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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》
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第五六話    在りし日の詩姫




「では、御嬢さん(フロイライン)失礼させていただく」


 一礼した見慣れない少年と呼んで差支えない顔立ちの軍人は、酔いで足元が覚束ないザムエルの手を掴み、引っ張り上げると酒場の出入り口に向かって歩き始める。後に続くザムエルの危なげな足取りとは裏腹に、見慣れない軍人の歩みには淀みはなく、その有無を言わさぬ佇まいに歌姫は声を掛けることができなかった。


「変なお客さんねぇ。初めて見る顔なのにあの階級章……また領主様の気紛れかねぇ」


 二人の軍人が消えた出入り口を見つめていた歌姫の横に、気が付けば立っていた女将の言葉に心の内で同意する。


 ヴェルテンベルクに根を張って久しい女将ですら見たことがないというのは不自然であった。膨大な魔導、鉄鋼資源と強力な新兵器によって北部で大公の如く振る舞っているヴェルテンベルク伯爵家と言えど、所詮は伯爵家に過ぎず領邦軍の階級にも限界がある。故に佐官の地位にある者は限られており、今まで気が付かなかったということは有り得ない。ヴェルテンベルク領邦軍特有の漆黒の開襟軍装を身に纏っていた以上、マリアベル隷下にあることは明白であるが、あれ程の若さで中佐の階級を拝命しているということは、それに応じた能力を持っているということになる。


 ――ヴェルテンベルク伯は皆が思っている様な優しい人じゃない、きっと。


 歌姫は一度、軍高官用の飲食店で唄う機会に恵まれた際、マリアベルを目にしたことがある。


 貴族に縁のある歌姫は、その瞳に宿る怜悧な気配を感じ取った。在りし日の父が政戦の最中に見せた瞳と同じその気配は、他者を退けんとする為に人の道を踏み外した化物のものであり、歌姫は唄への賛辞を述べたマリアベルと視線を合わせることができなかった。


 そんなマリアベルが意味もなく若者を佐官にするはずがない。


「同じ人間種なのにえらい出世だね。アンタもこの店で一番の出世頭なんだから頑張りなよ」


 快活な笑みを残して厨房へと下がった女将。


 別に出世などに興味はないと歌姫は寂しげに首を振る。最早、歌姫にとって富も名声も煩わしいものに過ぎず、同時に肥大化して己を喰い殺さんと迫り来る不可視の化物としか見られなかった。


 過度な富と名声は、歌姫にとって恐怖の象徴に他ならない。


 歌姫は帽子を被り、上着を羽織ると出入り口から大通りへと出た。


「小さな富と僅かな名声……それだけで人の一生は十分に彩りのあるものになるのに」


その呟きは雑踏に溶け消える。


 顔を覆わんばかりに深く被った大柄な帽子の御蔭で歌姫だと気付く者はいない。一曲御願い致したい、と言われてしまうと生来の気質と客商売である歌い手である歌姫は断り切れず、一曲歌わねばならなくなる。そしてその歌声に乗せられてやってきた新たなる聴衆が再び一曲とせがむという悪循環をフェルゼンに訪れた翌日に経験して以降、外出時は極力顔を隠すように努めていた。


 歌姫は夜の帷が降りても尚、活気が損なわれることのない大通りを進む。


 その姿も相まって歌姫を気に留める者はいない。


 歌姫の向かう先は自らが住まう借屋(アパートメント)であった。


 大通りを横に逸れ、幾つかの小路と町中に張り巡らされた水路に敷設された石橋を渡る。


 皇国最大にして、堅牢無比とヴェルテンベルク伯自らが断言して見せたほどの軍事都市、それがヴェルテンベルク伯爵領、領都フェルゼンであった。


 領邦軍総司令部と伯爵邸宅を兼務した重厚な建造物を中心に放射状に延びた六車線の道路一二本にそれを横に繋ぐ複数の小路や、等間隔で張り巡らされた防火水路。そして何よりも広大なフェルゼン内を走る魔導機関車用の環状線が有名であった。近年、信頼性の向上に伴い一部では大規模な鉄道敷設が行われているが、一辺境の地方都市に敷設されることは交通の要衝でもない限り有り得ないはずである。ましてや都市内のみで運用される環状線などは皇都ですら敷設の計画のみが上がっているだけであった。


