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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第三章    天帝の御世    《紫緋紋綾》

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第四一九話    クローベル辺境伯ミュゼット Ⅲ


 ミランは、何処まで言うべきかと勘案する。


 確かに以前の神州国は栄光ある孤立を気取って大陸への干渉に消極的であったが、現在では在野に植民地獲得の意見が市井に燎原の火の如く広がっている。これを軽視している……連合王国の技術水準の低さにより入手できる情報の質と量、取得時間が劣り、元より海洋より遠いクローベル辺境伯領の立地が加わる事で海洋国家に対する危機感の致命的な低さを招いていた。


「沿岸諸国で最も与し易い国家であり、現在の神州国が大陸に対する領土的野心を燃やしている現状を踏まえれば、連合王国は危機に陥っていると評しても過言ではありません」


 ミランの見たところ、皇国と神州国は水面下での熾烈な駆け引きを開始している。


 皇国によるエスタンジア地方併合も神州国が大陸への策源地を確保する可能性の排除にある様に見えた。クローベル辺境伯領の併合を決断した事も、神州国による連合王国への植民地形成が避けられないと見て、戦略爆撃航空団の航続圏内により多くの海岸線を抑える為の措置ではないのかという疑念。それでも尚、公称される航続距離を二割増しで見積もっても尚、連合王国の海岸線全てを抑える事は困難であるが、主要湾岸都市の大部分を攻撃圏内に収める事は可能であった。


 連合王国の主要湾岸都市は交易に於ける利便性を考慮して部族連邦寄りの地域に集中しており、対称的に協商国寄りの海岸線沿いには主要な港湾都市は少ない。交易に熱心な協商国に対して商況活動の面で著しく不利である為であり、協商国も購買意欲に乏しい連合王国に対して消極的で問題視しなかった。


 そして間にはロマーナ王国という半島国家が存在した。


 つまり部族連邦寄りの湾岸都市を戦略爆撃の攻撃圏内に収めれば、神州国は安全な港を求めてロマーナ王国の存在するロマーナ半島を迂回して協商国寄りの沿岸地域まで進出しなければならなくなる。


 それは神州国海軍からすると大陸に展開する陸上戦力の輜重線……商用航路が延長される事を意味し、その防衛にはより多くの艦艇と人員、予算を必要とする事になる。端的に言えば、戦力分散を期待できた。ミランは自身がその程度まで察する事が叶うのだから、統合参謀本部や枢密院も把握しているだろうと確信していた。


「神州国による侵攻は断言はできませんが、連合王国の将来は暗いという点に関しては間違いないかと。皆様の決断の正しさが証明される事もそう遠くないと予想されます」


 フルンツベルクが、そこまで言うのかという表情を隠さないものの、正しい現状認識をして貰わねば、この今暫くは本土から切り離された新領土で連携して事に当たる事に不安が残る。個々の判断が異なるならば戦力分散に等しい状況が起きかねない。それが参謀としてのミランの判断だった。


「南エスタンジアは上手く立ち回りました。皇国と帝国、神州国を天秤に掛け、最も高値で身売りできる時期に、経済支援を最も行える上、現地への干渉が最小限である皇国を選択したのです。方法は異なりますが、それは辺境伯様も同様かと。我が国は断固として、その決断を支える所存です」


 ミランは一礼する。


 ミュゼットは困った表情をしているが、余りにも過大な情報である為、未だ理解しきれていない様子である。対照的に蒼白のテレサの表情は危機感を認識した様に見えた。


 情勢次第では、神州国の植民地になるのはエスタンジア地方であった可能性もあるのだから、南エスタンジアは上手くそれを避けたと言える。皇国は、トウカはエスタンジア地方を神州国が領有する事を許さないであろうし、エスタンジア地方を巡って皇国と神州国が争う事になれば間違いなく荒廃を招く。


