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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》
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第五九話    ヴェルテンベルク領邦軍情報部




「うぅ、何で教えてくれなかったんですか!?」


 ミユキは怒っていた。


 尻尾をこれでもかと言わんばかりに振って威嚇する。


 ミユキが起きた時、既に太陽は天頂へと差し掛かるところであり時間的には午後であった。早寝早起きの健全な仔狐であるミユキにとっては痛恨の失態である。幸いなことに寝台(ベッド)の脇にトウカが稲荷寿司を置いてくれていたので、朝食がなくとも空腹になることはなかった。無論、一緒に置かれていた置手紙の「少し大御巫を懲らしめてくる」という一文など寝起きの頭では理解できなかった。


「何で主様が前線に行くんですか!」


 そう、ミユキはトウカの作戦計画を知らなかった。実際のところ民間人でしかないミユキに領邦軍の軍事行動を知る権利はないのだが、仔狐がそれで納得するはずもなかった。朝起きたら最愛の人が戦地へ赴いていたなどという悲劇は、この乱世では然して珍しくもないものであるが、己の身に降りかかると冷静ではいられない。


 だが、ありふれた悲劇であるにも関わらず、途絶えることなく常に巷をに賑わせ続けてもいる。


「軍務に決まっておろうて。軍人が戦野に赴くこと、よもや異論を唱える訳ではあるまいな?」射抜くような視線のマリアベル。


 だが、ミユキも引かない。


 マリアベル相手に正面から物申せる者は北部に於いても限られている。その独自の権力基盤だけでなく、秀麗な容姿が皮肉と嘲笑に歪み、精神防壁を貫徹するかのような視線に依るところが大きいと言えた。廃嫡されても龍は龍であり、他種族とは一線を画す存在と言える。その上、強大な軍事力を背景にした言動を行っていることから、周辺貴族からは距離を取られている。以前、凄く友達が少なそうだと口にしたミユキは拳骨を頂いたこともある。


「私も――」「――今から追い掛けるなどと言うまいな?」


 背を向けようとしたミユキを、マリアベルが尻尾を引っ掴んで無理やり引き止める。引っ張られたミユキは、襟首を掴まれて執務机に叩き付けられた。


「聞き分けのない獣よの。妾は男の大勝負に水を差す獣をあれの雌とは認めん」


 叩き付けられた執務机の冷たさを頬で感じつつ、ミユキはそれでもマリアベルを見上げる。


 マリアベルの言葉は尤もであり、リディアから受けた苦言と本質的には変わらない。だが、現在のトウカは個人としてではなく、軍人として戦野に赴こうとしている。私ではなく公として。


 最愛のヒト、自身と恋人だけでなく、眼前の女伯爵に対しても義務を負ったのだ。


 匪賊を相手に個人として戦野に赴くのは己の意志と決意に依るところである。だが、正規軍を相手に領邦軍士官として戦野に赴くのは己の意志だけでは済まない。そこには所属する組織に対する義務と使命というどうしようもない意志を介在させねばらない。


 それでは天帝みたいではないか。


 私を犠牲にして公となり、国家運営の為の人柱となる化物。


「あれは雄飛するであろう。そしてな、これは彼奴(あやつ)に必要な戦果なのだ」


 現在のトウカをそれなりの地位に押し上げるには、政治的、或いは軍事的成果を見せつけねばならない。その条件を今回の攻勢でマリアベルは満たそうとしていた。目論見としては、蹶起軍の参謀職に据えるか司令部に捻じ込むことであった。


 冗談ではなかった。


 個人的な雄飛であれば良い。だが、軍事的、政治的な雄飛などミユキからすると言語道断である。


「嫌だ、嫌だよっ! だって主様は……ッ!」


 最早、避けられぬ運命なのかもしれないが、それを認めることは断じてできない。


 虫の良い話だと自身でもミユキは理解している。領邦軍軍人として仕官すること自体は止めず、戦野に赴くことは止めようとしていることに対する矛盾も重々承知している。その事実から目を逸らした結果であり、トウカはミユキから離れることはないという慢心があった。


 ミユキは、マリアベルの手を払い退ける。


 龍と言っても病気によって人と変わらぬ身でしかないマリアベルの膂力など、ミユキの膂力には遠く及ばない。それでも尚、先程まで成すがままにされていたのは、やはりマリアベルの強大な意識に精神を鷲掴みにされていたからであった。肉体的にも高位種であればある程に、精神的な拘束は有効となる。無論、その強大な自我を圧倒できる精神力を有しているという前提が必要であるが。


 ミユキは扉を弾き飛ばすように部屋を飛び出した。











「あれは……何か知っておるな」


 マリアベルは煙管(きせる)を咥えて思案する。


 部屋を飛び出す前のミユキの瞳には憤怒と悲哀だけでなく、冷徹な打算が潜んでいた。何百年と苛烈な駆け引きを多種多様な立場の者と行っていたマリアベルは、他者の真意を見抜く術に長けている。少なくとも幼い仔狐が思惑と打算を持っているか否か程度は見抜ける。狡猾な狐も未だ幼い。


