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二人は車に乗り込んだ。
しかしエンジンが掛からないので、室内は寒かった。外にいるよりは多少ましといった程度である。
「ごめんね、助けてあげられなくて」
倉崎はそんなふうに言った。
「いえいえ、優しく声を掛けてもらって嬉しかったです。私、楠木冴絵」
彼女は手袋を取ると、自然なやり方で手を出した。それは外国映画の女優のような身のこなしに思えた。
「僕は倉崎基治と言います」
二人は握手をした。
それから天井の室内灯をつけた。
薄黄色の光の中に映ったのは、二十歳そこそこの女性だった。生きていれば、ちょうど自分の娘と同じぐらいである。
倉崎はまだ諦めてはいなかった。何とか冴絵の役に立ちたいと思った。
「ちょっと前を失礼」
助手席のグローブボックスを開いて中を探った。懐中電灯を入れた覚えはないが、マッチかライターでも入っていればと思ったのである。
しかし、それすらもない。
「お嬢さん、携帯電話は持ってないの?」
「お嬢さんは止めてください。冴絵でいいですよ」
彼女はクスクスと笑って言った。
「それじゃあ、冴絵さん。携帯でお家に連絡して迎えにきてもらったらどう?」
「私、携帯持ってないんです」
「へえ、若いのに珍しいね」
「実は今日、留学から帰って来たばかりで」
「ああ、そうだったの。そりゃ困ったね。おじさんも持ってないし」
すると冴絵は意外なことを口にした。
「別にいいんです。私、家には帰りたくないから」
倉崎はしばらくその意味を考えた。若い娘が自宅に帰りたがらないというのは、一体どんな理由からなのだろうか。車内は沈黙に包まれた。
倉崎は話題を変えてみた。
「留学って、どちらへ?」
「ニュージーランドです」
「へえ」
倉崎は感心して言った。
「ああ、なるほど。だから三年もビデオを借りっぱなしだったんだね」
「そうなんですよ。うっかり机にしまったまま、日本を発ってしまって」
そんな話題を自ら振っておきながら、倉崎はしまったと思った。次に彼女がこちらの二年延滞の理由を追求してくるかもしれないではないか。緊張が高まる。
しかし冴絵は何も訊いてこなかった。
倉崎は彼女の気を逸らそうとして話を続けた。
「それじゃあ、英語はペラペラ?」
「いえいえ、日常生活で言いたいことが伝えられる、っていう程度ですよ」
冴絵は笑って言った。
「でも、おじさんからすれば、羨ましい限りだよ」
「そうですか?」
「実はね、僕は中学校で英語を教えていたことがあるんだ」
「へえ、英語の先生ですか。凄いですね」
冴絵は声を弾ませた。
「いやいや、ちっとも凄くないよ。留学の経験もないし」
「尊敬しちゃいます。私も教師になりたいと思ったことがあるので」
他人からこんなふうに褒められたのは、生まれて初めてかもしれなかった。倉崎は新鮮な気持ちになった。照れを隠すため、両手で頬を擦った。
「先生はどちらの中学校で教えていたのですか?」
冴絵は興味津々といった様子である。
「君は、どこの中学校に通っていたの?」
倉崎は訊いた。
「第一中です」
「ああ、そう。僕は隣の第二中で教えてた」
「そうなんですか。家が校区のぎりぎりにあるので、区割が違っていたら、先生の教え子になっていたかもしれません」
冴絵は少し興奮気味に語った。それから、
「中学時代か。今となっては懐かしい思い出ですね」
と言った。
「君は明るい性格のようだから、友達はたくさん居たでしょう?」
「ええ、まあ」
「みんなどうしているの? 今でも会ったりする?」
「ずっと留学していたから、ほとんど会ってませんね。東京へ行った子もいれば、もう結婚した子だっていますから」
冴絵はフロントガラスの先を見つめていた。闇の中では粉雪が舞っている。
「亡くなった子もいるんですよ」
その言葉に、倉崎の心はえぐられるようだった。
「その子とは一番仲がよかったのに」
「どうして亡くなったの?」
知らないうちに声が震えていた。
「交通事故です。忘れ物を取りに戻って、事故に巻き込まれたのです」
冴絵は声を詰まらせた。
倉崎は一瞬であの日に帰っていた。
授業中、突然乱暴に扉を開けた者がいた。教頭だった。取り乱した様子で、意味不明な言葉を繰り返した。後から考えると、それは悲しい知らせを信じることができなくて、自分が何度も聞き直したに過ぎない。
その日、二度目に娘の姿を見たのは、遺体安置所の中だった。朝出掛けた時と同じ服装で横たわっていた。声を掛けても目は閉じたままだった。よく見ると、白い夏の制服に真っ黒なタイヤ痕が斜めについていた。
倉崎がふと我に返ると、冴絵は隣で泣きじゃくっていた。
「君は優しい子だね」
倉崎は自然と冴絵の頭に手をやると、身体に寄せるようにした。涙をすする音だけが車内に響いた。
冴絵の親友とは、紛れもなく自分の娘でもある。片や留学先から、片や刑務所から戻った二人が偶然に出会いを果たし、今は同じ亡き人のことを語り合っている。果たしてこんな偶然があるのだろうか。理性が保てなかった。
「彼女はどんな子だったの?」
「目のよく動く可愛い子でした。私、クラスでは背が低い方でしたけど、彼女はもう少し低くて、いつも冗談混じりに背を比べ合ってました」
「身長が低いせいで、みんなにからかわれていなかった?」