 クローベル辺境伯領もそうした未来が有り得たのだ。


 植民地化や緩衝地帯としての荒廃。


「周辺の貴族も正しい判断をしていただけるならば、皇国としは有難い事です。皇軍が骸の山を築かずに済む訳です」


 ミランとしてはトウカを崇敬して已まないが、同時にその殺戮の尖兵という扱いを受ける事には忌避感があった。明らかに敵国の民間人の殺戮に重きを置く理由に、恐怖心の醸成からなる抵抗抑制から、産業従事者の漸減により工業力低下を意図している事は彼女とて理解している。


 恐怖心から逃げ出し、そして工員が逃げ出せば、工業製品たる兵器の生産数は低下する。螺子に軸受(ベアリング)に潤滑油……近代兵器は工業製品の集合体である。一つでも生産が滞るならば完成しない。そうでなくとも性能低下を招く。故に多種多様な工業製品の製造を妨害する。その為の殺戮である。工場を爆撃するのは生産設備への攻撃は勿論であるが、そうした生産設備を運用する工員を殺傷する事も目的に含まれている。工員が製造品の歩留まりを相応の水準まで出し得る熟練度となるまでには、製品次第であるが、基本的には相応の時間を要するものである。現在の皇国ではトウカの命令の下、流動作業による簡略化などを含めた改善が開始されているが、それでも職人技が幅を利かせる部分は各分野に無数とあり、それは減少する様に見えて、新製品が増加する速度が勝る為、減少に転じる気配は未だはない。


 殺戮は工業製品たる兵器の生産を阻む為に有効である。


 参謀本部勤務の友人もそう謳うが、ミランとしては都市部への爆撃はその範疇を超えているのではないかという疑問があった。


 ――天帝陛下は必要ならば、クローベル辺境伯領周辺を更地に為さるでしょう。


「我が軍としても破壊と殺戮は望まないのです。皆様には是非、流血を抑える為に協力を願いたく御座います」


 愚かな判断にが死が付き纏う事になると存外に匂わせた要請であり、エスタンジア地方とクローベル辺境伯領の様な賢明な判断を周辺貴族にも望みたいとのミランの言葉に、ミュゼットは嫋やかな笑みで頷く。


「勿論です。流れる血は少ない方が良いでしょう。わたくしも同意致しますわ、兎殿」


 額面通り流血を厭うていると受け取られたミランは毒気を抜かれる。


 この時、既にミュゼットとテレサの間では皇国に軍事面の全てを丸投げするという合意が為されており、二人の間に反撥や隔意はなかった。領邦軍の指揮権譲渡やミュゼットが人質として皇国本土に移送される事まで覚悟しており、最大の懸念は領民まで戦争に動員される事であった。


 故にミュゼットが無作為に踏み込んだ質問をする。


「それでは領邦軍の指揮権の掌握や領民の動員に関しては一切行わないという事でしょうか?」


 ミュゼットの言葉に、テレサが恐らくは許されるのであれば頭を抱えるであろう事は疑いない表情になるが、ミランは見て見ぬ振りをする。正直でいて直截的な振る舞いの上司に振り回される姿は余りにも哀れであった。最早、表情を隠さない辺り、全てを諦めている様子である。その姿にミランは少しばかり親近感を覚えた。


「前者に関しては、そう考えております。しかし、後者に関しては皇国本土の労働基準に合わせた賃金で交通網整備に雇用しようと考えておりますが……これは辺境伯様が仰る動員に該当為さるでしょうか?」


 領邦軍将兵も領民であるならば、懸念に抵触すると考えるミラン。


 全てを皇国人で賄おうと思えば、その数は二〇〇〇〇名を超える規模となりかねず、そこに〈傭兵師団〉や〈第一航空艦隊〉を加えると状況次第では五〇〇〇〇名を超えかねない。輜重線を維持するに当たって輸送騎を必要とする現状、これ以上の負担増加は現実的ではなかった。


「それは……有難い事ですが……」


 ミュゼットとテレサは困惑の表情を隠さない。


 皇国の労働基準に基づいた賃金となれば、相場から見て連合王国の平均給与よりもかなり高額になる事は容易に想像できた。それはクローベル辺境伯領の領民からすると望外の幸運と言える。


