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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》

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第五八話    殺人鬼と仔狐




「もぅ! 主様は変態です!」


 尻尾を盛大に揺らしながら大通りを歩くミユキに、人々から奇異の視線が向けられるが、当人は怒り心頭のあまりそれに気付かない。


 トウカは度重なる各兵科の演習と兵器の細々とした改良に追われ、ザムエルやヘルミーネと領内を駆けずり回っている。トウカ自身は研究開発と野戦指揮官の教育を受けていた訳ではないが、的確な指示と根本的な解決、有用な発想を次々と提案する為に各分野で重宝されていた。無論、ミユキはトウカの過去を知っており、そこからの知識であるとも理解している。故に重用されることを理解はしていたが、納得するかは別問題であった。


 ちなみにトウカはヴェルテンベルク領内に訪れて一ヶ月足らずであるものの有名になりつつある。無論、その精力的な活動と苛烈な物言いに依るところであるが、その容姿を知る者は極めて少ない。そんな状況である以上、背鰭尾鰭はおろか尻尾やら獣耳まで付くほどの噂も流れている。


 曰く、ヴェルテンベルク伯が恐ろしい生粋の戦争屋を登用した。

 曰く、ヴェルテンベルク伯が若い人間種の色小姓を侍らせている。

 曰く、ヴェルテンベルク伯が脅されて領邦軍指揮権を剥奪された。


 大半が悪い噂であるが、それはトウカが領内の運営を行っている貴族などと衝突しているからであった。実はどの貴族領にも貴族が一つの一族しかいないという訳ではない。無地貴族と呼ばれる士爵や準男爵と呼ばれる領地を持たず、男爵以上の爵位を持つ貴族の領地運営を補助する役目を持った貴族がいる。


 これらとトウカは激しく衝突した。


 無論、相手もトウカの言葉を理解し、その有用性を認めてはいるものの、その急進的な姿勢は反感を買ってもいた。特に兵器工廠増設に伴う土地と人員の確保については、トウカが抜刀する騒ぎにまで発展したのだ。


 トウカは焦っている。少なくともミユキにはそう見えた。


 その理由をミユキは知らないが、トウカがそれだけ焦っているという事はそれだけ蹶起軍が追い詰められているということなのかも知れない。表面上はそうは見えないことがトウカの主張が認められない大きな要因だとマリアベルも呟いていたが、手伝う気はないのか基本的に領主の職務以外には一切口を挟まず、軍事と軍需はトウカが指示を出していた。幸いなことに領邦軍将兵は新型装備を精力的に配備しようとしているトウカには好意的であるが、一部では領邦軍の指揮権がマリアベルとフルンツベルク、トウカの間で不明瞭な扱いになる可能性を危惧する者も少なくない。一応、領邦軍司令官は別に存在するが、貴族の私兵集団である領邦軍は例外が噴出し易く、戦闘組織としては些か指揮系統が脆弱であるという欠点を内包していた。


「……なんだがよく分からないですけど、主様は私より仕事の方が大事なんですよぅ」えぐえぐと拗ねるミユキ。


 このフェルゼンへと足を運ぶまでは常にトウカは隣にいたが、中佐の階級を得てからは忙しくしているのでミユキも声を掛かけ辛かった。常に隣に在ることが当然となりつつあったトウカという存在が、余りにも遠く感じられてミユキは不安であった。


 そして、遂には他の雌の臭いをさせて帰ってきた。


 領主の館に帰ってこなかったのは、他の雌の下にいたからではないのか?


 そんな思いをミユキはどうしても払拭できなかった。


 仕事と私、どっちが大事なの?

 私とあの女、どっちが大切なの?


 そう聞けば良かろうて、と笑うマリアベルの言葉に、ミユキは言葉を詰まらせた。尋ねる勇気があるならば、一週間近くも口を聞かないなどという状況に陥ることもなかった。


 ミユキは、ふと空を見上げる。


 寒空の中、高空では腹部に箱状の鉄籠を付けた航空騎が飛行しているのか、赤い航空灯火が夜空に浮かんでいる。


 ここ最近に良く見られるようになった光景で、鉄の籠の様なものは魔導探針儀や大出力魔導通信機に自衛用航空機関砲を搭載した装甲籠という、武器や人員を搭載する箱状(ゴンドラ)搭乗設備で、早期警戒騎という名称で試験運用され始めている。本来は輸送用に使われていたらしいが、トウカの発案で様々な航空騎が開発されていた。