 しかし、ミユキが知っていてマリアベルが知らないトウカのナニカが存在するというのも癪に障る。元より全てを知らねば収まらぬ性分である。


 マリアベルは、そう思った。ザムエルであれば、幼い頃の女性に振られた回数から妹に平手打ちを受けた回数まで知っている。対するトウカは邂逅が最近であり知らないことも多い……否、間者に調べさせたが、トウカの過去については何一つ不明であった。ヒトは生きる為に他者と交流せねばならず、何処かで必ず痕跡が残るのだが、トウカの場合は二カ月以上前の痕跡を辿れないでいた。


 まるで、その時を境にこの氷雪舞う大地に降り立ったかのように。


「笑えんのぅ……」


「笑ってる」


 紫煙を吐きだしたマリアベルに、ヘルミーネが無表情のままに苦言を呈する。


 確かに、マリアベルが己の頬に手をやると頬は大きく歪んでいた。マリアベルは思案する時は基本的に笑顔である。家臣に不安げな顔を見せることは論外であり、可能な限りは笑みを浮かべるようにしていた。その点はトウカと似ているが、トウカの場合はその民族性故に曖昧な笑みであり、マリアベルは逆に猛禽を思わせる笑みであった。本質的には類似した性格の二人であるが、表面上の取り繕い方は対極に位置すると言える。


「御主も悪趣味よの。ミユキが来たと同時に身を隠すなどと……」


「面倒は嫌。……私の作った兵器が出兵の理由だと知られたくない」


 ヘルミーネが応接椅子(ソファー)の影から立ち上がる。


 隠れたのはヘルミーネが、トウカに機動力を有した兵器を与えた張本人であり、今回の攻勢を成功させるだけの理由を作ってしまったからであった。


「後悔はしていない。でも、ここまで焦っているとは思わなかった」


「それは妾も同じであるがの。まぁ、その為に彼奴(あやつ)の部隊に優秀な奴を幾人か送り込んでおいたからの。負けはせぬて」


 無論、優秀であるから扱い易いとは限らないが、少なくともトウカの助けにはなるだろうマリアベルは考えていた。


 マリアベルには領邦軍内に特に目を掛ける子飼いの部下が数多くおり、ヴェルテンベルクの軍事と政治はその者達によって動かされていると言っても過言ではない。ザムエルの場合は妹共々に孤児院の頃からマリアベルが面倒を見ていたので領邦軍士官の道を志した。現在のザムエルからは想像もできないことであるが、幼少の頃は、マリア様の御役に立ちたいんです、と健気に意気込んでいたこともあり、それはマリアベルにとって良い思い出であった。


 それこそがマリアベルが他の貴族と一線を画す点であった。


 他の領主と違いマリアベルは孤児院に予算を投じるだけでなく足繁く赴いている。それは、己が子を成すことが出来なかったことに対する未練からの行為であったかもしれないが、少なくとも謀略や暴力とは無縁の子供達と共に過ごす時間はマリアベルにとって心休まる時間であった。


 その後、暫くの時が経ち、孤児院の子供達は大きくなり、ヴェルテンベルクの領邦軍や官僚としての道を歩み始めた。


 曰く、放っておけなかったらしい。


 一〇〇年近くも孤児院との関係は続いており、子供の中には子を成してマリアベルに名付け親となって欲しいと願い出る者や、人間種の中には家族に看取られて生を全うする者すらいた。


 それらに例えようもない嬉しさと一抹の寂寥感を感じつつも、マリアベルはこれこそが皇国なのだと、初代天帝が望んだ光景なのだと、正しき多種族国家の姿なのだと思えた。マリアベルはそれ以降、ヴェルテンベルク領を初代天帝が望んだであろう光景に近づける為に多くの労力を割き、それを護る為の軍備拡充も怠らなかった。


 そうしてマリアベルの知る孤児……否、子供達はその意思を最大限に汲み、ヴェルテンベルクに皇国よりも皇国らしい多種族国家を作り出した。


 故に戦う。己の理想郷たる故郷を護る為に。


 これはヴェルテンベルク領だけでなく、蹶起軍の根幹を成しているのは間違いなくそうした意志である。飽くなき郷土精神こそが蹶起軍の根幹を成すものなのだ。


 それ故に、マリアベルとトウカは相容れぬ部分もある。


「トウカに気付かれるかも」


 ヘルミーネの警告に、マリアベルは「有り得ぬよ」と笑う。


 今回、〈ヴァレンシュタイン戦闘団〉には、通常よりも多く士官が配置されている。これは少数単位に分割しても有機的な戦闘機動を実現する為の措置で、トウカが熱望してマリアベルが応じた。それに紛れ込ませる形でマリアベルは己の意向を強く受けた者を配置したのだ。当然だがトウカの行動に制限を付けようとする訳ではなく、事後報告を改竄されても真実を知ることができるようにという目的であった。これはトウカだけでなくザムエルにも共通することであるが、二人は都合の悪い事や己の身に起きた想定外の事を隠す傾向にある。心配させまいとしている子供心は分かるが、色々と緩い領邦軍とはいえ、情報隠匿は些か問題であり、マリアベルの親心は一応、二人を心配していた。


