第3章〜触れられない涙〜
春の朝
カーテンが春の風に揺られるたびに隙間から眩しい日差しが射し込む。
英司は時計の針が6時を指したのと同時に目を覚ました。まだたいして入らない力で無理矢理体を起こすと、どっとだるさが押し寄せてくる。
横に目をやるとソファーの上では横になって俯せのままのまだなつみが寝息を立てていた。
「寝顔は意外と子供っぽいというか……」
独り言を漏らしながらなつみの寝顔を見つめる。
やはりどこか見覚えのある顔だ。しかし、それが誰なのか、自分は一体誰と重ねているのか、自分でもよく理解できていない。ただ遠い記憶の中で会った事があるようなそんな懐かしさを感じていた。
英司はしばらくなつみを見つめたあと、ゆっくりと立ち上がりキッチンへ向かうと朝食の支度を始めた。部屋はあっという間に食材の香りに包まれた。
「もー、なんで起こしてくれなっかったの?」
現在登校中、隣のお嬢様は少し不機嫌な様子で頰を膨らませた。
「だって、すごく気持ちよさそうに寝てたから起こすのは申し訳なくって」
「私的にはものすごく恥ずかしんだけど」
「まあまあ、そうかりかりすんなって。意外と寝顔も可愛かったしな」
「は、はぁ⁉︎」
「あ、やべっ。うっかり口が……」
「どどどどどういうことよ!私の寝顔を見てたっていうの⁉︎」
「い、いや……」
「説明してもらいましょうか?」
つい英司が零したセリフはなつみお嬢の逆鱗に触れたご様子である。ここは逸早く脱出するべしと考えた英司の思考は既に一つのモーションにはいろうとする。
「待ちなさい!逃がさないわよ!」と英司に腕を伸ばしたが、時既に遅し。
「転移!学校」
「あ、待ちなさい!」
登校中にむやみに魔法を使うのは危険だが、それは承知の上で行った英司の行動だった。
「魔法使って逃げるとか、ありなの?」
獲物を逃し、一人残されたなつみは文句を言いながら学校へと向かうのだった。
「あー危なかった」
魔法を使って一足早く学校に着いた英司は自分の心臓があることを確認すると、ほっと息を吐いた。
「あのまま俺を拘束したら一体をどうするつもりだったんだ?」
考えれば色々想像はつくのだが、どれも恐ろしいので考えないようにと首をぶんぶんと横に振る。
「てか、ここ何処だよ。たしかに学校に転移したはずなんだけど……」
戦争時代にこの辺り一帯は訓練用の基地とされていたところにこの学校が建てられたと、この学校の歴史を書物にした本に書いてあった。
この学校は都内でも珍しく、とにかくでかい。
周りを見渡しても学校の何処だか整理がついていない。
あたりにはこれといって何もないが、あまり使用されない一角のスペースらしく人影は見当たらない。
ガラス張りの天井から僅かに差し込む陽の光が辺りを照らしている。
所々に2メートル程の木々が立ち並び、ベンチもある。
「誰かいるの?」
不意に木の後ろから声がした。
声のした方にゆっくりと歩みより、木の影からそっと覗くと、そこには一人の少女がいた。
同じ学校の制服に赤みがかった茶色のショートカット。紅い瞳で英司を見つめて両手に本を抱えてベンチに座っていた。
「誰?」
「あ、えと……俺は浅井英司です」
「ふーん」
素っ気ない返事だけをすると、彼女はまた本に視線を落とした。
訊いておいて反応薄くないか、と思いながらもどうしていいかわからずに動揺する英司に彼女が口を開く。
「どうしてこんなところにいるの?」
「どうしてって……あ、道に迷ったんだよ」
「私はいつもここにいるけど、こんなところに迷子で来るおバカさんは見たことがないわ」
「う……」
初対面の人間に抜け抜けと言い放つ彼女に、正当すぎて言葉が出てこなくなる英司。
「君は毎日ここにいるのか?」
「ここが一番落ち着くのよ。校内だと周りの声がうるさくて読書にすら集中できないもの」
「そうか。たしかにここは落ち着くな。」