 着色煙幕を用いての編隊飛行で蒼空に模様を描くという宣伝や、他にも大型探照灯(サーチライト)で夜空を照らすことによって領民を楽しませるなどの発案もトウカのものであった。実情としては、それによって公債の購入を促すというものであったが、ミユキはそれを知らない。


 そんな光景を見る度に、トウカが途方もなく遠い存在に思えた。


 少なくとも領民の間では悪い噂が多いにもかかわらずトウカの評価は高く、街中を歩けば女性の誘いなど引く手数多であろうとミユキは考えていた。実際、顔を一般に広く知られている訳ではないので、トウカに声を掛ける者は少ないのだが、ミユキはそれを知らない。


 一ヶ月程度の時間で、これ程までの変化を齎すトウカをミユキは想う。


 彼が遠く感じられた。


 フェルゼンの東端に位置する公園の長椅子(ベンチ)に座って、ミユキは夜空を見上げる。


 星河が夜空を流れ、月が大地を照らす光景は何時もと変わらないが、同時にミユキが最も愛する光景でもあった。この光景だけは不変であり続け、己が不確かであり不確実な存在であることを美しい光景で教えてくれる。


 これは極めて稀有なことだと、ミユキは思っていた。


 己が不確かで不確実な存在であることは悲劇や悲しみを持って知ることが多い中、この夜空だけはその矮小なる事実を優しく教えてくれる。これはヒトにできることではない。


「主様は何をしているのかな?」


 この星河の下、トウカもまた同じ時を過ごしている。


 或いは、夜空に瞬く星の河に想いを馳せているかもしれない。


「どうしてなのかなぁ」ミユキは嘆息する。


 トウカの任務に随伴することも考えたが、領邦軍の軍務にも当然ながら機密がある。軍属ですらないミユキが共に続くことは許されず、マリアベルもこれを認めなかった。トウカも元よりミユキが軍組織に近づく事に対して良い顔をしない。そもそもベルセリカの正体をザムエルに話して苦言を呈されたばかりなのだ。


 公園に視線を巡らせると、月光を浴びた木々や池の水面が綺羅星の如く煌めき、人々の目を楽しませる。幸いにして見渡す限り周囲には人はおらず、この景色はミユキだけのものであった。


「マリア様は凄いなぁ……」


 ヴェルテンベルク領を一から開発したと言っても過言ではないマリアベルの苦労は並大抵のものではなかったはずである。シラヌイもマイカゼも嘗てのヴェルテンベルクは雪の大地が続くばかりだったと語っており、ミユキからするとフェルゼン程の大都市を建造したマリアベルの手腕は卓越したものと見えた。


 マリアベルの手腕は他の貴族の領地運営能力を圧倒してはいたが、同時に何百年という期間があったからこそ可能であった要塞都市建設である。寧ろ、トウカからするとシュットガルト湖に面する湖岸設備や造船所の規模が小さいと噴飯ものであったが、ミユキはそれを知らない。


「知らないことだらけだなぁ……」膝を抱えてミユキは呟いた。


 少なくともこの地上にいる誰よりもミユキは、トウカを知っている。


 だが、トウカも変わりつつある。それが良いことなのか、ミユキには分からないが、変化は確かにあった。


 次の休日はトウカも休むことになっているので、その時に話をしよう、とミユキは立ち上がる。


 そこで、池の水面上に佇む一つの影に気付く。


 ミユキは天狐の中でも傑出した本能と勘を有した狐であった。気配にも敏感であり、然して遠くもない距離で、しかも静寂に包まれた深夜の公園にあって佇む人影に気付かないはずがない。


 ミユキは気付いた。その人影に寄り添う複数の影と濃密な血の匂いを。


 血の匂いをミユキは幾度も出くわしたことがある。狩猟種族でもある狐種であるミユキにとって獲物の解体時の血の匂いは御馴染みのものであるし、何よりも震えていた寒村では濃密な血の匂いに怯え、リディアとトウカが共に戦った匪賊との衝突では遠くに居たにも関わらず、その匂いは嗅ぎ取れた。