「彼奴が自ら出るという事は勝算があるのであろう……問題があっても、アレが常識を進言するであろうしな」


 その為に送り込んだのだ。


 トウカは常識が欠如している。否、自らにとっての常識を酷く明確に奉じているのだ。それがトウカの祖国のものか一族のものか、或いは個人のものかは分からないが、場合によってはそれによって危機に陥る可能性もある。無論、ザムエルも止めるかも知れないが、言い包められる可能性もあるので、状況によっては諫言を明確に口にできる者が欲しい。


 ――あの娘なれば杓子定規な故、常識を優先するであろう。言い包められるとも思えぬ。


 少なくともトウカは配下の者の言葉に耳を貸す器量はあり、場合によっては采配を任せる度量もあるだろう。唯一の懸念は、無能と判断すると戦死扱いで“処分”する可能性という名の苛烈さを同時に有していることであった。


「どうもトウカは結果を優先し過ぎおるでな。此度の戦で周囲の状況を鑑みて最善を選ばぬ道があることを学んでもらわねば」


「ヴェルテンベルク領の発展期に、敵対者と中立者に苛烈な対応を取ったヒトが面白いことを……」


「ええい、黙れ! あれは若気の至りじゃわ!」


 自らの尻尾を膝の上に乗せてモフモフしているヘルミーネに、マリアベルは怒鳴る。


 どうもヘルミーネは、トウカと共にいる時間が長かった為か、その皮肉屋な性格が伝染してしまったのかも知れない。


 確かにヴェルテンベルク領発展期には、マリアベルの強引な政策によって多くの血が流れた。人口の密集などは人間種が何世代もの時を跨ぐほどの時間を掛けて行ったが、半ば辺境への監禁という形で追いやられたマリアベルに反抗する者は多く、特にフェルゼンという巨大要塞都市と周辺の永久陣地の構築には、その辺りに乱立した種族や地主を説得する必要があった。


 これに対してマリアベルは積極的に武力を用いた。


 後々、マリアベルの治政に口を挟ませないという非道な思惑であるが、人員整理の一面もあった。特に、他種族に対して威圧的な姿勢を取っていた種族の戦士を磔刑にしたこともあれば、炭素鋼金属線(ワイヤー)で吊るし、時間をかけて絞殺するという残虐な方法で絞首刑にしたこともある。


 当時、辺境であり国家の統制が及ばなかったヴェルテンベルクがいち早く発展を遂げたのは、その強権的な姿勢に依るところであった。ヴェルテンベルクが急速な発展を見せ始めたころのマリアベルは全てを失った状態であり、政治的、軍事的な賭けにも何ら怯まず、綱渡りに近い領地運営を行っていた。世継ぎが断絶した隣接領地を非合法な手段で併合した例すら少なからずあった。


 マリアベルは、それを後悔していなかった。トウカに出逢うまでは。


 実はトウカと軋轢を生じているのはその大半が高位、或いは中位種の者であった。その者達は知っているのだ。嘗てのマリアベルがヴェルテンベルク領の早期発展の為に、反抗的な者を惨たらしい手段で積極的に排除した事を。


 トウカの強引な手段は、或いは若き日のマリアベルと同様に見えたのかも知れない。無論、マリアベルは拝領した時点では廃嫡されていなかったが、いずれ他の龍達が騒ぎ出すと判断して無理やりにでもヴェルテンベルク領邦軍を精強ならしめる為にあらゆる手段を講じていた。その弊害が今この時、現れたのだ。


 それ故にトウカには同じ道を歩んで欲しくはないと思っていた。


 ミユキは銃後の存在であり戦野には出せず、またそれをトウカが認めない。


 そして、ミユキが横に居る時、トウカは絶大な強制力を持つ枷を掛けられた状態だが戦場にはそれがない。


 トウカと共に戦場に立てる少女。


 それをマリアベルは選択して配置した心算であった。


 無論、その少女は杓子定規に過ぎる一面があるので、トウカとザムエルの間で揉まれてこいという思惑もある。


「さて、どうなっておるやら……」煙管を回して思案するマリアベル。


 それを見たヘルミーネが憮然とした顔で尻尾を一振りする。











「むううぅぅぅぅぅぅ、みんな意地悪です」


 ミユキは池の水面に石を投げ込む。


 気が付けば何時もの公園の池の前に立っていた。最初はトウカを追い掛けようとも考えたが、それはリディアに言われた男の領分を侵食する行為だと思い当たったこともあって、結局は当てもなく彷徨った挙句に公園に佇んでいた。トウカは、ミユキが戦野に赴くことは愚か近付くことすら快く思っておらず、またミユキもトウカの役に立てる自信がない。


 フェルゼンの大正門へと赴くまでにミユキの足取りは鉛の様に重くなり、どうしても外への一歩は踏み出せなかった。


「……私が意気地なしだからかな?」


 水面に映る己の顔を見つめてミユキは溜息を吐く。


 実はミユキも衛生兵として従軍しようと画策したことがあるが、マリアベルが失笑と共に却下した。


 ――蛆虫の湧いた戦傷兵や、全身水膨れになった女性兵士に御主は何と言葉を掛けられよう。衛生兵こそが死に往く烈士の言葉を最も聞き届けねばならぬのが分からぬか、莫迦者め。


