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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
~序章~    《千紫万紅》
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第三話     無垢なる仔狐



「付いてくるか?」


 異邦人は手を伸ばす。作業中にも刀華の後を付いて回っていた仔狐へと。


 一軒の小さな民家の周囲に様々な仕掛けを施した異邦人は、後ろへ向き直ると黄金色の毛並みをした仔狐に尋ねる。動物に話し掛けるというのは些か滑稽であるが、この仔狐の行動には言葉を理解している様な節があった。


 仔狐は耳を小さく動かしながら、異邦人を見上げる。迷っているのだろう。


 周囲には未だに凄惨な光景が広がっている。弔う者がいない現状では仕方のない事だが、小動物が人の都合に納得できるはずもなく、また人の自分勝手な欲望を動物が理解できるはずもない。人は己の欲望を第一の行動原理として動く。表面上はそうは見えなくとも、その根底から流れ出る感情を辿れば欲望へと行き着く。


 だが、動物は違う。欲求はあるが、人の様に陰惨な行動は取らない。無論、自身が生きていく為に他の動物を襲う事があるが、過度な狩猟は行わない。最低限自分が生きていく為の量だけで満足する。そこが人間と大きく違うところであった。


 人は無限に求め続ける。向上心として捉えるならばそれは良い事なのかも知れないが、より豊かな生活を果てなく求め続けるが故に他者を虐げる事を止めないのもまた真実。知能があるが故に、その欲望に際限がないのは皮肉としか言い様がなかった。


 そして、仔狐には異邦人すらもそんな人間として映っているのかも知れない。所詮は同じ人……異邦人とてこの世界に縁のない者であるからこそ、故郷へと回帰する手段を得る為ならば陰惨な行為にも手を染めてしまうかも知れない。


「信じろとは言わない。だが、まぁ、身体の血くらいは拭いてやる」


 震える鳴き声を上げる仔狐の頭を撫でてやる。一頻り撫でてやって、異邦人は立ち上がる。


「付いてこい」


 仔狐は暫く逡巡する様子を見せた後、黙って異邦人の足元まで駆け寄る。


 こうして一人と一匹は、一軒の小さな民家へと入っていった。










「出来る限り痕跡は残したくない……」


 罠と鳴子を仕掛け終えたトウカは、小さな民家へと戻ってきた。


 罠と言っても玄関前や勝手口に鋭く削った木の棒を仕掛けた程度のものであった。勿論、扉は内側から鍵を閉めた上で机や椅子などを使って阻害も築き上げた。無理に入ろうとすれば崩れるので、寝ていても気づけるだろう。あまりにも警戒しすぎではないかと思えるが、傭兵の残虐な所業を見れば警戒しすぎて損をするという事もない。刀華とて意味の分からぬまま死にたくはない。


「家内でチャンバラしてない家があって助かった」


 刀華は台所と思しき場所を漁る。夕食を作らねばならない。叶うなら朝食の食材も確保しておきたい事もあるが、水を作る為に火を焚かねばならなかった。何故かと言うと、余りにも気温が低いので水は全て凍っており、加熱せねばならないのだ。周囲に雪が山ほどあるので水には困らないが、溶かすのは一苦労である。蝦夷に住んでいた先人の苦労を知った刀華であった。


「――?」


 ふと水瓶に張る氷が目に留まる。否、それは正確ではない。目に留まったのは鏡のように輝く氷の表面に映る自分の姿。可もなく不可もない顔立ちに、無駄なく鍛えられた筋肉を包んだ黒い戦闘服。そこまでは良い。何時も通りの自身の姿である。


「これは……変色したのか!?」


 恐る恐る自らの目頭を手で押さえる。


 だが、幾度と水面を見ても、瞳は透明度のある幻想的な紫色をしていた。人間とは思えない色に変色した自身の瞳に刀華は呆然とする。この世界で鏡や硝子などは見ていない。自身を映し出すものがあまりにも少ないので今まで気付かなかったのだ。瞳が紫に変色するという病気など聞いたことはないし、色彩眼境(カラーコンタクト)など刀華はしてもいない。