 フェルゼンを囲う様に建造された城壁には、魔導機関を内蔵した新型の魔導障壁が毎年更新され続けている。それが三重の防護となっており、更には二十輌編制の魔導防護車輛を牽引した魔導機関車を動員することで魔導障壁を追加で幾重にも展開することができた。


 そして、何よりも目を惹くのが合計三〇門の四一cm機動列車砲であった。ヴェルテンベルク領邦軍が派手に喧伝している通りフェルゼンの守護神であるそれは、軍事祭典(パレード)の際は一番の見物として領民に親しまれている。


 歌姫がフェルゼンにいるのは、あらゆる外部組織の影響を受けないからであった。


 マリアベルは強大な政治的権限と装甲戦力を始めとした軍事力を有しており、あらゆる組織に対して対等に近い立場を築いていた。少なくとも妥協と惰弱を許さないマリアベルは、相手が如何様な者であっても苛烈にして単純明快な対応を取っている。


 外部の影響を受けないことは歌姫にとって重要なことであった。多くの憲兵が巡回し治安維持や間諜摘発に携わっていることも歌姫には有利に働く。


 《ロマーナ王国》、アウレリア侯爵家の最後の血縁であるリルカ・オクタヴィア・レイ・アウレリアは、遠い北の大地である安住の地で人の幸せを謳歌していた。










「リルカ! 凄いじゃない、誰から貰ったの? ……はっ、もしや婚約の支度金?」


 慌てる無二の親友にリルカは後ずさる。


 リルカは歌姫として日銭を稼いでいるように、親友は武門の家系として鍛えられた剣技を以て大通りに面する幾つかの酒場で腕利きにして美人の用心棒として雇われていた。問題が起きると颯爽と現れる美少女剣士として歌姫であるリルカとはまた違った意味で見世物な扱いを受けている。当人が剣を構えるだけでも心づけ(チップ)が貰えるなら安いものと考えている事は分かりきっているので、リルカには止めようという気はなかったが、今は亡き親友の父が草葉の陰どころか、背後で激昂している気がしてリルカは思わず背後を確認する。


 その様子を見た親友は立ち上がると部屋の窓を開け放ち、大音声で怒鳴る。


「まさか、変な男に付き纏われているの!? なら早く領邦軍に突き出しましょう! 金一封よ!」


 気色ばむその姿は鬼気迫るものであり、言動にも本音が混じっていた。二人は然して金銭に困っているわけではなく、そして必要以上に目立つわけにもいかなかった。


 窓枠に足を掛けて近所迷惑上等と言わんばかりに騒音をまき散らしている親友を引き倒して、慌てて窓を閉めるリルカ。昔から姫より御転婆な騎士として名を轟かせていた頃を思い出させる一幕にリルカは小さく笑う。立場や境遇は幾度となく変遷しても親友だけは不変である。それがリルカの思いであった。


 無論、現し世に不偏性を有した生物などありはしないが、それでも故郷を喪い、家族を喪い、祖国をも喪ったリルカにとって、それでも尚、自らの隣でさも当然のように笑っている親友……フランカは少なくともリルカにとっては疑いようもなく不偏であった。


 ――この無駄に陽気なところは変わって欲しいと思ったこともあるけど……


 否、だからこそフランカはフランカなのね、とリルカは応接椅子(ソファー)に腰を下ろす。フランカも帯剣していた長剣を壁に立て掛け、足を投げ出すようにリルカの横へと座った。