 連合王国は本土決戦の最中にあり経済状況は大きく悪化していた。辺境とて経済的に見て繋がっており、悪化した中で連合王国から離れたのだから好転する機会はなかった。加えて、クローベル辺境伯領邦軍も初戦で甚大な被害を受け、労働者に転用可能な若手の数多くが再び故郷の土を踏む事が叶わなかった事で防衛や納税の面でも差し障りが出ている。


 労働者も納税も労働環境も不足している現状である。


 少なくとも皇国の労働基準に基づいた賃金による労働環境があれば、納税と労働環境の問題は改善する。そして労働人口に関しては、財政や労働賃金程に切羽詰まっている訳ではなかった。


 食糧を含めた消費財などは閉鎖性の高い地域であるからこそ自己完結性が高く、不足の可能性は乏しかったが、駐留する皇国軍が現地の食糧に依存した場合、不足に陥る可能性が予期され、その点こそが皇国軍の懸案事項である。使用される貨幣や交換に於ける問題も軽視できない。順次、皇国の貨幣制度に切り替えていくであろうが、少なくとも直近では現地の混乱を抑えるべく、既存の儘とするしかなかった。


 ミュゼットは思案の表情。


「そうですね……では領邦軍を解体しますので、皇国側で兵達を雇って頂けますか?」


「辺境伯様、それは流石に……」


 ミュゼットの放言に慌てるテレサ。流石に口を挟まざるを得ない状況。


 しかし、ミュゼットは引き下がらない。


「軍事費が浮いて、兵達は高賃金で再雇用されて納税額も増加するではないですか。防衛に関しても皇国の皆様方が頑張って下さるそうですから問題はないでしょう?」  


 清々しいまでの丸投げ……信認。


 弁えて沈黙を保っているアリカやクレメンティナも顔を見合わせている。自主独立の道を閉ざしたに等しい話であり、独立の野心がないという意思表示とも取れるが、当人の物言いには純粋に皇国側が諸問題を一切合切悉く解決してくれるという楽観と能天気が滲んでいる。


「そもそも、領邦軍は緒戦で半壊しております。家臣団が若干の騎士を保有しておりますので、これらで警護や領都の治安維持は行っていこうと思います。どうでしょうか?」


 ミュゼットは両手を合わせて小首を傾げる。満面の笑みで、良い事を思い付いた、という表情であるが、ミランとしては、これは受けてよい話かと隣席のフルンツベルクを見上げる。


「領邦軍の指揮権を我々が収奪する訳ではないのだ。同意してもいいだろう……しかし、 領邦軍将兵からは反撥が生じると思いますが、その辺りはどの様に対応なさいますかな?」


 特に隣の領邦軍司令官が既に反発しておりますが?というフルンツベルクの視線に、 ミュゼットは、あら大変、と口元を押さえる。謀略や機略の気配はなく、純粋に驚いている様子であった。


「領邦軍は解体するので、貴女は今から無職です」


 御勤めご苦労様でした、と言わんばかりに微笑むミュゼット。


 身内同士で骨肉の争いでも始めるのではないか、とミランは呆れ返る。無論、皇国の立場としてはクローベル辺境伯領で政治的混乱があったとしても、ミュゼットによる皇国との合流方針を維持すべく……現体制を保全する為に軍事力を行使するであろうが、諸外国に皇国が関与した事での政治的混乱がある様に見られるのは政治的失点と言える。避けるべき混乱であった。


「大丈夫です。私は妊婦を放逐する様な真似はしませんし、貴女はこの屋敷で静養するといいのですよ」


 ミュゼットはテレサを諭す様に微笑む。


 話を聞くにテレサは妊娠しているらしく、未だ下腹部が張り出してはいない。背後に起立した儘に控えさせるのではなく隣席に座しているのはテレサの身体に障りがあるとミュゼットが配慮した可能性もあった。そうなるとやはり特段の関係と推測できる。