いつまでもいたくなるようなその空間は、流れていく時間をも忘れてしまうくらいにゆったりとした風が流れていた。
「そろそろ帰ってもらってもいいかしら?読書に集中できないの」
「ああ、邪魔して悪かったな」
そういって足を進めた英司だが、僅か数歩で動きを止め、その場に硬直する。
「どうしたの?早く行ってよ」
硬直している英司に冷たい視線を送る彼女に向き直り、
「道がわからない」
「はあ⁉︎」
思わず驚嘆な声を上げた彼女は目を見開いた。
「悪いな道案内してもらって」
英司は申し訳なさそうに言った。
「いいわ。どっちみちそろそろホームルームの時間だから戻ろうとは思っていたから」
「でも悪かったな。読書の途中だっただろ?」
「いいわよべつに。こんな本、もうとっくに読み終わってるんだから……」
よく見ると彼女が手にしていた本はボロボロだった。
表紙は剥がれ、題名を読もうにも目を凝らさなければ読めないほどかすれていた。
「汚いでしょ?この本」
「いや、俺はそうは思わないな」
「どうして?」
「その本をどう思ってるかはその人の価値観だけど、俺からしたらよっぽどその本が好きなんだなって思うよ」
「そんなのわからないじゃない」
「嫌いなのに読んでる人はいないと思うよ。それにぼろぼろなほどその人がその本に愛着があるんだなって見てわかるしね。俺はそういうのいいなって思うし、ぼろぼろになるまで使われてる本も喜んでるんじゃないかな?」
「本に感情なんてあるわけないじゃない」
「まあ例えの話なんだけどね。でもその本は喜んでるよ」
「ふーん……あなたって変な人ね」
「おう」
「何よそれ、ますます変だわ」
そう言って彼女はくすっと微笑んだ。
「あ…笑った」
「え?当たり前でしょ、私だって人間よ」
「それもそうだな」
同じ学年であったため途中までは一緒に歩き、クラスは違ったので彼女と別れた後一人で自分のクラスへと向かった。
ほんの少し彼女と話をしただけだが、それでもなんとなく彼女の事を知れたことは単純に嬉しかった。
教室に着きドアを開けると、そこにはなつみが立っていた。
「え〜い〜じ〜く〜ん!」
「ゲッ‼︎なつみ!」
ドアを開けた瞬間に鬼を見た英司は即座に逃げようとするが、なつみの伸ばした腕はバッチリ英司の腕を掴んだ。
「こらこら、何処へ行こうというのかしら?英司君には訊きたいことが山ほどあるのよ?それにホームルームも始まるから。ね?」
「そんな笑顔で言われても余計に恐怖しかないんですけども……」
この後なつみにみっちり説教されたが、なつみの言いたかったことは人が寝ている時に恥ずかしくなるような事はするな、ということであった。
なら、寝ていなければいいのかと若干疑問に思う英司であったが余計なことを言って説教が長引くのは避けたいので黙っておくことにしたのだった。
昼休み、購買であんパンと牛乳を購入して、どこか座れるところはないかとあたりを見わたす。
この学校はとにかく巨大で、休憩スペースは探さなくともありふれているのだが、流石にお昼時ともなれば人で溢れかえっている。
ふと、今朝の成り行きで辿り着いたあの場所を思い出すと、もしかしたら彼女がいるかも知れないと思い、そこに向けて足を運んだ。
「よお」
「また迷子?おバカさん」
思った通り彼女はそこにいた。
相変わらずの毒舌ではあったが、朝の会話もあって少し話しやすかった。
「昼休みでもここにいるんだな」
「言ったでしょ、ここが落ち着くって。それにどうせ座るベンチもなかったんでしょう?」
「イエス。どっこも座るところがありませんでした」
「でしょうね。休憩所でも昼は人の密集地だから」
そう言うと彼女は、また本視線を落とした。
「そういえば、名前を聞いてなかったな」
「……星川刹那よ」
一瞬躊躇いながらも放ったその言葉に彼女の力はなかった。
「刹那か……。うん。良い名前だな」
「そうかしら?」
「ああ」
