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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
~序章~    《千紫万紅》
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第五話     皇不在の御世




「叛乱を起こしたエルゼリア侯は、戦力の大半を分散配置しているとのことです。姫様、各所撃破の好機かと」


 エルザの報告に「そうですか」とだけ、アリアベルは応じる。


 《ヴァリスヘイム皇国》、皇都中央部に位置する帝城の摂政執務室。その豪奢な椅子に座して溜息を吐き、黒檀の机に頬杖を突いて皇御巫(おおみかんなぎ)……アリアベルは思考の海へと浸る。


 ――私にはこの内乱を止められない……でも、今、決戦を挑んで勝てるかしら?


 黒檀の執務机に広げられた地図を見て思い悩む。分散しているから勝てるのか? 否、相手もそれを理解しているはずである。分散するという事は、その行動自身にもそれ相応の理由と打算があると考えるのが自然。


 アリアベルの本職は皇御巫であり、同時にクロウ=クルワッハ公爵令嬢でもあることから、皇国龍種の頂点たる血縁でもある。皇御巫として選定されたのは有力貴族の中で最も才能に恵まれたからで、それ相応の権限が集中していた。そして、天帝を招聘させた後は、それを心身共に輔弼……即ち第一皇妃となりあらゆる面から補佐する定めを持っていた。


「七武五公が不干渉を貫くなんて……」


 究極的に考えるとその案件に行き着いてしまう。皇国という国家は多民族国家である以上に多種族国家である。多種多様な種族が国内に点在しており、人と共存している。だが、基本的に人と同じ姿を取れる事や、その長命ゆえに温厚な性格の者が多く、基本的に人間種や他種族との諍いは少ない。アリアベル自身も龍へと変じることができるが、余程の事がない限り姿を変える事もない。他の者も同じで基本的に人の姿で生活している。これは、基本的に人間の基準で作られた物などを扱う為だ。


 そんな数ある種族の中で、特に強大な権勢を誇る集団が存在する。



 七武五公。



 七つの武家と五つの公爵家からなる皇国の政戦に於ける支柱である。


 七武家は軍事に秀でた貴族に与えられる称号で、国内に於ける強大な武門と言える。その称号は権勢と規模、能力によって持つ家が変化する。貴族とは違い、その武家の称号は生まれながらの特権階級を示すものではなく、戦果と国家に対する軍事的挺身によって判断される。このことから軍事的支柱と言えた。


 対する五公、五公爵は建国以来不変の固定された門閥貴族であった。建国時に初代天帝に従臣した中でも特に政戦に活躍した一家に与えられた称号である。一つの公爵家を除いて大公国と称しても差し支えない規模の領地を有し、法的権限や他貴族に対する圧倒的なまでの影響力を持つ政治的支柱である。


 アリアベルの生家は、七武五公の一つであるクロウ=クルワッハ公爵家であった。そうした理由もあって、七武五公の大多数とは面識がない訳でもない。



 神龍族の頂点たるクロウ=クルワッハ公爵。

 神狼族の頂点たるフローズ=ヴィトニル公爵。

 神虎族の頂点たるケーニヒス=ティーゲル公爵。

 天狐族の頂点たるケマコシネ=カムイ公爵。

 熾天使族の頂点たるネハシム=セラフィム公爵。



 五公爵と称される五つの公爵家。皇国では、事実上、公爵家はこの五つしかなく、公爵家と称せばこの五つの家の(いず)れかとなる。その全てが建国と治政に多大な貢献をした家であるが、天狐族に関しては例外である。建国以前は、貴重な火力戦力と言えた魔導軍を指揮下に収め、建国後は司法整備で多大な貢献をしながらも、それ以降は一線を引いて中央の政治には一切関わりを見せなかった。その上、所領を望まず、北部の何処かに在るという隠れ里に引き籠っている。貴族院の議席があるにも関わらず、一度たりとも出席せずに棄権し続けていることからもその徹底ぶりは理解できる。


 所領すら拒んだ狐達の思惑は、アリアベルにも分からない。


 大公国に近い規模の所領。大公国とはその地の指導者に治政や軍事などの全権が委任されている領土で、基本的に国営と同等の権限が指導者に与えられており、その実態は国家の中に存在する国家と言える。実質的な独立国を有するに等しいのだ。無論、皇国陸軍に比すれば兵力に劣るものの、それ相応の軍事力も有している。