 そう言われたミユキは言葉に詰まった。天狐の里で武運拙く散って行った狐の亡骸さえも直視できず、別れの言葉を告げられなかった己に何ができるのか、そう嗤われた気がしたミユキは何も言い返せずに引き下がるしかなかった。ミユキは何処かで正面切った戦闘に参加しない衛生兵という兵科を甘く見ていた。それを事前に厳しい言葉で教えたマリアベルのそれは恐らくは優しさだったのだろう。トウカと似た不器用な優しさである。


 池の畔の芝生の上で膝を抱えて座るミユキ。


 冬場であるが、温かい日差しにミユキは目を細める。


 城塞都市フェルゼンはその魔導障壁にものを言わせ、微弱ながらも常時、障壁を展開しており、その巨大な守護城壁も相まって北風を完全に遮断していた。本来は敵航空騎による市街地への降下と放火対策であり、都内の気温が下がり難いのは副次効果でしかないが領民への恩恵は計り知れない。


 気を緩めれば寝てしまいそうになる日差しに、ミユキは眼を擦る。


 そこで不意に影が差す。雲にしては微動だにしない影を訝しんだミユキは上を見上げる。



 そこに殺人鬼がいた。



「やぁ、御嬢さん(フロイライン)。逢いたかったよ」


 白い肌に白い長髪、そして漆黒のヴェルテンベルク領邦軍第一種軍装を身に纏った無邪気な笑みを浮かべる殺人鬼は自然な手付きでミユキの右手を取る。


 傍から見れば恋人の逢瀬か、領邦軍男性将校が女性を口説いているようにも見える光景だが、ミユキは完全に思考が停止していた。狐耳を動かし、口を開けて呆気に取られている姿は、嫁入り前の乙女のものではない。


「さ、殺人鬼――ッ!」


 ミユキの口を左手で塞ぎ、驚きの声を遮ぎった殺人鬼は右手をミユキの腰に回す。見知らぬ男性に触れられるという例えようもない嫌悪感に小さく悲鳴を上げようとするが、それすらも殺人鬼は許さない。


「そういうのは困るんだけどね。……少し静かにして貰えるかい」


 腰に回された手に一層の力が籠り、ミユキの腰を圧迫する。その万力の様な力に、昨夜の遺体の様に斬り刻まれて打ち捨てられるのかも知れないと考えると、抵抗することよりも恐怖がミユキの身体を支配した。


 ミユキの内心を見透かしたのか殺人鬼が薄く嗤う。


 慰み者にされるかも知れない。


 怖気の走る手付きにミユキはそんな考えに辿り着く。


 それだけは嫌だ。耐えられることではない。


 傷物になって尚、トウカの隣に立てる程、ミユキは不義理な女ではない。その位であれば舌を噛み切って自害する。高位種にとって、特に天狐族はその種族全体の人数が少ないことを見ても分る通り、生涯で複数人を愛することは稀であった。ミユキもその例に漏れず、トウカ以外を愛する積心など毛頭もなかった。


 それ故に、その身を穢されることは殺されることよりも屈辱的なことであり、断じて認められないことであった。もし、避けられないというのならば死を選ぶことも躊躇いはしない。


 公園の端に位置する林の奥へと抱き締められるように導かれたミユキの心を絶望が染め上げる。魔術の行使には集中力が不可欠であるが、それが叶わない状況ではミユキは一匹の仔狐に過ぎなかった。


「御嬢さん、そう怯えないでくれると嬉しいんだけどね」 


 頬に触れた殺人鬼の手の感触にミユキは身を固くする。


 大樹の陰に身を下ろした二人。


 何の気負いもない殺人鬼に対して、冷静さを取り戻しつつあったミユキは逆撃の機会を窺っていた。己の命を絶つよりも殺人鬼を粉微塵にした方が建設的である。


「全く……貴様は何をしている」


 紙巻煙草を加えた女性が大樹の陰から顔を出す。


 紅色の髪をした女性……殺人鬼と同様にヴェルテンベルク領邦軍第一種軍装を身に纏い、紅色の髪を頭部の高い位置で一つにまとめて垂らした女性の登場にミユキは絶望的な表情をした。何よりも左頬の刀傷と、寸前まで感じることすらできなかった気配が並々ならぬ相手だと認識させる。


 ミユキを絶望感が襲う。


 殺人鬼一人ならば兎も角、如何にも歴戦の勇士という佇まいの女性も相手にするとなると話は変わる。見てくれは人間種そのものであるが、間違いなく種族の特徴を魔術で隠蔽しているだろうことは疑いない。魔導資質に優れたミユキだが、外見の衝撃(インパクト)が余りにも大きすぎて初見で見逃していたが、改めて見ると隠蔽魔術の気配が微かに感じ取れた。隠蔽と擬装はミユキの得意とするところ。感じ取ることもまた同様である。


 ミユキは咄嗟に動いた。


 天狐の膂力にものを言わせたミユキは殺人鬼の腕を掴み、女性軍人に向かって投げつける。軍人からすると予備動作が大きいかもしれないが、その膂力によって無理やり叩き付けた。