「しかし、生きている内にハイゼンベルク金貨を再び見られるなんて幸運ねぇ」


 懐かしげに呟いたフランカの言葉に、リルカは首を傾げる。


 フランカの掌中にある金貨は初めて見るものであるが、金貨は少ないながらも今まで幾度か受け取ってきた。特に貴族などは複数枚投げて寄越す者もおり、この上ない上客であった。


 そのリルカの内心を察したのか、フランカはハイゼンベルク金貨を掌で弄びながら、田舎娘ねと笑う。昔からよく言われる言葉なので、リルカは苦笑するしかない。悲しい過去を思い出す言葉であるからといって、遠慮するほどフランカは殊勝ではない。そしてその飾らない姿勢こそをリルカは好んでいた。


「これはね、ハイゼンベルク金貨と言って中央の結晶は高価な魔導触媒で、周囲の純金に刻印された魔導刻印を含めると効率的な魔導増幅器になるの。ぶっちゃけると一枚で都心に結構な家が建つんじゃない?」


 そう言いながらもハイゼンベルク金貨を掌でぞんざいに扱っているフランカに呆れつつ、リルカはそれほどの大金を無造作に投げて寄越した若い軍人の真意がどういったものか考える。


 ――あまり目立つ人じゃなかったけど、精悍な顔付きだったよね? でも、中性的にも思えたわ。どちらせによヴァレンシュタインさんよりは軍人に見えたけど……


 いつも下心を隠しもせずに語りかけてくるザムエルはあからさますぎで逆に清々しく、気安く話しかけることができたが、若い軍人はどこか不機嫌な雰囲気を放っていたので話しかけ難かった。酒精が入ると不機嫌になるのかも知れない。稀にそうした人間も存在する。


「そんな軍人がいるんだ。面白いわね。私も仕官しようかな。そのくらいの若さで佐官になれるなら私だと将官に……そう言えば領主様が珍しく若者を囲ったなんて話もあったから、意外と御当人かもね」


 確かに権力者と癒着しているのであれば、佐官としていきなりの仕官も頷ける。しかし、リルカが見た少年は、龍の慰み者になるを良しとするようには見えず、容姿も貴族が囲いたがるほどに秀麗という訳ではない。寧ろ、マリアベルの様に恫喝と暴力によって成り上がった印象をその力強い瞳に受けた。


 ナニカの為にヒトを進んで傷付けられる瞳である。


「でも、私の歌を聞いて心揺らして人だから悪い人じゃないはず……たぶん」


「高い心付け(チップ)もくれたもんね。次、会った時、宿に連れ込まないように注意しなさいよ」フランカがさも愉快だと言わんばかりに笑う。


 軍人の中には酒場で目を惹いた踊り子や歌い手、看板娘に一夜の御相手を願えないか、と女性の手を取って囁く者もいる。それは、リルカも幾度も遭遇してきたことあったが、その誘いに応じたことはない。無論、その様な出会いを経て結婚する者や、軽い遊び程度で応じる者など様々な者がいる。一概に不純と断じることは出来ないものの、リルカは己の大切な者となる男性とは幻想的な出会いであって欲しいとも考えていた。


「大丈夫、きっと悪い人じゃないもの。それに今は乱世だから……」


 良い人も悪い人も、女も男も、民間人も、軍人にも分け隔てなく死を運ぶ嵐が吹き荒ぶ時代。今生の別れなど道端に無造作に打ち捨てられた石ころと同等な程に珍しいものではく、リルカ自身も身を以て経験していた。特にヴェルテンベルク領邦軍は北部蹶起軍の中でも精強で知られ、この動乱に於いては征伐軍から激しい攻撃を受けることは必至である。