 だが、眼前の人影からはそれを上回る血の匂いが嗅ぎ取れた。しかも、それでいて視覚以外でその姿を捉えられない。呼吸や鼓動が聞こえず、風がその身体に触れる気配すら感じられないというのはミユキにも初めての経験であった。


 トウカが気配を消しても直ぐに気付いてしまうミユキは、己の感覚に自信があった。だが、眼前の存在には視覚と突然漂い始めた濃密な血の匂いだけしかなかった。生命活動を行う生物がそれだけしか存在を示すものを発しないという事は有り得ない。ヒトという生物は当人たちが思っているよりも、存在しているだけで大きく自己主張し、喧騒に満ちた存在なのだ。


「貴方はだれ?」ミユキは声を上げる。


 月光を雲居が覆い隠し、影となった池の水面に佇む影は小さく身動ぎする。


 血の匂いとは、ただ負傷しただけではそれほど濃密なものが漂う訳ではない。傷口が小さければ然して広がらない。無論、流れ出た血量が多ければ臭いは広域に広がるが、人影からは血の流れる液体が伝い、水面へと雫を垂らす音も聞こえず、怪我しているようには見えなかった。


 或いは、可能性は低いが怪我をしているのかも知れないとミユキは近づく。


「御嬢さん、近づいてはいけないよ」優しげな声音。


 少し男性に寄った中性的な声。人影は然して大きくないので若者かと思っていたが、予想していたよりも遙かに幼げな声でミユキは呆気に取られる。


 その優しげな声音の持ち主が振り向く。


 それは小さな少年だった。


 確信できない程度には中性的であるが、その所作は酷く男性的である。


 ヴェルテンベルク領邦軍の漆黒の士官服に、銀髪というには輝きがない……長い白髪をぞんざいに束ねた長髪に軍帽を身に纏った姿は、全てが断片的でどこか印象に残り難いとミユキは首を傾げた。


 振り向いたその顔に、ミユキは小さく息を呑む。


 優しげで人懐っこい碧眼に、無邪気に歪んだ口元。だが、何よりも目を惹いたのは、右目を覆うように付けられた漆黒の眼帯であった。


「やぁ、狐の御嬢さん。|こんばんは(GutenAbend)。夜の御散歩かな?」無邪気な笑顔。


 だが、ミユキは気付いてしまった。


 否、何故、今まで気付かなかったのか。或いは、己の意識が意図的にソレを理解することを拒んでいたのか。


 池に浮かぶ斬り裂かれた無数の人を構成していたであろう部位を。


 一人や二人という数ではない量のソレに、ミユキは本能がその少年士官を危険だと判断する。


 無意識にあとずさる。


「うん、気付いてしまったかな?」笑顔のままに呟いた少年。


 怖い。凄く怖い。


 濃厚な血の匂いと無数のヒトだったモノに囲まれて尚、優しげな笑みを浮かべる少年士官。


 何故、そんなに笑顔でいられるのか。

 何故、そんなに優しげな声なのか。

 何故、そんなに楽しげなのか。


 ミユキには分からない。


 気は付けば、背を向けて走り出していた。


 生まれてこの方感じた事がない程の強大な恐怖心がミユキを突き動かした。


 その日、ミユキは残忍な殺人鬼の夢を見た。











「ミユキ、起きているか?」


 トウカはミユキの部屋の扉を叩く。


 だが、部屋からの反応はない。


 昨夜、帰ってきたと侍女から聞いていたのでミユキが部屋に居る事をトウカは知っていた。居留守を使われているか、或いは就寝中のどちらかであろうことは想像できるが、安易に女性の部屋に押し入ってよいものかという懸念があった。


 トウカは取っ(ドアノブ)に手を掛けて思案する。


 ちなみにミユキの部屋は完全な洋室で、隣はマリアベルとベルセリカの部屋が続いており、政治的にも軍事的にも極めて高い安全性を誇る部屋がミユキの部屋であった。ミユキ自身はトウカの部屋に押しかけていることが多かったが、最近ではすっかり(へそ)を曲げて自室に引き籠っている。トウカも気に掛けていたが、最近では新設の降下猟兵部隊の育成などに時間を取られて帰宅することもなかった。顔を合わせ辛いという思いと謝っておくべきという感情が鬩ぎ合っていた。