 しかし、女性軍人は冷笑と共に飛来した殺人鬼を片手で大地へと叩き落とす。


 仲間とは思えない所業だが、ミユキに唖然としている暇はなかった。


 眼前に迫る女性軍人。 魔導の気配はない。人間種ではないがゆえの脚力。


 圧倒的な踏込の速度に姿が散逸し、地面に靴跡ができる。


 驚く間もなく戦闘詠唱を唱える前に口を左手で塞がれる。左手で紙巻煙草を手にしたその姿を見るに、女性軍人にとりこの程度の戦闘は然して厳しいものではないのだ。それ程に分が悪いということであり女性軍人も己の優勢を理解している。


「まぁ、落ち着け。別に取って喰おうという訳ではない」


「う、嘘です! 殺人鬼さんの言葉なんて信じないです!」


 白けた表情の女性軍人。


 大地に突っ伏した殺人鬼も砂埃を払いながら立ち上がる。


 状況は圧倒的不利であった。


 女性軍人も殺人鬼も見た限り武装は領邦軍正式採用の輪胴式拳銃を腰の拳銃嚢(ホルスター)に収めているだけであるが、その身体能力を見るに双方共に戦闘に秀でた狼種や虎種の血統に連なる者であるかも知れない。近接戦は不利であるが、簡単に距離を取らしてくれる相手でもなかった。


「ふん、致命的に勘違いされているではないか」


「あだッ! ええ? いや、そんな心算は……なかったんだけど」


 女性軍人が殺人鬼の頭に拳骨を見舞う。


 凄まじい打撃音、ヒトの頭から生じる音かと疑問に思えるほどのそれに、ミユキは首を竦める。


 女性軍人はそれだけでは飽き足らず、殺人鬼の頭を鷲掴みにして激しく揺さぶっている。その間も決して紙巻煙草だけは離さないところが底の知れなさを感じさせた。


「申し訳ない。堅気に……民間人に手を出す気はない」


「そ、そうだ。御嬢さん。私はそういう意図で連れてきたわけでは」


 弁解を始めた二人。


 女性軍人が殺人鬼の頭を鷲掴みにして何度も頭を下げさせる。その光景にミユキは呆気に取られた。


「ほ、本当ですか?」


「「本当だ」」女性軍人と殺人鬼が口を揃えて断言する。


 鷹揚に頷いた二人にミユキは、首を傾げる。


「い、痛くしませんか?」


 警戒しつつも後退するミユキに、二人は顔を見合わせた。頻りに首を傾げると、頭を抱える女性軍人。


 こうして仔狐は数奇な出会いを果たしたのであった。











「えと、本物の軍人さんなんですか?」


 ミユキは喫茶店の軒先に設えられたテラスの一席に座り、果実水の入った長水晶碗(ロンググラス)に刺さった麦稈(ストロー)を齧りながら二人を眺める。


 確かに双方共に軍装であり、その身体つきも戦人のものであった。何より二人の身のこなしを目の当たりにしたミユキは、その言葉を真実だと判断するだけの理由を持ち合わせている。


 もし、違うと言うならばマリアベルが黙っているはずもない。


 軍人を騙る存在をマリアベルが許すはずがない。領邦軍憲兵隊を動員してフェルゼンは不確定要素の草刈り場となるだろう。草刈りに嬉々として車載火炎放射器を持ち出すような女性領主を相手にしたい者など居るはずがないのだ。


 装甲部隊の前に勇者なし、である。


「ふん、我々は普通の軍人とは違うがな」


 確かに口元を凝乳(クリーム)塗れにして生菓子(ケーキ)を貪っている殺人鬼がいるなど、推理小説の読者は噴飯ものであろう。最早、殺人鬼の面影はなく完全な子供となっている。


 女性軍人は机に置かれた灰皿に短くなった紙巻煙草を押し付け、紫煙を吐き出す。


「ヴェルテンベルク領邦軍、セルベチカ・エイゼンタール少佐だ」


「あ、えっと、天狐族のミユキです」


 女性軍人……エイゼンタールの敬礼に、ミユキは一礼する。


 無駄のない男性的な動作に、同性に好かれる女性なのかも知れないとミユキは狐耳を動かす。左頬の刀傷も最初は恐ろしげに思えたが、その凛冽な佇まいは野性味を感じさせ、戦野で見たならば頼もしいとすら考えられたかも知れない。


「そっちの阿呆面で凝乳(クリーム)菓子を貪っているのはエルシェラント・キュルテン中尉だ。一応、我が部隊の精鋭だ」


「む~、精鋭ですよ。御嬢さん」


 口元に付いた凝乳(クリーム)を器用に舌先で舐めた殺人鬼……キュルテンが付き(フォーク)片手に型目を瞑って、中指と人差し指を額に当てて敬礼する。


 紳士的だと思えば、このような子供染みた一面を見せるキュルテンも、或いは同性に好かれるかもしれない。


 そこで、ミユキは、はたと気付く。


 果たしてキュルテンは男性か女性か、どちらの性なのかと。


 初見では男性だと思っていたが、名前は女性のように思えた。珍しい名前なので確信はなかったが、その態度から見るにきっと男性なのだろうと見当を付ける。凛々しいエイゼンタールが、小柄なキュルテンをお姫様抱っこすると間違いなくお似合いの恋仲と見えるだろう。或いは本当に恋仲なのかも知れない。