「乱世ね。でも乱世だからこそ皆は私達を気にも留めないのよ。ま、自由の代償は大きかったけど」フランカは憮然と呟く。


 そう、自らに連なる血統を総て喪った。


 両親だけでなく親族も全員が処刑台の露と消えた今、リルカは天涯孤独の身である。再び家族を失いたくないからこそ軍人を伴侶にするなど有り得ない。


 二人の祖国は《ロマーナ王国》は《トルキア部族連邦》南部から突出した形の半島と群島によって構成された長い歴史を持つ王政国家であった。


 本来は温暖な気候を利用した農業や酪農が盛んで、長い年月によって築かれた文化的な建造物を持つ国家であるが、二年前に国王が崩御し、王太子が擁立されたことで騒乱が始まる。


 そして、新王が即位後に王妃たる女性を求めたことで貴族達は二分されることになる。


 本来であれば、見目麗しい女性が王妃となるだけで解決しただろう。


 だが、《ロマーナ王国》には、人気を分断する程に可憐な乙女が二人存在した。


 紅地の姫君、ロゼリエッタ・シューマン・リア・カルディナーレ。

 蒼空の姫君、リルカ・オクタヴィア・レイ・アウレリア。


 前者は大貴族の娘であり、陽光の如く輝く髪を持ち、紅い衣裳(ドレス)を身に纏い激情を宿して謳う様は、多くの男を魅了して国中から賞賛を得ていた。対する後者は、広大な辺境を治める地方貴族の一人娘で、青天の如く曇りなき髪を持ち、蒼い衣裳(ドレス)を身に纏い、純真な歌声には貴賤を問わず多くの者達が癒された。


 二人は互いに歌を通して出逢った友人でもあった。


 方向性は違えども共に歌唱の果てを目指す戦友にして好敵手。二人はミラーナ中央歌劇場で主役(プリマドンナ)を務めた事すらあった。


 紅と蒼。

 空と地。

 情熱と純真。


 あらゆる面で対を成す二人。


 そして、互いを認め合ってもいた。勝気な紅地の姫と儚き蒼空の姫が手を携えた姿すら在りし日には存在し、どちらもが《ロマーナ王国》を代表する乙女であることに変わりはなかった。


 カルディナーレ家は、これを奇貨として紅地の姫君を先頭に首都であるミラーナに於ける苛烈な政治工作を開始。対するアウレリア家も己の娘である蒼空の姫君を王妃にするまたとない好機とばかりにリルカを旗頭に地方貴族を糾合。


 忽ちに膨れ上がった二つの貴族による陣営。


 その双方が首都であるミラーナに輿入れと称し進出を開始した。


 元は護衛の兵士だけであったが、進路上の貴族や有力商人達がそれに迎合してミラーナに到着する頃には双方共に一軍に匹敵するほどの人員となる集団となっていた。


 そして、二人の乙女の意志に関係なく、双方は衝突する。利権と欲望に塗れた者によって編成された双方の軍は、互いを明確に敵と認識し、やがては国中に飛び火する内戦へと発展した。


 一年後、小貴族の聯合であり、相手の切り崩し工作に耐えられなくなったアウレリア派が崩壊し、父母はカルディナーレ派に火刑に処される。フランカに手を引かれて逃げるしかできなかったリルカは、父が別れ際に呟いた、済まない、と逃走用資金を渡してくれた時の表情を今でも覚えている。父もまた欲を出して死んだが、少なくともそれは娘の為であり、己が栄華を極める為だけではなかったことが唯一の救いと言えた。


 その後、二人は流浪の末にフェルゼンへと流れ着いた。


「謳うだけの人生……私はそれだけでいい」


 歌は良い。歌っている間は、誰一人悪意を向ける者はおらず、また心も満たされる。自らに欠けているナニカが歌っている間だけは取り戻せる気がした。


「御家再興はいいの?」フランカが笑顔のままに尋ねる。


 実はフランカの生家であるトルナトーレ家もフランカを残して事実上断絶している。そして、フランカが御家再興の気泡を未だ胸にも抱いているということも知っていた。だが、リルカの意思を尊重しているのか強く口にしたことは一度たりともない。