 だからこそ、ケマコシネ=カムイ公爵以外の五公爵の支援の有無次第で状況が大きく変化する。


「せめてクロウ=クルワッハ公からの支援は受けられないのですか?」


「無理よ。御父様が身内だからと軍を動かしてくれるはずはないもの」


 エルザの言葉を、アリアベルは力なく首を横に振って否定する。アリアベルの父にして五公の一人であるアーダルベルト・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハは厳格にして貴族をその身で体現する男だった。例え身内の懇願であっても私的な理由で軍を動員することはないだろう。


「御父様は身内に甘いと思われたくないだろうし……この一件に限っては一番説得しにくい相手よ」


「し、しかし、国家擾乱の危機に際して無視を決め込むというのは初代天帝陛下に対してあまりにも……」


 父を信用できないと断じたアリアベルに、エルザが慌てる。今では近衛士官であるエルザも、その前はクロウ=クルワッハ公爵領ドラッケンブルクに在住していた。エルザの父親はクロウ=クルワッハ公爵領邦軍で部隊を指揮する高級将校でもある。そして、士族家系ということで、幼い頃はアリアベルの近習として常に共に在った。


「では、一体――」


「そうね……一体、如何したらいいの」


 打つ手など思いも付かない。アリアベルが皇御巫(おおみかんなぎ)に選定された後、エルザはその護衛を拝命し、皇都ヴェルクハイム・ハウプトシュタットまで付き従ってくれた。そこまでしてくれるエルザは姉のような存在であり、できるなら心配させたくはないが、現状は如何ともし難い。


 つい口から溜息が漏れてしまいそうになる。


「エルゼリア侯は何故、叛乱など起こしたのかしら?」


 それが最初の疑問だった。それさえ分かれば、解決の糸口が見つかるかも知れない。確かに北部と中央部の貴族の間には軋轢があったが、刃を向け合うほどではないと考えていた。


「エルゼリア侯は心根のお優しい方です。圧政を敷いていたという話も聞きませんので……」


 エルザにも分からないようだ。


 エルザの一族であるエルメンタール家もエルゼリア侯爵家も武門の家系。共通点は多く、多少の面識はあるのだろうが、そのエルザですら分からないとなると個人的な理由からくる叛乱ではないのかも知れない。だが、政治的な理由や要求であれば何かしらの通告や返答があるはず。


「分からないわ……。でも、経済的に孤立していたことが原因なのでしょうね」


「しかし、叛乱である以上、放置するわけにはいきません。国威に関わります」


 エルザが最もなことを言う。そんなことは分かっている。放置すれば他の貴族も軽挙妄動に走る可能性があり、隣国……特に《スヴァルーシ統一帝国》の侵攻を招く結果すら有り得る。皇国と帝国の間にはエルネシア連峰という極めて標高の高い山脈がある。帝国の気候も寒帯で大軍の移動にはかなりの準備期間と膨大な物資が必要となる。直ぐさま軍を動員したとしても、戦力投射にはそれ相応の時間が必要となるだろう。


 帝国が幾多の周辺諸国を併合し、その権勢を強大なものにせしめた理由の一つとして、旧文明の遺産がある。出土した旧文明の兵器を模倣した火器は帝国軍の中核武装として運用されている。戦車や遊底動作(ボルトアクション)式小銃の運用と人海戦術こそが、帝国の外征戦略の主柱であり国防戦力なのだ。科学技術を支柱とした政策こそ帝国の真髄であった。


 兵数の上では皇国は圧倒的不利。今まで有効な防衛戦を展開できたのは専守防衛を主軸とした戦略思想と武装、編制、そして何よりも亜人などの様々な種族を効率的に運用できるだけの優秀な指揮官に支えられての事だった。


 だが、それも内乱が長期化すればどうなるか分らない。


 悩むアリアベルを見て、エルザが軍人としての意見を述べる。


「帝国の主要な侵攻路にはエルライン要塞が存在しますし、今まで一度も抜かれた事もない要塞ですからきっと大丈夫です、姫様」


 近衛軍は然して関わっていないとはいえ、何十年もの歳月を掛けて築き上げられた国威の象徴には絶対の自信があるのだろう。



 エルライン要塞。



 それは、皇国と帝国との間に位置するエルライン回廊に皇国が建設した巨大な要塞であった。エルネシア連峰が二国を分断するように存在しているが、エルライン回廊だけは大軍の移動が可能な山間で、帝国の侵攻路は自然とエルライン回廊近傍に集中する。