英司の反応に少し反応しながらも訊く刹那に英司はにこりと笑った。
「隣いいか?」
「ええ、どうぞ」
本に視線を向けたまま答えた彼女は、英司が横に座ろうとすると英司から離れるようにして距離をとった。
まだ会って時間が浅い。距離を置かれるのも無理はない。
それは英司も自覚していたことだったので気にはしなかった。
「悪く思わないでね」
「わかってるよ、まだ時間も浅いのに馴れ馴れしいのは自分でも理解してるんだ。ごめんな」
「違うの。そうじゃないの……だから謝らないで……」
その時の彼女の顔は少し哀しげな表情だった。
その哀しみがどこからくるものなのか英司にはわからなかった。
彼女と何か話がしたくて来たのに、いざ来てみれば何を話したらいいかわからなくなってきている。
さっきの会話が余韻を残すように、静かで重い空気を作り出す。
時間だけが刻々と過ぎてゆく。
気づけば昼休みは終わりに近づいていた。
「じゃあ、私先に戻るね」
気まずくなった空気を断ち切るように彼女は立ち上がろうとする。
「危ない!」
しかし、上手く立ち上がれずに膝を折り曲げて体が後ろへ傾く。
どしんと鈍い音とともに彼女の体は床へ打ち付けられた。
「大丈夫か?」
倒れた体を起こそうと手を伸ばし彼女の手に触れようとする。
「触らないで」
「え……」
「私から離れて」
「だけど……」
「大丈夫だから。自分で立つわ」
彼女は立ち上がると手でスカートの汚れを払った。
「やっぱり駄目ね。私……」
英司には全く理解が出来なかった、ただ今の顔もさっきの顔も全く変わっていない。哀しい顔をしていた。
「今のでわかったでしょ。もう私には近づかないで」
そう言い放った彼女は足早にその場をあとにした。
「そんなの……無理に決まってるだろ……」
英司は下を向いて唸った。
「ほっとけって言うんなら……何で――――――泣いてんだよ…………」
「どうしたの?英司君、顔が暗いよ。何か考え事?」
「ああ、ちょっとな」
「お昼休みからずっとそんな調子だよ?」
「うん。わかってる」
「英司君がそんな調子だと心配になるでしょ?」
「ごめん……」
下校中、英司は昼休みの出来事を思い返しては考え込んでいた。
彼女が触れられるのを拒んだ理由。
ただ単に触れられるのを拒んだだけなのなら、なぜ彼女はあんなに哀しい顔をしていたのか。
彼女が流した涙の理由を知りたかった。
「よし、今日は私が英司君の夕食を作ってあげる」
「え?」
「何よ、その間抜けな顔は」
「いや、なつみって料理できるんだなって思って……」
「何よそれ、随分と失礼なこと言ってくれるじゃないの」
「すまん」
「ま、いいわ。それに今朝も英司君に美味しい朝食を頂いちゃったからね、その恩返しがしたいのよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「んじゃ、早速食材の買い出しへ行かないとな。シェフ、今日の献立はズバリ?」
「ズバリ……秘密でございます」
「なんだよそれ」
英司は呆れながら苦笑した。
「まあまあ、楽しみにしといてよ」
「わかった」
思えば、誰かに料理をしてもらうのは初めてかも知れない。
小さい頃の記憶はあまりないのだが、こっちに居た時から両親が常に家にいる時間などあまり多くはなかった。
ただ、それでも一緒にいた記憶は沢山あるような気がして、楽しかった時の思い出はたまに夢に見ることがあるのは事実だった。
彼女の記憶の中にも、楽しい思い出はなかったのだろうか。
いや、きっとあると思いながら家に向かった。
「ねえ、なつみさん?これはなんだい?」
「見ればわかるでしょ」
「うーん、では質問を変えよう。これは何料理ですか?」
「煮込み料理だね」
「本当に?」
「うん、間違いないね」
その料理には明らかに煮込みきれていないほど、肉眼ではっきりと確認できる食材がごろごろと浮き上がっていたのだ。