「私たちは何も持っていない。……もう、取り戻せないの」リルカはフランカの手を握る。


 既に終わった事を考え直す事をリルカが止めて……否、諦めていた。


 親友であるフランカが軽い言動や見た目に反して、熱心な愛国者であることはリルカも知っていたが、終わった動乱を蒸し返すことは民にこの上ない負担を強いることになる。実際、アウレリア派は父母が処刑され、その勢力を大きく減じたものの、リルカが再び先頭に立てばそれなりの数が集まることは容易に想像できた。


「私はフランカに幸せを掴んでほしいかな」


 親友の頭を膝に乗せ、リルカは諭すように呟いた。


 最早、大勢は決している。この上は、民に負担を掛けない為にも、別れ際の父の生きろという言葉を達成する為にも歴史の表舞台に立つわけにはいかない。


「さぁ、今日はもう遅いから寝ましょう」


 リルカは淡い笑みを浮かべた。











「ぬ、主様臭いです! 近づかないでください!」


 大きく後退したミユキが、怒っています、と狐耳と尻尾を逆立てて唸る。威嚇されたトウカは突然のことに戸惑うばかりであった。ミユキには帰りは遅くなると言っておいたものの、既に今現在の時間は翌日の早朝となっていたので、機嫌を損ねられていることは分かっていたが、こうもあからさまに避けられるとは想像の埒外であった。大日連の会社員であれば、終電を逃したとでも言えば言い訳も立つが、いくらフェルゼンでも、路線が走っているとは言え、そもそもが軍事利用を前提に作られたものであり、夜間の運行はしていない。


「そう言えば部屋の机の上に置いておいた稲荷寿司はどうだった?」


 実はトウカに与えられた部屋にはミユキはよく訪れるので、トウカは常にミユキが好んでいる食べ物や御菓子を机の上に置いていた。特に昨日は稲荷寿司を置いてあったので、ミユキの御機嫌取りは十全なはずである。寧ろ、帰ってすぐに次の稲荷寿司をせがまれるかとすら考えていた。


「ううっ、あれはマリアさんの晩酌のおつまみになっちゃいました」


「…………あの糞婆」


 それではミユキの機嫌が悪くて当然であった。


 仕方ない、とトウカは一歩進む。再び稲荷寿司を作って機嫌を取らねばならない。


 対するミユキは一歩下がる。


「そんなに臭うか?」


「下品な臭いが移ります! 早くどっか行っちゃってください!」


 嚙み付かんばかりのミユキの剣幕に、トウカは冷や汗をかく。暫く、むぅ、と唸って異邦人を見据える仔狐だが、顔を逸らして何処かへと行ってしまう。


 トウカはその後ろ姿を黙って見つめるしかなかった。


 朝帰りで妻に怒られる夫の気持ちというものはこの様なものかもしれない、とトウカ肩を落として部屋へと続く廊下を歩く。


 ザムエルなど酔ったところでごみ捨て場なりに投げ入れておけばよかったのだと後悔する。実は酔いが回って人間の屑状態のザムエルを運ぶことに限界を感じたトウカは、色町のザムエルの行き付けの店を当人に何とか聞き出して転がり込んだのだ。トウカ自身も少なくない酒精が体内を巡っており、ザムエルを背負っての行軍は身体に堪えるという理由もあった。


 ザムエルは酒に酔った勢いで大層な御乱行を働いたらしく、部屋の前を通った際に嬌声が響いていた。機甲戦は兎も角、夜は撃破王(タンクエース)であることは間違いないのだろう。トウカはそんなことを考えながら隣の部屋で一人眠りについた。女性を如何するかと聞かれはしたが、ミユキに対する引け目と、見ず知らずの女性に対して無防備になることへの忌避感から遠慮したので後ろめたさは感じなかった。


「おお、トウカではないか。妾も丁度、探して……臭いのぉ。ふむ、随分激しく求められたと見えようて。若いの。妾に言えば、少々、無理な嗜好にでも応えてやらんでもないものを」