 山間を封鎖するように建築されたエルライン要塞は、幾つも連なる巨大な堡塁を防護壁で連結した壁を四重にした巨大要塞で、それぞれの側壁が対重砲装甲、対魔導防禦術式を実装しており、火力的にも魔導的にも帝国軍の戦術兵器では貫徹不可能とされている。


 そして、その後方には本陣と策源地を兼ねた巨大城郭があり、その全てを含めてエルライン要塞と呼称する。


「嘗てと違い火砲も将兵も増強されていますので帝国軍が侵攻してきたとしても防げるかと」


 それはアリアベルも知っていた。


 駐屯戦力である要塞駐留軍は、五個師団強の約五五〇〇〇。火砲は重砲、軽砲、野砲、臼砲、曲射砲、平射砲、要塞砲、迫撃砲、加農砲、榴弾砲、山砲など多種多様なものを展開させており、実に皇国陸軍の八分の一という砲を集めているのだ。


「凄まじい火力とは聞いているのだけど……」


「あれほどの砲を集めたのです。帝国の人海戦術にも負けはしません」


 アリアベルには良く分からないが、エルザが言うには、狭隘なエルライン回廊では火力集中が非常に有効だそうだ。それは逆に要塞から出れば万に一つも勝ち目がないと迂遠に言っている事に他ならないのだが、エルザは気付かない。


 不安になるアリアベルだが、それを表情に出さないようにする。


 逆に言うなれば、帝国が動くということはエルライン要塞を攻略できる算段があるということになるのだ。



 だが、主要な侵攻路はもう一つある。



「では、エスタンジア地方は?」


 アリアベルは、エルライン回廊よりも大軍の運用が可能なエスタンジア地方を危惧していた。皇国と帝国の狭間にある大星洋沿いのエスタンジア地方は基本的に峻険な地形であるが、大軍が行軍できる地形も存在する。


「あちらは朋友たる南エスタンジアが護っております。彼の国には我が国が軍備の梃入れをしておりますので、ある程度の持久は可能かと」


 エスタンジア地方には二つの国家が存在するが、国際的には一纏めに《南北エスタンジア》と呼称されることが多い。《南エスタンジア社会主義連邦》と《北エスタンジア王国》という二国に分裂した分断国家であるが、双方共に国土も小さく経済規模もそれに応じたものでしかない。


 国土は峻険な山岳地帯が大半を占め、そのことから周辺諸国から仮想敵国とされることもなく存続してきた《エスタンジア王国》が、四〇〇年程前、発生した社会主義革命によって《南エスタンジア国家社会主義連邦》と《北エスタンジア王国》に分裂した。大方の予想では社会主義勢力が一掃されるはずであったが、突然現れた男性指導者の狂信的な扇動能力によって大方の予想を覆す。そして、帝国と皇国にとり地政学的に侵攻路となり得る要衝であり、互いに国土に面している勢力を国家として承認し、緩衝地帯とした。共に長年の戦争で疲弊しており、国土と人心は荒廃し、周辺諸国への亡命者が相次いでいる。


 エルザが南北エスタンジアの軍事情勢の説明を続けているが、不明瞭な部分は多い。


 南北エスタンジアは、両国の思惑によって緩衝地帯として生かされている。それは、皇国と帝国の(いず)れかの国が、緩衝地帯であることを望まなくなれば均衡が喪われる事を意味する。その存続に法的拘束力すらない以上、その維持は関係国全ての暗黙の合意によって維持されているに過ぎない。帝国がエスタンジア地方での開戦を望めば、(たちま)ちに火達磨となるだろう。


