脱出
身ぎれいになったノアルは、そのままリジルの部屋へと通された。入ると、リジルはベッドに枕を背にして座っている。メルはすでに退室していた。
「リジル?」
先程とは何か違う様子だったため、ノアルが声をかけると、リジルはピキリと固まった。どうしたのかと近くに寄れば、なぜか顔を両手で隠して俯いている。
「どうした?具合でも悪いのか?見せてみろ」
顔を覆っている手を手で包んで剥がせば、顔がリンゴのように真っ赤になっている。当のリジルは、小ざっぱりしたノアルの顔を見て、さらに真っ赤に熟れた。
「熱でもあるのか?」
そう言って額を触ると、少し火照っているようで、ノアルは横になるよう促した。
「あ、あの…」
「ん?」
「ノアル」
「なんだ?」
「やっぱり、何でもないです!」
いざ告白しようとすると、言葉が出てこない。顔は真っ赤だし、心臓はバクバクで、耳の中でどくどくと脈打っているのが分かる。
暫しの沈黙の後、ノアルはリジルを抱き寄せた。
「どうしたんだよ」
くっと笑ってリジルの顔を覗き込めば、リジルは限界を超えたのか、目を回した。
「おい、ちょっと、マジで熱か‼」
決意の告白もままならないまま、リジルはそれから丸一日寝込んだのだった。
そのころ、王宮ではレグナムが王太子の元を訪ねていた。こじんまりした部屋には兄弟二人しかいない。付き添いの兵士は外で待機していた。
「兄上」
「分かっている。決行は明朝。手筈はこの間の通りに」
「ようやくですね」
「ああ。それで、良いのか?俺は別にどっちでも構わないが」
「構いません。次の王は兄上だ。俺は引き続き外交を任せてもらえたらそれでいい」
「分かった。これから忙しくなる。頼むぞ」
「終わったら、20年物のワインでも開けてください」
「そうだな」
そうして二人は別々に部屋を出た。王太子は正面から。レグナムは隠し扉から。
そうしてそれぞれが向かった先には、それぞれの敵が待ち構えていたのだった。
早朝、喧騒で目が覚めたリジルはノアルと共にいた。遠くて聞こえる物音が聞こえては怯えるリジルの肩をノアルが抱く。事前に事の次第を伝えられていたため、ノアルが慌てることはなかった。
「大丈夫か?」
「すみません。やっぱり、怖いみたいです」
内戦を経験しているリジルは、争いに敏感になっていた。ノアルの手をぎゅっと握りしめている。それを優しくノアルは握り返した。
「危なくなったら俺がお前を抱えて逃げるから」
「いえ、置いて逃げてください」
「置いていくわけないだろう?傍にいるって約束したからな」
バタンと大きな音がして、開かれたドアにはフォンが立っていた。
「逃げろ‼ここにも襲撃が来る‼」
「貴方は?」
「俺はレグナム様に合流する。悪いが案内できない‼君のポケットにここの地図が入っているはずだ!それを使え」
そう言うと、フォンは遠ざかっていった。
「地図?」
リジルがスカートのポケットを探ると、小さく折りたたまれた地図が出てきた。あまりに薄すぎて全く気付かなかった。
めくると、グネグネとした道が書かれていて、どうやら王宮の出口までを描いた 物らしかった。
「角に何か書いてある」
そこには小さくこう書いてあった。
《必要になったら使え。ジェイド》
「ジェイドさん??一体どこで…」
まさかの人物に驚きつつ、思い返してみる。
「アレク様と一緒にいた人?」
帽子を目深に被り、口元も覆っていたため、誰か分からなかった。その前に、あの時リジルは茫然自失しており、多分目に入っていなかったのだ。
それに、フォンが地図のことを知っていた。知っていて、見逃したのか?