冴絵は一笑に付した。
「そんなことは全然ないです。彼女は勉強ができたから、みんなから尊敬されてました」
その言葉に倉崎は温かい気持ちになった。
「その子とは、どんな思い出がある?」
「いろいろありますよ」
冴絵は泣いた後の鼻声で、
「英語が得意でした。英語はクラスの誰にも負けたくない、って頑張ってました」
「どうして?」
「それは、お父さんが英語の先生だったからです。きっとお父さんのことを尊敬していたんだと思います」
倉崎は心が動いた。それは初めて聞く話だった。冴絵に悟られないよう、こっそり涙を拭った。
「実は今回の留学は、彼女の希望でもあったのです」
それも初耳だった。
「いつか二人で一緒に留学しよう、って約束してたのです。休み時間になると、よくそんな話をしてました」
「冴絵さんはその夢を叶えることができたんだね」
しかし娘には叶えることができなかった。それは口にはしなかった。
冴絵は急に両手で顔を覆った。
「ごめん、ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないよ」
後部座席に置いてあったティッシュペーパーを渡した。
「どうもすみません。彼女のことを思い出すと涙が止まらなくて」
倉崎はしばらく黙っていた。
この世を去っても、これほど想ってくれる友達がいて、娘は何と幸せなのだろうか。そして冴絵に感謝する気持ちで一杯になった。
「彼女が生きていたら、今夜はここで三人一緒に話をしていたかもしれませんね」
倉崎は少し笑った。
それから黙ってラジオのスイッチを入れた。話題を変えようと思ったのだ。
スピーカーからは陽気な音楽が溢れ出した。
「あら、ラジオは聞けるのですね?」
「うん、これはエンジンとは別だからね」
チャンネルを替えても、明るい音楽やトークばかりが押し寄せてくる。
突然、女性が、「クリスマスイブ」という言葉を発した。
そうか、すっかり忘れていた。今日はイブだったのだ。
「冴絵さんは、イブの予定はなかったの?」
「私、今日、日本に帰ってきたばかりですから、予定なんてありません」
と笑った。
「ご家族とは一緒に過ごさないの?」
「実は、お父さんとは大喧嘩しまして」
「どうして?」
「帰国するなり、就職のことをどう考えているんだって怒るんです。みんなはお前が遊んでいる間に、しっかり就職活動をして、優良企業に就職しているというのに、お前ときたら、いい歳して夢だとか希望だとか、浮かれたことばかり言ってるって」
「そうだったの」
父親と喧嘩した手前、家は居心地が悪いのだろう。帰りたくないという気持ちがようやく理解できた。
「だから三年間放置してあったビデオを返して、今晩はそのまま帰らないつもりだったのです。父に対するささやかな抵抗ですね」
冴絵は自嘲気味に言った。
「本気で家出する訳じゃないんでしょ?」
倉崎が慌てて訊くと、
「はい。もちろん、そんな勇気もお金もありませんから。単なる自己主張です。今夜はここで倉崎先生と過ごします」
「ごめんね。こんな寒い車の中で」
「いえ、いいんです。何だか今の気持ちとぴったり合ってます」
「でもご家族が心配するんじゃないかな?」
「これでいいんです。心配させてやるぐらいがちょうどいいんです」
冴絵は小さく笑った。
彼女は知性も理性も備えた娘である。滅多なことはしないだろう。教師としての勘がそう告げる。
「でも、これからどうしようかな?」
彼女はそう言って倉崎の方を向いた。
「だって周りに相談できる人はいないし、困っちゃったな」
そう言うと、わざと口を尖らせた。明らかに彼女は自分に面倒を見てもらいたいと思っているのだ。そう言ってくれるのを待っている。生徒に慕われていた教師時代が自然と思い出された。今でも自分を頼りにしている娘がいる、そう思うとささやかな誇りが生まれた。
「僕でよかったら、いつでも相談に乗ってあげるよ。困った時はまた会ってあげるよ」
「本当ですか? 約束ですよ」
「ああ、嘘は言わないよ。だから今夜はもう家に帰ろう」
冴絵は倉崎に抱きつくようにした。長い留学のせいか、彼女は知らず知らず大袈裟なアクションをしてしまうようだ。
「先生、もう一度エンジン掛けてみて」
「分かった、やってみよう」
しかし車の機嫌は直っていなかった。二人の前で虚しい金属音だけがした。
「映画だったら、ここでブルンって掛かるところなんだけど」
冴絵はそんなふうに言った。
「人生、そんなにうまくはいかないさ」
倉崎はそう言ってドアを開けた。
「どうするんですか?」
冴絵の問い掛けに、
「大通りへ出て、ガソリンスタンドを探すよ。君はここで待っていてくれ」
と言った。
「私も一緒に行きます」
「でも、外は寒いよ」
「大丈夫です、私を置いていかないで」
冴絵は反対のドアから勢いよく飛び出した。
「倉崎先生。今夜は私のお父さんになってください」
そう言って抱きついてきた。
倉崎は慌てて身体を引き剥がした。
「冴絵さん、君はもしかして友人が僕の娘だってことを知ってたのかい?」
彼女はそれには何も答えず腕を組んできた。
「お父さん、さあ、早く行きましょう」
倉崎は身体が軽く感じられた。
二人は並んで歩き始めた。娘とともに薄く積もった雪を踏みしめる度、倉崎は生きる力がみなぎってくるような気がした。
それは不思議なクリスマスイブだった。
完




