少年は、大航海に旅立たない -4.996-
パリン……パリン……
台所ではお皿が割れる音が響いている。
私は耳を塞いで、ただ音が鳴りやむのを待ち続けていた。
(大丈夫、きっと大丈夫……お父さんが帰ってきて……私たちを助けてくれるんだもん)
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私の家は少し裕福だったと思う。
父も母も会社勤めをしていて、二人ともそれなりに大きな会社に勤めていた。
私は当時12歳、都会の一軒家で、父と母の三人暮らしをしていた。
平日は二人とも遅くまで働いているから寂しいことも多かったが、その分休日には必ずどこかにお出かけして、3人で楽しく過ごした。
私はそんな日々を不満なく過ごしていて――今から考えれば、幸せ過ぎるくらいの日々だった。
あの日までは――
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深夜に目を覚ますと、父と母が口論している声がリビングから漏れてくる。
喧嘩してるところなんて、見たことなかった私は、その不穏な気配に胸を痛ませた。
(どうして、なんで二人は喧嘩してるの――?)
私は居ても立ってもいられず、自分の部屋を物音立てないようにこっそりと出た。
廊下の先で、リビングのある部屋からは明かりが漏れている。
私は忍び足で、そこへ近づいて行った。
「なんで、こんなことになるのよ!……私に何も相談もなく……」
母の泣きじゃくる声が聞こえて、私はひどく悲しい気持ちになったのを覚えている。
リビングの少しだけ開いたドアの隙間から中を覗くと、父がダイニングテーブルに両肘を付いて、頭を抱えていた。
「まさか……あいつが、逃げるなんて……そんな奴じゃなかったのに……」
父の弱った姿を見るのも初めてのことだった。普段は冗談ばかりを言って場を和ませるのが得意な人だった。
「5000万なんて大金……一体どうやって返したらいいのよ!……そんなお金ないわよ……」
「と、とにかくこれは俺の責任だ……俺が何とかする。だから、君は何も心配することはないよ……」
そう語る父の姿は弱々しいままだった。
私は、この時にピキ……ピキ……と何かが割れるような音を、確かに聞いた気がする。
それはきっと、私たち家族が壊れようとしている音だったんだと思う―――
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次の日の朝起きると、何事も無かったかのように、いつも通りの食卓風景が広がっていた。
「あら、今日は少しお寝坊さんね」
そう言って、母が私に笑いかける。
父はいつもの席で、いつも通り新聞を広げていた。
いつも通りの食卓、いつも通りの談笑。
(きっと、昨日のことは夢だったんだろうな。嫌な夢を見たものだ……)
私はそう自分に言い聞かせては見るものの、どことなくぎこちない両親との会話や、
朝食の少し焦げた食パンや、
普段より化粧気の少ない母の顔や、
一口も口をつけていない父のコーヒーが、
昨日のことが現実であると告げているように思えた。
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平日の朝は三人で一緒に家を出るのが日課だった。
父がその日出さなければならないゴミ袋を持って、支度に時間のかかる母を二人で、まだなのーって呼びかけたりするのだ。
でも、今日は父が先に家を出ることになっていた。
いつものスーツを着て、いつも通りの鞄を持っている。
母と二人でお見送りに玄関まで出てきた私は、母に肩を抱かれている。
見慣れた父の背中は、革靴の紐をゆったりと、そして、しっかりと結んでいた。
結び終えて立ち上がると、父はこちらをちゃんと振り返らず、横顔だけをこちらに覗かせた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
父が、素っ気なくそう告げると、玄関の扉を開け、外へ出る。
それが、私が見た父の最後の姿だ。
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それから、しばらくは母と二人で何事も無かったように日々を過ごした。
私は、どうして父が帰ってこないのかを母に尋ねたりはしなかった。
「お父さんは今日も出張みたいだわ、会えなくて寂しいわね」
母はそう言って、私に笑いかける。
「ううん、私、お母さんが居るから平気だよ」
私もそう母に答えた。
少年は、大航海に旅立たない -4.996- -完-