 所詮は小国。


 以前の南北エスタンジア方面に於ける衝突は、老若男女問わない徴兵による血みどろの攻防戦となり、皇国と帝国は同盟国を積極的に支援して思惑を押し付けた。


「最近の南エスタンジアは、件の年若い女性総統の手腕で経済的に回復しつつあります。南北エスタンジア内での戦いなら南側が有利でしょう」


 苦しい慰めである。南北エスタンジアは、その国防が皇国と帝国の都合によって変化する。彼らの国内事情は両国の軍事行動からすると然したる意味を持たない。


 ――やはり、私が動くしかないようね……


「閣僚と陸海軍府の長官を招集してください。緊急会議を行います」


 アリアベルは立ち上がる。


 只でさえ今代天帝の崩御から、かなりの時間が経過している。その政治的、軍事的間隙は他国が領土欲を掻き立てるには十分な程である事を考慮すれば、これ以上国事を混乱させるわけにはいかない。


 ――そして何よりも、国の将来を明るいものにしようと散って逝った巫女達の為に。


「姫様……もしや」


「ええ、決めました……五公爵が自領の防衛を優先するのであれば、私だって好きにさせてもらいます」


 エルザは苦笑して、手配致しますと一礼する。長年の親友はアリアベルがこうなれば絶対に意見を曲げないと知っているのだ。


「私が国事を掌握します」


 その決断は、皇国の救いとなるのか、或いは火種となるのか。


 この時点で、皇国の行く末を知る者は一人としていなかった。












「ミユキ?」


 目の前で、尻尾を左右に振りながら、嬉しそうに歩くミユキの背に言葉を投げ掛ける。トウカの問いかけに、ミユキは両手を広げて振り向く。


「はい、何でしょうか、主様(ぬしさま)!」


「ここはどの辺りだ? 雪ばかりで方角も分からない」


 二人が街道を歩き始めて三日が経つが、雪中を歩くばかりで人一人出くわすことはなかった。街道を歩いているらしいが、深雪に覆われて足元の石畳すら見えないので遭難している気がしてならない。


「あと、一日でベルゲンに着きますよ。頑張ってください」


「ああ……やはり狐が大自然で迷子になる事はないのか」


 腐っても狐なのだから野生の勘みたいなものが働くのかも知れない。嬉しそうに動いている狐耳を見て、トウカはそんな感想を抱く。


 取り敢えず、二人は都市を目指しているのだが、実はその先の予定は全くない。



 ベルゲン。



 それは北部地域と中部地域の交易拠点となる大都市である。噂によれば巨大な城塞都市らしく北部方面最後の防御陣地としての役割も担っているらしいとトウカは聞いていた。ここを通過されると五公爵の一人であるクロウ=クルワッハ公爵領へと続くらしく、強力な守備隊も駐留しているとの事であった。そして、北部の物品流通の中心であり経済面でも要衝ということで、大変に活気のある都市とミユキは語ってくれた。擬音が多分に入り混じった解説だったのでその程度しか分からなかったが、一生懸命なミユキに不満など漏らせるはずがない。


「さて、どうするべきか……」


 前を元気に歩くミユキを眺めながらトウカは考える。この世界で何を成すかは決まっていた。故郷へと回帰する術を探すのだ。


 大都市と言うならばそれなりの情報と物資が激しく出入りしているはずであり、何かしらの手掛かりを得られる可能性がある。ミユキに聞こうとも考えたトウカだが、移動に関わる魔術は全く知らないと笑顔で言い切られていたので断念した。


 実はミユキには、まだ自身の全てを話していない。信頼していない訳ではなく、異世界や《大日連》の事を話しても理解できないであろうし、無理に全てを打ち明けても混乱するだけだろうと判断したからである。いずれ順を追ってゆっくりと説明すればいいと考えていた。


 済し崩しで旅路を共にする二人。


 トウカはミユキの好意に曖昧な姿勢を貫いていた。この身が如何様な末路を辿るか不明瞭である以上、軽々しく女の好意に応える訳にはいかないという心情からの態度であった。


「……本当に瞳は黒いままか?」


「はい、大丈夫です……それ、今日で五回目ですよ?」


 トウカの瞳は黒に変化していた。これは、紫水晶(アメジスト)の瞳は目立ちすぎるということで、ミユキが認識阻害魔術で色を偽装していた。胸衣嚢(ポケット)に入っている護符が大気中の魔力を少しずつ抽出し、自動で認識阻害魔術を展開しており、高位の術者でもないと見極める事はできないとミユキが豪語するそれにトウカは酷く驚いていた。皇軍が欲しがること請け合いの技術である。