 意図せずして力が入った手によって扉が半開きになる。


「全く、不用心な。鍵を掛けていないのか」トウカは呆れる。


 皇国に於いて一室の鍵とは額面以上の意味を持ち、扉にも魔術的な防護を施していることは何ら珍しいことではない。防音術式は勿論、対物理、対魔導術式なども壁面同様に刻印されている為に、その性能と剛性は通常の(ドア)よりも遙かに高性能であった。それを開くことのできる鍵を持つ者は部屋の主から全幅の信頼を置かれているといっても過言ではない。


 鍵を閉め忘れて男の侵入を許すなど慎みのない女性だ。


 少なくとも皇国の古い考えに固執するヒトのなかにはそう口にする者も少なくない。


 トウカは(ドア)を開けて部屋内へと進む。


「就寝中か……」


 寝台(ベッド)上で毛布に包まって顔だけを出して寝ているミユキに、トウカは溜息を零す。


 その寝顔は、どこか寝苦しさを感じさせ、眉間に皺が寄っている。


 トウカとしては毛布の要塞に隠れる様に就寝している事が気になった。ミユキは就寝の際の癖なのか毛布から尻尾を出す癖があり、当人曰く尻尾が上手く動かせないと目が覚めてしまうらしかった。


 トウカは寝台(ベッド)に腰を下ろし、ミユキの頬を撫でる。


 深く眠っているところを起こすほどトウカは不粋ではなく、またミユキの寝顔を眺めていたいという欲求が勝る。


 珍しいことに眉根を寄せて眠るミユキの前髪を撫で付ける。


「全く……人がこんなに心配しているというのにな」思わず笑みを零すトウカ。


 トウカにとってミユキは全てだった。


 少なくともそれだけの気概を持っている心算ではあった。ミユキの為ならば、少なくともすべてを犠牲にする覚悟を持っている。ベルセリカとの盟約さえ反故にする覚悟を持っている心算であった。最も、ミユキが他者との盟約を反故にすることを良しとするはずもないが。


 愛しくて堪らない。今ここで襲いたいくらいに。


 無論、トウカにはその度胸も覚悟もなかった。


 ミユキという己よりも遙かに長大な生を宿命付けられている天狐の人生を、唯の人間種で短かな寿命しか持ち得ない己が束縛していいのかという疑問と懸念は常にトウカに付き纏った。


 トウカが散った後、ミユキはどの様な途を歩むのか。


 それはトウカにとって答えの見えない疑問であった。シラヌイに啖呵を切った手前、最善を尽くすのは当然のことであり、またベルセリカもミユキの面倒を見てくれるだろう。


 それでも尚、不安なのだ。


 例え先のことであっても、必ず訪れる未来であり、トウカは危惧していた。これがトウカの悪い癖であり、思考の枝葉が余りにも広がり過ぎる為に、まず行動するよりも思考を優先して動けないことがあるのだ。


 俗に言うところの“頭が良い”や“頭が回る”というものは利点ばかりではなく、それ相応の欠点も同時に併せ持っている。詰まるところトウカは考え過ぎるあまり、行動に遅れが生じることも多々あった。特に慎重とならざるを得ないことについては、他者が呆れるほどに慎重であったが、それは消極的という意味ではなく、可能と判断すれば苛烈な対応を取ることを躊躇わなかった。


 その一面ゆえに各方面で少なからぬ軋轢を生じている。


 トウカからすると帝国に対しては危機感を抱いていても、皇国の現状に対しては危機感を持っていないように感じていた。幾らかの危機感はあっても、天帝さえ即位すれば解決すると考えている。トウカには天帝という個人に国営を押し付けることを良しとする思考の遅滞した行為にしか見えなかった。歴代天帝は確かに皇国を繁栄させ、護ってきたが、それ故に臣民は何一つ学んでいない様にすら思える。


 そう、現在の皇国に於ける内戦すらも、北部貴族と大御巫の戦いなのだ。断じて臣民の戦争ではなく、当事者意識が希薄なのだ。


 双方共に高い指揮統制を誇り、規律と道徳もそれに準じたものを持っている。その上、皇国に存在する軍事組織では戦地での略奪や強姦といった行為は例外なく処罰の対象となっている。どちらが勝者となろうとも臣民が大きく不遇を強いられる可能性は少ない。