「生まれてくる赤子の為に母は安らかにしているべきなのですから」


 貴族令嬢らしい微笑みに、ミランは元より領邦軍解体を考えていたのだろうと呆れ返る。


 ――この辺境伯、妊婦を軍務から引き離す為に領邦軍を解体する心算ね。


 主目的はテレサを軍務から遠ざける事にあり、恐らくはこれ幸いにと状況を利用した形である。領邦軍はその巻き添えを受けて解体されるのだろう。


 無職で放り出すぞ、という恫喝にも聞こえるが、ミュゼットが心配している事はその挙措からも見て取れる。好意的に見れば行動力のある善人と言えた。


「しかし、それでは……」


「良いのです。総てを皇国に委ねると決めたのですから。そもそも、戦地で壊乱して補充の目途すら立たないのですから一度、解体してしまっても良いでしょう」


 ミランは軍への理解のない政治指導者の恐ろしさを痛感する。


 軍組織の伝統や軍事知識の継承……運用全般の技術は一度、途絶えると再取得に相当な時間を要する。そして、何よりも非常時に戦備が間に合わない危険性が激増する。 最悪に備えてこそという発想がミュゼットには見受けられない。無論、彼我の戦力差が在り過ぎると弱者の戦略を採用するというのは有り得るものであるが、その強かさを維持できる指導力がクローベル辺境伯領にある様には見えない。弱者の戦略は政治力に依存した生存戦略であり、それは卓越した指導力と周辺諸国の情勢に依存する部分もある。


 ミュゼットの決意が固いと見たのか、フルンツベルクは助け舟を出す。


「では、雇用に関しては此方から布告を出す形と致しましょう。雇用先と賃金が明白となれば、 騒ぐ者はそういないかと」


 妙案であるが、ミランはフルンツベルクのそうした発言が無職になる事を恐れる者を高賃金で安堵させるというものに留まっていると今一歩足りていないと判断する。


「御待ち下さい。公共工事に元領邦軍の兵を使うのは妙案かと思いますが、指揮系統は残しておいた方が良いかも知れません。工兵師団の例も御座います」


 現在の皇国は労働者不足であり、南域保護領の獲得も出稼ぎ労働を奨励している点を見るに労働人口の吸収に重きを置いている様に見える。部族連邦は医療体制の遅れと偏りに加え、何よりも多産傾向のある獣系種族が多い為、若齢人口がの比重が高い。


 ――そもそも、あの程度の切り取りで済ませる以上、南域保護領に何かあると見なければならない。しかし、ヒトしか居ないのが実情なのだから、恐らくは労働人口そのものが目的だったはず。


 軍内では有事の徴兵可能人口拡大を意図しているというのが専らの噂であるが、兎にも角にもそうした動きを取らねばならない程には労働人口が不足していると皇国指導層……枢密院は見ているに違いなかった。少なくともミランはそう推測していた。


 故にクローベル辺境伯領の公共工事に労働者を派遣する事に難色を示す、或いは少数に留めようと考える公算が高い。


 皇国ではトウカの指導の下で労働環境改善が進んでおり、そうした点を見ても戦地に等しいクローベル辺境伯領での労働は危険手当が発生する場面もある筈であった。人件費の高騰を招く部分も捨て置けない。可能な限り現地雇用が望ましい。


 しかし、クローベル辺境伯領領邦軍の兵士達が雇用されても、皇国から派遣された労働監督者の言葉を素直に聞くかと言えば疑問符が付く上、行き成り他国から訪れた者の指図を受ける事に反撥する者も少なくない筈であった。要らぬ心理的分断を招きかねない。


「領邦軍の指揮系統を残しておけば、その指揮系統を利用しての公共工事の指揮が可能となるかと。そうした運用であれば混乱も少ない筈です。要は看板を掛け変えるという事ですね」