「では訊こう……なんでカレーの中にバナナが入ってんだよ‼︎」
「ビタミン摂取に決まってるでしょ!」
「そんな胸を張って言えるようなことかよ!一体どこで摂取してんだよ‼︎」
「疲れた時にはビタミンでしょ?」
「だから入れる場面を間違えてるんだよ!」
「しかもなんだよこの悪臭は?」
「うーんわからないなー」
煮込み料理の正体はカレーと言う名のゲテモノ料理。しかもその料理からはとんでもなく臭い悪臭が漂っていた。例えるなら掃除をしていないトイレのように……
「一体このカレーはどうやって作ったんだ?」
「カレーのルーとジャガイモ、人参、玉葱、お肉……」
「そこまでは至って普通だな」
「それからバナナ、レモン、いちご、みかん、隠し味にくさやを入れたわ」
「それだああああー‼︎」
「え?」
「その前にも色々言葉が詰まるもんがいっぱいあったが、悪臭の原因はいま言った『くさや』だ!」
くさや––––––鰯などの青魚を『くさや汁』と呼ばれる液に漬け天日乾燥させた物。凄く臭い。
「なんでそんなもん入れたんだよ!」
「だって、スーパーで安く置いてあって沢山あったから……」
「あまりにも悪臭で誰も買わないんだよ。まったくスーパーもなんでそんなもん置いてんだよ……」
「というか、まずカレーなんて初めて作ったわけだし」
「……え、そうなのか?」
「うん」
意外な発言だが、この料理なら無理もないかと納得する英司。
「じゃあいつも何を作ってるの?」
「肉ジャガとか……」
系統は違うが、同じジャンルの煮込み料理。なつみは煮込み料理が得意なのかなと疑問を抱きつつも、
「それ、作ってくれないか?」
恐る恐る恐怖の言葉を口にした。
「いいけど。少し待っててね」
「うん」
「お待たせ、できたわよ」
意外と早く完成した肉ジャガに不信感を覚える英司。
目の前に出された料理を念入りにチェックする。
見た目は正常、なんの問題も見当たらない。臭いも普通に美味しそうな臭い。
いよいよ最後の行程。英司は箸でジャガイモを掴むと、一瞬躊躇いながらも口へと運ぶ。
二度三度噛み締め、ゆっくりと喉を通る。
「どう?」
様子を見ていたなつみが堪えきれずに問いかけた。
ふーと息を吐いた英司は口を開いた。
「うまい!」
ここに来て初めての絶賛である。
「よかったー」と感想を待ち待ちにしていたなつみの力が抜け、肩から一気に崩れた。
「これはうまいなぁ。何杯でもいけそうだ」
口に掻きこみながらもごもごと絶賛する英司。
「ありがとう」
なつみは喜びの笑みを浮かべて礼を言った。
その味はとても懐かしい味だった。昔から好きだった味。
煮込み料理は母親の味なんて言葉を使ったりするぐらいだから、もしかしたら母親の肉ジャガも一度は口にしているんじゃないかと思わせてくれた。
心がこもった暖かい料理だった。
「しかしながら、こんなに美味い肉ジャガが作れてなんでカレーがダメなのかなー?」
英司はなつみに視線を向けると、赤面してもじもじと体を捩った。
「初めての挑戦だったし……そ、その…………」
「わかった。今度作り方をレクチャーしてやる」
上手く口に出せないなつみを制して英司が言った。
「本当⁉︎」
「だが俺はそう甘くはないからな、覚悟しておけよ」
目を輝かせたなつみに怪しい笑みを浮かべる英司だった。
しかし、なつみの肉ジャガには自分でも敵わないぐらいに美味しかったのは事実だ。
もしかしたら上達したら追い抜かれたしまいそうな予感はしたが、それはそれで悪い気はしない英司だった。
今回異世界共存生活を読んでいただきありがとうございます。
前回とは描写が異なるので違和感がある方もいると思います。すいません。
今回から人の心情に入っていく形になるので次回もよろしくお願いします。
それから、くさやは実在するのですが、スーパーにはけして置かれていないと思いますのでご承知ください。