傷
その日は朝から雨が降っていた。休日のため、仕事は休みである。
「痛っ…」
胸から腹にある傷の部分が、早朝からじくじくと痛みを訴えていた。リジルはベッドの中でうずくまって何とか耐える。
あと少しすれば夜が明ける。そう考えていたのだが、痛みは退くどころかどんどんと増していった。
ベッドサイドに置いていたベルを手繰り寄せようやくエルダたちが来た時には、リジルの意識は朦朧としており、事態が深刻であると伝えるには十分すぎたのだった。
「目が覚めたか?」
「ノアル先生」
「傷の一部が化膿して、菌が入ったらしい。痛みはどうだ?」
「今は、大丈夫。今何時ですか」
「13時過ぎだ。水の飲むか?」
そう言って水差しをリジルの口に宛がう。
少しずつ吸うと、カラカラの口の中を水が潤していった。ずっと寝ていたのと熱のせいで頭がぼんやりとしている。
「お前、また我慢してただろ?何かあったら、朝だろうが夜だろうがすぐに人を呼べ」
「…はい。ごめんなさい」
「だいぶ熱も引いたようだな。あまり無理するな。仕事はしばらく休みだ。いいな?もう一眠りしろ」
「はい。…せんせ」
「ん?」
「ありがと」
リジルが再び寝たのを確認して、ノアルはそっと席を立った。部屋を出る際に、エルダへ指示を出して退出する。廊下を歩いていると、アレクが手を振りながらノアルのもとへやってきた。
「リジルちゃん体調どう?」
「炎症が取れるまでは熱が続くだろうな。あいつはしばらく休ませる」
「少しずつだけど頑張ってたのにねぇ。そんなに傷酷いの?」
「今はだいぶん元気になってきたが、ユダーで病院に運び込まれたときは生死の境を彷徨っていた。剣でバッサリ胸から腹まで切られた痕があって、出血も酷かったんだ。火事のせいで、無理やりこっちに連れてきたのもあるし、疲労もそれなりにたまっていたのかもしれない」
「本人のやる気に皆ほだされちゃったけど、少し早急だったかしらねぇ」
「だな。しばらくはまたベッド生活だ」
そう言いながら、二人は辺境伯の執務室前に来ていた。軽くノックをすれば、中からどうぞと執事のクロードが扉を開けた。
書類から目を上げて、サイモンは入ってきた二人を見やる。
「二人してどうした?」
「私はさっき廊下で会っただけよ」
「親父、リジルのことで相談がある」
「あの後何かあったか」
「処置もして、今は点滴打ってだいぶ落ち着いている」
「そうか」
少しほっとした表情を見せるサイモンに、ノアルは提案した。
「中央の病院にしばらくリジルを入院させたいんだ」
「ヴィルキスに?セルフィーユでは駄目なのか?」
「ここも設備が整ってないわけじゃないが、向こうのほうが、充実している。短気で治療を終了させるなら、ヴィルキスに行ったほうがいいと思っている。それにここだと、ユダーに近い。少し離れたほうが、精神的にも楽になれる。どうだろう?」
しばらく思案していたサイモンは軽くうなずくと、クロードに言った。
「クロード、中央に連絡してくれ。病院に空きがあるか、すぐ入れるか至急だ」
「賜りました」
「少し寂しくなるが、リジルのためだ。ノアル、お前はどうするんだ?」
「中央に籍は置いたままだから、そのまま医者として病院にねじ込んでもらうさ」
「あらぁ。愛ねぇ」
アレクがムフフと奇妙な笑いをこぼしながらノアルをつつく。
「あいつは患者だ」
「でもぉ。普通そこまでしないわよ?」
「これは多分、ただの執着だ」
二人のやり取りを見ながら、サイモンはノアルを見る。
「アルマのことが忘れられないのか?」
サイモンが放ったその一言に、ノアルが固まった。事情を知っているアレクも心配そうに弟を見つめる。
「前から言っているが、あれはお前のせいじゃないだろう」
「だが、結局のところ、俺はアルマを」
「医者だって神じゃない。それにあの頃はまだ学生で、お前は どうあがいたところで、彼女を助けることはできなかった。原因不明の手足から動かなくなる急性の奇病。今だ治療法はない。いい加減そろそろ受け入れたらどうだ。じゃないと、お前は先に進めないぞ」
「そんなことは、分かっている」
夕食後にノアルはリジルを診に来た。昼より熱も下がったが、微熱はあと数日続くだろう。規則正しい呼吸を見ながら、ノアルは過去を思い出していた。