「我々は領邦軍情報部の士官で間諜(スパイ)狩りを主任務としている。ミユキ殿には大変に不愉快な思いをさせてしまったと思う。申し訳ない」


 頭を下げるエイゼンタール。


 ミユキは慌てる。不愉快な思いとはキュルテンの殺人現場なのか、それとも物陰に連れ込まれたことなのか、或いは突然に強面のエイゼンタールが現れて驚かされたことだろうか、とミユキは悩む。よくよく考えてみれば、ミユキが不愉快な目に遭わされたことは複数回あったので一体どれを指しているのかよく分からなかった。無論、公費で御菓子を堪能することができたので、水に流すことにミユキは異存なかった。寧ろ、元を辿ればマリアベルによって承認された予算なので大いに貪る心算ですらある。


 ――一番、不愉快だったのは怖くて毛布に包まって寝た上に、それを主様に見られたことですよぅ。しかも……主様が戦野に赴くのに見送りすらできなかったなんて。


 いけないとは思うが、再び涙が溢れそうになる。


 嗚咽を漏らして慌てて上を向くミユキに、エイゼンタールが慌てる。


 リディアに言われた銃後の女性としての自覚を持つべきという趣旨の言葉を護れているとはとても言い難い、とミユキは、エイゼンタールが差し出した手拭(ハンカチ)を受け取る。


「本当に申し訳ない。……キュルテン中尉も食べていないで謝れ」


 エイゼンタールの鉄拳がキュルテンの頭に落ちる。


 洋菓子に顔を突っ込んだキュルテンが「いや、申し訳ない」と謝る姿にミユキは思わず吹き出す。身体を張った謝罪を前にしては怒る気も出なかった。そもそも、トウカの仕官の問題に関しては今の今まで直視することを避けていたミユキにこそ問題があって、眼前の二人の問題だと不満を漏らすことは潔い行為ではない。リディアも呆れるであろうし、トウカも優しく嗜めるだろう。 


「御二方の所為じゃないです。この涙は私の不覚悟が原因ですから」


 ハンカチで目元を拭き、ミユキは務めて笑みを浮かべる。


 眼前の二人とて諜報戦という戦場に立つ戦人なのだ。銃後のヒトであるミユキがその手を煩わせるわけにはいかないと、無様でも笑みを浮かべる。例え悲しくともそれを気取られるわけにはいかない。


「…………そうか。ミユキ殿は優しいな」エイゼンタールが優しげに笑う。


 その笑みは刀傷のある顔にも関わらず優しくも儚い笑みであった。傷付いた戦乙女が他者を想い笑って見せると、きっとこの様な笑みなのだろうと思える笑みにミユキは息を呑む。


 傷付いた戦乙女。 


 正にそう評して差し支えないエイゼンタール。凛々しくも無邪気なリディアですら、あれほどにトウカの気を惹いていたことを思い出し、ミユキはエイゼンタールをトウカに近づけてはならないと確信する。


「ぬ、主様はあげませんからね!」


「???」


 キュルテンと共に首を傾げるエイゼンタール。ミユキは気を取り直し、こんこんと咳払いする。こんこん。


 トウカのことは一端、思考の外へと追い遣る。どちらにせよトウカはフェルゼンには居らず、ミユキの声は届かないのだ。


「そう言えば間諜さんってそんなに居るんですか?」


 ミユキからすると完全な要塞都市であり、高い守護城壁に囲まれたフェルゼンに敵対勢力の人間が浸透するということが考えられなかった。あのマリアベルが、敵対者が身近にいる可能性を排除しないということが有り得ないのだ。


「如何に世界に冠たる要塞都市と言えば聞こえは良いが、経済の歯車の一端を担っていることに変わりはない。出入りに制限を付けて流通を止める訳にはいかないのだ。要塞都市でありながらも北部の経済の中心を担っているからこその宿命だな」


 その言葉にミユキは首を傾げる。


 あのマリアベルが矛盾した要素を内包した都市を建造するだろうか、と。


 実はこれにはマリアベルの不信感と猜疑心が多分に影響していた。フェルゼンという理想郷自体が、マリアベルの心を写し出す都市であり、その都市計画自体が本音を静かに語っていた。


 マリアベルは貴族でありながら貴族というものを信用していない。


 だからこそ経済拠点すら要塞都市に内包させることで、直接的な武力から護るという無謀な手段を講じた。防諜という案件を無視してでも、早急に経済拠点と要塞都市の建造を急いだ結果こそがフェルゼンなのだ。


 これに対してトウカは何も語らなかった。


 要塞都市と経済拠点を別に建造した方が最終的には効率の良い領地運営ができただろう。だが、常に攻勢に晒されることを前提としていたマリアベルは、結果を急ぎながらも経済拠点を無防備なままにすることを恐れた。


 それ故に経済拠点を中心とした要塞都市という矛盾したモノを建造した。


 フェルゼンは、同じく要塞都市として機能している皇都と比しても極めて巨大である。敷地面積だけでも一〇倍近く、武装はヴェルテンベルク領内の軍需産業や兵器工廠で製造された最新のものを装備しており攻撃力は勝っていた。防護壁は古代魔導術式を運用している皇都に一歩譲るものの、近代技術の応用と豊富な魔導資源にものをいわせている為、既存の砲墳火器では貫徹は限りなく不可能である。


