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車のドアを開けた途端、爪先から冷気が駆け上がった。一瞬にして顔から表情が奪い取られる。深夜にかけて雪が降るという予報もあながち嘘ではなさそうだ。
倉崎基治はコートの襟を立てると、車内に向かって上半身を折り曲げた。助手席を手でまさぐると、固めのビニールに手が触れた。その頑丈な袋には半透明のポケットが縫い付けてある。
そこには一枚の伝票が入っていた。気の遠くなるような文字が刻印されている。事情を説明したところで、果たして店員の理解は得られるだろうか。
店舗は駐車場とは離れた高台にある。この場所からは見えない。それにしても強い違和感を覚えて、辺りを見回した。
大駐車場には自分の車だけがぽつりと浮かんでいた。この時間、四方を囲むビルの明かりはすっかり消えて、深い森へと一人迷い込んだようである。
遠い記憶では、このビデオ店は確か二十四時間営業の筈だった。そんな店にこれほど静かな時が訪れるのだろうか。少々気味が悪い。
腕時計に目を落とした。時刻は十時を少し回ったばかりなのである。不景気の煽りを受けて、店の営業時間が変ってしまったのだろうか。それとも、たまたま休業日にでも当たったというのか。
結局理由は分からぬまま、倉崎は歩き始めた。元来、真面目な性格である。どんな事情があるにせよ、借りた物は返さねばならない。全てを精算して終わりたい、そんな気持ちに偽りはなかった。
大駐車場の端まで辿り着くと、その先は急な石段に変わる。店舗はこの上にある。
遠くの空には溢れるほどの星が輝いていた。冬の夜空は、どうしてこれほどまでに人の悲しみを増幅させるのだろうか。
どこかで自転車のブレーキが響き渡った。それを合図に、犬の遠吠えが始まった。
徐々に店舗が姿を現した。
まさか、とは思ったが、どうやら悪い予感は的中した。
店舗は黒い塊と化して、倉崎を待ち構えていた。人の気配は微塵もない。大きなガラス窓からは、がらんとした室内が隅々まで見渡せた。
思えば、幼い娘の手を引いてこの石段を上ったものだ。店内の柔らかな照明が二人を優しく包み込んでくれた。いつも人々の喧騒で溢れかえっていた。
娘との思い出がまた一つ消えてしまったのだ。胸のどこかが痛んだ。
闇の中に、真四角な紙が一枚浮かび上がっていた。
『都合により閉店しました。長らくのご愛顧、誠にありがとうございました』
日付が書き添えてある。それは二年前のものだった。
二年。それだけあれば、人や街が変わってしまうのに十分だ。倉崎もまた、その一人なのだった。
二年の刑期はとても長いものだった。刑務所での生活は、生きる情熱をすっかり奪い取ってしまった。
出所したところで、暖かく迎えてくれる者は誰もいなかった。一人寂しく戻った自宅には、もちろん何もなかった。いや、玄関の靴箱の上で、レンタルビデオの返却袋が出迎えてくれた。おそらく妻が部屋の整理をして、目のつく場所にと置いていったのだろう。
もはや生きる希望など少しもない。どうやってこの世を去ろうか、ずっとそればかりを考えている。
人生の最期に、借りたビデオを返せなかった。ある意味、これは自分の人生を象徴する結末なのかもしれない。
いつだってそうだ。人からは愛情をもらっておきながら、それに報いることができないのだ。
不慮の事故で命を落した娘。夫の暴力に耐えかねて家を出ていった妻。今になって、愛情の一欠片でも返してやれなかったことが悔やまれる。
長年、教師として中学生とともに日々を送っていた。彼らの成長を見るのは楽しかった。しかし仕事にのめり込めば込むほど、最も大切にすべき娘に何もしてやれなかった。彼女は親の愛情を満足に受けぬままこの世を去った。
娘の死は父親を廃人にするに十分なものだった。
学校の女子生徒が、自分の娘と重なって辛かった。職場には足が向かなくなった。現実逃避しか道はなかったのだ。
毎日アルコールで気を紛らせ、仕事も辞めた。妻には暴言を吐き、暴力まで振るった。妻に非はない。彼女には申し訳なく思う。娘を亡くした苦しみは同じ筈なのに、彼女に辛く当たった。さらに苦しみを与える結果となった。
そして今、自分はその罰を受けている。回りまわって、自らを孤独に追い込むことになった。
今夜はこのビデオ店で、最後の裁きを受けるつもりだった。二年間に渡る莫大な延滞料を請求されれば、とことん自分を追い込むことができた。アルバイト店員に罵られ、大勢の客の前で土下座でもすればよかったのだ。代金が支払えなくて、警察にでも連れていかれたら、自分の哀れな境遇を一晩でも語るつもりだった。