 ――紫水晶は我らが伝説、ね……


 紫は元々、原料となる植物の名前であり、その植物の根を染料にしたことから、これにより染色された色も紫と呼ぶ様になった。古来、紫は気品の高く神秘的な色と見られ、原料となる紫草の栽培が極めて困難だった為に近代以前は珍重されていた。


 大和民族に分かり易い一例を挙げるとすれば、聖徳太子の定めた冠位十二階がある。紫は最上位の大徳の冠の色とされていた。古代では紫色の抽出は困難で、貴重な色とされていたという理由も大きい。紫が国王や最上位の地位を表すようになったのは、在りし日の《羅馬(ローマ)帝国》皇帝が紫で染めた礼服を着用し始めた事に端を発する。以来、多くの国で王位や最上位を表す色に紫を使うようになり、皇帝はその着衣に紫を纏った。


 古来より紫とは幻想的であり高貴な色だったのだ。


「国を統率する色ということか……」


 トウカは苦笑する。


 ――何故、自身の瞳が紫なのか? 


 今のところ、思い当たる節はない。だが、この紫色を神聖視する国で、その色の瞳を得た事が偶然とは思えない。


 ――まさか、な。もしそうであったとしても、俺は救国の英雄になる気なんてないが。面倒は御免蒙る。


 酷薄な笑みを浮かべるトウカ。そこで前を往くミユキの声が、彼を現実に引き戻す。


「主様、主様、今日はこのあたりで野営しましょう。丁度、宿泊所もあります」


 ミユキは街道の横に佇む木造の小屋を指差す。


 《ヴァリスヘイム皇国》の主要な街道には等間隔で小屋が配置されており、商人や旅人が宿泊できるようになっている。これは、《ヴァリスヘイム皇国》通商府が設置した宿泊所で、商人や旅人をある程度の規模で集中して宿泊させることにより、賊に襲われる可能性を軽減するための措置だった。


 トウカは《ヴァリスヘイム皇国》の技術と政治、軍事があまりにも不整合なことに気付きつつあった。


 ――ミユキは小銃と戦車もあると言っているから、文明は第一次世界大戦前後か……いや、それにしては傭兵の装備に銃がなかった。寒村には電線すら引かれてなかったな? だが、宿泊所なんて作るほどには民衆の事を考える治政を行っている……


 技術の割には統治者の道徳(モラル)が発達しているのは喜ばしい事だが、傭兵が寒村を襲撃していた事を踏まえると、民間規模では教育は進んでおらず、地域によるのかも知れないとトウカは考えた。


「主様~、は~や~く~」


 小屋の前で右手と尻尾を振るミユキ。トウカは背嚢を背負い直し、ミユキの下へ駆けてゆく。


 雪化粧の成された木々に隠れていて気付かなかったが、小屋は意外と近いところにあった。気付かなかったのは疲れているからかもしれないと、トウカは眉を顰める。


「誰もいないのか?」


「う~ん、この時期でも旅人が何人かはいるはずなんですけど……」


 ミユキも唸る。二人だけだと宿泊所の意義の半分が失われる。二人だと賊に襲われる確率が減らないのだ。だが、今は雨露と寒風を凌げるだけでも十分である。


 二人は室内に設けられた段差に腰を下ろし、靴を脱いて背嚢を置く。勿論、腰に佩用していた軍刀も同様である。


 この宿泊所の近辺は、雪林などが疎らにある以外は何もない雪原なので賊も襲い難いだろう。しかも、ミユキ曰く、ベルゲンから一日の距離には、守備隊や捜索騎兵小隊の哨戒があるので賊が現れる事はないらしい。


「――あ……」


 トウカは、囲炉裏の設置された居間へと上がろうとして思わず柱に手を付く。一瞬だけだが、身体が重く感じた。思いのほか体力を消耗していたのだと気付いて、トウカは再び眉を顰める。


 この世界に来て初めて安心して休息を取れる。この場は安全らしく、ミユキもいるので気を休めることができる。トウカは、最早ミユキに頼る事に何の躊躇いもなかった。ここまで来ては致し方ない。自身の心から湧き上がるナニカに従い、暫くの行く末を委ねるしかない。


「あっ……薪がないです。取ってこないと……」


 囲炉裏の近くに置かれている木製の箱を見てミユキが声を上げる。確かに薪は入っていない。囲炉裏にも灰しかなく、燃やす物はなかった。公営施設に顧客満足度を求めるのは酷というものである。


「俺が取ってくる。ミユキは準備を頼む」


「じゃあ、お願いしますね。でも、あんまり遠くは駄目ですよ?」


 心配するミユキに頷いて見せ、トウカは再び靴を履いて軍刀片手に扉を開ける。


 敷居を再び跨いで空を仰ぐと、雪は降り止んで夕焼けが出始めていた。暫く夕焼けに目を奪われていたが、ミユキの視線を感じて雪原へと慌てて歩を進める。












 ――ん? 剣戟の音?