「黙れ、色惚け駄龍」


 酒瓶片手に酒臭い息を吐くマリアベルを押し退ける。


 だが、その場を離れようとしたトウカの横をマリアベルが楽しそうに追随する。暇なので楽しそうなことを探しておっての、と屈託のない笑みで口にしたマリアベルは、普段の妖艶な気配に無邪気な雰囲気が入り混じって魅力的に映ったが、内心ではトウカの災難を如何してくれようかという恐ろしい意思が見え隠れしていた。寧ろ、目が口ほどにものを言っている。


「トウカ……さてはそのナリで仔狐に会いおったな? ふはは、こやつめやりおったわ」


 中年臭い言葉のマリアベルは相当に酔いが回っているのか、何時もの威厳はない。時折、通り過ぎる使用人や領邦軍士官が気まずげに視線を逸らしながらも動揺した様子がない姿に、トウカは決して珍しいことではないのだと悟る。


「悪いですか?」


 不機嫌であることを隠しもしないトウカにマリアベルは呆れ返る。莫迦が居るわ、と笑声を上げるマリアベルの仕草が一々、余裕の感じられるもので腹立たしいが、トウカは黙ったままに視線で先の言葉を促す。


「御主の身体から厭らしい雌の匂いがする。安い香水と発情した雌の香りであろうかの」


「ちゃんと洗い流したつもりですが……まだ、残っていますか? いや、そもそも俺はやましい事など何一つ……」


 これは宜しくない状況だ、とトウカは悟る。口から酒精が漏れているものとばかり考えていたが、女性の匂いが身体に染みついていたのだ。一応、用心の為に水浴びはしてきたが、天狐の嗅覚の前には焼け石に水であった。


 やましい事はしていないが、しかし同時に紛らわしい行為であったことも確か。ミユキの嗅覚は女性の臭いを誤魔化そうとした水浴びの匂いまでをも捉えたかも知れない。


「狐の嗅覚を侮りおったな莫迦者が。香水を付けるなりすれば、怪しまれはしても何とでも誤魔化せたであろうに……男が見知らぬ女の臭いを漂わせて帰ってくる。これほど明確な裏切りはなかろうなぁ」


「恋人のいない者に言われたくはありませんがね」


 トウカは心外だと言い返すが、マリアベルは何かを思い出したのか肩を震わせる。


「……………………泣いてよいかの?」


 どんよりとした表情で溜息を吐く。実は暗い青春を送っていたマリアベルには恋人がいなかった。恋人よりもヴェルテンベルク領の工業力、生産力の拡充の為に全てを費やしていたと言ってよく、そもそもマリアベルがヴェルテンベルク領を拝命した時点では、領地一帯が大自然であった。マリアベルの弛まぬ努力の賜物と言えるが、それは青春を犠牲にした結果でもある。


「はぁ、では、俺の胸に飛び込んで――」


 マリアベルがトウカの腹を殴る。龍族であっても能力に制限が付くマリアベルだが、その拳は十分に重い。軍事教練が欠かしていないという事の査証であるが、よもや己が実体験として経験することは想像の埒外であった。


「下らん軽口はそれまでにするがよい」


 蹲ったトウカの背に腰を下ろしたマリアベルは、酒瓶を煽ると酒臭い息を撒き散らす。最早、酒精が思考回路まで侵食しているのか口にしている言葉は聞き取れないものが多い。強大な自我と精神力を有する龍種は精神侵食に対する許容量が多く、酒精による意識の混濁も、意識そのものが人間種と比して広大である為に然したる影響を及ぼさない。


 眼前のマリアベルは影響が及ぶほどに飲酒しているが。


 トウカは己に与えられた一室の扉を開ける。


「……臭っ」


 部屋へと踏み入れかけた足を引込め、トウカは飲んだくれ駄龍を睨む。


 中隊規模の人員が宴会でも開いたのかと思えるほどに多くの酒樽や酒瓶が散乱しているという異常な光景が広がっていた。マリアベルの飲酒の跡であることは容易に想像できるが、何故にトウカの部屋で飲むのかまでは理解の及ぶところではない。