 そして帝国との間にはエルライン要塞がある。


 これに幾らかの常備戦力を増強させる事が出来れば帝国の侵攻は防げると一般では考えられていた。少なくとも一個軍を張り付ければ劣勢でも、最終的には状況は逆転すると軍官民がそう信じて疑わない。二〇年前の大侵攻で帝国軍が戦車という兵器を投入したにも関わらず、これを退けたという事実もこの風潮に拍車を掛けている。


 トウカからすると嘲笑ものの判断であるが。


 約二〇〇年の間、同じ拠点で攻防を繰り返していると基本戦術は硬直し、戦略規模の攻防であるにも関わらず一つの戦域という戦術的視野に成り下がるのかも知れない。


 戦争とは発展著しい消耗活動である。


 なまじヒトが構成する世界に於ける最大単位である国家の興亡が関わっているが故に、恐ろしいほどの人的、鉱物、天然資源を消耗される。無論、歴史的にみると戦争それ自体を悪と断言することはできない。


 戦争は、科学技術を著しく発展させ、道徳の水準を向上させ、経験を蓄積させる。


 教訓とすべき悲話と、それを構成する幾多の佳話を生む。それは、文明と文化の発展に途轍もなく寄与するものであった。過去を顧みて未来を違える可能性を低減する事が、後に遺された者達の義務であるが故に。無論、犠牲と利益が釣り合うかという点は。指導する者の智謀と手腕次第であり、同時に国家の利益と人類の利益が同様であるとも……否、同様であることは稀であった。


 ――帝国は戦略的視野で今回の戦争を進めている。


 早い段階で後退したのは意味があるはずであると、トウカは見ていた。莫大な軍事費を消費するであろう外征を容易に断念することは、それが軍事的混乱だけでなく政治的混乱すら呼び寄せる可能性がある。まして専制独裁国家であれば、多くの有力者の首が物理的に飛ぶことは疑いない。


 王政の軍隊が、勝ち目がないからと易々と引き下がれるはずがない。帝国南部鎮定軍の司令官や参謀連中の進退……否、生命をも左右しかねないからであり、最悪、親族にまで罪が及ぶ可能性すらある。


 故に、この撤退……否、後退は元より想定されていたことなのだ。


「そもそも、帝国の思惑に二〇〇年も気付かないほうが如何にかしている」


 実は帝国が皇国に侵攻できる侵攻路は別にもある。


 無論、《ローラン共和国》を刺激して乱戦となるであろう《中原諸国領》を迂回しての侵攻路ではない。そう仕向ける手を打てば凄まじく帝国の国力を消耗させることができるが、今のトウカにそれだけの権限はなかった。


 《南北エスタンジア》。


 それは《ヴァリスヘイム皇国》と《スヴァルーシ統一帝国》の間に在って、大星洋にも面する中堅国家であった。しかし、実は国家という名称は間違っても南北と付いている通りそれは2つの国家からなる内戦地帯の名称であった。元は《エスタンジア王国》という統一国家であったが一〇〇年近い内戦が続いており、北の《北エスタンジア正統王国》と南の《南エスタンジア国家社会主義連邦》で戦闘と休戦を繰り返しており、周辺諸国から完全に孤立していた。


 皇国としてはエスタンジアを帝国との緩衝地帯と考えており、帝国が攻め入ると南北で一時休戦して抵抗してくる上、長い交戦期間を経て実戦経験を積んだ将兵は、その国境の大半を占める峻嶮な山岳地帯を縦横無尽に機動する。


 故に面倒であり両国とも不用意に侵攻できず、また立地的に海を挟んで《瑞穂朝豊葦原神州国》も存在する為に下手に介入すると三国で果てのない消耗戦となる。無数の戦線を持つ帝国にとって皇国と神州国を同時に敵に回す事は得策ではなく、特に後者の海軍力による海上封鎖によって他大陸からの交易が途絶えるということは国内食糧生産量が消費を大きく下回っている帝国にとって死活問題である。


 だが、現在、《南北エスタンジア》に《スヴァルーシ統一帝国》は軍事侵攻を開始した。


 以前までの大前提は崩れつつあるのだ。だからこそ陸海軍は、大御巫(おおみかんなぎ)という正当性に些かの疑問符の付く神輿を死に物狂いで担ぐ決意をするに至ったのかも知れない。