 少し離れた山間で薪になりそうな木の枝を拾っていたトウカの耳に、この世界に来て良く耳にする羽目になった金属音が聞こえた。


 音の方角を突き止め、トウカは木々の影を伝う様に進む。逃げるという選択肢もあったが、正体を確認してから行動するべきであろうとトウカは考えた。不明確な対象相手では、どの様な行動が致命傷となるか分からないのだ。騎馬が相手ならば、遮蔽物のない雪原に逃れるのは悪手である。


 そして一際、大きな木に身を隠し、一層、近くなった剣戟の音の方角を盗み見る。


 そこには戦場が広がっていた。


 二つの集団による剣戟による近接戦闘を主体とした戦闘。どちらも統制が取れており、盗賊や(ただ)の傭兵団ではないことは一目瞭然。何よりも銃火器を使用していない事が気になる。一応、双方の集団に中には小銃を背負っている者や、銃剣で戦っている者もいるのだが発砲しようという気配はない。刃には刃で応じねば気が済まないのだろうか。蛮族である。


 どちらからであれば情報を得ることができるかも知れないと、トウカは期待した。彼は二つの集団を比較する。


 一方は、野太刀を主武装とした武士のような具足……和式甲冑の様な防護装備を身に着けた軍勢。その数、約一〇〇名。


 一方は、長剣を主武装とした騎士のような洋式甲冑(プレートアーマー)の様な防護装備を身に着けた軍勢。その数、約二〇〇名。


 どちらも防護装備を身に着けているが、トウカが知るものよりも薄く露出個所も多い。それだけで防ぎきれる打算があるのか、鋼鉄の使用を抑えて量産性を高めているのか、雪上戦を考慮して軽量化を図っているのかはトウカには分からなかった。


 トウカは特に防御の薄い装備をした武士を見やる。己が祖国の在りし日の武士(もののふ)達を思わせる佇まいと戦い方には深く共感できた。


「まぁ、非効率な戦い方だが」


 しかし、この辺りは武士達の土地なのかも知れない。表情を見れば分かる。あれは祖国を護らんとする者の(かんばせ)。大東亜戦争や東亜動乱の際の記憶媒体は現代にも数多く残っており、教育機関では立派な歴史の教材となっている。故にトウカにも見覚えのある表情だった。


 共に肩を並べるなら兎も角、言葉を交わし情報を得るなら武士たちだろう。


 ――ミユキの言っていたベルゲン守備隊か?


 部隊章に肩章、腕章(カフタイトル)という統一された認識章は、正規軍のものと思える。個人的な感情と冷徹な意思がそう決断を下す。義を重んじて仁を以て接してくれるであろうという期待もあるが、侵略者であろう騎士達が敵地で得体のしれない若造に優しく接するかどうかは甚だ疑問だ。


「……腐っても武門の末席というところか……それともじいさんの修練の成果か?」


 だからこそ冷静でいられるのだろう。或いは、トウカがこのような状況になる事を知っていたからこその修練ではなかったのか、とすら思えてしまう。


 ――意味のない考えだ……


 推移してゆく戦局を見ながらトウカは推察を振り払う。詮無い事と割り切る。当人しか分からないであろう心の内と、この超常現象を推し量ることなどこの雪原では不可能だ。


 ――帰ったら刃を交えつつ御爺上様に聞くとしよう。


 軍刀の柄を握り締めてトウカは固く誓う。



 あのくそジジぃ、絶対殺す、と。



「動き出したか……優秀だ」


 武士たちは指揮官と思しき者を中心に突撃に移る。鋒矢(ほうし)の陣形だ。戦意旺盛な事と、指揮官の絶対的自信が窺える。


 トウカの評価は正しかった。鋒矢の陣形とは攻撃的な突撃陣形で、強力な突破力を持つ反面、一度側面に回られて包囲されると非常に脆い。寡兵であれば正面突破に有効だが、主戦場が常に前へと移動することから指揮官の状況把握が難しい。柔軟な機動には絶望的なまでに適さない上に、交戦は基本的に前衛がその大半を負う事となるので長時間の戦闘はできない。側面に対する横撃や、後退しながら半月状に半包囲されれば致命的と言われる所以だ。