 しかし、対軍能力は防諜に寄与しない。


 そこで防諜能力を補う形で増強されたのが領邦軍憲兵隊であった。折しも経済拠点として発展を遂げた為に上昇する犯罪率に歯止めを掛ける必要に迫られたことも大きい。商業的犯罪に領邦軍歩兵や装甲兵が介入できず、専門家を育成せねばならないという理由でヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊は組織された。皇国内での警務活動の全権が委任されている警務庁の介入を避ける為に自前の警護組織を必要としたという思惑もある。


 だが、時代の変遷と共に北部の孤立は深まり、それを利用する形でヴェルテンベルク領は発展期から成長期へと移る。しかし、その一領主としては異常な程の経済力と軍事力を獲得しつつあったマリアベルを不安視する者も次第に現れ、無視できない数の間諜が領内に出現し始めた。近年の天帝が総じて左翼思想にあったこともそれに拍車を掛ける形となった。


 当初は憲兵隊による増大する間諜の逮捕なども行われていたが、専門技能の結晶とも言える間諜を向こうに回しての確保は捗らず、場合によっては少なくない被害を蒙った。


 そこで、憲兵隊の一部門として領邦軍情報部が組織されて事に当たることとなった。


 当初の目的は間諜の排除であったが、マリアベルが他貴族に対する牽制と動向を知る為に間諜を用いる事を決定し、情報部は自前での諜報活動が可能なように組織改編され、憲兵隊の傘下から抜け出ることとなった。


「我々の任務は間諜の殲滅。ミユキ殿が見られたのは、一斉確保の瞬間です」


 新たな紙巻煙草を紙箱から抜き取り、咥えたエイゼンタール。


 ミユキは、確保じゃなくて大量殺人なんじゃないかな、と首を傾げるが、それを指摘する勇気はなかった。例え知り過ぎたとしてもマリアベルが助けてくれるという確信があった。無論、拳骨一発くらいの被害は覚悟せねばならないが。


「あれは見せしめなんだ。最近は特に部隊の新編成や兵器開発の大修正で慌ただしかったからね。間諜が元気で困るよ」


 突き(フォーク)を咥えたキュルテンが嗤う。


 ミユキは理解する。あれは他の間諜に対する牽制と警告だったのだ。惨たらしく殺す事自体を任務とするなどミユキの想像を遙かに超えている。


 間諜と言えど同じ皇国人であり、皇軍相撃の状況すら戸惑う者が多い中、惨たらしく殺すことまでできる軍人が果たして存在するのだろうか、とはミユキは実は思ってなどいない。ミユキはその場面を目撃しており、自らの常識の範疇にない者がいることを知っている。世界には無関係な存在に何処までも残酷になれる者が確かに存在した。


 紙巻煙草に燐棒(マッチ)で火を付けたエイゼンタールが困った顔をする。


「本当は仕事現場を見られた人間を拘束したいところだが、驚いた事にとある狐……つまりミユキ殿への干渉の一切を禁じるとの命令書が各部署に回っていたのだ。…………君は一体何者だ?」


 変わらない表情のエイゼンタールだが、その威圧感は増大し、ミユキの双肩に圧し掛かる。突き(フォーク)を舐めるキュルテンの何処か狂気を感じさせる笑みも、そこへ静かなる狂気として降りかかり二人分の圧力となった。


「ふふっ、僕、狐って殺したことないんだよね。やっぱり解体するのは女の子がいい。ねぇ、君はどんな声で鳴いてくれるかな?」


 口説くかのように自然な動作で伸びたキュルテンの右手が、ミユキの頬を優しく撫でる。傍から見れば恋人の逢瀬に見える光景かも知れないが、ミユキはその感触に怖気が走り、肌に鳥肌が立ち、狐耳と尻尾が逆立つ。


 目一杯に瞼を閉じたミユキ。


 じゅぅぅぅ。


 そして何かが焦げる音が響く。


 驚いて目を開けると、キュルテンがミユキに差し出した右手の甲に、エイゼンタールが差し出した紙巻煙草の先端が押し付けられていた。


「熱いです、少佐殿。その手の趣向は寝台(ベッド)の上だけにして貰いたいのですが」


 右手を引込めて苦笑するキュルテンに対して、エイゼンタールは憮然とした顔をする。


 一応は助けてくれたのだろうが、トウカが前に口にしていた交渉時の飴と鞭を演じているのかも知れないとミユキは警戒する。最もミユキに隠さねばならない事など何一つない。やましい事はなく、あるとすれば痴話喧嘩の恥ずかしい暴露話くらいのものであった。無論、話せと言われればミユキは全力で抵抗する腹積もりであり、異変を察知した憲兵隊の介入まで粘る心算であった。


