記憶
「――具合、どうだ?」
勢いよく、しかし余計な音を立てることなく開かれた扉。
そうして姿を見せたのは、橘が予想した通りの人物だった。
「……ああ、木村か。よく来たな。こんなところまで」
「たまたま近くを通りかかったもんでね。面会謝絶が解かれた後でよかったよ」
ただベッドに全身を預け続ける退屈な時間。
書類仕事すら任せることはできないという判断の下、橘には絶対の安静がいいわ正されていた。
怪物の奇襲により受けた傷は未だに癒えないまま。
再起不能の可能性があった事を知らされている橘としては、ただ現状を受け入れるしかなかった。
「でも……本当、ヤバいんだな。聞いてはいたけど」
「大したことはない。周りの連中が大げさなだけだ」
「何言ってるんだよ。ついこの前まで面会謝絶だったんだろ?」
――入院していたのはお前もだがな。
本人にもその記憶は残っている。
しかし、あえて橘はその事を言わなかった。木村が言おうとしなかったからだ。
「でもびっくりしたよ。久し振りに会ったと思ったらいきなり入院なんて。お前、どんなヤバいところに努めてるんだよ?」
「いや、職場は関係ない。この傷は……ただの、不慮の事故によるものだ」
「そっちの方がやばくないか? 辛いことがあったら遠慮なく言えよ? できる限りのことはしてやるから」
「……ああ、いざという時は頼らせてもらう」
しかし木村の理由は、事実と異なる内容で処理されていた。
木村の記憶には既に然るべき処理が施されている。
当然、彼の妻子にも同様の対応がとられていた。
対象は、戦いに関する全て。信徒の存在は勿論、魔法を見たという事実も木村は忘れ去ってしまった。
あの夜、校舎で繰り広げられた戦いも木村は何一つとして記憶していない。
信徒による干渉だけは、日常に起こりうる出来事に置き換えられていた。
現段階で、そのことによるトラブルも起きていない。
木村とその周囲への影響もごく僅か。すぐに忘れ去られる程度の違和感。
それが橘にとってせめてもの救いだった。
「本当、ちゃんと言えよ? 絶対だからな?」
「そんなに信用がないか。私は」
「昔からあれもこれもって仕事を抱え込んでただろ。忘れてないからな」
「いつの話を持ち出しとるんだ、貴様は……」
「じゃあ、少しは変わったって? とてもそんな風には見えないけどな」
――それでいい。
魔力を持たない木村にとって、魔法の戦いはあまりに危険過ぎるものなのだから。
簡単な業務にさえ、魔力を持たない外部の人間を招かない理由も同じだった。
情報漏洩のリスクを背負うことすら霞む致命的な問題点。
閉じた空間で全く異なる人物の魔力をかわるがわる浴びることになる。
同じ教室で授業を受ける程度では発生しない問題。
常に魔力があふれただよう組織の拠点内ではそれが起きてしまう。
「変わりはするとも。あれから何年たったと思っている」
「そりゃ悪化も変わったことにはなるよ。良い変化とは言えないけど」
「……よくそこまで言い切れるな」
木村のことで橘がもっとも危惧していたのもそれだった。
短時間ではあるものの、魔力の嵐の中に居続けた。
組織もその影響が全くないとは言い切れなかったのである。
「どうせ仕事が回って来なくて暇してたんだろ。そのくらい分かるよ。俺でも」
「……誰かに聞いてないだろうな。貴様」
しかし木村に、おかしな様子は何もなかった。
これまで行われた検査でも、そのような結果は一度も出ていない。
気を抜くには早いが、安心するには十分すぎる情報だった。
「ないない。さすがに今の交友範囲も把握してないって。誰か喋りそうな心当たりでもいるとか?」
「いや…………」
明確に影響しているとしたら、一つ。
戦いに関する記憶を消し去ったことで、木村は桐葉についても忘れてしまっていた。
「……神堂くらいか。いるとしたら」
「マジ? お前あいつの連絡先分かるの? あまりに繋がらなくて失踪説すら出てたのに」
「あの後も色々と縁があってな。それでも滅多に会わん」
桐葉と木村が顔を合わせたのは、何かしらの形で戦いに関係があると言える状況ばかり。
そもそも、信徒に強要されての状況。
それがなかったことになっている今、木村と桐葉の面識も消えてしまった。
「あいつ、最近どうしてる? 昔から謎の多いやつだったけど」
「海外に呼ばれることも多いそうだ。……少し前まで、この町にいたんだがな」
「ニアミスしちゃったかー……」
桐葉もそれを、一つの文句もなく受け入れていた。
誰かに何かを言われるまでもなく、『仕方ないですね』と受け入れていた。
(……変なところばかりすぐに慣れおって)
「あ、そうだ。神堂は知ってるのか? 今のお前の状況」
「ああ、知らされたそうだ。『早く治せ』と気遣いの籠ったメッセージを送られた」
「容赦ないな……」
「いつものことだ」
――それも、いつものこと。この戦いの中では珍しくもない。
気に病む必要はない。
神堂がそうしているように、すぐに流すべきことだと橘も頭では理解していた。
「……上手くいかないものだな」
「おっ、仕事の愚痴? それなら聞くよ。いくらでも。話し相手も大していないだろ?」
「……余計なお世話だ」
木村のように、付き合いの短い相手だったからこその反応だったということも。
「えーっと、エレベーターエレベーター……」
橘との会話が弾んでしまったために、予定より遅れてしまった。
(……あれならすぐに治るだろうな。きっと)
次に会うという約束もすぐに果たされるだろう。
そう感じる程度には橘の顔色もよかった。
「……どっちだったっけなぁ……」
むしろ、顔色が悪くなったのは木村の方。
慣れない病院の中、向かうべき方向すら分からない。
(誰か通ればなぁ……って、いい年した大人のすることじゃないけど……)
「……あの、だいじょうぶですか?」
――そこへ声をかけてきたのは、覚えのない少年だった。
「ど、どちらさま? どこかであったっけ?」
「違います、違います。ただ……困ってるみたいでしたから」
「……バレちゃった?」
背後に立っていたのは、中学生くらいの少年。
何度見ても、やはりひっかかるようなものはない。
しかし少年は、木村が何かを言う前に彼の案内を買って出た。
探していたエレベーターは、すぐそこだった。
「ここ、入り組んでいて迷いやすいでしょ? 俺もしばらく大変だったんですよ」
「……じゃあ、君も誰かのお見舞いで?」
「はい、お世話になっている人が。と言っても、すっかり元気になってたんですけど」
不思議な少年だと、木村は感じた。
どうしても、初めて会ったようには思えなかった。
ただ単に話しやすい相手と言うには、妙な親しみを感じる少年。
しかし、これまでに会った事はない。
記憶力はいい方だと自負している木村には、その確信があった。
だからこそ、最後まで少年が何者なのか不思議で仕方がなかった。
「――あとは、そこを真っ直ぐ行ってもらえば。……お知り合いの方、早くよくなるといいですね」
「あ、ああ……」
――そして、気付いた時にはもう、エントランスの前だった。
橘の事まで話してしまったが、やはり少年の存在は記憶のどこにもない。
自らが引っ掛かりを覚える理由も、分からないまま。
「なあ、君は……」
「?」
「……ううん、なんでもない。ありがとう」
――縁があれば、きっとどこかでまた会える。
そう思って、木村はあえてそれ以上なにも訊かなかった。
「――お礼を言わなきゃいけないのは俺達の方ですよ。木村さん」
少年に何かを言われたような気はしたが、雑踏に紛れて何を言われたのかまでは分からなかった。