「何時からだ……気付かなかった」


 今は考えるのは止そうと思考を放棄する。考えた所で原因などは分からない。ましてや眼科の分野など門外漢も甚だしい。


 刀華は、気を取り直して探索を続ける。


「まぁ、火を起こせるだけマシか」


 周囲では未だに黒煙が燻ぶっている。火を起こしたとしても黒煙に紛れて気付かれないだろう。


「米がないのは辛い……これは洋餅(パン)か? 和洋折衷の文化だと思ってはいたが……極一部だけか」


 民家も木造ではあるが、その構造と内装は西洋的なものだ。勿論、西洋ばかりでないようで、この民家には内装に似合わず、洋室の隅に囲炉裏があった。西洋的な文化の国に東洋的な文化を持つ者が渡来したと考えるべきだろう。


 折角なので囲炉裏に食材を運んでいく。鍋もあるので、その場で調理しようと思い立つ。


「それにしても調味料がよく分からないな……これは味噌……ではないな」


 幾つかの調味料と思しき木製の容器を開けて匂いを嗅いでみるが、よく分からない。中には香辛料と思しき刺激的な匂いのするものや、納豆のような明らかに腐っていると思しき異臭を放っているものもあるが、それらは一先ず置いておく。口に入れて正気を保てるか分らない。何せ、この国の人間の味覚がトウカと同様であるとは限らない。劇物みたいな味を美味だと言っている様な奇特な人種かも知れなかった。


「ん? どうした?」


 囲炉裏の縁に胡坐を掻いた刀華の膝に擦り寄ってきた仔狐の頭を撫でてやる。嬉しそうに目を細め、尻尾を振る仔狐は中々に愛嬌があった。仔狐を膝の上に乗せ、箪笥(タンス)を漁って入手した燐棒(マッチ)を使って囲炉裏の枯草に火を付ける。枯草は直ぐに燃え上がると薪に燃え移り、火を安定させる。


 暫く、仔狐と一緒に囲炉裏の火で身体を温める。迫りくる眠気に抗いつつも、水の入った鍋を自在鉤に吊るして加熱させる。自在鉤とは天井から吊るされた先端が鉤状のもので、鍋を吊るす道具である。


「適当に野菜を入れて……そう言えばこれは食えるのか?」


 台所に置いていたので食べられないという事はないだろうが、中には刀華の知る野菜に似ているものもあれば、見た事もない形状の野菜もある。語彙に自信のある刀華でも説明し難い形状で、それでも尚、説明するのであれば、冒涜的で背徳的な形状としか表現できないほどのものだ。《米帝》の神話に登場しかねない形状である。……ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅるふ、るるいえ、うが=なぐる、ふたぐん。


「これはやめておこう……」


「くぅ~ん」


 仔狐も全面的に同意している様なので鍋には入れない。他の野菜だけを入れて煮る。次は香辛料だが、幾つかの容器の内の一つに仔狐が興味を示したのでそれを入れてみる。鋭い嗅覚に期待するしかない。


「米はないようだし……あとは……肉か」


 保存の関係なのか生肉は台所に保管されていなかった。冬であっても全く腐敗しないわけではないからなのか、或いは食事時の直前に狩猟で確保するのかは知らないが。


 刀華は膝の上の仔狐を見る。 


「食肉、確保」


「くぅ~んっ!?」


 両足で仔狐を挟みこんで拘束する。勿論、仔狐は涙目で激しく抵抗しているが、身体を常日頃から修練で鍛えている刀華の戒めから逃れられるはずもない。


「冗談だ。可愛いな、全く」


 泣きじゃくる仔狐の頭を撫でてやる。胸板に頭を摺り寄せてくる仔狐。相当怯えたらしく、身体が震えていた。


 仔狐を抱き締めつつも、五徳を見てしまう刀華。五徳とは、囲炉裏用の金属製の台で円形をしており、何本かの足が伸びている構造で、上部に網を乗せ焼きものができる道具である。


「……そんな心配そうな顔をするな」


 一瞬の逡巡があった事は心の内に仕舞い込む。刀華は狐の頭を撫でながら調理を始める。長閑(のどか)な一時。仔狐は刀華の言葉に耳を傾けているのか、時折、頭と尻尾を振って相槌を返す。見ていて微笑ましい光景であった。


