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6.

 そしてそのとき初めて私は、彼の死が自殺であったことを正式に聞いたのだった。お母様の言葉によって。

 そのとき私がいたのは、彼氏の住む、壁の薄い単身世帯向けの部屋だった。私は何かを叫んだらしい。よく覚えていないが、日記にはそう書いてある。大層迷惑だったろう。訃報を受け取った時点で、私は自宅の両親の元へ帰るべきだった。そうしたら、友人の携帯電話へ返信メールを送るなんて馬鹿な真似をせずに済んだかもしれなかった。


 訃報を受けとった翌日がお通夜だった。

 当時私は実家暮らしで、最寄り駅から二つ行った先にある斎場が会場だった。なお、何の因果かその町は、当時から付き合っていた彼氏と結婚し、初めて家を借りた場所でもある。斎場は駅の間近だ。私は結婚後、毎日その斎場を見ながら通勤した。はじめのうちこそ涙が湧いて困ったが、慣れというものの力はなかなか底知れないもので、そのうち見慣れた風景の一つとしてその斎場は周りの景色に溶け込んでいった。


 斎場には、見知った顔が集まった。みんなリクルートスーツを着ていて、就職活動の面接場面さながらだった。違うのは、黒いネクタイ、黒いストッキング。私は、まだ自分の数珠も持っていなかった。母親のを借りていったのか、あるいは手ぶらでいったのか。よく覚えていない。手ぶらだったのかもしれない。

 こういうときに、若者が数珠を持っていると、ああ、数年内におじいさんおばあさんを亡くされた経験があるのかな、と思う。高校生までは、制服で参列し、数珠も持たない例が多いのではないか。集まった若者たちの中にも、数珠を持っている者の姿もあったが、少数派だった。

 斎場入口の看板には「故」の文字を添えて、友人の名前が大きく書いてあった。


「故 ●● ●●」


 その文字を見たときの衝撃、視界の暴力。そのときは何も考えられず、ただその五文字を見つめて泣くだけだった。斎場の様子で、今も覚えていることは少ないが、あの文字は、はっきり思い出せる数少ない光景の一つだ。


 ホールの入り口には、彼の思い出の品と見られるものがいくつか置いてあった。ピアノを弾いている写真が貼りだされていた。数年前の演奏会の写真らしい。キャプションには、ラヴェルの「水の戯れ」とあった(その約一年後、私は卒業コンサートで「水の戯れ」を弾いた)。

 見知った顔が集まってはいたけれども、その中できちんと顔と名前を認識している人は少なかった。



  ◎       ◎


2009年10月●日


出張中、人身事故のため遅れた電車のなかでぽろりと上司が言いました。

「死ぬ勇気があればなんだってできるのにね」


そうなのだろうと思う。でも、違うとも思う。

どちらかといえば違うと思う気持ちのほうが大きい。


死へ一歩踏み込むひとは、その境を超えるのに相当するエネルギーを使わざるをえないほどに追いつめられているのだと思います。

そんなひとに「生きていればなんだってできるだろう」とは言えません。

同時に、切に望みます。

「生きていればなんだってできるんだよ」


すでに死んでしまったひとに対しては、何もできません。

割り切れずともただ、その事実をまるごと受け止め、認めて、敬うしかないのでしょう。

ましてや乗り越えるものでもないし、学ぶものでもない。


でも、いま生きているひと、まだ死んでいないひとに対しては切に望んでしまうのです。

生きにくいとしても苦しいとしても、やはり生きていてほしいと。


  ◎       ◎



 お母様が、笑みとはいえない程度の柔らかい表情で、参列者に挨拶をなさっていた。ふたりのごきょうだいがお母様のそばに控えていた。お父様が、喪主だった。子に先立たれた親の姿というのをテレビ以外で見るのが初めてで、言葉に詰まった。詰まったけれど、タイミングをどうにか見計らって、お母様にメールの非礼を詫びた。「あなただったのね」という顔をなさっていた。


 お通夜がどんな風だったか覚えていない。

 ほかの参列者と同じようにお焼香したのだろう。ずっとぼぉっとしていた。夢の中にいるみたいだった。水の中にいるみたいだった。靄の中にいるみたいだった。友人のお顔を見せてもらった。もともと色白な人だったけれども、それとはまったく違う白さだった。その白さは、はっきりと覚えている。


 お通夜にお決まりの、天ぷらや干からびかけたお寿司も、多分出されたのだろう。食べた記憶が無いが、食べたのだろう。

 ただただ、同じ演習授業を履修していた仲間のあとを亡霊のようについて回って、移動を重ねるだけだった。お通夜とは、故人を囲んで談笑する場だと聞いていた。知り合いたちは実際に、彼の思い出話にあれこれと花を咲かせていた。私は、その会話に加わることもできなかった。それくらい、彼について知っていることは少なかったのだった。


 翌朝が告別式だった。通夜に来た面々の多くが告別式に参列していた。

 学部の仲間たちは、アルバムをこさえて持ってきていた。ご両親に見せながら、これはプールに行ったとき、これは花火をしたとき……などと説明していた。その遊びに私は同行していなかった。文庫本を持ってきた人もいた。私の知らない漫画を持ってきた人もいた。みんな、思い思いの品を棺に納めた。私は、そういうものを選べるだけの思い出を持ち合わせていなかった。今になってよく考えてみれば、持参できるものが皆無だったわけではなかったと思う。例えば、楽譜とかをお土産に持ってくることは可能だったろう。

 どちらにせよ、私には、本当に何も持ち合わせがなかったので、白いスイトピーの花を棺に入れた。いや、トルコ桔梗だったかもしれない。なよなよとした頼りない花びらが、友人の頬に触れた感触を、よく覚えている。

 狭い棺はあっという間に埋まった。棺というのは本当に狭い、あれでは身動きがとれない。そんな狭い空間に、蓋をするのだ。そして、男性陣の手で霊柩車に乗せられて、ご遺族、親戚の方々とともにあっけなく行ってしまった。


 その翌日には、午後にピアノのレッスンがあり、夕方以降は塾講師のバイトが入っていた。私はいつもどおりにピアノを弾き、いつもどおりに中高生に数学や英語を教えた。翌々日には、就職内定先から懇親会の案内のメールが届き、「参加します」と返信をした。

 そういう日常生活は、悲しいほど、友人が亡くなったことからかけ離れていた。


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