて。
大丈夫、この会話は、どの道長くは続かない。
記憶違いでなければ、今日、この後すぐに彼女の襲来がある。
前回と同じ時間にアイラはやってきて、告げた。
「ポーリーナ王女がお見えです」
レイズナーがポーリーナにあしらわれ出て行った後で、ソファーに揃って座る。
「暮らしは――」
「愛人のことを忠告しにきたのなら、アイラは彼の愛人ではないわよ」
ポーリーナは驚き紅茶を取りこぼす。
「ど、どうしてそれを?」
「婚約パーティのご招待はお受けするわ。体調次第だけど、このところ風邪気味で」
よし、これでパーティを体調不良で欠席する布石は打てたわ。
もう用事はないけれど、目を白黒させているポーリーナが少し可哀想で、私は尋ねた。
「ヒースはあなたに優しくしてくれる? 彼と婚約するなんてびっくりしたわ。いつから、私が彼と結婚しないと知っていたの?」
ポーリーナの顔面は蒼白だ。しまった、と私は思った。全くそんなつもりはないけれど、これでは当てこすりみたいだ。
ヒースと婚約していたことが、今は遠く感じられるのに。
「ヴィクトリカお姉様の結婚式の、前日よ」
「私は当日だったから、少しはましね」
ポーリーナの顔は真っ赤になる。
「よくもそんなことが言えたわね! ヒースは言っていたわ。お姉様から婚約を取り下げるように言ってきたって!」
そうして彼女は、持っていたカップの中身を私に向かってぶちまけた。
紅茶が、私にかかる。
「ヴィクトリカ!」
レイズナーが乱雑に部屋に駆け込んできた。
彼が私に触れると、瞬く間に紅茶は蒸発する。
「火傷はないか!」
服を脱がしかねない勢いで彼は私の体を点検する。慌てて否定した。
「だ、大丈夫よ。そんなに熱くなかったから」
ポーリーナが立ち上がり、侮蔑のまなざしをレイズナーに向けた。
「やっぱり盗み聞きしていたのね。さすが最下層生まれの野良犬だわ」
その言葉に、私は苛立った。だってポーリーナが、彼の何を知っているというの。
「撤回しなさいポーリーナ! ひどい侮辱だわ。彼は立派よ。じゃなきゃ宮廷魔法使いになれないわ」
「あらごめんなさい。そんなに怒るなんて。二人はよくお似合いよ?」
ふふ、とおかしそうに笑った後でポーリーナはさっと出て行ってしまった。
彼女が帰る音を聞きながら、レイズナーを盗み見る。だがまたしても失敗した。
彼が私を見て、躊躇いがちに微笑んでいたからだ。
「君が庇ってくれるとは思わなかった」
「ええ、私も思わなかったわ」
「ありがとう、嬉しかったよ」
照れくさそうに言うレイズナーの顔を、ああまったく、見なきゃ良いのに、私は彼の笑みをみてしまう。
そしてまた、心臓が暴れ出した。この胸の高鳴りは、不安で、だけどなんて心地よくて、悲しくなるほど幸せなんだろう。
そのまま彼は私の向かいに腰掛け、手に持っていた紙を差し出してきた。
「ポーリーナとグリフィスの婚約パーティの招待状だ。来る時に渡されてね。行くかい」
驚いてそれを見た。
記憶の中と全く同じで、白地に、見事な装飾が施された招待状だった。
前は彼をこれを、劇場で渡してきたはずだ。
……ということは、以前の彼はずっとこの招待状を持ち歩いていたということだ。
おそらくは、私へ手渡すタイミングを伺うために。
ヒースが私の元婚約者で、ポーリーナが私の妹だから、私が傷つくと思ったんだ。
私はまた、分からなくなった。
彼の見せる優しさは本物に見える。だけど私に、愛人の存在を隠している。
彼の笑顔を見ていると、固く閉ざしていた心が、解かれそうになってしまう。心は引き裂かれそうだった。
「ええ。だけどこのところ風邪気味で、週末までに治るか分からないわ」
やっとそれだけ答えた。