 出来上がった汁物を御碗に入れて仔狐の前に置いてやる。一瞬、冷ますべきかと悩んだが、仔狐はトウカの膝の上から飛び降り、御碗に口を付ける。狐は猫と違い、熱い料理も大丈夫なのだろう。


「……意外と旨いな。洋餅(パン)は合わないが」


 残念ながら米はない。風土上の問題なのか、時期が悪いのか、或いは米自体が存在しないのかは不明だが、それらしいものはなかった。汁物と洋餅を頬張るが、前者は和風で後者が明らかに洋風なのだ。


 少々の不満と、先の見えない現状に眉を顰めつつ、刀華は胃の中に夕飯を流し込んだ。











 囲炉裏の近くで掛け布団に身を包み、壁際で眠る少年の膝の上で、仔狐は心地よい微睡みの中にいた。


 嬉しそうに尻尾を揺らす仔狐に少年は気付かない。仔狐は初めて感じる優しげな雰囲気にその身を委ねていた。少年の纏う雰囲気は何処か断片的だった。地に足の付いていない感覚と、この世のものではないかのような気配。そして、紫水晶の瞳と相まって幻想的な佇まいを見せる少年。


 まるで神話に登場する初代天帝陛下の様にすら感じられる。


 仔狐にはその雰囲気が堪らなく心地良かった。


 混じり気のない紫。《ヴァリスヘイム皇国》には紫に纏わる幾多の伝承がある。


 無数の人間達は話す。紫は希望の色であり、皆の期待を背負う色だと。

 多くの亜人達は語る。紫色の決意は艱難辛苦の時を吹き払う色だと。

 高位の種族達は語る。紫水晶の眼差しは神聖にして不可侵の色だと。


 それは《ヴァリスヘイム皇国》に住まう総ての者達にとり、紫という色が特別な色という事に他ならない。崇拝されし紫は、紫紺の下地に黄金の桜華をあしらった国旗にも使われており、《ヴァリスヘイム皇国》人の紫への羨望や憧憬が大きいものであると示している。仔狐が少年に付いて行ったのも、初めて出会う紫に対する興味や、憧れがあったのかも知れない。


「――くぅん」


 眠たげに身体を横たえた少年の横顔に仔狐は頬擦りしてみる。仔狐は後悔していなかった。例えそうであってもこの心地よい微睡みは目の前に存在しているのだ。冷たくて、儚くて、何処か危うくもあって……それでいて優しげな少年の体温を感じながら、仔狐は思う。


 この少年は遠く星の海からやってきたのではないか、と。そんな考えが過ぎってしまう程に紫水晶の瞳を持つ少年は、浮世離れしていた。


 仔狐の柔らかな毛を少年は擽ったそうにして避ける。


 無意識に動いた少年の身体から落ちた掛布団。仔狐は再び掛け直そうとするが、口に咥えただけでは上手くいかない。


「くぅん……」


 項垂れた仔狐。だが、名案を思い付き、耳をヒョコヒョコと動かす。




           その夜、仔狐は消え、後に一人の少女が残った。












「……朝か」


 刀華は布団の中で目を覚ます。もぞもぞと布団の中で動くが、易々と外に出る気にはならない。あまりにも寒い為だ。疲れていた為に深い眠りに就けた。既に太陽が高い位置にまで昇っているのか、襖の隙間から陽気が覗いていた。一刻も早くこの寒村から離れたいのだが、二度寝の誘惑が刀華の行動を妨害する。強大な敵に刀華の形勢は極めて不利だ。


「むぅ……」


 刀華は唸りながら、半ば無意識に近くの熱源を改めて抱き締める。


 ――そう言えば、夜にあの仔狐が潜り込んできたな……


 霞む視界の中、そんなことを思い出した。仔狐は刀華に想像以上に懐いて昨夜から片時も離れなかった。


 刀華は昨夜の事を朧げながら思い出す。夕飯を済ませた後、押し入れの中に保管されていた毛布を引っ張り出し、それに包まって寝ていたのだ。勿論、寒いので囲炉裏の横で寝ていたのだが、それでも寒さを感じ、曖昧な意識の中で居たところに丁度、仔狐が毛布の中に潜り込んできたので抱き寄せた記憶があった。