 陣の前衛が重厚な敵部隊陣形や火箭により阻止、或いは拘束されれば後方部隊は遊兵となり、前方部隊の壊滅による兵の後退が同士討ちなどの混乱をもたらす危険もある。後方部隊が壊乱する友軍前衛の後退で射線を確保できず、並走する形で突撃してきた敵軍に敗走中の前衛諸共、撃破された例も少なからず存在する。


 故に先頭部隊は非常に危険なので、勇猛かつ冷静な部隊長が必須だ。武士の集団はその全ての条件を満たしている。勝つのは武士達だろう。果敢な陣形。味方の士気は上がり、敵の士気は下がる。


「勇敢だな……まぁ、部下からすると迷惑極まりない話か」


 トウカなら勇猛果敢公明正大な指揮官に率いられて死ぬよりも、卑怯千万卑劣上等な指揮官に率いられて生き残る方が良い。祖父も勇敢ではあったが、兵達を無駄に損なう事は忌避していた。トウカにもその精神は息づいている。


 そして目の前の指揮官にも。信用に値する人物の様だ。少なくともトウカはそう判断した。後は祖父みたいに拳で語ろうとする人種ではない事を祈るだけだ。


 トウカはゆっくりと立ち上がろうとする。


「――ッ!」


 そこで気付いた。


 背後からの気配。それも不特定多数。


 すかさず背後を振り向き、同時に抜刀。目の前には洋式甲冑を身に纏った騎士。右下から斬り上げる。それは反射的なものだった。斜面でトウカの方が位置的に下だったからこその斬り上げであり、それは狙い過たずに騎士の喉を斬った。その上で、喉を押さえ、口から血の泡吹き出す騎士に流れるような動作で足払いを掛ける。


 息の根を止めるまで油断してはならない。そして、軍刀の切っ先を騎士の心臓に突き立てる。祖父が言った通り、軍刀の切れ味は凄まじく、木綿に突き立てたかのように騎士の甲冑を容易く貫き心臓を貫く。


 慌てて軍刀を引き抜き次の敵に備える。


 ――不覚だ。取り乱した! 顔を狙うべきだろう!


 トウカは歯噛みする。


 刀という武器には、映画や小説で描かれている様な耐久性はない。精々切れるのは五人が限度で、それ以降は鉄の棍棒の様に扱う。大太刀や鎧通しなど、そのことを前提に作られている刀も数多くあるが、刀華の軍刀は一般的な形状をした現代刀に過ぎない。


 だが、軍刀には傷一つない。


「よし、悪くない」


 トウカは不敵な笑みを浮かべる。祖父が口にした莫大な開発費は嘘ではないようであった。こうなっては致し方なし。開発費が税金泥棒ではないことを、異世界の地で証明するしかなさそうである。


 不特定多数の騎士達が飛び掛かってくる。散兵か別働隊までは不明であるが、然したる数ではない。


 この表情を祖父が見れば嘆いただろう。


 鬼神の如き笑み。


 実際は、この極限状況の所為で自暴自棄になっているだけであった。寒さによって精神を擦り減らされた挙句に、不特定多数の騎士に斬り掛かられている今この状況。異世界という胡散臭い場所へと堕とされた事も気に入らない。


「上等だ……」


 軍刀を正眼に構え直す。


 基本的に温厚だが、この状況で体面など気にしていられない。そもそも気にする心算などトウカにはなかった。ミユキも見ていない。訳の分からない世界に放り出されて溜まった鬱憤が噴出する。


「神州男児を舐めるなぁ!」


 その怒声はこの場にいた全ての戦士に聞こえたという。










「あの若人は一体……」


 斜面で一個分隊程度の数の騎士と壮絶な斬り合いを演じている少年を見て、老将は深く唸る。自身も黒衣の騎士と鍔迫り合いを演じているのだが、それでも尚、目を奪われてしまう。