 トウカに《ヴァリスヘイム皇国》の全権があれば、《南北エスタンジア》を早々に押さえただろう。


 近接航空支援によって陸上戦力を前進させれば、山岳地帯に意味はない。山岳地帯という高低差のある三次元戦域は確かに守勢に有効であるが、それ以上の三次元戦闘が可能な航空騎がある以上、然したる意味を持たない。無論、今のトウカには関係ない話であるが。


「さて、ではそろそろ行くか」


 今一度、ミユキの頭を撫で、トウカは腰を下ろしていた寝台から離れる。


 状況は悪化しつつある。戦線が徐々に後退し、兵力は減少し続け、兵装の充足率も減衰の一途を辿っている。この状況を打開するには局地的な軍事的勝利では意味がない。


 政治的勝利が必要になる。


 トウカは部屋を出ると、敬礼してきたザムエルに返礼する。その場にはカリスト中尉やルーデル中尉も立っていた。


 その者達に対してトウカは穏やかに笑う。


「さぁ、大御巫を殺しに行くとしようか」











「往きおったかの……全く、呆れてものも言えぬであろうて」


 マリアベルは出撃態勢に入った装甲聯隊を自室の窓から見下ろし、深く嘆息する。


 トウカは一ヶ月の間に様々な手を打っていた。


 Ⅵ号中戦車の車台を利用した各種装甲兵器に、それらの増産に伴う兵器工廠の増設。これだけでもトウカの功績は目を見張るものがあるが、それだけではなく技術者に新たな発想を与えて新型重戦車や航空騎の開発も進めていた。あの若さにして人を使う事ができることは特筆に値するが、同時に様々な部署で軋轢を生じてもいた。余りにも強引な手腕と歯に衣着せぬ物言いで多大な顰蹙を買っており、マリアベルが軍備拡充の功績によって領邦軍参謀に推挙しようと画策したが、家臣の反対が相次いで頓挫したほどである。


 トウカの焦りをマリアベルは理解していた。


 二正面戦争を恐れているのだ。


 その最たるものが《スヴァルーシ統一帝国》の介入である。


 ――帝国の指揮官が戦略規模の視野を持っているなら、皇国は近い将来負けるでしょう。


 皮肉を多分に含んだ嘲笑で語ったトウカ。


 少なくともマリアベルよりも広い戦域を見ていることは分かるが、トウカは、まぁ、エルライン要塞に押し寄せる時点で視野は狭いでしょうが、とも呟き、軍議でも詳しい理由を語らなかった。恐らくはそれだけ帝国と皇国が共通して有する常識から離れた事であり、他者が混乱する事を避けたのであろう。


「今回の作戦はその集大成と言えるの」


「勝算はあっても危険。私は今も反対」


 マリアベルの言葉に、応接椅子(ソファー)で抱き枕をモフモフしていたヘルミーネが呟く。


 トウカの作戦計画立案はそれに関わった者に大きな波紋を投げ掛けた。



 大御巫の殺害。



 それも暗殺という手段ではなく戦闘集団による奇襲という形で、である。ベルゲンという皇国有数の城塞都市の最奥部に居る大御巫を暗殺することは容易ではない。ベルゲンを攻略するだけの戦力も、ヴェルテンベルク領邦軍はおろか蹶起軍は保有していない。何よりも戦線の先にあるベルゲンを直撃するには戦線を押し上げなければならなかった。


 トウカは策があるので任せてくれないかと口にしたのでマリアベルはそれを許した。大御巫を殺害するという戦果を以てすれば、トウカへの反感は立ち所に霧散し、領邦軍の総指揮すら任せられるかも知れないという打算故であったが、ヘルミーネはそれを踏まえても反対していた。


「これだけの戦力ぞ。勝てずとも、戦線に展開しておる敵部隊を幾つかは潰せようて」


「あれは笑顔で凄い無茶をする、きっと」


 マリアベルの予想に、ヘルミーネが苦言を呈す。


 今回の出撃に当たり、その司令官をザムエルとして、トウカは参謀として参加する。編制が偏っているものの師団に準ずる打撃力を持つ戦力を、中佐の階級でしかない者が率いることが問題であるとする者がいたが、領邦軍とは貴族の私設軍である。マリアベルの、構わぬ、の一言で解決した。