「んん、あぁ……」


 混濁した意識は容易に消えない。予想以上に疲れが溜まっている……という訳ではない。


 誰かの腕に抱かれているかのような温かさ。久しく忘れていたような温かさ。その暖かさは記憶の彼方の微かな残照に過ぎないが、確かな温もりだった。愛おしげに自身を包むその感触に刀華は安らぎを感じた。


「………………?」


 自らを抱き締め返してきた存在を感じて、刀華は毛布を蹴り飛ばし跳ね起きる。


「なッ!」


 慌てた。本当に慌てた。起きてみれば女の子に抱かれていたのだ。驚かない方が不自然。有り得ない。


 間髪入れずに布団横に置いていた軍刀を手に取る。


 刀華は一人で寝ていた。そして、隣で寝ている人間に気付かないなど有り得ない。この民家に入ってくるには仕掛けた鳴子や阻害を抜けてこなければならない事もあるが、寝ているとは言え、隣にまで現れて尚も気付かない程に自身の警戒心は脆弱ではない心算であった。


 ――この寒村の生き残りか? いや、そんなはずは……


 民家は総て確認した。規模の小さな寒村なので生存者を見落とすとは思えない。


 ――どうやって入った?


 刀華に気付かれずこの民家に侵入して見せたということは、それなりの技術と技能を持った者という事になるが、目の前で寝ている少女はとてもそうは見えなかった。そもそも目的が分からない。あらゆる可能性を考えるが、上手く纏まらない。寝起きである事もあるが、無邪気な笑顔で眠る少女に警戒心を抱けなかった。涎まで垂らした姿は、酷く安心している様ですらある。


 少女は、見たところ武装してはいない。


 服装も荒事をする様なものではなく、ただの民間人に見える。ならば後れを取る事もないと思ったが油断はできない。


 服装は、とても寒冷地帯のものとは思えない。紫を基調として桜の紋様があしらわれている膝辺りまでの長さの陣羽織を着た少女。袖がなく動きやすそうではあるが、あまり寒い地域で着るものとは思えない。また、陣羽織の上から漆黒の長い帯をしていた。足は漆黒の長足袋の様なものを履いており、とても寒冷気候の地域の者の服装とは思えない。この姿で外に出れば一〇分足らずで凍死すること請け合いの姿と言える。


 あまりに矛盾した要素を持った少女。容姿は西洋人と東洋人の混血に見える。あまり長くない黄金色の髪を後ろで束ね、顔立ちは美人と言うよりも、可愛いと思えるものである。或いは、東洋の血が混じっているのか輪郭は鋭角なだけではなく、愛らしい丸みを帯びている。


 そこで刀華は、ふと、思い出す。


 ――この子が、この地で俺を最初に認識した人間になるわけだ。


 他は傭兵と死者ばかりなので数に入れない。無邪気なものだ、と刀華は呆れる。涎を垂らして寝ている少女もこの寒村の現状を理解しているはずだ。


「みゅぅ…………ん……あれ……主様?」


 近づいた刀華の気配に気づいたのか少女が、寝ぼけ眼を擦りながらむくりと身体を起こす。


 そして少女が耳を立てる。


 人間の耳ではない。頭の上の尖った黄金色の獣耳である。そして、再び布団へと沈む。


「こら、寝るな」


 素手で女性に触れれば騒がれるかも知れないと“配慮”し、刀華は軍刀の鞘尻を包む石突きで少女の額を小突く。女性に対する扱いではなかった。それなりに痛かったらしく、少女は額を抑えた涙目で起き上がる。少なくとも眠気は失せたようすである。


「……貴女は何者か?」


 軍刀の柄へと手を伸ばしながら、刀華は少女に問いかける。


 室内での戦闘で長い軍刀を扱うのはあまり良い選択とは言えないが、威圧の為なので振り翳す心算はなかった。何か不審な動きをすれば鞘尻の石突きで鳩尾を突くだけである。


「あっ、申し訳ないです! 私はミユキと言います!」


 ひょこひょこと動いている獣耳に刀華は顔を引き攣らせる。


 耳に驚いた事もあるが、それよりも日本語が通じる事に驚いた。地図に書かれている地名も日本語ではなかったものの、何故か読めてしまったので、言葉が通じるであろうとは思っていたが、実際に体験すると驚かずにはいられない。傭兵か匪賊か判別の付かない集団は、蛮声を発してはいたが、距離もあって会話の様には聞こえなかった。