 裂帛の戦意と、疾風の如き剣技。


 剣の国とも称される皇国や、刀の国と称される神州国にすら存在しない洗練された剣技。そしてそれを十全に扱うだけの身体能力と意志。


 外套は国防色であるものの、髪や服装は黒で統一されているその姿は、英雄としての紫とは違う畏れを抱かせた。


 漆黒の疾風が、雪の大地に鮮血を撒き散らす。老将はその戦い方を理解できた。嗤いながら敵の喉ばかりを切り裂いているのは、呼吸できずもがき苦しむ敵の姿を見せつける為だろう。正道の戦い方ではない。敵を怯ませ、効率的に斃す事のみを優先した剣技。故意に敵の身を抉り、血風を振り撒くように戦う事で敵の戦意を削ぎ、その上で恐怖を植え付ける。


 軽鎧とはいえど軍用。魔導紋章が刻印されており、物理的、魔導的に高い防護能力を持っている。それを容易く切り裂き、圧倒して見せた少年の技量は、多くの《ヴァリスヘイム皇国》陸軍軍人よりも卓越していると言わざるを得ない。


「閣下、敵は壊乱しつつあります! 追撃許可を!」


 老将は迷った。


 今、戦っている敵は帝国の装備を身に着けている。エルライン要塞とエルネシア連峰によって交通の遮られた北部からの侵入は現実的ではない。大陸中央部、中原に近い小国の乱立している《中央諸国領》を分散や擬装して通過、或いは大星洋に面するアトランティス大陸東部……《ヴァリスヘイム皇国》と《スヴァルーシ統一帝国》の間に位置する《南北エスタンジア》地域辺りからの密入国だろう。


 そして、この場にいる事が納得できない。この場の戦力を見つけて駆け込んできたのは見知らぬ旅人だったとベルゲンの歩哨は証言している。そして、歩哨がその意味を理解する前に旅人は風の様に消え去った。


 要塞都市ベルゲンに近いとは言え、戦略的に重要とは言えない地点に二〇〇近い兵力を展開する意味とは何か? 陽動か?という疑念が老将の頭を過ぎる。敵国内で自分の正式採用装備を身に纏うという点も、その考えを支持する。


「良かろう。三個小隊は追撃に移れ! 儂の直属分隊はこの場に待機」


 雪原に倒れ込んだ黒衣の騎士の頭部を踏み砕き、老将は刃を掲げる。


 詮無い事だ、と老将は首を振って予感を振り払う。どちらにせよ一戦交えてしまった。真意は比較的軽傷の捕虜から聞けるかもしれないし、分散して散っていった敵が村々を襲撃する可能性や匪賊化する可能性も無視できない。


 そして何より、老将は憤怒に駆られていた。


 兵士や下士官たちは知らない。皇国を担うべき天帝の行方が杳として知れない事を。


 老将は少将の階級を持ち、城塞都市ベルゲンに駐屯する〈第九歩兵師団『スカンテンベルク』〉師団長でもあった。〈第九歩兵師団『スカンテンベルク』〉とは東部方面軍の一軍集団であるアウレリア軍集団隷下の師団である。本来は東部方面軍隷下で神州国の強襲上陸に対応する為の師団の一つであったが、天帝不在で国事が半身不随の今、帝国への脅威に対抗すべく城塞都市ベルゲンに再配置されていた。それは姿を見れば一目瞭然で、東部方面軍の部隊は神州国の影響を受けていることから伝統的に具足が基本装備となっているのだ。


 そして、通常編成の一個師団に過ぎないが、北部に常駐している師団であるが故に天帝捜索の一端を任されていた。要するに師団長以上の立場にいる高級指揮官達には、皇都での一件で天帝が行方不明となった事が通達されているのだ。


 ――皇国の未来を取り戻さねばならん……ッ!


 焦燥と使命を薪として老将の愛国心が烈火の如く燃え上がる。


「総員、死して護国の鬼となれぇッ‼」


 蛮声とも怒声とも取れる命令に、老将の大音声に武士たちは刀を振り上げ、喚声を上げる。


 皇軍健在なり。そう思わせるに十分な攻勢は、この場にいる多くの烈士たちに《ヴァリスヘイム皇国》の未来が輝かしいものだと信じさせるに値する光景であった。


 次代天帝行方知れず、という真実を知らない者たちだけで、という条件は付くが……







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