「キュルテン大尉。一般人を脅すな、莫迦者が。予算削減の口実にされる」


 紙巻煙草をキュルテンの手の甲で揉み消して捨てると、早々に二本目を用意し始めるエイゼンタール。根性焼きされた左手を振って冷却するキュルテンは軟派な笑みで否定する。


「冗談ですよ。軍の命令に逆らう訳ないじゃないですか」


「ヴェルテンベルク伯は抗命に過剰に対応なさる。死にたくなくば発令された命令は護ることだな」


 二人の遣り取りに、マリアベルが決して万人に優しい訳ではないことをミユキは知った。少なくともミユキに対しては優しくもあるが、正論による厳しさを突き付けることもあり、理不尽に感じる一方で悔しい程にトウカの意向に沿うもので歯痒い思いをしていた。


 そう、トウカとマリアベルは似ているのだ。


 己に対する病的なまでの不信と、他者に対する無慈悲なまでの評価をその身に内包している。


 ミユキが嫉妬するほどに似ている。


 トウカもマリアベルも他人が怖いのだ。


 基本的に信用していないと言ってもよく、好意的な笑みの中にも猜疑心と不信感が根付いていた。その理由は想像も付かないが、二人の立脚点はどうしようもないほどに類似しているからこそ惹かれ合ったのだとミユキは確信している。それ故にマリアベルはあれ程に他者を信用できないにも関わらずトウカに助けを乞うた。


 そしてトウカはそれに応じた。否、利用した。マリアベルもそれを是とした。


 恐らくはマリアベルは、トウカが魅力的に感じるナニカを等価交換として差し出すことで、トウカの助力を願ったのだろう。ミユキは、その等価交換の内容が蹶起軍の指揮権だと思っていた。マリアベルの日頃の言動を鑑みれば、容易に思い当たる推論である。


 今回のトウカの出兵は蹶起軍を掌握する手段の一つに過ぎないのだ。


 少なくともミユキはそう考えた。


 ミユキはこの時、戦略家としての道を歩みつつあることを自覚していなかった。トウカがミユキの思考を垣間見る事が叶うならば複雑な表情を浮かべていただろう。己の同類となりつつある、と。


「私はマリア様……ヴェルテンベルク伯が最も信頼する戦人の恋人……だと思います」そうは口にするが、確信は持てない。


 トウカはミユキを大切に扱う。まるで硝子細工を扱うかのように。それがミユキには不満であり悲しくあった。


 トウカは本心を隠すことを、まるで呼吸をするかの様に行える。それを意図しているか否かまでは分からないが、だからこそミユキは歯痒く感じていた。トウカは己の刃を以てしてミユキを護ったことがあり、それは誰にでもできることではないので嬉しく思う反面、それ以外の方法で愛を示すことは稀であった。


 端的に言えば、もっと触れて欲しい。


 無論、口に出せばはしたない女だと思われかねないので言えないが、ミユキは性的な事柄を嫌悪してはいなかった。何故ならば、性欲の伴わない愛とは詰まるところ隣人愛に過ぎず、相手が男でも女でも関係ないのだ。家族愛や父性愛、母性愛、愛着など、性欲が絡まないならば相手の性別に意味はく、だからこそ男女間での恋愛から始まる関係は基本的に性欲があって当然だと思っていた。少なくとも男女が関係を持ってヒトが存続繁栄してきた以上それは尊重されるべきものなのだ。


 そう、トウカは性的なことを求めることは愚か、ミユキに触れた事すら数える程しかなかった。ミユキは潔癖というほどではなく、これはトウカの遠慮の問題なのだ。


 或いは自分の身体に魅力がないのかも知れないとも考えた。トウカにとって自分は愛玩動物の延長線上でしかないのか。


 狐耳と尻尾を垂らして俯いたミユキに、エイゼンタールが思案の表情を浮かべる。


「ヴェルテンベルク伯が最も信頼する戦人……あぁ、サクラギ中佐か」


「あの戦争屋か。……今回の任務もあの人の出撃に合わせたものだから、何か知られたくない事でもあったのかも」


 二人は其々の感想を口にすると複雑そうな顔をする。


 実は情報部は、トウカがフェルゼンに現れて以降、多忙を極めていた。これはトウカが改修された戦車などの決戦兵器と位置付けた兵器群や、それとは別に製造を進めていた秘匿兵器の存在が征伐軍に露呈しない様に、マリアベルに対して防諜強化を進言し、この言が通った結果である。


 特に出動準備が発令されて以降は、対応も熾烈を極め、暗殺に近い遣り口や市民生活に紛れ込んでいる者に対しては罪状を擬装しての拘束まで行っていた。無論、警務府の警務官とは現場だけでなく会議場でも衝突を繰り返している。内戦に関しては中立を堅持し、臣民生活の維持を最優先とするという決断を下している警務庁は、内戦前と変わらない体勢で警務活動を続けており罪状擬装に関しては大いに揉めた。


「……主様が迷惑を掛けて済みません」


「いや、構わない。我らは軍人である以上、勝利に貢献できるならば努力を惜しむ気はない。サクラギ中佐の姿勢も勝利に対しての熱意の発露ゆえだろう」


 謝るミユキに対して、エイゼンタールが当然の事だと断言する。


 軍人は目的の為に最善を尽くさねばならない。例え散り往かんとするその瞬間まで、命令遂行の為に行動せねばならないという確固たる意志をエイゼンタールは放っていた。


 そんな会話が暫く続き、日が傾き始めた頃、ミユキはその場を辞した。






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