 ミランとしては、公共工事を軍隊の指揮系統で為すという点に問題はないと見ていた。例え、問題点があったとしても、それは短期間で改善できる問題に過ぎない。


 皇国は工兵師団という完全に工兵で統一した部隊を編制しており、緊急の工事作業が必要な区域に工兵師団を投入する事で迅速に解決するという荒業を可能としていた。 軍の通過に耐え得る交通網を前線で敷設する際や戦地での迅速な航空基地の造成や補修を行う為であり、同時に各師団の工兵の実地教育まで請け負っている軍事建設学の最精鋭とされている。軍の指揮系統で大規模な工事を為した先例があるのだから、相応の人員を用意すれば現地雇用の労働者を主体とした工事も可能であると、ミランは考えていた。


「航空基地の造成に工兵大隊が携わっているが、それを転用して領邦軍の公共工事の指揮を取らせる……そう考えているのか?」


「はい、閣下。それであれば、増派人員を最小限に留める事が叶いますし、地域の雇用にも繋がります。反撥も大きく抑えられるかと」


 ミランはフルンツベルクの言葉に深く頷く。


 クローベル辺境伯領への派兵が決まり、輸送騎の騎上で考えていた案であり、咄嗟の思い付きではなかった。


 ミランは参謀として〈傭兵師団〉が戦闘力を全力発揮できる状況を成立、そして維持する方策を考え続けていた。当初の共和国が形成した戦線に派遣され、共和国軍と共に連合王国軍と交戦する予定であったが、それが完膚なきまでに崩れた以上、当初の運用計画は画餅となった。


 挙句、輜重線の一部に空路という制約が生じた。輸送量の制限。投射戦力の制限と事前集積の遅延。


 〈第一工兵師団『ホープレヒト』〉による部族連邦を経由してのクローベル辺境伯領への道路建設が開始されているとの事であるが、それには半年を超える時間を要すると考えられていた。しかし、それは皇国側からの工事のみの場合である。クローベル辺境伯領側からも工事を並行して行えば、その期間は短縮可能であるものの、その為の人員や部資材を空輸しなければならないという制約があった。無論、航空基地造成を終えた工兵大隊がこれに従事する予定であったが、恐らくその効果は乏しいと見られていた。純粋に人数と部資材の供給が間に合わないからである。これの解決は困難である。輸送騎をこれ以上、追加する事は皇国の航空兵力から見ても不可能ではないものの、 一つの戦域に今以上の集中を図る必要性が生じる、或いは他ので空挺作戦や空輸、教育などで支障が出る可能性があった。そうした経緯もあって参謀本部はクローベル辺境伯領側からの工事を早々に諦めていたが、ミランは現地雇用で工事作業者を補い、空輸は部資材を主体にする事を考えた。


 クローベル辺境伯領での現地雇用により、展開する人員が減少し、それによって減少した輸送量を部資材に転用する。クローベル辺境伯領に投入される人員が減少するならば、輸送量もそれに伴って減少する。兵士一人を戦地で維持するには一日辺り四〇kgの物資が必要と皇国軍では見積もっており、この日毎の輸送量が減少する以上かなりの量となる。糧食の調理、食糧や日用品、武器弾火薬の管理、規律維持を担う警務……それらを統括、福利厚生を担う人材なども削減する事ができた。後方業務は兵士の増加と共に拡大するが所以である。


「現在の領邦軍は一〇〇〇名近いと聞きます。戦闘ではないのですから投入できる人員は七割程度になるかと。他三割には後方業務を用意すると良いでしょう……ああ、後方業務は傷痍軍人の支援を名目に其方からも雇用を行うべきかと」


 ミランは兎耳を曲げて微笑む。


 傷痍軍人には寛大で在るべきであるというのは、同じ軍人であるミランからすると明日は我が身なので他人事にはし難いという理由もあるが、それ以上にトウカが傷痍軍人の社会復帰にかなりの予算を割いている事が大きい。