「ミユキ……ね」


 明らかに日本名。「深雪」と当て嵌めるならば明らかに日本の言葉となる。刀華の心中を余所に、ミユキが勝手に弁解を始める。


「その、実はあまりにも寒くって我慢できなかったの……も、申し訳ないです、はい」


 恐縮した様子のミユキだが、言っている事は悉く刀華の聞きたい事ではなかった。そもそも、何処から侵入したのか分らない。毛布から出て正座するミユキの尻尾は、元気をなくして垂れていた。尻尾まであるのかという驚きを、トウカは努めて出さない様にする。


「何故ここにいるのですか? この家は俺しかいなかったはずですが、どの様に侵入したのですか?」


「???」


 ミユキが小動物のような動作で首を傾げる。


 質問の意味は間違っていない。言葉も通じる。何か後ろめたい事でもあるのかと思ったが、ミユキの表情は本当に何故そんなことを聞くのかというものだった。ミユキはよく表情が変わるので、何を考えているか察し易くあった。


 刀華の沈黙を不機嫌と受け取ったのか、ミユキは慌てて話し始める。


「その……一緒に門を潜って家に入ったんですけど……」


「そんなはずは……確かに俺一人だったはずだ」


「その後は、血を拭いて貰って、ご飯まで出していただいて……本当に感謝してるんですよ」


 確かに刀華は血を拭いてやった覚えも、夕飯を出した覚えもある。



 狐に。



 刀華はミユキと一瞬で距離を詰める。驚くミユキを無視してその獣耳へと手を伸ばす。


「ひゃう! ……く、くすぐったいですぅ」


「……本物か。尻尾も飾りではないようだな……そして、色も同じ……」


 ミユキの尻尾を引っ張りながら刀華は考える。


 よく考えればこれは情報を得るまたとない好機だ。そしてミユキは敵意を持っていないので情報を得る事も容易い。殺人現場の傭兵から情報を聞き出すよりかは、余程難易度は低いだろう。


「あの仔狐か? 狐が人に変化するなんて聞いたことはないが……」


「もしかして主様は帝国のヒトですか?」


 少し怯えたような気配を見せるミユキに、首を横に振って見せる。するとミユキは目に見えた動作でほっとする。分かりやすい少女である。


 《スヴァルーシ統一帝国》とはそれ程に《ヴァリスヘイム皇国》の人間にとって脅威なのだろう。


「俺は他の大陸から旅してきた。その辺りの国際関係は知らない」


 勿論、嘘だ。他の大陸どころの騒ぎではない。それはこの地に来て分かった。ミユキの反応を見るに、《スヴァルーシ統一帝国》という国は《ヴァリスヘイム皇国》とあまり友好な関係ではないようだ。統一帝国という名称なので、膨張政策を取っているのかも知れない。


「このあたりは《スヴァルーシ統一帝国》との国境に近いのですか?」


 流石に地図には寒村の名前までは書かれていなかった。大都市と思しき地名などは記入されていたが、細かな地名などは全くない。別に不審な事ではなく、昔の国家は他国の効率的な侵略を防ぐ為に精密な地図を作製しなかった。


「えっと……北部の真ん中くらいですよ。でも、エルライン回廊には要塞があって、エスタンジア地方は《南北エスタンジア》が緩衝地帯になってて、《スヴァルーシ統一帝国》は侵攻してこないんです」


 ミユキの説明に刀華は曖昧に頷く。


 要塞と言われても首を傾げるしかない。咄嗟に浮かぶのは《アイヌ王国》の五稜郭と《仏蘭西共和国》のマジノ要塞だった。刀華の知る要塞は航空機の発達と共に衰退し、観光名所になったものばかりだ。火砲の発達は要塞防御を無力化し、航空機が引導を渡した。セヴァストポリ要塞などが火砲と航空攻撃の前に無力であったことを踏まえると、この世界では、未だに火砲や航空機が発展していないのではないかと、刀華は思案する。