「ありがたく使わせてもらおう」
そう言うと、ノアルはリジルから地図を受け取った。頭に地図を叩き込んで自分のポケットにしまう。
「さ、お嬢様、僭越ながらお運びいたします」
「恥ずかしいのでやめてくださいそれ」
「冗談だよ。行くぞ。しっかり捕まってろ」
そうして、リジルはこの日囚われて初めて自ら外に出たのだった。遠くで飛び交う怒号と、火の手。スイレン宮にはまだ届いていないが、時間の問題だった。
「リジル、少し揺れる」
ノアルはリジルを抱えたまま、縦横無尽に伸びる廊下を迷いなく進んでいった。丁度宮と出口の中間地点で、一旦陰に隠れて小休止する。どこで手に入れたのか、ノアルは水筒をリジルに差し出した。
「大丈夫だ。ちょっと通るときにもらったから」
「ノアルは器用ですね」
一口飲んで返すと、ノアルも数口飲んで喉を潤した。
「やっぱり正面の出口は抜けれないようだな」
スイレン宮から王宮の方に近づくほど、喧騒が強くなっていく。
「ここから裏道に出る。ちょっと入り組んでいるから分かりにくいが、なんとかなるだろう」
そう言ってリジルを再び抱えると、ノアルは再び走り出した。曲がりくねった道がしばらく続いた後、忽然と道が消えた。そこは寂れた王宮の片隅で、草の伸びきった場所だった。昔は庭だったのか、池の跡がある。
一旦リジルを下ろしてノアルが地図を確認していると、急に後ろから殺気を感じた。とっさにリジルを庇って地面に伏す。リジル達がいた場所には、ナイフが深々と刺さっていた。
「こんな所に、ネズミ発見~」
不快な猫なで声とともに現れたのは、良く見知った顔だった。
「シェリー…さん?」
「どうもリジル様。まだ生きてらしたんですねえ。ほんと、悪運の強い方。せっかく誘拐して差し上げたのに、しがいのない方ですねえ」
目の前にはジルベール家の別邸に居て、リジルを本邸に送ろうとしてくれていた侍女が冷たい目をして立っていた。
ノアルはリジルを下ろすと、庇うように立った。
「あらあ、ノアル様お久しぶりい。貴方もここに居たとは誤算だったわあ」
「まさか、お前が間諜だったとはな」
「ふふっ。まんまと騙されて。そうやって悔しがる姿が良いのよねえ。そそるわあ」
手に持っていたナイフを舌で舐めるとシェリーはノアルに向かって攻撃を仕向けた。とっさにノアルが退く。
「あらあ、やるじゃないの」
「伊達に修行してないからな」
攻防が続く中、リジルの悲鳴が上がった。視界の隅に、後ろから羽交い絞めにされる彼女の姿が映る。
「リジル!」
一瞬の隙を逃さず、シェリーの一撃がノアルの脇腹をかすめた。
「よそ見はいけないわよお。楽しめないじゃない」
「くっ」
一方のリジルは何とか拘束を解こうと腕の中でもがいていた。もがけばもがくほどに締まっていく。
『も、ダメ…』
意識が遠くなりそうになって、ふっと拘束が緩んだ。その拍子に地面へ投げ出される。空気を欲して喉がヒューヒューと鳴る。涙目で咳をしていると、後ろから声が聞こえた。
「遅くなって悪い。怪我無いか?」
「ジェイドさん」
「いやあ、難儀したあ。探したんだぜ?せっかくスイレン宮に入ったのにもぬけの空だし」
へらっと笑うジェイドにリジルは気が抜ける。
「じゃ、サクッと終わらせましょうか。ノアル様」
そう言ってノアルの横に並び立つと、ジェイドは暗器を取り出した。
「ノアル様にはこれね」
「すまない。武器が無くて行き詰っていたところだ」
「ちょっ、他の影たちは」
「ああ、あいつらならもう来ないよ。俺とこっちの影で片づけたから。一気に形勢逆転だね」
そこからは一方的な戦いだった。
「うああああああああ‼」
「あの世で今まで殺した人たちにでも詫び入れなね」
ジェイドの乾いた声とシェリーが地面に叩きつけられたのはほぼ同時だった。そして、二度と動かなくなった。
遠くで様子を見ていったリジルにノアルが駆け寄る。
「大丈夫か」
「…はい」
背中を優しく叩かれて、ようやく震えていたのが止まる。
「さ、お二方、脱出しますよ」
こうしてリジルとノアルはジェイドの案内の元、モルダーの王宮を脱出したのだった。
その知らせが届いたのは、リジル達がセルフィーユに帰還した一週間後だった。
モルダー王退位。新王即位。
これによって、モルダー側から仕掛けられていた紛争は終止符を打たれ、以後、国境を脅かされることはなかったという。