「おお、そうであったの。つまみを作るがよいぞ、トウカ」


「鼻でもつまんでおけば宜しい」


 憮然と呟いて、トウカは部屋の掃除を始める。


 龍が大量の酒を飲むという逸話は日本にもあったが、それを遙かに上回るであろう飲酒量に、或いは此方の世界の龍の行いが何らかの形で伝わったのではないかとさえ思える。


 ――古事記の八岐大蛇は一説では龍という扱いを受けているらしいが……頭の数と同じ酒桶八つで酔って意識を失ったとある以上、マリアベルの勝利が疑いようもないな。


 どう見てもマリアベルの身体の体積以上の数の酒樽が転がっており、酒桶八つではとても足りない。しかも、転がっている酒瓶の中には清酒よりも遙かに度数の高いモルト・ウィシュケも混じっており、酒精の絶対量に於いてもマリアベルが優勢であることが見て取れる。少なくとも飲酒量に関しては神代の龍擬(もど)きを超越しているということになる。


 ウィシュケとは、皇国成立以前に大陸西部の民族の言語の|ウィシュケ・ベァハ(命の水)が語源であり、蒸留所内で、麦芽の酵素によって糖化させた穀類の液体を、発酵させて蒸留し、木製樽に詰めて何年もの間、貯蔵庫の中で熟成させたものある。麦芽を乾燥させる際に使用する泥炭や詰め込んだ木製樽に由来する独特の香りが大きな特徴の酒であった。


「何か作るか……」


 背に張り付いて、「おつまみ~、おつまみ~」と唸るマリアベルを引き剥がし、トウカは台所へと向かう。


 マリアベルの酒豪が父譲りであることは噂に聞いたことがあるものの、酒精が入ると面倒な性格になる所まで似ている事を知る者は少なく、トウカがそれを思い知ることになることにも少なからぬ時間が必要となる。


「トウカ~、できたかの~。妾は腹が減ってのぉ」能天気な声が居間から響く。


 ちなみにトウカの部屋は佐官ではなく将官用の部屋であり、これはフルンツベルクやザムエルを呼んで新たな戦争計画の策定などを行う為の地形図や作戦計画書などを設置する必要上から比較的大きい部屋が必要な為であった。マリアベルの配慮であるが、こうして時折、部屋の適度な広さに託けて宴会場にされることがあるのは御約束である。作戦計画書や兵器図面の並ぶ中、ウィシュケや清酒の酒瓶が時折、本立て(ブックエンド)代わりに置かれていることは御愛嬌であった。


「どうせなら大衆酒場(ブロイケラー)にでも行けばいいものを……」


 大衆酒場(ブロイケラー)とはトウカの知るところのビアホールである。此方では酒精(アルコール)飲料としてヴァイツェンが出されているが、内容としてはそう変わらない。フェルゼンでは、フェルゼーブロイケラーというブロイケラーが存在し、これはマリアベルが初期の都市計画で予算を計上したほどに力を入れた巨大な娯楽施設である。近隣の鉄鋼床や魔導資源の採掘に勤しんでいる労働者などが主な客となっていた。ちなみにマリアベルは創業者であり、経営者である為に飲食も無料と聞いているので、わざわざトウカに与えられた一室で酒盛りをする必要はない。