「あの……」


 要塞という巨大な構造物に浪漫を感じていた刀華に、ミユキが遠慮したように声を掛ける。


「ん? 何ですか?」


 言い難そうにしているミユキに刀華は問いかける。


 少女が顔を赤くして刀華の顔を時折、恥ずかしげに盗み見てくる。正面にいる刀華は嫌でもその姿が見えるので何とも言えない気持ちになる。


「主様は、これからどうするのですか?」


 その言葉に刀華は言葉を詰まらせる。


 《ヴァリスヘイム皇国》どころかこの世界が初めてなのだ。まだこの世界がどういったものなのか分からない。意外とすんなり帰れる可能性とて有り得るのだ。


 ――俺はまだじいさんを越えてない。還るんだ……あの日々に。


 本気と冗談が入り混じった大人げない祖父との修練。言わずとも多くを察してくれる幼馴染との学生生活。全てが愛おしくも儚く……そして果てしなく遠く感じた。日常は那由多の果てへ、消え去った。


「取り戻す……日常を」


「???」


 首を傾げるミユキ。刀華はそれを見ないふりをして立ち上がった。


「そうだ。俺は帰る」


 この世界が嫌いというわけではない。文明の規模(レベル)が低く、傭兵が非道を働いていたとしても刀華は一向に構わない。それが歴史であり世の中だ。否定する気はない。


 だが、この世界に祖父と幼馴染がいない。刀華にとって自分とその二人を含めの世界だ。他にも知人や友人はいたが、決して社交的ではなかった刀華にとって二人は特別な存在に他ならなかった。


 日常へと回帰する。


 刀華は決意の瞳で、木製の窓の隙間から日の出を見つめた。


「……あの……私も付いて行っても良いですか?」


 その狐少女の願いが、異邦人の運命を大きく変える。










 少女は想う。この少年は何処から来たのだろうか……


 同じ年代の人間と違った落ち着いた雰囲気と厭世的な気配を漂わせた少年。


 名は刀華……トウカ。


 別の大陸から渡来したらしい。名前からして《瑞穂朝豊葦原神州国》の者だと思ったのだが違うらしく、この地に関しては疎い様子である。他大陸とは交易が行われているが、決して隆盛というわけではなく、《ヴァリスヘイム皇国》の貿易相手は《瑞穂朝豊葦原神州国》や《中央諸国領》……その二国を通して三角貿易状態の《スヴァルーシ統一帝国》が主となっている。他の詳しい情勢は分からない。


 だが、知りたい、と思った。一緒に少年の故郷まで旅をするのも悪くはない、とミユキは思う。


「主様に付いて行ってもいいですか?」


「無理です、諦めてください」


 トウカがミユキの提案を一蹴する。風貌に似合わない子供のような即答に、ミユキは肩を落とす。耳と尻尾も元気なく垂れ、その姿は正に仔狐だった。


「俺は君の事を何も知らない。この世界じゃ、お人好しはすぐ死にそうなので」


 トウカが囲炉裏の炭を火箸で突きながら、「違うかい?」と笑いかけてくる。


 そうだった、とミユキは顔を赤くする。


 互いに何も知らないままで一緒に旅をしようでは不自然であり危険だ。互いに相手の都合に巻き込まれる可能性や、何かしらの不一致があるかもしれない。


「この世界……ですか?」


 自分がこの世界の住人ではないかのような言い方にミユキは戦慄する。


 トウカの横顔はやはり何処か浮世離れしてしいて、そのまま地から足が離れて月へと引っ張られていってしまうのではないかとすら思える。


 気が付いたらトウカの黒い装束の袖を掴んでいた。


「???」


 柔らかな笑みで首を傾げるトウカ。


 離せない。離したくない。離すものか。何故かそう思える。


 ミユキはトウカの袖を離さない。その様子を見たトウカはどうしたものかという困惑の表情を浮かべている。当然だろう。何の取り柄もない天狐に縋り付かれて顔を顰めない者などいない事は、ミユキも百も承知している。


 それでも尚、共に在りたいと願った。仔狐にして幼き少女は、後に心中の感情を師に教えられる事になる。


 それは一目惚れなのだ、と。







本来、アイヌとは民族を全体を指す名称ではなく「自分達」くらいの意味だそうです。


本作に於ける《大日本皇国連邦》は歴史的経緯から《アイヌ王国》と同盟関係にあります。日阿同盟ですね。大東亜戦争も共に戦い抜き、有力な艦隊を有しています。

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