隣国
サジエヴァル国、ユダー市からラムル山を抜けた先に隣国ヴィーネがある。内戦で疲弊した自国とは違い、辺境にも関わらず、その町は活気に満ちていて。白塗りの外壁に尖ったオレンジの屋根が街道沿いにひしめき、ベランダには小さい可愛い花々がそれぞれに咲き誇っていた。
きょろきょろと手を引かれながら歩いているとクスクスと笑う声がする。
「隣の国の感想はどうだ?」
「所変われば、こんなにも違うのか…という感じですかね?」
ユダーは石の産地で、町はどれも石造りの家だった。5年前、内戦が始まる前までは、穏やかな田舎町で。思い出して少し寂しくなる。
外門から内門に入り、人通りも増す。人の合間を縫って、進んでいった。
しばらくするとごった返していた通りを抜け、閑静な住宅街に出る。緩やかな坂道を上がっていけば、穏やかな街の景色が広がっていた。
「到着したわよ」
先頭を歩いていたアレクの言葉に顔を向ければ、驚きのあまり立ち止まってしまう。
「ヴィーネ第三の都市、セルフィーユへようこそ」
「あの、ここは」
「ジルベール家だ」
「ジルベール…辺境伯爵家…」
目の前には大きな門。そこを抜けると、花が咲き誇る庭園。石畳を10分ほど歩いた先に、目指す家はあった。
「大きい…」
思わず呟けば、ノアルが笑った。
「家だけはな。100年くらい前からここの統治を任されてきただけはある…のか?」
「なんで疑問形なのよ。それだけ中央に信頼されてるってことでいいじゃない。まったく。うちの3男坊は」
ドアの前には執事が出迎えに立っていた。
「お帰りなさいませ。アレク様、ノアル様。連絡を受け、既にご家族お揃いでお待ちになっておりますよ」
「クロード、久しぶりだな」
「ノアル様、お元気な様子で安心…と言いたいところでございますが、先に入浴とお召し替えを。さすがにそのままでお会いにはなられますまい。そちらのお嬢様も。エルダ、サンティエ、こちらのお嬢様を」
「お任せください」
いつの間にかクロードの後ろに控えている侍女2名。
なぜか、目が光った気がした。悪寒が走り後ずさるも、2人に脇を抱えられ、あれよあれよという間に奥へと連れていかれる。気持ちはさながら売られる子牛のようで。振り返れば、手を振られる。ああ、助けはないということか。
部屋に入り、そのまた奥の部屋に入ると、身ぐるみをはがされた。そして、その奥に連れられると、お風呂だった。風呂といっても、そこから湧き出しているようで、半露天のような造りになっている。
すでに驚きを通り越して、状況についていけない頭でぼんやりと確認していれば、エルダと呼ばれた侍女が腕まくりをしながら、手ぬぐいを持っている。
「お嬢様、お初にお目にかかります。ジルベール家侍女ナンバー2のエルダにございます。すべてお任せくださいませ。サンティエ!」
「同じくジルベール家侍女ナンバー3、サンティエです。お嬢様をこれから、磨きに磨きをかけ、最高のレディにしてみせます」
「リ、リジルです。あの、お手柔らかに…?」
侍女に圧倒されながらもとりあえず名前を伝え、されるがまま体を洗われる。恥ずかしすぎて死ねる。そう思っていたのも最初だけだった。
半日歩き続けた体に、風呂を耐える力もなく、途中で意識を手放したのだった。
『リジル!逃げるぞ!』
銃撃の音と、人々の逃げ惑う喧騒。逃げ惑う人の波に押されて、繋いでいた手を放してしまう。
『兄さん!』
『リジル!』
近くの避難壕で一夜を明かし、静まり返った町に帰ったのは、翌日早朝。町の中心に向かうにつれ、焦げた臭いと、死体が増えていく。
腕章をつけているのは国王軍か。死体を並べていた。兄を探して彷徨い、見つけた時にはすでに夕暮れが町を照らしていた。
『兄さん…』
兄は、左半身に傷を負った状態で、隅に倒れていた。見開かれた目に光が戻ることはない。涙は出なかった。周りでは、私と同じように亡骸と対面した人々が、無言でその場に立ち尽くしている。
昨日の喧騒はどこへやら。静寂に包まれていた。そこだけ時が止まっていた。虚しさだけが心を埋め尽くす。
『ああああああああ!』
慟哭が満ちた。恋人なのか、女の人をかき抱いて男の人が泣いている。それにつられるようにして、周囲に泣き声が広まっていく。悲しいのは、相手が死んだことに対してなのか、残された自分に対してなのかはわからない。
失ったものは元には戻らない。
昨日まであった笑顔も、もう、見ることは叶わない。
『兄さん、酷いよ。一緒にいるって約束したじゃない』
言葉は返ってこない。兄の横に座って、見開いた瞼にそっと手を当てる。瞼の閉じたその顔はただ寝ているようにしか見えなかった。
『一人になっちゃった』
内戦が勃発してから、父が、母が相次いで亡くなった。兄と2人でどうにか生きてきた。2年前からは職を得て、生活も何とかできるようになった。
なのに…
『どうして…』
大切なものが、手の中から簡単に滑り落ちていく。
『兄さん、兄さん』
その後、兄は町外れで荼毘に付された。遺骨は昔よく遊んだ丘の上の木の下に埋めた。墓は壊されて久しかったから。
ふいに見上げた空には無数の星が光っていた。
『戦争がなければみんな死ななかったのに。兄さん。私どうしたらいいの』
答えは見つからないまま、それでも明日が来るから。
丘の上で一夜を明かし、町へと降りる。職場へ向かえば、上司の一人が兄と同様に亡くなっていた。
誰かが欠けていく。それが日常。戦争という名の、日常。
多分、感覚が麻痺していたのだと思う。
ただ、生きている。それだけだった。
目が覚めると周囲は薄暗かった。ランプの仄かな明かりだけ。サラサラのシーツにふかふかの布団。洒落た家具が室内に無駄なく配置されている。
「ここは…」
上体を起こして、ぼんやりと眺めていると、ノック音が響いた。
「起きたか?」
「ノアル先生…ですか?ここはどこ?」
「ジルベール家の屋敷だ。どうして泣いている?」
髭のないその顔に少々驚きながら、リジルは自分が泣いていることに初めて気づく。
「どうしてでしょう」
「何か、思い出したのか?」
「兄が、死んだときの夢を見ました。あの時は泣けなかった」
とめどなく溢れてくる涙をどうすることもできずにいると、ノアルがハンカチを取り出して拭いてくれた。そして、肩を抱きながら言った。
「泣いてすっきりしろ。誰も、お前を責めたりしない。お前が生きていてよかった」
その言葉に、今までため込んでいた何かがはじけた。
泣き止むまで、彼はそっとそばにいてくれた。泣きつかれてまた寝てしまうまで。