ヴィルキス
「リジルちゃん、気をつけて行ってくるのよ。何かあったらすぐにノアルに言いなさいね。アレク、運転しっかりね」
ヴィルキスに出発する当日、辺境伯夫人は息子二人へくれぐれもと再三注意をして送り出そうとしていた。当の2人は繰り返される注意事項に辟易している。
「リジルさん。帰ってきたらまた一緒に仕事しましょう」
「無理するなよ。しっかり治してすぐ帰ってきてくれ」
ルチアとジェイドが職場を代表して見送りに来てくれた。二人の言葉にリジルは頷く。微熱は続いていたが、だるさは少し軽くなっていた。
車の後ろに積まれた簡易ベッドの上に横になって、リジルは二人に笑顔を向けた。
「すぐ、帰ってきます」
2泊3日の行程で、車は滑るように走っていった。
薬のせいか、リジルは熱発からここ数日、寝たり起きたりの繰り返しで、すっかり時間の感覚を失ってしまっていた。起きるたびに横に座っているノアルに時間を尋ねる始末だ。
「リジル、時間は気にしなくていい。何をそんなに焦っているんだ?」
「あ、焦っているわけではないです。ただ、寝ていると朝も昼も夜も、よく分からなくて。何か、怖くて」
何が怖いのか分からない。そんな小さな不安がリジルにはあった。薬や日記療法のおかげなのか、悪夢を見ることは少なくなった。それでも、心の奥底にある不安。それを拭うことは、今のリジルにはできなかった。
ノアルはそっとリジルの頭を撫でる。それが心地よくて、リジルは目を閉じた。しばらくすると寝息を立て始める。
「リジルちゃん、寝た?」
「ああ」
運転中のアレクはバックミラー越しにノアルとリジルをちらりと見る。
「リジルちゃん、お兄さんを亡くしたの1年前って言ってたわよね。それからノアルのいる病院に来るまで、一人だったんでしょ。私は経験したことないけれど、それは想像以上に孤独だったんじゃないかしら。でも、多分その感情を彼女は分かっていないのだと思うわ」
「孤独…」
『昔の夢です。父と母が家に帰ったら冷たくなっていて、しがみついて泣いていたら、知らない男につかまって、連れていかれそうになるところを兄が助けてくれるんですけど、そのあと、兄も死んで。死んだ家族に言われるんです。助けてくれって。お前もこっちにこいって。そのうち、体を引きずられそうになって、もがくけど、もがくたびに抜け出せなくて、息もできなくなりそうになるところでいつも目が覚める…』
ノアルは先日、リジルが話していた悪夢のことを思い出していた。
恐怖と、不安と、孤独。
3年、諜報のためユダーにいたが、他の住民も土気のない顔をしていた。それは、出会った頃のリジルも同じで。何の未来も、希望もない、濁った眼をしていた。すべての感情を捨て去ったような表情で、ただ、息をしているだけ。
《戦場は、心も凍らせる》
今は亡き祖父が、その言葉を口にしたときは何のことか分からなかったが、大人になり、戦争を見た今なら分かる。
「誰でも孤独を持っているわ。想像でしかないけれど、全てを亡くしたリジルちゃんの心には大きな穴が開いちゃってるんじゃないかしら」
旅程は順調に進み、3日目の夕方、一行はヴィーネ第一の都市、ヴィルキスの第一病院に到着した。
「大きい…」
ユダーの病院しか知らないリジルは広大な敷地に建つ建物を見て驚く。
「ここが王家直轄だからでもあるんだが」
リジルが車からストレッチャーに乗せられる作業をされていると、隣で長身の男がノアルの肩を叩いた。
「ノアル!」
「ブランドン」
「お前が来るっていうから、宿直代わってもらったんだよ。君がリジル?私はブランドン。ノアルの親友だ。よろしくね」
「誰が親友だ」
「こいつ照れてやんの」
頭をわしわしかき回されて迷惑そうなノアルに、屈託ない笑顔でブランドンは言った。その様子にリジルも自然とほほ笑む。
「お世話になります」
「任せなさい。カワイ子ちゃんのためなら私はどんな犠牲もいとわないよ」
「リジル、気をつけろ。ブランドンは正真正銘、天性のタラシだ」
病室に案内され、そのままベッドに移動。注意事項などを聞いて、今日は終わることになった。2階の角部屋で窓の外を眺めていると、ノアルとアレクが病室に戻ってきた。
「リジルちゃん。お腹すいたでしょ。食堂寄って夕食もらってきたわ」
「すまんな。食事は明日から出るらしい」
「そこまで空いてませんから大丈夫です」
「リジルちゃん。食事は大事よぉ。栄養摂らないと、エルダのお化けにやられちゃうんだから」
「エルダさんのお化けですか?」
「そうよぉ。あの子ったら、昔、忙しすぎて簡易の携帯食ばっかりだった私に、栄養不足はお肌と健康の大敵ですって、超クソ不味いオリジナルジュースを私に持ってきたのよ。あの後私1日死んでたわ」
困った子よねえとため息をつきながら言うアレクに、リジルはクスクス笑う。
「エルダさんはいつも、みんなのことを考えてくれて。素敵なお姉さんですね」
「まあ、面倒見がいいのは認めるけどねえ。さ、食べちゃいましょ」
初めて飲むスープにリジルは目を丸くした。
「これはなんていうスープですか?」
「これ?魚介のスープよ。魚のうまみが詰まってて美味しいでしょ」
ユダーは内陸だったため、食べても川魚しかなく、リジルは美味しいスープをすっかり食べてしまった。それを見ていたアレクは笑顔でお替りを足しす。
「食欲が出ることはいいことね。ヴィルキスは海の幸も山の幸も本当に美味しいから。退院したら、美味しいもの食べに行きましょうね」
美味しいものを補給して、薬を飲むと、リジルはウトウトとし始めた。微熱もまだ続いていて、明日は一日検査の予定だ。旅の疲れもあってか、その夜は夢も見ずに寝入った。
翌日、アレクは城に用事があると、早朝に発っていった。ノアルは今日から仕事だと不在である。
「先生、結局有休しっかり取れなかったのよね…」
自分のためになぜここまでしてくれるのか、リジルには分からなかった。むしろ足手まといになっている。そう思うと、リジルの心は暗くなるのだった。
「リジル、午後から急遽、手術をすることになった」
午前の検査が全て終わり、部屋でぼんやりしていたら、ノアルがやってきてそう告げた。
「どこか悪いところがありましたか?」
「これを見てくれ。内臓が傷ついて、炎症しているのが見つかったんだ」
レントゲンをかざし、こことここ。と指をさしていく。
「執刀はブラントンだから安心してい良い」
「先生は?」
「医者は身内の手術には執刀しないんだ」
「私は、身内、ですか?」
「だな。患者であり、今はジルベール家の娘、だろ?」
結局、リジルの嘆願により、ノアルは執刀こそしないものの、そばで見守ることになった。
「頼られてるなぁ。よ、この色男」
「お前にだけは言われたくないセリフだな。ブランドン、頼むな」
「おう、任せとけ」
手術は成功し、リジルは 1か月の入院生活の後、ヴィルキスにあるジルベール家の別邸へと療養のため、行くこととなった。
「ブランドン先生、看護師の皆さん、ありがとうございました」
「回復して良かったな。しばらくこっちにいるんだろ?遊びに行くから」
世話になった面々に見送られて、リジルは病院を後にした。