自ら命を絶つのはその後でも遅くない。そう考えてここまでやって来た。しかしそんな願いも受け入れてもらえない。もう生きている意味すら分からなくなった。
この後、雪が降るらしい。今夜は人生の幕引きにちょうどいい夜かもしれない。さっさと車に引き返して、どこか遠くへ出掛けるとしよう。
どのくらいその場に立っていただろうか。
ガラス窓を通して殺風景な室内をぼんやりと眺めていた。それは何十分のようでもあり、ほんの数秒のようでもあった。
「あら?」
突然、背後から声がした。倉崎は現実に引き戻された。
振り返ると、そこには女性と思しき影があった。
「このお店、もしかして潰れたのですか?」
若い女の声だった。
「そうみたいですね」
倉崎の返答に、彼女は沈黙した。何かを必死に考えているようだった。
「あの、こういう場合、借りていたビデオって、どうすればいいのでしょうか?」
彼女の吐く白い息は、たちまち空へと昇っていく。
「あなたも返却に来たのですか?」
「ええ、そうなんです」
そう言って、彼女はハンドバッグから四角い包みを取り出した。それは倉崎と同じ返却袋だった。
「まさか、ここに置いていく訳にはいきませんよね?」
彼女は少し首を傾げた。
「ここはもうビデオ店じゃないから、それも変ですね」
倉崎は冷静になって言ったが、その先の答えは持っていなかった。
「どうすればいいのかな? 延滞料も払わないといけないのに」
「延滞ですか?」
倉崎はすかさず訊いた。
彼女は、ふふふと笑って、
「実は、三年間の延滞です」
と言った。
「三年?」
「驚かれたでしょ?」
「ええ、まあ。でも私も二年延滞ですから、そんなに変わりませんがね」
「へえ、二年ですか」
今度は彼女が驚いた。
「我々の延滞料を取り損ねて、潰れたんじゃないでしょうね」
倉崎が真剣な声で言うと、
「まさかあ」
彼女は笑い出した。
「それにしてもこのビデオ、どうしましょうか?」
彼女はさっきと同じ質問を繰り返した。
「そうですねえ」
借りた物は返すのが筋だが、ここに置いていくのは少々気が引ける。ここはもうビデオ店ではないのだ。不動産の管理者からすれば、不法投棄である。
「やはり、このまま持って帰りましょう」
「そうですよね」
彼女も賛成した。
「それじゃあ、帰りましょうか?」
二人は並んで階段を下った。
高台からは駐車場が一望できる。自分の車の屋根が月明かりでぼんやりと浮かび上がっていた。
倉崎は、おやっと思った。この女性はどうやって来たのだろうか。
「歩いてここまで来たのですか?」
もしそうなら、車で自宅へ送り届けてやるのもやぶさかではない。こんな寒空の下を歩くなど、考えただけでもぞっとする。
「いいえ、自転車です」
倉崎は暗闇の中、目を凝らした。確かに石段近くに三角形のフレームが光っていた。
「あっ、そうだ。鍵を探さなきゃ」
彼女は突然そう言うと、駆け足になった。
「鍵をなくしたんですか?」
コートの背中に向かって声を掛けた。
「実はさっき落としちゃったんですよ。暗がりでよく見えなくて。それで店員さんに懐中電灯を借りよう、って思ってたんです」
「どれどれ」
倉崎は地面に這いつくばるように探した。すっかり目は暗闇に慣れている筈だが、鍵は見当たらなかった。
よく見ると、すぐそばに用水路があった。格子状の蓋の下は意外にも水の流れは速かった。
「ひょっとしてこの中に落ちたとか?」
「そうかもしれませんね。チャリンって音がしなかったから、中に落としたのかも」
「ちょっと待ってて」
倉崎は車まで駆けていった。乗り込んでエンジンキーを回した。だが寒さのせいだろうか、不快な金属音を立てるだけで始動しない。しばらく時間をおいてみても、結果は同じだった。どうやらバッテリーが上がってしまったらしい。
「こりゃ、まいったな」
倉崎は諦めて彼女ところへ戻った。
ひらひらと雪が舞い始めていた。
「僕の車も動けなくなってしまいましたよ。ここへ持ってきてライトを照らそうと思ったのですけど」
「それはご親切にありがとうございます」
彼女はペコリと頭を下げた。しかしこのままでは親切にもなっていない。何か他に手はないだろうか、倉崎は考えた。
「家までは遠いの?」
「歩いて一時間ぐらいです」
「そっか。とりあえず車の中で考えましょう」
倉崎は提案した。
「そうですね、ありがとうございます」
彼女の髪に小さく雪が積もり始めていた。