 ――マリアベルが無料で痛飲できる以上、営業利益は莫大なのだろうな。


 台所に置かれていたもので適当なおつまみを作り、更に盛るとトウカは居間へと向かう。


「おおぅ、遅かろう。早うせんかぁ」


 本来、白麦酒(ヴァイツェン)を注ぐはずの麦酒碗(ヴァイツェングラス)に酒精度数の高いウィシュケを並々と注いだマリアベルが赤みの射した妖艶な表情で不満を漏らす。


「全く……暢気なものですね。兵器工廠では交代制とはいえ、最大稼働し続けているというのに」


「正当な対価を労働者には払っておろう。あれは仕事の延長線上に過ぎん」


 それを思いはしても口に出さないのが大人ではないかとトウカは呆れ返る。せめて表面上だけでも御淑やかに、謙虚にしていれば一部貴族からの余計な反発も低減できただろう。しかし、この明朗闊達にして泰然自若とした在り様であるからこそ領民からは絶大な支持を得ていた。


 大衆酒場(ブロイケラー)で共に安酒を飲み、大いに語らう領主が慕われない訳がない。これは、神聖性と矜持や誇りを以てして領地を統治する皇国貴族にとって異端とも言える所業である。北部貴族の中でも気位が高い武門の貴族とは少なくない軋轢が生じていた。


 その筆頭がベルセリカの生家であるシュトラハヴィッツ伯爵家であることを知った時、トウカは、それは御家騒動の一つや二つ生じる事も止むを得ないと呆れるしかなかった。


「憎まれっ子、世に憚ると言いますからね。長生きしますよ、伯爵殿は」


「伯爵ぅ~? 義母様と呼ぶが良い! もう、御主は息子みたいなものであろうに、のぅ?」


 麦酒碗(ヴァイツェングラス)を手に、据わった瞳のマリアベル。絡み酒であることは明白であった。


「……ええ、義母上殿には長生きして貰わねば。少なくともクロウ=クルワッハ公爵を殺すまでは」


 そんなトウカの言葉に、マリアベルは面白いと嗤う。


 クロウ=クルワッハ公爵……アーダルベルト・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハは、皇国最強の龍種である。それを殺めるにはクロウ=クルワッハ公爵が展開する極めて強力な魔導障壁を貫徹する武器が必要となる。可視化できる程に強力な魔導障壁を貫徹するには神話級の武器か、それを上回る魔力で魔術を用いるしかないが、どちらも現実的な手段ではない。


「義母上殿は如何にクルワッハ公爵を殺める気であったのですか?」


「人質に決まっておろう。あやつの娘を誘拐して、行動を制限した上で殺すしかなかろうて」


 視線を逸らし、ムスッ、とした顔で物騒なことを口にするマリアベルだが、本気であるようには見受けられない。無論、それは優しさからではなく、実行が不可能に近く、現実的でないという理由に依るところであったが。


「具体的な殺害方法は見つけていない、と」


「五月蠅い、五月蠅い! その様なもの何とでもしてくれようて!」癇癪を起こしたマリアベルが喚く。


 見苦しい事この上ないが、相手の強大さを考慮すると非難はできない。詰まるところそれほど強大な相手と戦わねばならないということであるが、トウカとしてはそれほどの敵手に何百年と怨嗟を向けられるマリアベルの精神力を評価していた。


「そちらは俺に任せてください。条件が揃えば殺れるかもしれません」


「ほぅ!? 殺れると申すか、あの怨敵を」


 心底驚いたという表情でトウカを見るマリアベルの瞳は、喜色と歓喜に揺れている。


 しかし、次の瞬間には呆れた表情へと変わる


「だから―――」トウカがは己の目的を語る。


 マリアベルにとっては心底如何でも良い事でも、トウカにとってこの上なく重要なことであった。


「一緒にミユキに謝って貰えないですか?」


 情けないなどと言うなかれ。勘違いに近いとは言え、今回の一件はトウカの手に余る。女性とはトウカにとって易々と理解の及ぶ存在ではなく、ミユキの逆鱗への対処をどうしたものかと深く悩んですらいた。


 その後、一転して泣きが入ったトウカを、マリアベルが慰めるという一幕があったが、これは当事者二人が語ることを頑なに拒んだために、これ以降の会話を知る者は当人以外に存在しなかった。




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