 見捨てないという姿勢こそが戦地に良く兵士の足を向かせるものであり、労働者も足りぬのだから戦傷で蹲る暇など与えぬぞ。さぁ、傷が癒えたならば、嫌がる若人に長々と武勲を聞かせてやりに行くとよい。


 トウカが陸軍病院の傷痍軍人達の見舞いに訪れた際、当の傷痍軍人達にそう激励した事は報道によって広く知られている。不器用な物言いながら直截的である為、軍人達には酷く評判が良かった発言だが、市井では賛否があった事も確かである。


 しかし、トウカが有言実行の人物であるという事を軍人は良く理解していた。


 彼がそう言うならば傷痍軍人を見捨てないだろうという確信を抱かせた。そして負傷した戦友を激励する際の「陛下は御前が嫌がって泣き叫んでも社会復帰させるぞ」や 「長話で若者に嫌がられる老人になる名誉から逃げるな」という常套句が生まれる事になった。


 ミランはそれを聞いて、不器用な物言いは兎も角、良き主君を得たと感動したものである。そして、後に参謀本部勤務の友人が「あの言葉を冗談と受け取れる面々は幸せよね」と疲れを滲ませて呟いた事で、それが偽らざる本音なのかも知れないと戦慄した経緯があった。


 しかし、その様な人物であればこそ、クローベル辺境伯領邦軍の建設業務への投入に予算を用立てる事に異を唱えるとも思えなかった。そして、その影響を受ける陸軍参謀本部も同様である。


「その様なお気遣いまで頂いて……感謝致します」一礼するミュゼット。


 領主貴族であるにも関わらず物腰柔らかく、傷痍軍人の為に感謝する事の出来る姿は好ましいが、フルンツベルクは動揺している。以前の主君が暴君に過ぎた為、主君側からの感謝というものは予想外だったのではないかとミランは嘆息する。


「陛下は只働きをさせる事を極端に嫌いますからな。寧ろ金で責任と役目を負わせる方が良いと仰せです」


 フルンツベルクが鼻を鳴らして笑う。熊が笑う様な印象。


 事実であるが、正直に言い放つようなものでもなく、その言葉に何度も頷くクレメンティナの姿が要らぬ真実味を与えていた。


「あ、御懐妊おめでとうございます」


「あ、これはどうもご丁寧に……」


 クレメンティナの思い付いたかの様な突然の祝いの言葉に、テレサが一礼する。


 唐突な状況にミランはアリカを見るが、アリカは肩を竦めるばかりである。


「いや、私こういうものでして……」


 懐から名刺を取り出してミュゼットに渡そうとするものの、上半身を乗り出してみても机の幅がそれを許さないので、クレメンティナは咳払いをして名乗る。


「皇国で新聞記者を務めさせて頂いているクレメンティナ・メルトマンと申します。 今は御用記者でして」


「失礼、特設調査班の報道担当です。当官は以前に名乗らせていただいておりますし、 これは覚えていただく必要は御座いません」


 アリカがクレメンティナの顔を掴んで沈黙を強要する。


「もういいじゃないですか! 後の細かいところは下が詰める感じじゃないんですか! それに妊婦を長時間の会議に同席させるとか非常識です! そんな軍人が声高に労務環境とか言うの無理があると思うんです!」


 顔を掴まれた儘のクレメンティナの叫びに、ミランはちらりと窓越しに外の斜陽を一瞥した。昼下がりから数時間は遣り取りを続けている事も確かであった。


 道理である、とフルンツベルクが頷く。


 ミランも同意するしかなかった。


 こうして一日目の会議は実りある結果となった。


 そして、この後、夕食会を挟み歓談となり、クレメンティナがミュゼットを質問攻めにする事になった。


 妊婦のテレサのみが執拗な取材から逃れる事が出来たが、取材を受けるミュゼットも楽しんでいる様子であったのでアリカが悩ましい表情をする光景に、やんごとない人物の機嫌を取る事から逃れられるとフルンツベルクは喜んでいる。


 ミランは能天気な人物を担いで戦争をしなければならない事に危機感を抱いた。




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