16歳で医学部に進学し、毎日授業やら実験やらで忙しい毎日を送っていた。たまたまその日、座った席の横に彼女がいた。
『私アルマ・トーリム。よろしくね』
明るいその声に、隣で本を開いていたノアルは横を見た。赤毛に緑の瞳。すこしぽっちゃりしたその頬は健康そのものだった。
『ノアル・ジルベール』
『まあ、辺境伯爵家の方なのね。どうして医学を学ぼうと?』
『俺は3男なんでね。自分の食い扶持は自分で稼がないといけないんだ』
『あー、なるほど』
『そういう君は?』
『私は弟が体弱くて。自分が医者になれば、面倒見れるから』
貴族や平民やらの縛りもなく、貴族でよくある、獲物を狙うような視線も感じない。すでに女嫌いを発症していたノアルが唯一心を開いた相手がアルマだった。
同じ医学を学ぶ者同士、同い年の二人が付き合うのにそう時間はかからなかった。だが、ある日、その時を境に二人の関係は儚いものとなる。
『ノアル!アルマが病院に運ばれた!』
実験室で実験の最中だったノアルに、その当時同級だったブランドンが、息を切らせて知らせた。
『何があったんだ?』
『講堂で急に倒れたらしい』
二人で隣接する病院に急ぐと、アルマは集中治療室へと運ばれていた。アルマの両親が近くの椅子にいるのを見つけ、ノアルは二人のもとへ走った。
『ああ、ノアル君、ブランドン君、来てくれたのか』
『小父様、アルマは』
『それが、集中治療室に入ったきりで、まだ説明も聞いていないんだ』
それから1時間して、治療室から医者が出てきた。
『ご両親には申し訳ないが、お嬢さんはもって3日です』
『ど、どういうことですか!先生、娘は』
『原因不明の機能不全症が出ています。すでに進行していて、防ぐ術が今の医学にはありません。何か、前兆のようなものはありませんでしたか?』
前兆。そう聞いて、ノアルはそういえば、最近よく息切れや頭痛を訴えて休んでいたことを思い出し医者へ話した。アルマの両親もその症状に覚えがあったのか、青ざめた表情で医者を見る。
『機能不全による酸欠の症状でしょう。無感染室に彼女を移しています。こちらへ』
案内された場所では、看護師が防護服に身を包んで作業していた。全員防護服に着替え、進むと、一番奥の端のベッドにアルマは寝かされていた。
『アルマ』
『パパ、ママ、ごめんなさい…私、たいしたことないって、おもってて…病院、いかなかった…。ノアル、ブランドン…きてくれて、あり、がと』
酸素マスク越しの彼女の言葉はとても弱くて、息切れするためか、とぎれとぎれに聞こえてくる。ノアルとブランドンは、泣きそうになるのを必死でこらえた。
『まさ、か、じぶんが、病気なる、なんて、おもわなかった』
『アルマ、もういいから。少し休みなさい』
『みんな、ごめんね…』
それから医者が言った通り、3日後に彼女は旅立った。
『寝ているようだな』
葬儀の前、ノアルとブランドンは、アルマの顔を見て泣き笑いする。まるで今にも起きそうな、寝ているような安らかな顔だった。
もう、あの明るい笑顔も、声も、仕草も、見れないのだと思うと、自然に後から後から涙が流れて止まらなくなった。
葬儀の後、二人で寮の近くにある食堂に立ち寄った。昼前ともあって、店内は賑わっている。奥の二人席に案内され、定食を注文して来るまでぼんやりと外の景色を眺めた。
『なあ、ブランドン』
『ん?』
『俺さ、何年かかってでも、病気の正体、突き止めてみせる』
『奇遇だな。俺も同じこと考えてた』
「先生?」
ノアルはリジルの声で我に返った。どうやらウトウトしていたらしい。時計を見ると、15時を少し過ぎたところだった。
「すまない、少し寝ていたようだ。気分は?」
「だるいけど、大丈夫。先生は、大丈夫?」
「何が?」
「先生、少し顔寄せて」
訳が分からなくて、リジルの言う通り顔を近づけると、そっと頬を拭われる。ノアルは、その時自分が泣いていることにようやく気づいた。
「先生も、辛いときは言ってね。涙を拭くぐらいしかできないけど」
そう言ってリジルは微笑む。拭ってくれた細く、折れそうな手に己の手を重ねて、ノアルは静かに泣いた。