 戦力は|戦闘団(Kampfgruppe)を呼称しているが、一個装甲聯隊に一個装甲擲弾兵大隊と装甲砲兵大隊、戦車駆逐大隊、対空砲大隊、工兵大隊、通信大隊、補給大隊などを一つに纏め、更には戦闘騎と戦闘爆撃騎の混成航空部隊である一個戦闘爆撃航空団もこれに続く。


 装甲師団という概念がない皇国に於いてこの編成は歪であった。装虎兵や軍狼兵が組み込まれていない師団は基本的に存在しない。師団が進撃する際の斥候が軍狼兵であり、突撃の際の先鋒が装虎兵なのだ。


 トウカによって編成された〈|ヴァレンシュタイン戦闘団(カンプグルッペ・ヴァレンシュタイン)〉は、それらを戦車や各種装甲兵器が担っていた。


「本当に有用か分らぬ兵器を信じた編制が気に入らんか?」


「当たり前」


 そう、未だ戦車という兵器が攻勢で大きな戦果を挙げた事はない。主な理由としては、皇国に於いて戦車を集中運用するという発想を持った者がマリアベルだけであり、その上、現在の内戦では密林地帯を使った防衛戦が主体である為に、戦車は自走する砲台として扱われることが殆どであった。


 戦車という兵器がこれほど集中して投入され、攻勢を行うのはこれが有史以来初めての事であった。トウカは、少なくとも征伐軍を混乱に陥れることはできるでしょう、と話していたが、何処からその自信が出てくるのかは、マリアベルにも分からなかった。


「まぁ、死にはせんだろうて…………しかし、御主も随分と彼奴に執着するのぅ」


 煙管(きせる)を指で弄び、マリアベルは愉快よの、と快活に笑う。


 狐と狼の痴話喧嘩は果たしてどの様なものになるか、それは永い時を生きるマリアベルですら想像の及ばないものであった。無論、己が長く恋をしていないという理由も少なくないが。


 対するヘルミーネは小首を傾げる。


「トウカは発想の湧き出る泉。その有無は皇国の興廃を決める」


 正に智謀湧くが如しである。


 面白くなさげに呟くヘルミーネに、マリアベルはそれほどかと唸る。それほどまでトウカが高く買われているとは思ってもみなかったマリアベルだが、実はヘルミーネだけでなく、奇抜な発想や苛烈な手段で研究費を捥ぎ取ってくるトウカは兵器工廠の研究者達からも絶大な人気があった。兵器工廠にトウカが赴くと研究者達が群がり新たな兵器開発について相談されていることからもそれは窺い知れる。


「良くも悪くも支持する者はおるという訳か。嫌われてばかりではないのは幸いであるな」


 トウカの興味深いところは、その行動故に現時点では好かれるか嫌われるかの二択に大きく分かれているという点である。特に手順を踏まないので管理職から犬猿されているが、対応が速い為に兵士達からは好感を得ていた。


 眼下で自走砲の天蓋に立ち訓辞を垂れているザムエルの横から、マリアベルを見上げて敬礼しているトウカに、マリアベルも人差し指と中指を額端に当てると、片目を瞑って返礼する。


 マリアベルは堅苦しい形式を好まない。


 トウカもそれを理解しているのか、肩を竦めるとヴァレンシュタインの横に立ち何かを呟く。するとヴァレンシュタインが驚いたようにマリアベルの一室を見上げる。よもや見られているとは思わなかっただろう。


 ザムエルが片手を払い、何かを叫ぶ。


 すると広大な庭園で整列していた兵士が、マリアベルに向き直り、一斉に敬礼する。


 ――彼奴め、妾が堅苦しいのを嫌っていると知ってか!


 恐らくはトウカが提案したのだろう。参謀は策を献じる事だが、余計な策まで献じるのは宜しくないと内心で嘆息しつつも、マリアベルは答礼する。


 無論、今度は一部の乱れもない敬礼である。まさか、一般兵士に醜態を晒す訳にはいかない。


 だが、同時にトウカとザムエルの連携に不安がないことも理解できた。どちらも中佐という階級を与えているので、指揮権に混乱が生じる可能性があるのではという懸念があったのだが、眼下の糞餓鬼二人の表情を見る限りその懸念は杞憂であるらしかった。


「帰ったら拳骨よのぅ」


 出来の悪い子供を叱る母親の表情でマリアベルは微笑んだ。




 




知謀沸くが如し


《大日本帝国》海軍、秋山真之中佐

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